聖書やキリスト教、私への質問


最近の更新

2024年7月19日→神学とは?


★質問

神学とは、どのような学びですか?


★わたしの考え

自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。
新約聖書
コリントの信徒への手紙一 8:2 新共同訳

~※聖書を読んで思ったことです。
神学という学問分野は、日本ではなじみがないと思います。英語では、Theologyといいます。wikipediaでは、
Theologyの語源はギリシア語のθεολογια。θεος (神)および λογος(言葉)の合成語。「神についての議論(学問)」という意味。

と説明されていました。

神父や牧師、クリスチャンやクリスチャン以外でも、だれでも神学を学ぶことはできます。神学とは、聖書を学ぶ学問ですが、聖書の書かれたギリシャ語やヘブライ語を学ぶのも、1つの神学だと思います。また、信仰とはそもそもなに?とか、教会とはいったいなに?なども、神学の1つだと思います。また教会の歴史を学ぶことも神学です。

アメリカの大学も、1636年に聖職者を養成するために創立したハーバード大学から始まりました。
キリスト教とは、一方的に正しさを押し付けるものではなく、「わたしには分かっていないことがある」と、共に学ぶものだと思います。したがって、教会には神学という学びを大切にしてきた歴史があると思います。
逆にカルトとは、答えは1つで絶対的な教えがあります。それは指導者だったり、組織だったりします。その組織に反対の意見をいえば、「あなたには悪魔がついている」と、脅されるときがあるでしょう。また答えはいつもひとつです。自分たちは真理を握っていて、他は間違っているといえば、そもそも神学という学びは必要ないと思います。
パウロはギリシャにあるコリントの町にすむクリスチャンたちに
「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」
といいます。パウロは謙虚に、自分の限界を知っていたのではないでしょうか。そのためパウロには、たくさんの協力してくれる仲間がいました。イエスも弟子たちを派遣するときは、二人を1組にしました。それは強い指導者ではなく、支えあう指導者でした。
学びはいつも、「私にはまだわからないことがある」という態度からはじまると思います。自分は正しく相手は間違っているという態度ではなく、多宗教や隣人に教えられてゆきたいと私は思いました。
しかし神学には限界もあると思います。人間の知識には限界があるからです。神学を学ばなくても、神さまに愛されていると信頼できることは、とても素敵だと思います。神学が目指すのも、神への信頼であると思います。神学には限界があることをしりつつ、しかし柔らかい視点で聖書を共に学びあうなら、素敵な発見があると私は思いました。


参考サイト
神学(英語のwikipedia)

ゼネラル・スタディウム(英語のwikipedia)
~Studium generaleは中世ヨーロッパの 大学の古い名称。13 世紀に 一般的にstudia generaliaと考えられていた大学は以下のとおりです。

ボローニャ大学(1088年創立)
オックスフォード大学(1167年創立)
ケンブリッジ大学(1209年創立)
パレンシア大学(1212年創立)
パリ大学(1215年創立)
など。


無気力なとき、どうしたらいいですか?

無気力なときって、自分がやりたいことが見つからない時ですよね。夢中になれるものがあればよいですが、ないときもありますよね。まずは、神さまに「無気力です。わたしの使命を教えてください」と祈ってみたらよいのではないでしょうか。

また、とりあえず色々やってみることです。片柳神父は、種をまいてみないとどんな花なのかわからない、と言っていました。焦らず色々やってみたら、少しずつ神さまが与えてくれた使命がみえてくるのではないでしょうか。失敗してもよいので、とりあえずやってみたらいかがでしょうか?また、なにもしないで休むことも私はしました。ただ、そのときもなぜか祈りだけはしていました。

「かみさま。わたしを愛してくださって感謝します」という、祈りだったと思います。


しゅうさんはカトリックですか?プロテスタントですか?

私はカトリックとプロテスタントを信じるエキュメニズムな立場にたっています。また、三位一体も信じています。三位一体とは、ナザレのイエスを神様であり救い主であり、聖霊でもあるというキリスト教でめちゃくちゃ大切な土台です(^○^)


カトリックとプロテスタントの聖書は違うのですか?

