聖書にでてくる人物1


聖書にでてくる人物は長所だけではなく、短所や失敗も描かれています。そんな人を通して神さまは働かれてくださり、一人ひとりを愛してくださいました。ここでは、聖書にでてくる人物の全体像はみれませんが、ある一部分をみて、聖書のメッセージを考えていきます。神さまに造られた一人ひとりも神さまは深い計画をもち必要とされています。


旧約聖書より

モーセ

モーセが成長して後、ある日のこと、同胞の所に出て行って、そのはげしい労役を見た。彼はひとりのエジプトびとが、同胞のひとりであるヘブルびとを打つのを見たので、 左右を見まわし、人のいないのを見て、そのエジプトびとを打ち殺し、これを砂の中に隠した。

 出エジプト記 2:11‭-‬12 口語訳

 

きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』 モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。

使徒言行録 7:28‭-‬29 新共同訳

~モーセは40歳くらいのとき、一人のエジプト人を殺してしまいます。衝動的にやってしまい、モーセは「なんてことをしてしまったんだ」と、自分を責めたことでしょう。モーセは王様の手を逃れるために、ミディアン地方に逃れてゆきます。ミディアン地方とは、エジプトから直線で400kmくらい離れた場所で、現在のサウジアラビアの西部あたりの地域です。モーセは、その場所で結婚し、二人の子供をもうけました。

 

モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。

出エジプト記 4:10 口語訳

~モーセは80歳くらいのとき、神様からイスラエルの民たちを救いなさいと言われました。しかし、モーセは神さまに「わたしは口が重く、舌の重い者なのです。」と言ったことが書かれています。どこか自信はなく、過去の自分の犯した罪が、罪責感として苦しめていたかもしれません。モーセは、「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」と、神様の召命から逃げようとします。そんな彼に、神様は次のように語ります。

 

そこで、主はモーセにむかって怒りを発して言われた、

「あなたの兄弟レビびとアロンがいるではないか。わたしは彼が言葉にすぐれているのを知っている。見よ、彼はあなたに会おうとして出てきている。彼はあなたを見て心に喜ぶであろう。

出エジプト記 4:14 口語訳

~神様は1人で頑張ってやりなさいとは言わない方。いつも、サポートしてくれる仲間を与えてくださるのです。モーセは話下手なので、アロンというサポーターが与えられました。神様は、モーセの頑なさに怒りを示されましたが、モーセが弱音をはいても、モーセの弱さを受け止めたことには驚きです。神様は私たちが困らないために、様々な道を備えてくださいます。1人でできなくても、手をとりあい力をあわせれば、道は広がると思います。

モーセは、口下手なことに自分の弱さを感じていたのでしょう。人は、神様の前で、強い者のみが用いられると誤解しがちです。神様は臆病であり、過ちを過去に犯してしまったモーセでさえ(モーセは過去に殺人を犯していました)、神様の使命のために用いてくださったのです。もうどうにもならないときは、自分で「こうであるべき」と、勝手に決めてしまっている時。「こうであるべき」という理想を捨て、神様に悔い改めるとき、神様は道をいくらでも開いてくださるのです。過去がどうであれ、それでおしまいではありません。神様は、どんな過去であれ私たちを赦し、モーセのように、新しくやりなおす事ができるのです。

 

※モーセについては、キートンさんの説明がわかりやすいです。十戒についてもわかりやすいです。


アロン

アロンはモーセの兄です。モーセとともにヘブライ人のエジプト脱出を指導しました。しかし、アロンはたびたび失敗を犯してしまいました。

 

民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。 アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。 出エジプト記 32:1‭-‬2 口語訳

 ~モーセがシナイ山に昇り十戒を授与される間、イスラエルの民は「待つこと」が必要でした。モーセがなかなか戻ってこなく不安を感じた民たちはアロンに「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」と頼みました。アロンは指導者として、偶像礼拝(神を人間で造った像にすること)を注意しなければならないはずなのに、民たちの頼みに負けてしまいます。

アロンは、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」と民たちにいいます。アロンはそれで、金の子牛像を作ります。

アロンたちは、偶像礼拝の罪を犯してしまいます。民たちには、待つということができなかったのでしょう。荒れ野の道ですから、民たちは早く目的地につきたかったはずです。同じ場所に何日間もいたら、「この先どうなってしまうんだろう」と不安になってきたはずです。

