聖霊とは


聖霊とは、私たちの心を開いてくださる

弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

ヨハネによる福音書 14:26 新共同訳

~聖霊は、私たちの心をひらき、神さまのことを教えてくださいます。

イエスの教えも、自分の力だけでは知ることができないと思います。神さまは私たち一人ひとりを愛しています。

愛を信じられない時があります。そんなときは、「聖霊をおくってください」と祈り、

助けを求めてよいと思います。

片柳弘史神父は、ブログ

「聖霊とは、イエスの言葉をわたしたちに思い起こさせ、心に深く沁み込ませてくださる方、父なる神の愛でわたしたちの心を満たしてくださる方だとわたしは思います。」

と言っています。

聖霊が働くとき、私たちは神さまのあいを深く感じることができるのです。


いかに幸いなことか・・・

主の教えを愛し 

その教えを昼も夜も口ずさむ人。

‭‭詩編‬ ‭1:1〜2‬ ‭新共同訳‬‬

~人は自分の考え方に縛られてしまうことかまあります。神さまに愛されているのに、「そんなのは信じられない」と言ってしまうのです。

聖書は、神さまの教えをいつも口ずさみなさい、と書いてあります

。たとえ弱く欠点があっても、神さまはありのままの私たちを愛してくださる方。神さまの教えを、いつも口ずさんで喜ぶことができますように。



聖霊は、ゆるしに導いてくださる

ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

使徒言行録 2:38 新共同訳

~私たちが、神さまに帰るとき、「あなたはゆるされた」と、神さまはよびかけてくださいます。イエスは私たちの罪のためにいのちを差し出し、十字架によって、私たちの身代わりになってくださいました。

神さまに帰るとは、聖書の知識をつけるとか、善い行いをするとかではありません。弱いままの自分もイエスに愛されている、イエスの愛に心をひらくことだと思います。

私たちは、罪悪感に苦しむときがあります。わたし自身も、言葉によって過去に友達を傷つけてしまったことや、嘘をついてしまったことがあります。私も罪悪感で苦しんでいました。

しかし、神さまは私たちの過去や現在、未来も含めて、「あなたは大切な存在。わたしは、イエスの十字架によってあなたをゆるす」と約束してくださる方です。


「キリスト・イエスは、

罪人を救うために世に来られた」という

言葉は真実であり、そのまま受け入れる

に値します。わたしは、

その罪人の中で最たる者です。

‭‭テモテへの手紙一‬ ‭1:15‬ ‭新共同訳‬‬

~一つの欠点があるだけで、「こんな自分ではダメだ」と思ってしまうことがあります。99%良いことがあるのに、つい悪かった1%に支配されてしまうのです。それは、完璧じゃなければ自分に価値がないと、誤解しているからではないでしょうか。人はどんなに頑張っても弱さを抱えています。

聖書には、イエスは罪人を救うために来られた、と書いてあります。罪人を見捨てるのではなく、愛するために来られたのです。

完璧主義をやめ、「私は愛されている」と確信して、すごしてゆけますように。



聖霊は、サポートしてくださる

祈れないときも

同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

ローマの信徒への手紙 8:26 新共同訳

~疲れて祈れないときがあります。また、ショックがつよすぎて、声がでないときがあります。

そんな時は、神さまは「もっと強くありなさい」と言わない方。「私が祈っているから、あなたはゆっくりやすみなさい」と、声をかけてくださるのです。

聖霊は、私たちが神さまを知る前から、まだ赤ちゃんのときから、私たちのために祈ってくれていました。私たちが気づかないだけで、「あなたがいてくれて、本当に嬉しい」と、私たちの存在を喜んでくださいました。疲れたときは、聖霊に甘えていいのです。


★思いどおりにならなくても

人間の心は自分の道を計画する。

主が一歩一歩を備えてくださる。

箴言 16:9 新共同訳

~失敗をしたり、人生が自分の思いどおりにいかないとき、つい「こんな自分が嫌い」と自分を責めてしまうことがあります。そんな時は、他人の評価に敏感になり、他人に振り回されやすくなっています。

