キリスト教における救いとは(Salvation in Christianity)


目次

はじめに

1、片柳神父の言葉から

2、片柳神父の著作から

3、救い(σωζω)といやし

4、聖書と救い

5、イエスの言葉と救い

6、パウロの言葉と救い

7、ペテロの言葉と救い

8、ヘブライ語と救い

9、慰め


はじめに

キリスト教における救いとは一体何なのでしょうか。キリスト教の神学の分野に組織神学があります。そのなかで、救いについて考える分野は救済論(wikipedia)とよばれます。


新約聖書では、「救い」はギリシャ語でソーゾー(σῴζω)という動詞が使用されています。主な意味として3つあります。

1、救う、to save, rescue,

2、いやす、heal

3、(キリスト教の救い)神との正しい関係を回復する。イエスの十字架によって回復する。


★ギリシャ語辞典サイト

billmouoce 


英語wikipedia

Salvation in Christianity(キリスト教の救い)

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Salvation_in_Christianity


1、片柳神父の言葉から

キリスト教の救いとは、

一言でいえば神の愛との出会いです。

https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20160124/1453625847

~イエスと出会った人たちはきっと、「私はこれほど愛されているんだろう」という喜びにあふれたと思います。「私は神さまに愛されている」と思えることが、救いだと思いました。

 

そもそも救いとは何でしょうか。それは、「神の子」として生きられるということです。父なる神にすべてを委ね、穏やかな心で、喜びと力に満たされた日々を生きる。「神の子」としての誇りを持ち、神から与えられた使命を全力で生きる。それこそが救いなのです。では、どうしたら救いは実現するのでしょう。どんなとき、わたしたちは救いを実感することができるのでしょうか。

 救いの始まりは、イエス・キリストとの出会いです。

https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20150531/1433075385

~聖書の知識をつんだからとか、献金をたくさんしたからとかではなく、イエスは今日のわたしたちに出会ってくださり、喜んでくださると思いました。つい、もう少し成長してからあなたに救っていただきますとか、準備が必要なので待ってください、といいがちです。

しかし、イエスにとって今日という日が、神様に愛される日であったと思います。今日、このままの姿でイエスに愛されていることを感謝します。

 

自己放棄によって祈りの中でイエス・キリストと一致すること、それこそがキリスト教の祈りであり、救いだと言えます。これはとても逆説的な救いです。人間的な思いで言えば、救いとは自分の思いのままに物事が動くこと、自分で自分の将来を決められることでしょう。しかし、キリスト教の救いとはそれと正反対に、自分の思いを手放し、すべてを神の手に委ねたときに与えられる救いなのです。

 救いの頂点に十字架があります。イエスが神への愛ゆえに十字架上で自分の命さえ差し出し、完全に空になったとき、全人類を救って余りあるほど完全な神の愛がイエスの心を満たしました。それこそがわたしたちの目指す完全な救いなのです。

https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20100729/1280397668

~なんでも自分の思い通りになってほしいとなると、焦る気持ちが強くなると思います。全ては自分の計画どおりにいかせようとすると、人は心身ともにエネルギーを使うと思います。自分の思いを手放すと、荷物は軽くなり、疲れた表情がにっこりゆるんできます。ひとりでなにもかも抱えこむ必要はないと思いました。


2、片柳神父の著作から

聖霊による洗礼の恵みは、洗礼を受けたときだけでなく、わたしたちが自らの罪深さを認めて神の前に跪くたびに与えられます。そのたびに、神さまはわたしたちに優しく「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と語りかけてくださるのです。聖堂で跪くたびに、家で祈るたびに、心の奥深くからこう語りかけてくださるのです。その言葉を聞くとき、わたしたちの心は喜びと力で満たされます。だからこそ、わたしたちは、あらゆる困難や苦しみを乗り越え、進んでゆくことができるのです。それこそが、キリスト教の救いの核心だと言ってよいでしょう。

片柳弘史著『あなたはわたしの愛する子』 (教文館)より

~静かな時間に私は祈ることがあります。布団に入ってから1日で楽しかったことや、悲しかったことを神さまに祈ります。すると、安心して少しずつ落ち着いてきます。

ひとりで無理なことも、神さまの手にゆだねるとき、神さまがなんとかしてくださるという安心にかわります。自分のできることは精いっぱいして、あとは神さまの手に委ねたいと思います。結果は自分の思い通りにならないかもしれませんが、それもまた違った道で楽しんでゆきたいと思います。