しかし、神様は前に進むばかりではなく、立ち止まる時も与えてくださる方。決して焦らなくてよいのです。神様は、イスラエルの民たちを、40年という時間をかけて約束の地に導きました。早くしなければ、と自分の力を頼り、心をすり減らすことはしなくてよいのです。どんな道も、神様が必要だと思って与えてくれた道。神様はこんな道に導いたと不平を言うのではなく感謝するとき、神様の愛で満たされるのです。


モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた。 また彼らが造った子牛を取って火に焼き、こなごなに砕き、これを水の上にまいて、イスラエルの人々に飲ませた。 モーセはアロンに言った、「この民があなたに何をしたので、あなたは彼らに大いなる罪を犯させたのですか」。

出エジプト記 32:19‭-‬21 口語訳

 

モーセが山からおり、偶像礼拝している民たちをみて、激しく怒り、手に持っていた十戒の記された板を投げつけ砕きました。モーセは、神様に赦しを願いシナイ山に登ります。再び40日という期間が必要でした。神様は先に急ごうとする私たちに、待つ、という備えの時を与えてくださるのです。

モーセはクシの女をめとっていたが、そのクシの女をめとったゆえをもって、ミリアムとアロンはモーセを非難した。 彼らは言った、「主はただモーセによって語られるのか。われわれによっても語られるのではないのか」。主はこれを聞かれた。

民数記 12:1‭-‬2 口語訳

 ~モーセのサポート役だった兄のアロンの失敗はこれだけではありませんでした。

モーセには姉にミリアムがいました。ミリアムとアロンは、モーセがクシの女性を妻にしていることでモーセを非難しました。クシの女性とは、ヘブライ人からみて外国人でした。

しかしミリアムとアロンの本当の不満は、民数記12章2節に書かれています。それは「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。」ということです。

アロンとミリアムはいつも第2、第3の立場に置かれていて、それが不満だったのです。なんで自分たちを通して神様は働いてくれないのか。弟のモーセだけが神様に特別に大切にされ、神様に用いられていると誤解していたのです。しかし、アロンにはモーセより雄弁に語る賜物が与えられていました。一人一人の役割は異なるのです。アロンはそれを忘れていました。比較して、「私はモーセより、賜物が与えられていない」と落胆してしまったのです。しかし、一人ひとり神様から違う賜物が与えられており、アロンとミリアムは、もっと神様に作られた自分を喜んでよかったのです。

 

あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。

ペテロの第一の手紙 4:10 口語訳

~私たちは、他人の賜物を素直に喜び、自分に与えてくださった賜物も素直に喜んでよいのではないでしょうか。神様の愛がたっぷりつまった命を感謝し、互いに支えあってすごしてゆけますように。


エレミヤ

「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、 あなたを知り、 あなたがまだ生れないさきに、 あなたを聖別し、 あなたを立てて万国の預言者とした」。 その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。 しかし主はわたしに言われた、 「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。 だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、 あなたに命じることをみな語らなければならない。 彼らを恐れてはならない、 わたしがあなたと共にいて、 あなたを救うからである」と主は仰せられる。 そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、 「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。

エレミヤ書 1:5‭-‬9 口語訳

~エレミヤは、旧約聖書にでてくる預言者です。神さまに言葉を預かり、神さまの代わりに言葉を伝えるものだから、(預)言者と書きます。聖書では予言者という言葉は使いません。自分のちからで未来を予言するのではないからです。

エレミヤは、期限前640年頃にうまれました。エレミヤは、若者のとき神さまから召命をうけました。「今の自分では十分ではないです。もう少し成長してからやらせてほしい」と、神さまにいったのでしょう。しかし、神さまはエレミヤに「あなたは若者でもいい。私があなたとともにいる」といぃした。

聖書からみえてくるのは、私たちが立派だから神さまが用いられるということではないことです。神さまはエレミヤが若者であっても、エレミヤだから良かったのです。

神さまはエレミヤが生まれる前から知っていたと、聖書に書いてあります。同じように私たちも生まれる前から神さまに愛されて生まれてきました。「私は取り柄のない人間だ」と思うのはまったくの間違いだと思います。一人ひとりは、母の体内にある前より神さまに愛されており、かけがえのない大切な存在です。


※エレミヤをもっと知りたい方は、

キートンさんの説明がわかりやすいです。


エリヤ

彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。(列王記上19・5-7)


