聖書に出てくる人物2


サマリアの女性(ヨハネ4章)

イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。

ヨハネによる福音書 4:6‭-‬7‭, ‬18‭-‬19‭, ‬39‭-‬41‭, ‬43 新共同訳

イエスは旅に疲れて井戸にいました。イスラエルではこの時代、正午に井戸に水をくむ人はいません。みんな涼しい朝や夕にあわせて、水汲みをしていました。しかしそんな暑いときに、ひっそりと人目を避けるように水をくみにきた一人の女性がいました。このサマリアの女性が社会から孤立していたことがわかります。

太陽の熱が彼女に容赦なく照りつけます。イエスはその井戸にいました。彼女をずっと待っていたのです。イエスも暑かったでしょう。

サマリア人とは、イスラエルのサマリア地方の住民です。過去にイスラエルは二つの国に分裂しました。北イスラエルと南ユダです。北イスラエルはアッシリアという国に征服されてしまいました。

アッシリアに支配されていた異国の住民がサマリア地方に入植しました。たくさんの民族混血がうまれました。そのためユダヤ人は純血を重んじていたため、サマリア人を蔑ました。またサマリア人はエルサレムではなく、ゲルジム山という場所で礼拝し、ユダヤ人との間に対立がおきていました。

この女性は過去に5人の夫がいたのでしょう。不道徳な生き方をしてユダヤ人からも、サマリア人からも嫌われていたのがこのサマリアの女性でした。しかし、イエスは彼女に「水をのませてほしい」と頼むのです。イエスは、「あなたは必要とされている大切な存在なんだよ」と気づかせたのです。誰からも無視をされ嫌われていた彼女はビックリしたことでしょう。彼女はイエスとの会話のなかできたるべき救い主が、このイエスであると気づきます。彼女は嬉しくてたまらなくて、みんなのすんでる町にイエスのことを跳び跳ねていき、伝えはじめたのでしょう。この女性によってイエスを信じる人があらわれます。サマリア人はしばらく滞在してほしいことを頼んで、イエスは2日間そこに滞在します。

彼女はもう一人ではありません。たとえ過去がどうであれ、自分は必要とされ「愛されている存在」であることを確信したのです。

今日もイエスはあの暑い井戸のそばであなたを待っています。私たちが大切な存在であることをつたえるために今日もずっと待っています。


『井戸のそばで』

作詞、若林栄子

作曲、若林栄子


1番

彼女は生きることに疲れて

すべてを投げ出したい日々の中

誰にも分かってはもらえない

痛みと涙を持ってた彼女を

あの井戸のそばで

あたたかな微笑みをして

ずっと待っていた 

ずっと待っていた

イエス様は待っていた


2番

雲は流れ風も過ぎてく

あわただしく変わる 

このときの中

決して変わらないみことばは

今も私に語りかけるたしかに

あの井戸のそばで

あたたかな微笑みをして

ずっと待っている 

ずっと待っている

イエス様は私たちを


あの井戸のそばで

あたたかな微笑みをして

ずっと待っていた

ずっと待っていた

イエス様は待っていた・・・

ずっと待っていた

ずっと待っていた

イエス様は待っていた


◼️サマリア人とは?

https://www.newlifeministries.jp/bible-metaphor2/#i-6(外部サイト)



重い皮膚病


ひとりの重い皮膚病にかかった人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。 すると、重い皮膚病が直ちに去って、その人はきよくなった。 イエスは彼をきびしく戒めて、すぐにそこを去らせ、こう言い聞かせられた、 「何も人に話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた物をあなたのきよめのためにささげて、人々に証明しなさい」。 しかし、彼は出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめたので、イエスはもはや表立っては町に、はいることができなくなり、外の寂しい所にとどまっておられた。しかし、人々は方々から、イエスのところにぞくぞくと集まってきた。
マルコによる福音書 1:40‭-‬45 口語訳
 