しかし大切なのは、他人の評価ではなく神さまの愛ではないでしょうか。

神さまは、私たちが弱く不完全であっても、あなたを喜んでくださる方。自分の思いどおりにいかないときも、神さまにゆだねれば、道は1つでないことに気づきます。「こうでなければならない」という固定観念を捨てれば、道はいくらでもあることを発見できるでしょう。神さまに委ねて、サポートをうけて歩んでゆけますように。


★助けを求める

「あなたがたも祈りで援助してください。」

‭‭コリントの信徒への手紙二‬ ‭1:11‬ ‭新共同訳‬‬

~自分は有能であることをアピールするために、できないことまで引き受けてパニックになってしまうことはないでしょうか。

それは、周りの人によく見られたいプライドが、パニックを引き起こしているのだと思います。完璧主義を捨て、できることとできないことを見極め、協力してゆけばよいのではないでしょうか。

もっと成長してから神さまに愛されるのではないと私は思います。神さまは、「今のあなたで大丈夫」と、等身大の私たちを愛してくださるからです。

パウロは無理をしないで、「私にはみなさんの祈りが必要です」と頼みました。パウロにならって、重たい荷物を抱えているときは、支えあってゆけますように。


聖霊は、希望を与えてくださる

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

ローマの信徒への手紙 15:13 新共同訳

~人は未来を心配することがあります。それは、未来はみえないからです。しかし、聖霊は私たちに希望を与えてくださいます。

希望とは、「なにがあっても、神さまがいるから、なんとかなる」という確信だと思います。

内閣府の調査によると、日本の若者は「自分自身に満足している」と思っている割合が、少ないと分かりました。「自分はつまらない存在だ」と思って、朝を迎えるのはつらいと思います。しかし、神さまにありのまま愛されていると知るとき、心の平和が与えられると思います。聖霊は、私たちに希望を与え、「なんとかなるから大丈夫」という安心を与えてくださるのです。

人は、つい自分の人生の計画を自分の思った通りにならないとイライラします。しかし考えてみますと、神さまは一人一人に一番よい道を準備してくださっていることに気づかされます。もちろん自分の思った通りにならなかったかもしれません。人生の壁、試練、病気、さまざまな状況によって、私たちは時々、神さまは違う方向に人を導かれることがあります。しかし、その道は無駄な道ではありません。神さまの目からみたら、その道はどうしても必要な道だったのです。神さまが与えてくださった道は、一番いい道。その道をのんびり、自分らしく、マイペースで進んでゆけますように。


真実であられる創造主に

自分の魂をゆだねなさい。

‭‭ペトロの手紙一‬ ‭4:19‬ ‭新共同訳‬‬

~自分がしたことに後悔して、重荷を感じてしまうことがあります。しかし、どんなに精いっぱいしても、人は完璧に全てをすることはできないと思います。心配して夜も眠れないと、実力も発揮できなくなるでしょう。神様は「私に任せなさい」といってくださるでしょう。全てを神さまの手に委ねてすごしてゆけますように。


聖霊は、私たちが神さまの子どもであることを教えてくださる

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

ローマの信徒への手紙 8:14‭-‬16 新共同訳

~あなたは、自分はどのよう存在だと思っていますか。自分をどのように考えるかによって、人の心は安心したり、不安になったりすると思います。聖霊は、私たちが神さまに愛されたこどもであることを、教えてくださるのです。

あなたはどんな存在ですか?と質問されたら、「私は神さまに愛されている、神さまの子どもです」と、答えたらよいでしょう。


神は、造ったすべてのものを御覧になった。

それは極めて良かった。

創世記1・31

~自分の思い通りにいかないとき、大きな失敗をしてしまったとき、つい「自分はダメな人間だ」と思ってしまいます。しかし、自分の評価より大切なのは、神様が自分をどのように評価しているのかだと思います。

神様は、手抜きすることなく、一人一人を大切に作られました。「ダメなところもあるけど、そんな私でも愛されている」と喜んでよいのです。創世記には、神様は造られたものを見て「それは極めて良かった」と書いてあります。神様の目からみたら、あなたは生きているだけで、

