「彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。」
使徒行伝 3:5-6 口語訳
福音とは英語でGospel(ゴスペル)、ギリシア語でΕὐαγγέλιονといいます。福音とは、良き知らせという意味です。
神様に愛されていることに気づき、方向転換して神様に帰ることを、悔い改め(回心)とよびます。救いとは神さまにゆるされて生きることです。
イエスの弟子であるペテロは、金や銀はないといいました。私たちも自分を見つめれば何もないことが気づきます。何も持たない自分に絶望してしまうことがあります。しかし、落胆する必要はないと思います。たとえ、何も持たなかったとしても、神さまは空っぽな私たち一人一人を愛しておられるからです。
悔い改めという言葉は、どこか自分の力でする行為のように受け止めてしまいがちです。しかし悔い改めとは、ギリシャ語でメタノイアという言葉で、立ちかえる、という意味があります。必死に努力したり清い生活をするのが悔い改めではないと思います。悔い改めようと背伸びして大きくなろうとしがちで、自分を見失ってしまうことがあります。
※後ほど、悔い改めについては詳しくみていきます。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 3:16 口語訳
福音の大切な要素は、「あなたは愛されている神さまの子供」とされることだと思います。
片柳弘史神父はブログで次のように言っています。https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20081222/1229941969
社会から見下され、自分に価値がないと思い込まされている人たちに「そんなことはありません、あなたたちは大切な神様の子どもなのです」と告げること。これこそが、まさに福音の核心でしょう。振り返ってみれば、20世紀に何人かのキリスト者たちは全世界にはっきりした証によってこのメッセージを伝え、全世界を揺るがしました。
マーチン・ルーサー・キング牧師。彼は、アメリカ社会の中で蔑まれ、価値のない愚か者として扱われていた黒人たちに「そんなことはない、神は白人も黒人も同じように愛してくださる方だ」と告げました。
マザー・テレサ。彼女は、インドの路上で誰からも看取られることなく死んでいく人たちの傍らに座り、彼らの手を握り締めながら「あなたたちは本当に大切な神の子どもなのです」と告げました。
彼らがしたことは、今日の福音の中で天使がしたことと全く同じです。社会から疎外される中で自分の生きる意味に疑問を感じ、絶望しかけている人々に、彼らは「一人ひとりが大切な神様の子どもなのだ」という喜びの知らせを告げたのです。
このメッセージは、地上の価値観を根底から覆すものです。人間の社会では、お金や権力がある人、高い地位についた人、特殊な能力がある人などが高く評価され、そうでない人たちは「負け組」などと言われて社会の片隅に追いやられていきます。しかし神様の前では、来るべき「神の国」では、この価値観は完全に覆されます。「神の国」では、自分たちの力を過信して驕り高ぶり、神をないがしろにする人たちは片隅に追いやられ、自分たちの無力さを知って神によりすがる人たちは神のもとで永遠の喜びを生きるのです。
◼️聖書の言葉
人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。
イエスは彼らの信仰を見て、
中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。
あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。
マタイによる福音書 9:2 口語訳
※イエス様は、患者さんに向かって「子よ(Τέκνον)」と呼びかけています。
イエスはその女に言われた、
「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。
すっかりなおって、達者でいなさい」。
マルコによる福音書 5:34 口語訳
※女性を「娘よ(Θυγάτηρ)」と言われています。
聖書では、神さまに向かって「父よ」と呼びかけなさいとイエスは言われています。それは、人と神さまの関係が親子の関係だからです。神さまは、天のお父さん(ギリシア語でΠατὴρパテール)。私たちを愛しいつも一緒にいてくださる存在です。
イエスは、ギリシア語ではなくアラム語を話していました。イエスは神さまのことをアッバ(アバ)とも呼んでいます。
