洗礼者(バプテスマ)のヨハネとは


洗礼者ヨハネ(パプテスマのヨハネ、wikipedia)は、ザカリアとエリサベドの息子で、イエスに洗礼を授け、荒れ野で活躍しました。

ザカリアは

ルカによる福音書1章76節~77節で

主に先立って行き、その道を整え、

主の民に罪の赦しによる救いを/

知らせるからである

と預言します。

自分の息子はイエスに先だって行きその道を整えるというのです。

 

遠藤周作は『イエスの生涯』(新潮文庫)で次のように書いています。

ローマのティベリウス皇帝の十五年、聖都エルサレムの南に荒涼と拡がるユダの荒野に毛皮をまとい、革の帯をしめた炎のような預言者の姿があらわれた。後に言う洗者ヨハネがそれである。伝承によれば彼はエルサレムの南西七粁のアインカリムの生れで、レビ族の祭司階級に属し、青年期に達した時この荒野に身をかくした。 

・・・。

ヨハネの抱く神のイメージは父親のイメージである。怒りと裁きと罰のイメージでもある。それは旧約にさまざまな形であらわれる峻厳仮借ない神であり、おのれに従わぬ町を亡ぼし、民の不正に烈しく怒り、人間たちの裏切りを容赦なく罰する厳父のような神である。駱駝の毛皮を着、腰に革帯をしめた洗者ヨハネはこの厳しい父のような神の怒りを人々に予告したのである。

・・・

そこに欠けているのは荒野に住む人々の「やさしさ」だった。そこに欠けているのは「愛」だった。クムラン教団もヨハネ教団も人々に悔い改めと神の怒りを教えたが、愛については語らなかった。死にたえたような死海とユダの荒野を見て、イエスはおそらくガリラヤのやさしい春を思いうかべられたにちがいない。 

 

今回は洗礼者ヨハネについて考えてみます。

なお、片柳神父のブログの記事(洗礼者ヨハネ)を参考にさせていただきました。


洗礼

身の丈でいきる

洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

マルコによる福音書 1:4‭-‬5 新共同訳

~ヨハネは、荒れ野での厳しい生活を通して、自分自身の弱さや限界をよく知っていたことでしょう。ヨハネは、神によらなければ何もできないことを知り、神様に委ねる生活をしていました。そんな彼を神様は、イエスへまっすぐ道を導き、準備させる者として、用いました。洗礼者ヨハネの使命は、主の道を整え、その道筋をまっすぐにすること。ヨハネを通して、多くの人が悔い改め、生活と生き方を見直したのでしょう。

 マルコによる福音書1章では、

 「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」とあります。洗礼を授けていた場所は、

これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

ヨハネによる福音書 1:28 新共同訳

と、ベタニアの町の近くであったと、ヨハネ福音書は書いています。

悔い改め(ギリシャ語でメタノイア)とは、向きを変えることです。今まで自分の考えを中心にしていたことから、神様のみ心に耳をすますことです。

人は、自分の固定観念をこだわってしまうときがあります。しかし「自分は神様に赦されるはずはない」「私は誰からも愛されない」と耳をふさいでいたら、いつまでもイエスの声に耳をふさいでしまうと思います。

神様の目から見たときには、命が何かの役に立っているかどうかなどまったく関係がありません。一つひとつの命が生きているというだけで限りなく尊く価値があるのです。朝ごとに夕ごとに、神様から愛されている喜びをしっかりかみしめてよいと思います。

 社会での競争や人間関係のトラブルで苦しんでいるわたしたちに、イエスは「たとえ何が起こっても、あなたは大切な神様の子ども。かけがえのない命。あなたは大切な存在」と語りかけてくださる方。


・やりなおせるよ

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

マタイによる福音書 18:21‭-‬22 新共同訳

~ゆるしは、一度だけではありませんでした。7の77倍他人の罪を赦しなさいとは、どこまでも赦しなさいとイエスは弟子に教えました。イエスは、私たちの過ちも繰り返し赦してくださいます。

人は完璧に生きたくても、限界があり欠点があるからといって、それでおしまいではありません。神様は欠点や弱さすらも、恵みに変えてくださいます。

パウロはおそらく病を抱えていたといわれます。自分の病がなくなったら、もっと強く効率的に、優秀に福音宣教できると思っていたのでしょう。そんなパウロに向かって、

わたしの恵みはあなたに十分である。

力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ

と神様の声を聞いたと、第二コリント12章9節でパウロはいいます。

パウロは弱さを抱えていても、神様に愛された存在として自分を見つめ直したのではないでしょうか。


3月18日

わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。

(ヨハ6・29)