かぎりなく尊い存在です。



聖霊は、私たちの存在を愛する

しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

ガラテヤの信徒への手紙 5:18‭, ‬22‭-‬23‭, ‬25 新共同訳

~旧約聖書のモーセの律法は、613の掟を守らなければなりませんでした。様々な掟があり、「あなたは、~しなければならない」と、生活を支配していました。

しかしイエスが誕生し、新しい時代がやってきました。旧約聖書とはちがい、新約聖書は、「律法の下にはいない」とはっきり書いてあります。それは、あなたがたは行いによって神さまに救われるのではない、ということです。私たちは、イエスを救い主と信じるだけで、信仰によって救われるのです。

「私は、才能のない人間だ」と思わなくてよいのです。あなたを作った神さまは「あなたで良かった。あなたがいてくれて、本当に嬉しい」と喜んでくださる方なのです。



聖霊は、賜物を与えてくださる

賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。

コリントの信徒への手紙一 12:4‭-‬5 新共同訳

~クリスチャンなら、「こういう人」と思いこんでいるなら、それは誤解であるかもしれません。なぜなら、聖霊は私たちに異なる賜物や才能を与えてくださるからです。

外交的なクリスチャンもいるし、内向的なクリスチャンもいます。オルガンの賛美が好きな人もいるし、ギターやドラムなどの賛美が好きな人もいます。聖霊は、私たちが一人ひとり多様性があっていいことを教えてくださるのです。

神さまは一人ひとりに、異なる使命を与えられています。しかし、使命でないものなら、どんなに追いかけても追いつくことはできないと思います。自分の限界を認め、いま自分のできることを、心をこめて精いっぱいするだけでよいのです。

スーパーマンのように、なにもかもできる人間はいません。できないことも人間なので、あってもよいと思います。


「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭10:13‬ ‭新共同訳‬‬

~神さまに作られた私たちは、比較をやめるとき、神様に作られた自分が自分であることに、価値があることがみえてきます。「人がどう思おうと、神様はこんな自分でも愛してくださる。神様に与えられた使命、を精いっぱい生きよう」と神様のために生きるとき、周りに流されず本当の自信が生まれるのです。自分は自分であることに自信がある人は、周りに流されることはありません。神さまが与えてくださった道を、自分のペースで歩んでゆけばよいのです。神さまは必ず、試練に耐えられる力と、逃れの道を与えてくださるのです。



聖霊は、新しくしてくださる

神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。

テトスへの手紙3章5節、聖書協会共同訳

~聖霊により新たにされる、と聖書はいいます。古い自分とは、「社会で成功したものだけが勝ち組」と決め、「失敗したら生きる価値がなくなる」と、いつも恐れていることだと思います。

新しい人間になるとき、たとえ成功できなくても、社会で失敗の連続であろうとも、「神さまは、どんな時も私を愛してくださる」と知ることができるのだと思います。どれほど弱く、欠点だらけであったとしても、神さまはそんな私たちを「神さまの子ども」と呼んでくださる方です。

私たちは、つい生産的なものだけに目がいきます。つい、自分を飾ったり、背伸びして大きくみせようとします。しかし、「私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました」と、聖書に書いてあります。神さまのまえで、自分ではない誰かを演じる必要はないのです。神さまは恵みによって、私たちを愛し、救ってくださるからです。



シンプルに

キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。 あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

テモテへの手紙二 1:13‭-‬14 新共同訳

~パウロは弟子のテモテに、「あなたにゆだねられている良いもの」を守りなさい、といいます。人はつい何事も複雑にしてしまいます。「~したら、神さまに愛されるよ」とか、「大人なら~できるのは当たり前」とか、勝手に付け足したりします。


イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。

ルカによる福音書 11:46 新共同訳

~イエスは、その当時みんなから尊敬されていた律法の専門家を痛烈に批判しました。彼らは、モーセの律法を勝手に解釈し、様々な掟を民たちに押し付けたからです。クリスチャンライフも、様々に複雑にし新しい教えをつけたす必要はないと思います。神さまの教えは難しいものではなく、シンプルなのです。


