(上記の写真はイースターエッグです)
キリスト教(神学)用語に、贖罪(しょくざい、Redemption)とよばれる言葉があります。少し難しい言葉です。
イエスの十字架の死と復活(イースター)は、キリスト教信仰の重要な位置をしめています。
救い(Salvation)は、人間の力や行いではどうすることもできなく、ただ神の恵み(十字架のゆるし)によって、神さまは救いへの道を用意されたと、聖書には書かれています。
いま話題になっている宗教は、たくさん献金したら救われるなど人間側の努力も救いに影響すると教えます。しかし、聖書はそれを否定していると私は思います。
なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 ただキリスト・イエスによる贖い(ἀπολυτρώσεως)の業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
新約聖書、ローマの信徒への手紙 3:20-22, 24 新共同訳
https://bible.com/ja/bible/1819/rom.3.20-24.新共同訳
~律法(ギリシャ語でノモス、νόμος)とは、宗教の掟のことです。
ローマの手紙を書いたパウロは、過去の生き方は宗教の掟をしっかり守り、それを実行(ギリシャ語、ἔργον)することによって救われる(ギリシャ語はディカイオー、δικαιόω)と考えていました。
言葉をかえれば「がんばる宗教」です。
しかしパウロはいくらがんばっても、
救いにいたらないことに気づきます。
わたしは、
自分のしていることが分かりません。
自分が望むことは実行せず、
かえって憎んでいることをするからです。
ローマの信徒への手紙 7:15 新共同訳
https://bible.com/ja/bible/1819/rom.7.15.新共同訳
~パウロはがんばっても、自分のしていることがわからない(ギノースコーγινώσκωに
否定のοὐがついています)といいます。
かえって、神さまの悲しむことや悪いことをしてしまっているといいます。
しかし、パウロは神さまの恵みによって、
神さまからの恵みによって救われることを、
聖霊によって知りました。
パウロは、
信じること、
義とされること、
無償(ギリシャ語でソーレアン、δωρεάν、英語外部サイト辞典)であることをつなげて考えていると思います。
義とされるってなに?
信じるってなに?
などは、聖書を読んでこれからホームページに書いてゆきたいと思います。救いについては、こちらに書いてみました。
→救い