 

「愛は目に見えません。

だからこそ信じるのです。」

マザー・テレサ

愛されるために、一番大切なことは何でしょう。それは、相手の愛を信じることだとわたしは思います。

 目に見えない愛は、信じるしかありません。相手の愛を信じ、「自分は愛されている」と心の底から思えたとき、わたしたちは初めて愛される喜びを味わうことができるのです。「愛される」とは、つまり「愛を信じる」ということなのです。確かめようとするのは、相手の愛を信じられないからに他なりません。どこかで信じない限り、わたしたちはいつまでたっても愛される喜びを味わうことができないのです。

 人間の救いは、「自分は愛されている」と信じられるかどうかにかかっている、ということです。「自分は愛されている。自分の人生には意味がある」、そう確信できたとき、わたしたちは初めて自分の人生を心の底から喜び、幸せになれるのです。

片柳弘史著『ほんとうの自分になるために』 (PHP)より

~私は、自分の考え方やこだわりが強いです。昔から、成功体験が少ないので、「自分はつまらない存在なんだ」と思ってしまいます。しかし幸いなことに、神さまはわたしの思いとは違うようで、「あなたは大切な存在」とよびかけてくださいます。それを信じることは、私にとっては安心であり、救いです。

 

見よ、兄弟が共に座っている。

なんという恵み、なんという喜び。

(詩133・1)

~それぞれ違った人生を歩み、

それぞれの良さと欠点を持つ

兄弟姉妹が、

互いを認めあい、

ともに受け入れあっている。

それこそが救いであり、天国なのです。

片柳弘史著『日々を生きる力』 (教文館)より

~人は、自分の意見をもってよいと思います。しかし、同時に、自分の考え方が絶対的に正しいというのは、相手を軽視する姿勢につながってしまうと思います。みんな違って、みんないい。神さまは、いろいろな言葉や国籍、肌の色を作られました。みんな神さまにとって愛された存在。神さまに愛された命を、大切に受け止め合うことができますように。

 

・心が変わると、世界の見え方も違ってきます。

・「聖書を味わう」ということは、つまり、神の愛を味わうということなのです。

・神が真心を込めて造ったこの世界にあるすべてのものは、木々や草花、鳥や動物たち、道端の石や石の下のダンゴムシにいたるまで、すべてのものには神の愛が宿っている。すべてのものを通して、神はわたしたちに愛を語りかけている。

・一見するとあまり美しさを感じない花でも、上から見たり下から見たり、横から、斜めから見たり、さらに顔を近づけてみたり、逆に離れたところから眺めたりすると、思いがけない美しさに気づくことがあるものです。

・「救い」というのは、

「その人がその人の本来の姿になること」だとわたしは思っています。

片柳弘史著『何を信じて生きるか』 (PHP刊)より

~愛されるために頑張ると、ますます複雑になって、自分の気持ちがわからなくなります。そういうときは、ゆっくり複雑に絡んだひもを治してゆけばいいとおもいます。

よく、ありのままの自分とか、本当の自分という言葉を私は使いますが、自分の本音を知ることは、なかなか難しいですね。しかし、自分で答えやアイデアを新しく作りだす必要はなく、イエスは私にどんなことを言ってくれているか、聖書を読んでいると、自分の姿が私にはみえてきます。それは、難しいことではなく、神さまは「あなたは大切な存在」と言ってくださっていて、それに対して「ありがとう」といえばよいと思います。私は愛されていることを土台にして、自分が好きなことや、生活でできそうなことや、他人に喜ばれることを、焦らず探してゆけばいいと思います。失敗してもいいから、色々やってみたら、自分が自分のことを知り、自分らしく生活できると思います。