エリヤ(Wikipedia)は旧約聖書の列王記(Wikipedia)にでてくる預言者です。エリヤは、アハブ王と対立します。アハブとは、首都サマリアで、バアルという名前の神さまを礼拝する、最悪な王さまでした。

 エリヤは、アハブ王の妻であるエゼベルという女性に、殺害予告をされてしまい、エリヤは恐れ逃げてしまうのです。そして神様に「もう十分です。わたしの命を取ってください」と絶望します。

 そのとき神様は「もっとしっかり、強くありなさい。あなたは、預言者なのですよ」と、叱りませんでした。神様はエリヤに、パンと水を与え休養を与えられたのです。神様はエリヤに寄り添ったのです。たった一人でもいいから寄り添ってくれる方がいれば、人は生きてゆけるのではないでしょうか。エリヤは神様の愛に包まれて回復してゆきました。

 種をまいても花を咲かせるには時間が必要です。人も同じ。一人ひとり咲かせるペースが違うのです。自分に一番ふさわしいときを、神様は待っていてくださるのです。「早く病気を直さなければ、見捨てられる」と心配しなくてよいのです。

 聖書には、

『神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。』

(ヘブライ13・5)

と書いてあります。置き去りにしないとは、神様は立ち止まってくださる、ということです。神様は、いつまでも待っていてくれる方。焦る必要はありません。時には、足を立ち止めて、ゆっくり休みましょう。人は神さまに愛されて、やり直す力が与えられるのです。


※エリヤについても、キートンさんの説明がわかりやすいです。




新約聖書より

アンナ

また、アセル族のパヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。彼女は非常に年をとっていた。むすめ時代にとついで、七年間だけ夫と共に住み、 その後やもめぐらしをし、八十四歳になっていた。そして宮を離れずに夜も昼も断食と祈とをもって神に仕えていた。 この老女も、ちょうどそのとき近寄ってきて、神に感謝をささげ、そしてこの幼な子のことを、エルサレムの救を待ち望んでいるすべての人々に語りきかせた。

ルカによる福音書 2:36‭-‬38 口語訳

アンナ(wikipedia)は、84歳の女預言者でした。旧約聖書には女預言者として、モーセの姉のミリアム(wikipedia)や士誌記にでてくるデボラ(wikipedia)がいます。

アンナは、自分のできることをしていました。それは、エルサレム神殿で「祈りと断食」をすることでした。女性は、エルサレム神殿の中心部に入ることはできなかったので、外庭のところにいたのかもしれません。断食とは、一切食べないことではなく、祈りに集中するために、食事をしないときがあったのだと思います。

多くの人が、アンナから励ましを受けていたのではないでしょうか。アンナは、預言者でしたから、アンナのところにいって相談し祈ってもらった人もいたでしょう。アンナがそこにいるだけで、ホッとした方もいたでしょう。アンナは、悲しみを知っている人でした。だからこそ、悲しむ者と共に悲しむことができ、試練があった人を慰めることができました。アンナは、おそらくその人たちを覚えて、具体的に祈っていたと思います。みんなの生活に寄り添う、町にいるお母さんという感じだったのでしょう。神さまは、年齢にかかわらず、わたしたを用いてくださいます。「もう高齢だから」とあきらめる必要はないのです。アンナは神殿から離れず、丸ごと人生を神さまに捧げていました。アンナは、『あれもしなければ、これもしなければ』と焦らず、自分にできることに専念していました。神さまは、必ず一人ひとりに良いものを与えてくださっています。「自分なりにやってゆけばいいんだ」と安心してよいのではないでしょうか。



4人の仲間たち

幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、 多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。 すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。 ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。 イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。 

マルコによる福音書 2:1‭-‬5 口語訳

中風とは、脳卒中の後遺症で体の一部や全身に麻痺がある状態をいいます。

カペナウムは、カファルナウル(wikipedia)ともいいます。

4人の仲間たちが、体が動けない人を運び、イエスのところまで連れていってくれました。「あなたは、一人じゃないよ」と、飛び込んできてくれた仲間がいました。イエスは、4人の仲間たちの信仰をみて、体が動かない人に罪のゆるしを宣言します。

この記事はとても不思議なんです。それは、体の不自由な患者さんの信仰が全面的にでてこないからです。イエスがみていたのは、「彼らの信仰」と書いています。仲間たちが助け合い、支え合う姿を信仰と呼んでくださったのです。この患者さんは、体を仲間たちに委ね、任せているだけです。立派な行いも、悔い改めの言葉も書かれていません。