そしてあなたがたは、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、私たちと主に倣う者となりました。

1テサロニケ1章6節、聖書協会共同訳

~複雑に信仰を考えるのではなく、「イエスは私たちを、愛してくださっている」と、シンプルに考えるだけでも、神さまは喜んでくださるのではないでしょうか。聖書には、「喜びをもって御言葉を受け入れた」と書いてあります。わたしたも、喜びをもって、シンプルに御言葉を受け入れ、「私は神さまに愛されている」と喜べたらいいですね。



聖霊は、信仰に導いてくれる

ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

コリントの信徒への手紙一 12:3 新共同訳

聖霊の助けがなければ、イエス様を主(神さま)と言えない、と書いてあります。聖霊のサポートがあって、人は神さまを信ずることができる、とパウロはいうのです。

神さまは、一人ひとりに聖霊をおくってくださり、神さまを信じることができるように、心の扉をノックしています。特別なことができるから愛されるのではなく、ただ心を開いて受け入れるだけでよいと思います。



終わりに

聖霊は、私たちを様々な側面からサポートしてくださることがわかりました。

しかし人は、聖霊の助けを忘れてしまうことがあります。そして、「私はクリスチャンらしくない」と、自分を責めてしまうことがあるかもしれません。

もしそうであれば、それは聖書の教えを誤解しているかもしれません。なぜなら、神さまは私たちの行いや才能を、信仰の中心にしていないからです。信仰の中心はは、神さまの恵みと憐れみです。

もちろん、「神さまのために、自分をささげたい」と思い、神さまに差し出すことは大切です。しかし、その動機が、「神さまに愛されるため」であれば、もう一度静まって聖書を読み、神さまの愛を確認することをおすすめします。なぜなら、私たちは愛されるためにクリスチャンライフをおくっていないからです。聖書に次のように書いてあります。


わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

ヨハネの手紙一 4:19 新共同訳

~私たちが神さまを愛する前に、神さまが私たちを愛してくださいました。信仰の出発点は、神さまの愛にあるのです。

「愛されていることを信じられない」のであれば、それはまだ自分の力に頼っているサインかもしれません。自分でなんとかする、と思うことはもちろん大切です。しかし、私たちは自分の罪を自分の力でゆるすことができるでしょうか。


わたしたちは、この御子によって、

贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

コロサイの信徒への手紙 1:14 新共同訳

~イエスの十字架のみが、私たちの罪をゆるすことができるのです。私たちの生活の中でも、人間関係がうまくいかなかったり、仕事で大きな責任を任せられた時、「自分ではもうできない」と思うことがあります。しかし、そこで終わりではないと思います。自分の限界に気づいたとき、いよいよ、そこからが神様の出番です。「神様、私には限界です。聖霊よ、来てください。あなたにお委ねします」と祈るとき、神様は私たちに力を与え、支えてくださるのです。


あなたの神はあなたを喜びとする。

イザヤ62・5聖書協会共同訳

~タンポポにはタンポポの、バラにはバラの美しさがあります。人間も同じだと思います。一人ひとりは、神さまに愛されて造られ、その人にしかない美しさがあると思います。せっかく大切に造られたのですから、背伸びして自分を変えてみたり、自分以上の自分を演じる必要はないと思います。

私たちはつい人の価値を、何ができるか、という生産性で測ろうとします。今の自分に不満だと、その厳しさは他人に向かってしまいます。「もっと成長しなさい」と、夫婦や子供に、理想を求めてしまうのです。それだと、お互いにくたびれてしまうのではないでしょうか。神様は、あなたが何かができるからではなく、「あなたがあなたである」だけで喜んでくださる方。理想の相手をどこまでも求めるのではなく、聖霊に助けられて、等身大な相手を喜びあうことができますように。



聖霊を学ぶ動画


ペンテコステ(聖霊降臨祭)って?


片柳神父のメッセージ

バイブル・エッセイ(455)三位一体の救い


バイブル・エッセイ(860)希望を生み出す力


バイブル・エッセイ(454)聖霊を呼び出す