日本聖書協会から発行されている新共同訳や、聖書協会共同訳はカトリックとプロテスタントの共同翻訳です。聖書は、いっしょです。

なおプロテスタント教会では、新改訳聖書(2017)を用いている教会もありますし、私は新改訳聖書もアプリなどで読んでいます。


カトリックとプロテスタントの共通点はありますか?

カトリック教会のHPを引用いたします。

 

ル一テル世界連盟とローマ・カトリック教会の間では、1967年よりさまざまな対話が重ねられてきました。1999年には、教理論争の中心にあった義認問題の理解にはもはや齟齬(そご)はないとする歴史的な『義認の教理に関する共同宣言』(Amazon、邦訳2004年/教文館)が調印されました。

 

争いから交わりへ―2017年に宗教改革を共同で記念するルーテル教会とカトリック教会

(Amazon)

 


旧約聖書は聖書なんですか?

旧約聖書と新約聖書をあわせて、聖書です。イエスは私たちに新しい約束をしてくださいました。それが、新約聖書に書かれています。旧約聖書も新約聖書もあわせて、キリスト教の聖典です。ですので、旧約聖書も読みます。

イエスも、私たちが旧約聖書とよぶものを読んでいましたし、旧約という呼び方はキリスト教徒からみた(勝手な)呼び方で、ユダヤ教の方たちにとっては新約聖書は聖典ではなく、旧約聖書だけが聖典です。

はじめて聖書を読む場合はどこからでもいいですが、イエスの生涯が書かれている4つの福音書をおすすめします。マルコによる福音書は最初に書かれた福音書とされています。ルカによる福音書のルカは医師であり、女性や子どもたちにとても優しい視点があります。マタイによる福音書を書いたマタイは嫌われていた税金を集める仕事(徴税人)をしていました。みんな個性的で多様性にあふれています。


聖書はどの翻訳聖書がいいのですか?

こちらで書いていますが、新共同訳、新改訳2017、聖書協会共同訳、リビングバイブルの翻訳が私は好きです(^○^)


グーテンベルク聖書

世界で最初に印刷(1455年頃)されたのは聖書でした。それをグーテンベルク聖書といいます。

wikipediaには

グーテンベルクは当時もっともよく読まれていたラテン語聖書「ヴルガータ」をテキストとして選んだが、ヴルガータもさまざまな異本が存在したため、13世紀にパリ大学生で校訂された「パリ本」をメインテキストとし、そのほかのテキストも適宜参照した。

と書かれています。

現存するのは48部ほどらしいです。

慶應義塾大学


福音書(ふくいんしょ)とは?

新約聖書には27冊の本が収録されています。イエスの生涯は4つの福音書に書かれています。一番最初に書かれたのはマルコが書いたマルコによる福音書とよばれています。マタイやルカは、マルコによる福音書を知っていたかもしれないと言われています。福音書を読むとたくさんの発見があって面白いです。聖書は無料アプリYouversion(wikipedia)でよむことができます。新共同訳も収録されています。


宗教は排他的じゃないですか?

私も宗教は嫌いです(笑)

しかしイエスが好きです。イエスは宗教と対立しました。

イエスは宗教の教えよりも、神様に作られた一人ひとりを大切にしました。

「私は絶対に正しいんだ」という態度はとりませんでした。ひとりひとりを愛し、人々に仕え、弟子たちの足を洗いました(ヨハネ13・14)。そんなイエスが私は大好きです(^○^)


十字架ってなに?

キリスト教では、本来人が受ける裁きをイエスが身代わりとなり受けてくださったと信じています。

私たちは生かされ、イエスは十字架で死なれました(死刑となった)。しかし3日目にイエスは復活しました。復活は、イースター(復活祭)としてお祝いされています。

イエスの復活を信じたものたちが教会を作り、今のキリスト教がうまれました。十字架は愛の象徴なんですね。

 

しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。

ローマ人への手紙 5:8‭-‬11 口語訳

https://bible.com/bible/1820/rom.5.8-11.口語訳


主(しゅ)って、どうして分かりにくい言葉を使うの?