この当時、病気は罪の結果と考えられていました。しかしイエスは、「あなたの罪はゆるされた」といいます。聖書には、「子よ」と書かれています。イエスにとって、「あなたは汚れてなんかいない。神さまに愛されている、神様の子どもだ」と言ったと思います。

社会は「あなたは自立しなさい。できることは、自分でしなさい」というかもしれません。しかし、イエスは互いに支えあう姿の中に、信仰をみてくださいました。自立とは、互いに支えあう人がいてくれて、それに気付き感謝することだと思います。悲しみにしずむとき、祈れないとき、自分が祈らなければと焦る必要はないのです。仲間たちを信頼し、祈ってもらえばよいのです。


ペトロ

人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。

使徒4章13節口語訳

ペトロ(wikipedia)は、12弟子のなかで、イエスに愛された一番弟子です。口語訳聖書では、ペテロと表記されていますが、新共同訳ではペトロと表記されています。

人々は、ペトロたちを「ただの人」と言いました。ただの人は、ギリシャ語でἰδιώτηςが使用されています。その言葉は2コリント11・6でパウロが「話し振りは素人でも」の「素人」という箇所で使用されています。

イエスに愛されたペトロは、特別な学校に行ったわけではありません。パウロも、話しぶりは訓練されていなく素人でした。しかし、イエスはペトロやパウロたちを愛され、用いてくださいました。

イエスは、マルコ7章8節で

「あなたたちは神の掟を捨てて、

人間の言い伝えを固く守っている」 

You have let go of the commands of God and are holding on to human traditions.”

Mark 7:8 NIV

と言われます。

人は、「これは常識だよ」とか、「クリスチャンなら、これができて当たり前」と枠をきめたがる時はないでしょうか。そして、「あんな人は弟子などなれない。ただの人だからね」と思ってしまうのです。しかしイエスは、「人間の言い伝えではなく神様の掟を思い出しなさい」といわれるのです。人間の言い伝えではそうかもしれないが、神様の掟はどうなのかと、イエスは私たちに呼びかけているのです。そして、神さまは、「あなたは、無学でも気にしない。ただの人でも気にしない。わたしはあなたを必要としている」と呼びかけてくださるのです。その呼びかけは、私たち一人ひとりにも呼びかけています。


イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。

マルコによる福音書 1:16‭-‬18 新共同訳

本名はシモンですが、イエスは「岩」を意味するペトロという名前を与えました。イエスは、シモンとその兄弟アンデレに、「私について来なさい」と呼びかけます。二人は商売道具である網を捨て、イエスに従いました。シモンたちにとって網はお金を稼ぐもので、自分の誇りがつまっていたことでしょう。人は誰かに認められるために、自慢できるものや、強さで勝負しようとします。「何かすごいことをしなければ神さまに愛されない」と、人はつい誤解してしまいがちです。しかしシモンたちは、一番才能を発揮できる網を捨てました。

イエスは「網などなくても、あなたがいるだけでそれだけで十分」と、私たちに呼びかけてくださる方ではないでしょうか。神さまはあなたが何か「できる」のではなく、あなたが「いる」ことを喜んでくださるのです。


レギオン

それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。 この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。 そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。 また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。 そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。 しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。 そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。

マルコによる福音書 5:2‭-‬5‭, ‬9‭, ‬15‭, ‬18‭-‬20 口語訳


レギオン(wikipedia)とは、当時のローマの軍隊をあらわす言葉でした。4000~6000人からなら一つの軍隊でした。この人は、一つの悪霊ではなく、あふれるほどの悪霊にとりつかれていたことを示しています。レギオンとは彼の本名ではなく、とりついている悪霊たちの名前です。

このひとは、ゲラサ人(wikipedia)でした。ゲラサ人とは、ユダヤ人意外の人です。ゲラサ人の地方とは、ガリラヤ湖の南東のデカポリス(wikipedia)地方の中にありました。

しかしイエスは湖をわたり、異邦人の土地にきました。もしかして、墓場に住んでいた、この人に会いにきたのかもしれません。イエスが見つめているのは、レギオンという偽物の名前ではありません。聖書には、この悪霊にとりつかれた人の本当の名前はでてきません。しかしイエスが見つめていたのは、個人として、神さまに愛されている人間でした。