~何度失敗したとしても、神さまがわたしたちに愛想をつかすことはありません。大切なのは、わたしたち自身が自分に愛想をつかさないことなのです。

片柳弘史著『日々を生きる力』 (教文館)より



ヨハネの使命

彼(洗礼者ヨハネ)はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

マルコによる福音書 1:7‭-‬8 新共同訳

~洗礼者ヨハネは、7節で

「わたしより優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその履物をひもを解く値打ちもない」

と言います。荒れ野での厳しい生活を知り、自分の限界や弱さを知っていた洗礼者ヨハネは、実に謙遜な人でした。謙遜な人は、自分の使命に納得していますから、他人の使命と比較することはないと思います。人々と協力しながら、自分のできることを、まっすぐにしてゆくと思います。

謙遜なので、自分が主役でないことを知っています。自分が目立つためではなく、ただイエスのために自分の人生を捧げています。

また、ヨハネは、主の道をまっすぐにしました。それは、イエスが心に入ってくる道です。イエスは、たとえでこぼこでも、心に入ってきますけれど、一番困るのは入り口をふさいでしまうことだと思います。

「こんな私は救われるはずはない」と思う時、せっかくイエスがやってきても心を閉ざしていては、入ってくることができません。

大切なのは、神の愛の前で心を開いていることだと思います。弱さや欠点を抱えた自分に絶望しないことです。「こんな自分では駄目だ」とあきらめる必要はありません。胸を張り、私は愛されていると信じ、いきてゆきたいです。神さまの子どもらしく生きてよいのです。


ヨハネは、人々の間違いや罪の告白を聞いていた

洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

マルコによる福音書 1:4‭-‬5 新共同訳


マルコによる福音書1章5節では、

「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」

とありますから、多くの人が洗礼者ヨハネに慰めと安心を感じていたと思います。人々は誰にもいえない自分の犯した罪をヨハネにだけは言えたくらい、ヨハネは信頼されていたことが読み取れます。

福音はイエスを通して示されましたが、準備のために神さまは様々な方を必要とし働かれたことを感じました。人々は罪を告白し、神様のゆるしが与えられ、またやりなおすことができ、生きる希望がわいたと思います。

旧約聖書のゼファニヤ3章15節には、

主はお前に対する裁きを退け」とあります。新しい翻訳である聖書共同訳では

裁きを取り去る」と翻訳されていました。

裁きを取り去るとは、ゆるしが与えられたことを意味すると、私は思いました。人であるかぎり過ちはさけられませんが、それで終わりではなく、失敗してもやりなおせると思います。

ゼファニヤは紀元前630年ころ、イスラエルが二つの国に分裂(北イスラエル、南ユダ)していたとき、南ユダで活動した預言者でした。同じ時代の預言者としては、エレミヤがいます。

この時代のイスラエルの民は、外国の神さま(アンモン人の偶像神マルカム、おそらくモレク神と同一と考えられています、wikipedia)を崇拝していたことが、ゼファニヤ1章5節に書かれています。

しかし、それでも神さまは人々が帰ってくることを信じ、イスラエルの民たちを愛し続けました。神様は、私たちの告白を聞いてくださる方です。そして、イエスの十字架によって「あなたは赦される」と宣言してくださると思います。ヤコブの手紙では

だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

ヤコブの手紙 5:16 新共同訳

と書いています。

過ちや失敗を、一人で背負うと、ヘトヘトになってしまうことがあります。重たすぎたら、互いに重荷を背負えば軽くなると思います。重すぎたら荷物の整理をし、余計なものは神様の前におろしたいです。そして、仲間たちと助けあえばよいのではないでしょうか。


4月21日

疲れた者、重荷を負う者は、

だれでもわたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう。(マタ11・28)

~重くのしかかる心配事があるなら、

神さまにそれを打ち明けましょう。

一人で背負えば重すぎる荷物も、

誰かに打ち明け、

誰かとともに担うなら、

なんとか背負える重さになります。

片柳弘史著『日々を生きる力』 (教文館)より


6月2日

(イエスは)十二人を呼び寄せ、

二人ずつ組みにして遣わすことに

された。(マコ6・7)

~二人で見たほうが、

たくさんのことを見られます。

二人で支えあえば、

簡単に倒れることもありません。

二人で心を合わせて祈れば、

そこには必ず愛があります。

片柳弘史著『日々を生きる力』 (教文館)より


できることは、みんな違う

ヨハネは、「あれもしなければならない、これもしなければならない」と背伸びしていません。自分に与えられた役割をしっかり認識し、自分がするべき神の使命を精一杯していました。

私たちも、一人一人神様から与えられた使命は違います。違うからといって、「あの人は、あんなこともできない」「自分はこれもできない」と卑下する必要はないのです。他人と比べて、自分はあの人より強いとか、弱いとか決める時間はもったいないことです。神様が作られた私たちに、優劣は存在しないのです。ただ一人ひとり、出来ることが違うだけ、神様から与えられた役割が違うだけです。神様から自分に与えられた役割を精いっぱいに生きている人は、誰もが最高に輝いているのです。

洗礼者ヨハネは、荒れ野で生活していたので、持っていたものは最小限だったことでしょう。しかし、神様に与えられたものを喜び、満足していました。厳しい荒れ野の中でも、ヨハネの心は神の愛で満たされていたことでしょう。