旧約聖書はヘブライ語で、新約聖書はギリシャ語で書かれました。聖書には、主(しゅ)という言葉がでてきます。わさわざ主を使うとわかりづらい、という方もいると思います。神さまをさす言葉ですがユダヤ人はなぜ主という言葉を使ったのか、それには理由があります。それは、モーセが神さまから預かった十戒にあります。

 

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

出エジプト記 20:7 新共同訳

 十戒には神さまの名前をみだりにとなえてはならないという教えがあります。そのためユダヤ人たちは神さまの名前をいうのは避けて、アドナイ(私の主、אֲדֹנַי)と神さまを呼んでいました。そのために聖書では主という言葉が多く使われています。


新世界訳聖書って、なんですか?

エホバの証人(ものみの塔、wikipedia)で用いられている聖書が、新世界訳(wikipedia)とよばれます。日本には神奈川県の海老名市に支部があります。

エホバの証人は、アメリカのチャールズ・テイズ・ラッセル(wikipedia)によって設立されました。

エホバの証人の教えは、イエスは神さまではなくエホバのみが神さまである、という教えであると思います。

私はイエスは神さまであり、三位一体を信じているので、キリスト教とエホバの証人の教えはまったく違うものだ、と思っています。私は新世界訳聖書は用いることはありません。また、エホバの証人は血をさけるために、輸血を医療的に禁止します。

宗教2世とよばれる子どもたちのこえをきくと、ムチでたたかれたり(Yahoo!ニュース)、ハルマゲドン(終末)がくるから宣教活動をがんばりなさいと指導された、という記事がながれてくるので心配になります。


(※なお、私はエホバの証人の教えはネットで調べただけですので間違っている解釈があるかもしれません。申し訳ありません。)


新約聖書のフィリピ(ピリピ)の手紙について

フィリピの手紙(wikipedia)を書いたのはパウロです。ローマの獄中で書きました。獄中書簡(コトバンク、外部サイト)ともよばれています。

パウロの以下の4つの手紙は、獄中で書いたとされ、獄中書簡(Captivity Epistles)とよばれます。

  • エフェソの信徒への手紙
  • フィリピの信徒への手紙
  • コロサイの信徒への手紙
  • フィレモンへの手紙

書いた年代は色々な学説がありますが、紀元60~63年の間とされています。フィリピ(ピリッポイ、wikipedia)はパウロがはじめてヨーロッパに宣教した町です(使徒16・11ー40)。


聖書はどのように、今に伝えられたのかな?

イエスの生まれたときは印刷機はありませんでした。聖書の原本はなく、写本で後世に聖書テキストは伝えられました。旧約聖書はヘブライ語で、新約聖書はギリシャ語(一部はアラム語)で書かれました。

wikipediaには有名な写本として

シナイ写本

バチカン図書館所蔵のバチカン写本

大英博物館所蔵のアレクサンドリア写本

などがあげられています。

死海写本も有名ですよね。

なお、世界で最初に印刷されたのは聖書でした。その聖書をグーテンベルク聖書(wikipedia)とよびます。

今でも絶えず古い写本が探され、聖書テキストが正確になるように研究や調査がすすめられています。


しゅうさんの好きな聖書の言葉を教えてください

2023年4月5日に追加

思い付いた4つを、書いてみます(^○^)


1、弱さは宝

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

コリントの信徒への手紙二 12:9 新共同訳

弱さをなくそうともがいていたときに、弱さもあってよいんだと思った聖書の言葉です。時に、欠点や短所、苦手な部分をなくそうと教育しがち。しかし、得意なところにめをむけたら、成功体験や自己肯定感が育まれると思います。完璧主義はやめて、弱さもたいせつにして助けあってゆきたいです。

★参考サイト

片柳神父のブログ

祈りの小箱(216)『自分の弱さを知っている人』

祈りの小箱(141)『真の謙遜』

祈りの小箱(82)『無力さの恵み』

祈りの小箱(67)『苦しみのときは成長のとき』


2、たいせつなこと

そのうちの一人、律法の専門家が、

イエスを試そうとして尋ねた。 

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 イエスは言われた。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。