私たちは忙しいとき、つい一人の人間の苦しみを忘れてしまいがちです。数や大きさを優先して、小数の意見をもつ人を忘れてしまうのです。しかし、イエスは違いました。たった1人の人のために足をとめてくださるのです。悪霊にとりつかれていたとは、具体的にどのような状態の人かはわかりません。しかし、人や社会の力では、対処できないような何かを抱えていたと思います。しかし、イエスは諦めませんでした。神の愛に満たされるとき、人は新しくやり直すちからが与えられるのです。

また、レギオンは、自分の気持ちを語ることはできませんでした。いつも悪霊に支配されていたからです。しかしイエスは、この人を癒されたとき、「イエスにおともしたい」とイエスにいいました。そんな彼にイエス「あなたの家族のもとに帰りなさい」と言ったのです。あなたの生活している場所で、神さまは必要としてくださり、用いてくださるのです。

またレギオンは癒されたとき、正気になって座っていた、とあります。正気になるとは、ギリシャ語でσωφρονέωですが、この言葉は、冷静な判断をする、自己管理できる、という意味があります。人はイエスのそばにいるとき、神さまにつくられた自分のかたちを取り戻すことができるのではないでしょうか。ゆっくり深呼吸できるのではないでしょうか。また座っていたとは、イエスの近くでは安らぎを感じたのではないでしょうか。聖書にはできませんが、イエスはこの人を本当の名前で呼んでいたかもしれません。今日も神さまは、私たちを愛し、名前で呼んでくださっています。


パウロ

パウロについては、別ページに作成

しました(^o^)


マグダラのマリア

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。

マタイによる福音書 28:1‭-‬6 新共同訳

 

そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。 また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリヤ、 ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。

ルカによる福音書8:1‭-‬3 口語訳

 

〔週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。

イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。

マルコによる福音書 16:9 口語訳

 

イエス様は私たちの罪のゆるしのために、十字架にかかりました。そして、復活したことがマタイによる福音書28章にしるされています。28章1節でマグダラのマリアと、もう一人のマリアが墓をみにいきました。聖書辞典をひらいてみますと、マグダラとはガリラヤ湖の西側に位置した港町と記されていました。おそらく、この地方の出身者だったのでしょう。

そして、28章9節で、イエスは婦人たちに、「おはよう」と言われたとあります。私はここを読んだときに疑問に思ったのは、イエス様が出会ったのは、なぜ弟子たちが最初ではなかったのか、ということです。ルカ8章2節によれば、マグダラのマリアとは、7つの悪霊を追い出してもらったと書かれています。何か特別ではない、病気、問題を抱えておられたことになります。私たちの社会では、優秀さが求められます。企業でも、面接などして、一般的に優れている人、受け答えがうまいひと、表情がいい人材を選ぶのではないでしょうか。そして、そのような人たちを、集めようとします。それは、利益をだすためには、当然のことかもしれません。問題のある人、劣っている人と評価されたならば、排除されていきます。ところが、イエス様がなしたことは、当時のマタイによる福音書を読んだ人たちには、驚きだったでしょう。7つの悪霊にとりついていた。当時悪霊とは、どのようなものだったのでしょうか。もう、近づきたくもない存在、なんらかの罪を犯していたのかもしれませんし、病気を抱えていたかもしれませんし、7つというのですから、よっぽどひどかった状態、能力、才能の人だったのではないでしようか。悲しいですが、そのような評価が、社会からくだされていたかもしれません。あの人は、もうどうにもならない。神さまに見捨てられている人。置き去りにされている人。一つの悪霊ですら、恐れられているのに、7つの悪霊ですから、究極的に最悪な状況を描いています。しかし、復活のイエスさまを一番最初に目撃した、人類の最初の人物は、このような問題を抱えていた。それは、決して偶然の出来事ではなかったと思います。そこに、何か聖書がとても大切にしていること。イエス様がとても大切にしていること。福音書記者マタイが大切にしたいこと。それが、ここで記されているのではないでしょうか。聖書のメッセージは、普段の日常の忙しさの中で忘れてしまいそうになりますが。沈黙して、立ち止まって聖書をながめますときに、神さまのメッセージが、強烈に響いているように、私にはきこえてくるのです。


ザカリア(洗礼者ヨハネの父)