「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。
マルコによる福音書 14:36 口語訳
アッバとは子どもが父に対して、親しみをこめて呼ぶ言葉です。「パパ」「お父ちゃん」というような感じだと思います。イエスと父なる神の、親密な関係を示している言葉です。パウロや初代教会もイエスにならって神さまをアッバと呼んでいます。
あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
ローマ人への手紙 8:15 口語訳
このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。ガラテヤ人への手紙 4:6 口語訳
私たちも親しみをこめて神様に「お父さん」と呼びかけることがゆるされているのです。
フランシスコ教皇は、
2019年1月16日一般謁見演説で、
次のように言っています。
https://www.cbcj.catholic.jp/2019/01/16/18720/
「父である神」と呼ぶよりも、「アッバ」と唱えるほうが、
ずっと親しみがこもっており、心が動かされます。だからこそ、この「アッバ」というアラム語を、
「パパ」「お父さん」と訳す人がいるのです。「わたしたちの父よ」
と言う代わりに、「パパ」「お父さん」と唱えるのです。もちろん引き続き
「わたしたちの父よ」と唱えるのですが、わたしたちは、父親のことを
「パパ」「お父さん」と呼ぶ子どものように神とかかわるために、
心の中では、「お父さん」と唱えるよう招かれています。
たとえあなたが神を探し求めなくても、神はあなたを探し求めます。たとえあなたが神のことを忘れても、神はあなたを愛してくださいます。たとえあなたが自分のすべての才能を無駄に浪費したと思っても、神はあなたの素晴らしさに目を向けてくださいます。神は父親であるだけでなく、わが子を愛し続ける母親のようでもあります。
キリスト者にとって、祈ることはただひたすら「アッバ」と唱えることです。それは「パパ」「お父さん」と唱えること、子としての信頼をもって「父よ」と唱えることです。
イエス様は信仰(πίστινピスティン)をみて、「あなたはゆるされた」と言います。信仰とはギリシア語でπίστις(ピスティス)で、信仰、真実とも翻訳できます。また信仰とは良い人間になるとか、優れた行い(律法の実行)によって神様から認められることではありません。「イエス様は私たちを愛してくださり、救ってくださる救い主」と信じることです。信仰は自分の力ではなく、神様からのプレゼントなのです。
「事実、あなたがたは、恵み(χάριτί)により、信仰によって救われました。
このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物(δῶρον)です。」
エフェソの信徒への手紙 2:8 新共同訳
人の義とされるのは律法ではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、
わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、
キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、
だれひとり義とされることがないからである。
ガラテヤ人への手紙 2:16 口語訳
イエスは最も大切な命を差し出して、私たちに愛を示してくださいました。向きをかえ、「神さまは命を十字架で差し出してまで、私を愛している」と確信してよいのです。神さまは、「あなたは大切な存在。あなたがいてくれて本当に嬉しい。生きてほしい」と呼びかけてくださるのです。
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
ローマの信徒への手紙 3:24 新共同訳
「時は満ちた、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信ぜよ」。
マルコによる福音書 1:15 口語訳
新約聖書はギリシア語で書かれました。
ギリシア語で悔い改めをμετάνοια(メタノイア)といいます。悔い改めとは、自分の違反行為をみて反省することではありません。どんなに反省しても、人は自分のスキルや行いによっては、神さまと和解できないことが聖書には書かれています。人はどんなに背伸びしても、自分で自分を救うことはできません。
「天と地と海と、その中のすべてのものを
お造りになった生ける神に立ち帰るようにと、
福音を説いているものである。」