重い皮膚病とは、ヘブライ語でツァラァトとよばれ、新約聖書ではギリシャ語でレプラとよばれています。レビ記13章45節~46節には「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」とあります。重い皮膚病を背負った患者さんは、隔離された町で生活していました。そして、もし誰かと会う場合は、自分のことを汚れた存在として、言わなければならなかったのです。しかし、今日の福音書では、次のように書いてあります。

「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。」患者さんは、勇気をもってイエスの前に出てきたのです。自分の縛っていた場所から出かけ、イエスの前にでてきたのです。普通なら、「こんな汚れている自分では、イエス様は会ってくれないだろう」と諦めます。昔から他人に言われてきた評価に支配され、とじこもって一生を過ごしていたでしょう。ところが患者さんはイエスのまえに来るのです。どこかで、イエスの噂を聞いたかもしれません。もしかすると、イエスから、重い皮膚病を背負っていた患者さんが住む場所にこられたかもしれません。どちらであるか分かりませんが、患者さんはイエスの前にきました。そして確信をもって、「御心ならば、わたしを清くすることができます」と伝えます。その言葉には疑いがありません。

時に人は、神様の愛を疑います。自分の思った通りにいかないとき、神様を疑います。大きな罪を犯したとき、こんな自分は赦されない、と勝手に決めつけてしまいます。しかし、この患者さんはイエスの愛を疑うことなく、「イエスは私を清くすることができる」と確信するのです。イエスは患者さんを憐れみました。

神の憐れみ。それは、神の無条件な赦しです。赦しは、神様の愛がもっとも確かにみえるしるしです。神の赦しによって、この患者さんは未来をみつめ、新しくやり直す力をえました。イエスは、全生涯をかけて、赦しを示そうとしました。十字架にかけられた痛さの中にあっても、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」と赦しを求めました。赦しは神様の愛がみえる、もっとも確かなしるしです。イエスは、ヨハネによる福音書で「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と言われました。イエスは、わたしたちに平和を与えてくださいました。仕事や人間の関係、生活のなかで心を騒がせることがあります。「あれもしなければ、これもしなければ」と焦ってしまい、忙しくすごしてしまうことがあります。わたしたちがどうであれ、そんなあなたにもイエスは平和があるように、と与えてくださるのです。

重い皮膚病の患者さんも、イエスの愛と憐れみを確信しています。イエスが汚れをどのように理解していたのかは、かなり当時の律法の理解と違ったようです。もしこの患者さんは隔離されなければ、と理解していれば、イエスは近寄ることも、触れることもなかったでしょう。イエスにとって汚れの概念とは、その人の内側から沸き起こってくる汚れであり、心の汚れなことなのです。病気で自分が汚れてると思い込んでいる人がいれば、「あなたは、ちっとも汚れていない。」というのが、イエスの愛だと私は思います。イエスは、マルコ7章でも、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」と言っています。イエスは重い皮膚病の患者さんに清くなれ、といったのも「安心しなさい。あなたは神から見捨てられていない。神はあなたを 愛している」ということを伝えたかったのでしょう。イエスは、病が治ったことを祭司にみてもらいなさい、といいます。律法の手続きをイエスは守っていました。イエスは患者さんに、誰にも病気を癒されたことは言わないように指示します。それでも患者さんは嬉しかったのでしょう。イエスが癒してくれたことを周りの人に言ってしまいます。患者さんは、もう誰かとあうとき、「私は汚れています」と言わなくてよくなったのです。イエスによって、神様に愛され、清められ、赦された者として誇りをもっていいのです。 

★参考サイト

https://tomoshibi.or.jp/monthly-letter/2024/02/05.html

の説明では次のように書いています。

「当時のユダヤ社会において、重い皮膚病は罪の結果であると考えられ、人と接することも、街に近づくことも禁止されていました(レビ記13章45・46節)。また、汚れた人に触れた人も汚れると考えられていたのです。」