聖書の言葉

香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。 すると主の御使が現れて、香壇の右に立った。 ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。 そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。 彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。 彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、 そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。 するとザカリヤは御使に言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。 御使が答えて言った、「わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである。 時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。

ルカによる福音書 1:10‭-‬20 口語訳

 

ザカリアとは、洗礼者ヨハネの父で、祭司でした。洗礼者ヨハネとは、イエス様がこられる前に民たちを悔い改めに導き、荒れ野で活動していました。イエスは、この洗礼者ヨハネから、洗礼をうけました。

ルカによる福音書1章20節で、洗礼者ヨハネの父であるザカリアは、主の天使ガブリエルから、「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」と言われます。ザカリアはもう年で、神様から子供が与えられるとは、信じられませんでした。

ザカリアは、天使に「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」といいます。ザカリアは、現実を知っています。しかし、見方を変えれば、ザカリアは頑なな心でした。神様の前で、耳をふさいでいました。そんなザカリアに与えられた試練は、口がきけなくなることでした。それは、まだ話せない幼子になるようなものでした。神様が与えた試練。それは、ザカリアに、神の言葉を聞く、ということでした。ザカリアは、人間の限界にとらわれていました。私たちも時に、あきらめてしまうことがあります。自分の弱さや限界にであって、私にはもうできないと、嘆いてしまうのです。しかし、聖書の言葉は、福音の喜びに生きよう、ということです。神様の愛の中で、私たちは、何度でもやり直せる、というのです。

前へ進むばかりではなく、時には人生立ち止まってよいのではないでしょうか。洗礼者ヨハネの父ザカリアが何も話せなくなったように、人間の力の限界を神様が教えてくださる時期があります。神様が与えてくださった、休息の時だと考え、ゆっくり休みましょう。この幼子が成長したとき、「疲れたもの、重荷をおうものは私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました。疲れたときは、イエスの前で神様に認められるために、アピールをしたり、自分以上の自分を演じる必要はありません。放蕩息子が父のもとに悔い改め帰ったように、帰り、自分が愛される場所が、神様から私たちに与えられているのです。神様は、どんな自分であれ、自分の娘、息子として私たちを、かけがえのない大切な存在として抱きしめてくださる方。

神様に作られたこの世界は、神様の愛で満たされています。季節ごとに神様は異なる花を見せてくださいます。神様は道端に咲いていた花も、懸命に生きる鳥たちも忘れることなく、神様の愛の中で生かされています。道端に咲いている花は、神様に作られた色を持ち、自分の花を咲かせます。童謡のチューリップの花、という曲があります。「さいた さいた チューリップの 花が ならんだ ならんだ 赤 白 黄色どの花みても きれいだな」という歌詞です。チューリップは、5600以上の品種があります。赤色、白、黄色。色は違いますが、神様に作られた自分の色を、精一杯咲かせます。違っていても、綺麗なのです。ましてや、私たち人は、神様がどれほど計画されて、一人一人を作られたでしょうか。人は、自分が一番偉くなりたい要求があります。そんな弟子たちに、仕える者となりなさい、とイエスは言いました。イエスは、最も低い場所におりてこられ、私たちの足を洗ってくださいました。

ザカリアは、人間の固定観念に縛られていました。自分はもう老人だ、と子供をあきらめていました。それに対し、羊飼いたちは、動きはじめました。神様の言葉に耳を傾け、ベツレヘムに向かいました。ザカリアのように、現実は変わりはしないと諦める必要はありません。どんなに現実が辛くても、神様は喜びの知らせを届けてくださり、神様を礼拝する道へと導いてくださるのです。家畜の匂いがした、そのままの服のままで、乳飲み子イエスの前に来て、礼拝をささげました。「あれもしなければ、これもしなければ」と、焦る必要はありません。神様の前で立ち止まり、祈るとき、神様は道を備えてくださるからです。どんな状況にあっても、自分には力がなくても、神様のほうから羊飼いたちに近づいてきてくださったように、私たちと出会ってくださるのです。

イザヤ書30章15節では、

まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。

「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。

安らかに信頼していることにこそ力がある、

と預言者イザヤは記します。


ダビデも、詩編31編15節で

「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/

「あなたこそわたしの神」と申します」

と告白します。


預言者エレミヤも、

「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる」

と、神様に信頼する心を高くみています。


ヨシュア記22章5節で、ヨシュアは

「あなたたちの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めを守って主を固く信頼し、

心を尽くし、魂を尽くして、主に仕えなさい」

と、勧めています。

 