使徒行伝 14:15 口語訳
旧約聖書が書かれたヘブライ語では悔い改めを「シューブשׁוּב」といい、「向きを変える」という意味をもちます。元々は「帰る」の意味です。
「これらすべてのことがあなたに臨む終わりの日、苦しみの時に、あなたはあなたの神、
主のもとに立ち帰り(シューブ)、その声に聞き従う。」
申命記 4:30 新共同訳
人は自分の考え方にこだわることがあります。たとえば「もう私はゆるされない。ダメな存在なんだ」というときは、だれがダメといっているかです。八方塞がりのときも、自分の考を中心にしていたら、ますます混乱すると思います。しかし、神さまに立ち帰るとき、自分の考えではなく神さまの考え方に重点をおくようになります。私は、「自分はつまらないいらない存在だ」という思いこんでいました。しかし、聖書を通して「私は愛されている」という神様の愛に気づくことができました。自分の考えではどうしても自己否定してしまいます。しかし、聖書をひらくときに神さまは「あなたを愛している。私の愛を信じてほしい」と大切に作られた一人一人によびかけているのです。その愛を受け止め、神さまのところに帰ることもメタノイアだと思います。過去になにか罪悪感があるなら、神さまに告白すればよいと思います。聖書には、次のように書いてあります。
私には、罪を認めたくない時がありました。 しかし、私はかえってみじめになり、
くる日もくる日も挫折感にとらわれて過ごしました。 神の御手が、いつも重くのしかかっていました。私の力は、強烈な日ざしの照りつける 水たまりのように干上がりました。
とうとう私は、自分の罪を 神の前にさらけ出さざるをえませんでした。「何もかも主にお話ししよう」と決心したのです。すると、あなたは赦してくださいました。私の罪は跡形もなく消えたのです。
詩篇 32:3-5 リビングバイブル
神さまは、なにもかも聞いてくださる方。
隠すものは何一つありません。
神があなたを愛していることに、
あなたの心をひらいてください。
~マザー・テレサ
衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。」 あなたたちの神、主に立ち帰れ。
ヨエル書 2:13 新共同訳
神さまのところに立ち帰り、人はゆるされて、やり直すことができるのです。私はときどき、過去に犯した過ちによって罪悪感に苦しむことがあります。「私の罪はゆるされないんだ」と思い込んでしまうのです。しかし、聖書をひらくと、神さまはわたしたちをゆるしてくださることが約束されているのです。
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも
雪のように白くなることができる。
イザヤ書 1:18 新共同訳
緋(ひ)とは濃くて明るい赤色です。わたしたちの罪がどんなに大きくても、神さまにゆるせない罪はないのです。今日静かに「私は神さまを信じイエスのゆるしを信じます」と神さまに伝えてみませんか。能力やお金はなにも必要ないのです。神さまの恵みは無料であり大地を潤す雨のようにただなのです。
マザー・テレサは
「恐れるな。見よ、わたしは大いなる喜びの福音をあなたたちに伝える」と聖書に書いてあります。
神がこの世に知らせるために天使が送った大いなる喜びの福音とは、何なのでしょうか。
その福音とは、神がわたしたち一人ひとりを愛しているということです。『わたしはあなたを忘れない』(写真・編訳片柳弘史、ドン・ボスコ社、66頁)と言っています。
私はここに、福音の要約があるように感じます。それは、「神さまはあなたを愛している」ということです。
マザー・テレサは
「神はわたしたちを創造されたとき、わたしたちを愛から創りました。神は愛なのですから、他の説明はありません。そして、神はわたしたちを愛するため、そして愛されるために創られたのです。」
『わたしはあなたを忘れない』(62頁)と言っています。
他人に愛されることや、助けられることをつい断ってしまいまいがちです。もちろん、愛することは大切です。しかし、同じくらい愛されることも大切なのではないでしょうか。
「愛されるなんて甘えだ」と誘惑してくるかもしれません。しかし誘惑にはのらず、「私は神さまに愛されている」と確信する勇気をもちたいと思います。
生きる自信を失っている人がいっぱいいます。利用価値の世の中で認められない人たち、激しい競争社会からの落ちこぼれ、自動化、機械化の波を受けて「不要」となった人たち、そんな人たちに、あなたたち一人ひとりは、たいせつな人なのですよと伝えてゆくことこそが、現代の福音ではないでしょうか。
渡辺和子著『愛をつかむ』(PHP)