目が見えない盲人(ヨハネ9章)

イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。

ヨハネによる福音書 9:1‭-‬3 口語訳

~生まれつき目のみえない人がいました。イスラエルでは、その当時、病気は罪の結果として考えられていました。しかしイエスは、「罪を犯したからではない」といったのです。どんなに病気を抱えていても、「あなたは、少しも悪くない。自分を責めるのはよしなさい。あなたは神様に愛されている、大切な存在なのだから」ということでしょう。

またイエスは、「神のみわざが現れる」とも言っています。それは、どんなに障がいをもっていても、「あなたには、神さまから与えられた大切な使命がある。神さまはあなたを必要としている」ということだと思います。

今まで自分を「役立たず」と思っていた患者さんは、イエスの言葉を聞いて喜びにあふれたことでしょう。

私たちは効率だけを求めて、つい「この人はどんな特別なことができるか」で評価してしまいます。しかし神さまは、人が生きているだけで喜んでくださり、「あなたがいて本当に嬉しい」と喜んでくださる方。

耳も聞こえず、目も見えず、話すことが不自由なヘレン・ケラーがいました。しかし、彼女はたくさんの愛をうけて、彼女の使命をはたしました。できることは一人ひとり違います。できないことも1人ひとり違います。できないことがあっても、いいのではないでしょうか。神さまはあなたにも必ず宝物を与えています。「私も愛されている。わたしはわたし」と喜ぶことができますように(^^)


イエス・キリスト

イエスを学ぶならこの三冊

本のひろばより(外部サイトです)


姦通を犯した女性(ヨハネ8章)

すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。

ヨハネによる福音書 8:3‭-‬11 口語訳

 

旧約聖書では、

人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。レビ記 20:10 新共同訳

と書かれています。

この女性は絶体絶命でした。しかしイエスは「罪のないものが、石をなげつけなさい」といいました。それを聞いた人々は去っていきました。

イエスは憐れみにあふれています。イエスは、罪を犯した人を裁くのではなく、新しくやり直す道を開きました。私たちは、間違いを措かしてしまい、自分を嫌いになってしまうことがあります。自己否定ほど辛いことはありません。

しかしイエスは、「あなたを罪に定めない」と言われるのです。神は間違いを犯したものでも、やりなおせる道を開いてくださるのです。

教皇フランシスコは使徒的書簡「あわれみあるかたと、あわれな女」で、次のように言っています。

https://www.cbcj.catholic.jp/2017/02/13/12254/

イエスは、彼女が希望をもって未来を見つめ、人生をやり直すのを助けます。これからは、望むならば彼女は、「愛によって歩」(エフェソ5・2)むことができるのです。ひとたび愛を身にまとったならば、罪への傾きが残っていたとしても、もっと先を見つめさせ、これまでとは異なる人生を歩むことを可能にする愛によって、これは克服されます。

~人はゆるしを体験した時、新しく生きる希望に満たされるのではないでしょうか。人は完璧な存在はいなく、誰もが欠点や限界を抱えています。

「もっと、しっかりしなければ」と焦ると今の自分を否定して、疲れはててしまいます。もちろん、誠実な生き方は大切です。しかし神さまの愛は「あなたが成長したから愛してあげます」というものではない、と私は思います。たとえ不完全でも神さまは、「あなたで良かった。あなたに会えて本当に嬉しい」と喜んでくださるのです。神さまのゆるしにふれたとき人は安心してすごしてゆけると思います。

片柳弘史神父は『何を信じて生きるか』(PHP)で次のように書いています。

「あなたがあなたである、ただそれだけの理由で、あなたはわたしにとってかけがえのない存在だ。もし何もできなくなっても、わたしはあなたを愛している」。それが、キリスト教の説く愛。まったく無条件の愛なのです。このような愛に出会ったとき、わたしたちの心は初めて本当の安らぎを得られる。わたしは、そう確信しています。