神様の前で、時に人は「あれもしなければ、これもしなければ」と焦ります。律法学者たちが、生活の隅々まで神様の掟を守るためにルールを決めていたように、現代も「キリスト教徒はこうであるべき」と、勝手に決めてしまうのです。しかし神様が求めているのは、ただ静かにし安らかに神様を信頼する心。幼子のように、神様の愛を信頼することなのです。「愛されるためにどうしよう」と心配しなくてよいのです。神の愛を信頼することこそ、私たちの信仰の土台になのです。ザカリアは自分の経験や知識に頼ってしまいました。神の約束を疑いました。ザカリアは口がきけなくなったとき自分の限界を知り、自分の力を放棄したでしょう。どの年も同じですが、神様に耳をすます者とさせていただきたいのです。もっと成長してから、もっと清くなったら、神様に必要とされるのではありません。今のこの自分で、神様は愛してくださるのです。弱くて不完全な私たちを、たとえ何があっても、あなたは神様から愛された神様の子どもと呼んでくださるのです。その愛をまっすぐ信じて、福音の喜びに満たされ歩んでゆけますように。


羊飼いたち(クリスマス)

聖書の言葉

さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。 ルカによる福音書 2:8‭-‬12‭, ‬15‭-‬16 口語訳

 

現在では羊飼いたちに対するイメージは良いですが、イスラエルの当時の羊飼いは、社会的にヒクイ地位におかれていました。金持ちは未の世話を羊飼いにさせていました。羊飼いは、安息日の「なにもしてはならない」という掟も守ることができなかったので、宗教的にも蔑まされていました。

しかしクリスマスの喜びは、羊飼いにまっさきに知らされました。夜通し羊の番をするとは、過酷な職業の一つでした。徴税人などと同じく、さげすまれる職業の一つでした。宗教税も払えず、罪人のレッテルをはられていました。東方の博士たちとは違って、イエスに捧げる贈り物すらありません。しかし、そんな彼らに、クリスマスの喜びが知らされました。人間から、どんな悪い評価をされていようとも、神様は「あなたが産まれてきてくれて良かった。私はあなたに会えて嬉しい」と、呼びかけてくださるのです。

ルカ2章15節で「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。」と書かれています。馬小屋は、羊飼いと同じ家畜の匂いがしていたでしょう。城のような、高級な場所なら羊飼いは、イエスに近づくことすらもできません。しかしイエスは、飼い葉おけまで自分を低くされ、誰もがイエスに会えるまで、おりてきました。羊飼いたちも、おそらく土で汚れている服のまま、くることができました。社会では、「羊飼いたちは、もっと律法を守って、きちんと税金を払ってから神様のところにきなさい」と、条件をつけてきます。

しかしイエスは、「今のあなたのままで、私のところに来なさい」と、呼びかけておられるのです。もっと律法を守って神様に従ったら神様に会えるわけではありません。私たちは今日の私で神様の子供として神さまに会うことができるのです。私たちがたとえ迷子の羊になったとしても神様は私たちを探しだしてくださるのです。

天使の声を疑わずに、羊飼いたちは耳を傾けました。自分の限界に縛られていませんでした。「こんな私が、救い主を礼拝しにいってよいものか」と自分を否定しません。先程もいいましたが、羊飼いたちは、イエスに差し出すプレゼントさえありませんでした。手ぶらのままでした。しかしイエスは、羊飼いの礼拝自体をを喜んでくださったのです。羊飼いは、神様に受け入れられ愛される喜びに満たされでしょう。私たちも、羊飼いたちと同じように、理想の自分を演じ神様のまえに礼拝するのではなく、今の等身大の自分で、礼拝にあずかることができるのです。

羊飼いを、イエスへの礼拝へと整えた神様は、私たちの人生の道も導いてくださいます。神さまを信頼する人の道は、どっちに転んでも、それは神さまが決めてくださった道。人間ができることは、「神さま、あなたにお任せします」と祈り、神様に委ね、精一杯のことをするだけです。あとは、神様が一番良いように道を造ってくださいます。神さまが造ってくださる道に失敗はありません。自分が納得できないような道であったとしても、「これも、神様が創ってくださった道」と、神様に感謝を捧げることができますように。