立派な教会堂や祈りの場所でなくても、私たちの当たり前の日常生活で神様は出会ってくださるのです。あちこちに神様を探す必要はありません。神様はすぐそばにいて、私たちの道を準備してくださる方。私たちは、この場所で祈り、神様に赦され新しくはじめることができるのです。世界の果てまで冒険する必要はないのです。今の場所で神様は私たちを愛してくださり、必要としてくださるのです。


4月30日

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、

汚れた霊に対する権能を

お授けになった。(マタ10・1)

~イエスは、性格も職業も考え方も、

まったく違う十二人を弟子に選びました。

弟子たちが、

あらゆる違いを超えて

互いに受け入れあうことが、

神の愛の何よりの証(あかし)に

なるからです。

片柳弘史著『日々を生きる力』 (教文館)より


イエスに洗礼を授ける

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

マルコによる福音書 1:9‭-‬11 新共同訳

~イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた(  wikipedia)時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者と言う声が、天から聞こえた。」と、マタイ3章18節に書かれています。

イエスは、天からの声をきいたときに、「私は神さまから愛されている」という喜びに、あふれたと思います。イエスは、自分が神に愛されたものである、という確信がありました。天から聞こえてきた言葉は、神の愛をイエスの心にきざみつけるものになったことでしょう。

中途半端に「私は愛されているのだろうか」と思うと、子どもの心は不安定になるのではないでしょうか。大人も同じだと思います。心から、「私は愛されている」と本気で信じられるからこそ、私たちは生きる安心を抱くことができると思います。

「あれもしなければならない、これもしなければならない」と焦っていては、心は疲れてしまいます。自分の限界を謙虚に認め、回復を待つのが一番ではないでしょうか。ただ心を開いて、神さまの愛を信頼したいです。「私は神さまに愛されている、私は大切な存在だ。生きる意味は確かにあるんだ」と確信してゆきたいです。


片柳弘史著『日々を生きる力』 (教文館)より

1月30日

安息日は、人のために定められた。

人が安息日のためにあるのではない。

(マコ2・27)

~責任感が強すぎて、休むのが苦手なわたしたち。そんなわたしたちのために、神さまは安息日を定めました。無理に休めというわけではありません。遠慮なく休んでよいということなのです。


4月29日

大勢の群衆が、教えを聞いたり

病気をいやしていただいたりするために、

集まって来た。だが、イエスは

人里離れた所に退いて

祈っておられた。(ルカ5・15)

~奉仕するのはよいことですが、

それだけでは疲れ果て、

心がすり減ってしまいます。

ときには退き、

心を癒すための時間を

とりましょう。


6月7日

イエスは、(弟子たちに)

「さあ、あなたがただけで、

人里離れた所へ行って、

しばらく休むがよい」と言われた。

(マコ6・31)

~わたしたちがどれほど働き、

どれほど疲れているか

イエスは知っておられます。

イエスの言葉に従って、

ゆっくり休みをとりましょう。


8月22日

神に与えられた短い人生の日々に、

飲み食いし、太陽の下で労苦した

結果のすべてに満足することこそ、

幸福で良いことだ。(コヘ5・17)

~思った通りの結果は出なくても、

精いっぱい頑張った自分を褒めて、

おいしいものを飲み食いする。

それはひとつの人生の幸福。

聖書はそれを、決して否定しません。


ペトロは、最初は洗礼者ヨハネの弟子だった?

その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。

彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

ヨハネによる福音書 1:35-‬42 新共同訳


ヨハネ福音書によれば、ペトロ(シモン)とアンデレは最初、洗礼者ヨハネの弟子であったと書かれています。

ペトロは、カトリック教会では初代教皇だと信じられています。ペトロは、イエスの弟子たちのなかで筆頭とされていた人物です。ペトロの職業は漁師でした。


議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。

使徒言行録 4:13 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/act.4.13.新共同訳

ペトロは、無学で普通の人であったと評価されていました。


ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。

コリントの信徒への手紙一 1:27 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/1co.1.27.新共同訳

パウロは、神さまは小さきものを選び、大切な使命をまかせられると書いています。人間的に学問があり優秀だからすぐれているのではなく、生きているだけで神さまに愛され、大切な使命を与えられます。


別サイト

ペトロとは?(キートンさんの説明会です)


参考サイト

・キートンさんの、洗礼者ヨハネの説明

https://keaton511.com/christ-john-the-baptist/

 

教文館から『バプテスマのヨハネ』という本が出ています。


フランシスコ教皇のことば

フランシスコ教皇の洗礼者ヨハネにかかわる言葉が胸に響きました。カトリック教会のHP から読むことができます。


2022年12月11日

https://www.cbcj.catholic.jp/2023/01/30/26416/


2023年1月15日

https://www.cbcj.catholic.jp/2023/03/06/26604/