 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

マタイによる福音書 22:35‭-‬39 新共同訳

~自分がきらいでゆるせないときに、「自分も、隣人も、ひとりひとりが神さまの宝物」ときこえてきた言葉。

他人に迷惑ばかりかけて、いきていることが辛かったときに、ささえられた聖書の言葉です。

他人をゆるし、自分もゆるすことは、たやすいことではありませんが、「あなたをゆるす」というイエスの声を信頼したいです。


参考サイト

祈りの小箱(163)『自分をゆるしてあげましょう』

祈りの小箱(75)『私たちを追いつめるもの』

祈りの小箱(191)『自分自身を愛するように』


3、大丈夫

あなたがたを襲った試練で、

人間として耐えられないよう

なものはなかったはずです。

神は真実な方です。

あなたがたを耐えられないような

試練に遭わせることはなさらず、

試練と共に、それに耐えられるよう、

逃れる道をも

備えていてくださいます。

コリントの信徒への手紙一 10:13 新共同訳

~ピンチなときは、逃げてもいいですよね。ゲームのドラゴンクエストやファイナルファンタジーにも、逃げるがあります。

一人ですべてを抱えこまないで、みんなと

たすけあってゆきたいです。


4、かみさまは羊飼い

主は羊飼い、

わたしには何も欠けることがない。

 主はわたしを青草の原に休ませ 

 憩いの水のほとりに伴い 

 魂を生き返らせてくださる。

 主は御名にふさわしく 

 わたしを正しい道に導かれる。

詩編 23:1‭-‬3 新共同訳

~自分の思いどおりに相手に求めたり、

理想どおりにいきられない自分にもどかしく感じるとき、慰めになった聖書の言葉す。

試験におちたり失敗でも、まるごとスマイルで受けとめ、宝へと替えてくださるかみさま。かみさまはわたしの羊飼い。この方に委ねてゆけば、思いどおりにならなくてもよいと、気持ちが楽になります。


参考サイト

祈りの小箱(195)『人生にまわり道はない』

祈りの小箱(187)『神様の鉛筆』

祈りの小箱(168)『「思った通り」を手放せば』



罪とは?

★質問

宗教は人を不自由にしているように思いますまた、他宗教に排他的になり戦争も宗教がらみになっています。また、聖書には罪という言葉が何度もでてきて、「わたしはいきていてもよいの?」と思ってきます。聖書の言葉には共感できますが正直に、聖書を開くのがこわいときがあります。


★わたしの考え

罪ときくと、びっくりしますよね。私は罪とは、

「命の評価も自分たちで判断できる。

自分たちの考え方がすべてだ。

神さまなんていないし、

神さまぬきでやっていこう」

ということだと、私は個人的に思います。

こうなると、自分の考え方が神さまの価値観(聖書の価値観)よりうえにいくと思います。

聖書は、すべての命は障がいの有無に関係なく、生きているだけで大切な存在です。それは命をかみさまはつくられ、命を愛する方だからです。

また、自己否定感の強い私には、たまに「自分はつまらない」と思います。しかし、わたしの思いより「あなたは大切だよ」という命を大切にする聖書の価値観をきくと、なんだかホッとしますし、命を守ることができます。

私は聖書は、安全のための柵だと思っています。精神科病棟の窓にはフェンスがあり、窓が少ししかあきません。それは、命を保護するためです。死にたい気持ちがつよいときは、フェンスがあるだけで安心して生きてゆけます。崖にはフェンスがあります。

聖書は、人を不自由にするのではなく守ってくれる安全策みたいなものだと、私は個人的には思います。

聖書には最も大切な掟に、神をあいし、隣人を愛する、とあります。

宗教が排他的になるのは、自分の考え方や所属している宗教が絶対にただしいんだ、と傲慢になってしまうからだと思います。しかし福音書には、イエスはマグダラのマリアや、過去にお金をだましていた職業のひとも大切にされました。それは、イエスにとっては、その人の生き方や業績よりも、神につくられた「命そのもの」を大切にされていたのではないか、と思われます。

私自身も宗教や考え方の違う方に、おしえられ生活していきたいと思っています。

詳しくは、教会の神父さんや牧師さんが教えてくださると思います(*^^*)


クリスチャンになったら、日曜日は必ず教会にいかなければならないのですか?

安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。

新約聖書

マルコ2章 27節、新改訳2017

~安息日は、キリスト教ではイエスが復活した日曜日です(ユダヤ教では土曜日)。コロナのときは教会はオンラインのときや、人数制限がありました。私は病気で教会にいけないときがありました。精神科で入院していたときは、外出できずにすごしていました。

イエスは、安息日よりもひとりひとりの命を大切にされました。「安息日はなにをしてもいけない」という宗教の掟をやぶり、人を癒されました。それは、いかなる宗教の掟よりもイエスは神様に作られた命を大切にされたと思います。クリスチャンでも状況によって、教会にいけないときがあると思います。

しかしネットをみていたら、「クリスチャンはなにがあっても日曜日は教会に」ときいて、私は疑問に思いましたら。コロナのときがそうであったように、教会との関わりはさまざまな方法があってよいと私は思います。

教会にいけないときも自分を責めないでよいと、私は思います。なぜなら神様にとってどんな時もあなたは大切な存在だからです。自宅でもどんなときも、イエスは共にいる方。もし教会に喜びをもっていけるならそのときは教会へいかれて、共に助けあってゆきたいです。


神学(しんがく)とは?

★わたしの考え

自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。
新約聖書
コリントの信徒への手紙一 8:2 新共同訳

~※聖書を読んで思ったことです。
神学という学問分野は、日本ではなじみがないと思います。英語では、Theologyといいます。wikipediaでは、
Theologyの語源はギリシア語のθεολογια。θεος (神)および λογος(言葉)の合成語。「神についての議論(学問)」という意味。

と説明されていました。

神父や牧師、クリスチャンやクリスチャン以外でも、だれでも神学を学ぶことはできます。神学とは、聖書を学ぶ学問ですが、聖書の書かれたギリシャ語やヘブライ語を学ぶのも、1つの神学だと思います。また、信仰とはそもそもなに?とか、教会とはいったいなに?なども、神学の1つだと思います。また教会の歴史を学ぶことも神学です。

アメリカの大学も、1636年に聖職者を養成するために創立したハーバード大学から始まりました。
キリスト教とは、一方的に正しさを押し付けるものではなく、「わたしには分かっていないことがある」と、共に学ぶものだと思います。したがって、教会には神学という学びを大切にしてきた歴史があると思います。
逆にカルトとは、答えは1つで絶対的な教えがあります。それは指導者だったり、組織だったりします。その組織に反対の意見をいえば、「あなたには悪魔がついている」と、脅されるときがあるでしょう。また答えはいつもひとつです。自分たちは真理を握っていて、他は間違っているといえば、そもそも神学という学びは必要ないと思います。
パウロはギリシャにあるコリントの町にすむクリスチャンたちに
「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」
といいます。パウロは謙虚に、自分の限界を知っていたのではないでしょうか。そのためパウロには、たくさんの協力してくれる仲間がいました。イエスも弟子たちを派遣するときは、二人を1組にしました。それは強い指導者ではなく、支えあう指導者でした。
学びはいつも、「私にはまだわからないことがある」という態度からはじまると思います。自分は正しく相手は間違っているという態度ではなく、多宗教や隣人に教えられてゆきたいと私は思いました。
しかし神学には限界もあると思います。人間の知識には限界があるからです。神学を学ばなくても、神さまに愛されていると信頼できることは、とても素敵だと思います。神学が目指すのも、神への信頼であると思います。神学には限界があることをしりつつ、しかし柔らかい視点で聖書を共に学びあうなら、素敵な発見があると私は思いました。


参考サイト
神学(英語のwikipedia)

ゼネラル・スタディウム(英語のwikipedia)
~Studium generaleは中世ヨーロッパの 大学の古い名称。13 世紀に 一般的にstudia generaliaと考えられていた大学は以下のとおりです。

ボローニャ大学(1088年創立)
オックスフォード大学(1167年創立)
ケンブリッジ大学(1209年創立)
パレンシア大学(1212年創立)
パリ大学(1215年創立)
など。