ケネディ大統領は、

ハンディを負った子どもたちについて

「アメリカが、

この子供たちを救うのではない。

この子供たちによって救われるのだ」

と語ったそうです。

懸命に生きる子供たちの姿が、

わたしたちに

命の尊さを教えてくれるからです。

片柳弘史著『こころの深呼吸』 (教文館)より


おぼれている人には、

他のおぼれている人を

助けることができません。

助けたいなら、

まず自が救助されてからです。

悩みの相談もそれと同じ。

まず自分自身が救われないなら、

他の人を救うことはできません。

片柳弘史著『こころの深呼吸』 (教文館)より

~※私の感想です。

自分を粗末にしていたら、相手を大切にできないと思いました。自分が無理をしていたら疲労がたまり、いつかは限界がきてしまうと思います。相手を長く助けるためにも、まずは自分がしっかり寝て、よく遊び、ゆとりをもつことは、大切なことだと思いました。


3、救い(σωζω)といやし

ギリシャ語の救い(ソーゾー、σωζω)には、「救い」の他に「いやす」という意味があります。

聖書からみていきます。


★1、救うという意味があります。

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者(原型はソーゾー)には神の力です。 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おう(※原型はソーゾー)と、お考えになったのです。

コリントの信徒への手紙一 1:18‭, ‬21 新共同訳

~神様は学者でなくても、だれもを救ってくださる方。神さまの愛からもれる人はいないのです。


弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うため(※原型はソーゾー)です。

コリントの信徒への手紙一 9:22 新共同訳

同じ視線にたって話すと見えてくるものがあります。相手を見下すのでもなく、卑屈になるのでもなく、互いに同じ場所にたって助けあってゆけますように。


自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救う(※原型はソーゾー)ことになります。

テモテへの手紙一 4:16 新共同訳

~自分の考え方にこだわって、「・・・しなければ救われない」といったら、みんなは混乱してしまうでしょう。イエスは子どもたちを愛され、だれもを大切にされました。

神さまに愛されるためには、なんの条件もありません。ぬくもりにあふれる神さまの教えを、そのまま伝えることができますように。


★2、ソーゾーには「いやす」の意味があります

「わたしの幼い娘が死にそうです。

どうか、おいでになって

手を置いてやってください。

そうすれば、娘は助かり、

生きるでしょう。」

マルコによる福音書 5:23 新共同訳

※「助かり」の箇所で、ソーゾーが使用されています。


村でも町でも里でも、

イエスが入って行かれると、

病人を広場に置き、

せめてその服のすそにでも

触れさせてほしいと願った。

触れた者は皆いやされた。

マルコによる福音書 6:56 新共同訳

~触れたものは「いやされた」の箇所で、原形がσῴζωの動詞が使用されています。


さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。

マルコによる福音書 5:25‭-‬29 新共同訳

~服にふれれば「いやして」の場所は

ソーゾーが使用されています。

出血がとまり病気が「いやされた」の

箇所はイアオマイ(ἰάομαι、外部サイト)が使用されています。


イアオマイは、

イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。 そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、

ルカによる福音書 9:1‭-‬2 新共同訳

イエスが弟子たちを派遣するさいの、一つの使命にあげられています。


ペトロもイアオマイの任務を受け継いでいます。

ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。

使徒言行録 9:34 新共同訳


パウロも、

ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。

使徒言行録 28:8 新共同訳

と書かれており、イアオマイを受け継いでいます。わたしたちは、ペトロやパウロのような奇跡はおこせませんが、誰かに寄り添うことはできると思います。一概にいえませんが、互いに助け合うことも神さまから与えられた大切な使命の一つだと思います。


4、聖書と救い

聖書の救いには、癒すの意味もあり多様な意味をもっていると思いました。

救いとは、私はイエスとの出会いが救いだと思いました。イエスは、一人ひとりを愛され、病や職業や宗教の掟を守られずに追い出された人も、温かく包み込み大切にされました。イエスに会った人は、「私はつまらない存在なんかじゃない。神に愛された存在だ」と、喜びにあふれたでしょう。片柳神父は、

 

「救い」というのは、

「その人がその人の本来の姿になること」

だとわたしは思っています。

片柳弘史著『何を信じて生きるか』 (PHP刊)

 ~と、書いています。タンポポはタンポポの花を咲かせ、コスモスはコスモスの花を咲かせます。一人ひとりも神さまに大切につくられた、多様な色があり性格があります。しかし、どんなときも、イエスは私たちを愛してくださることを土台にするなら、自分のありのままの輝きをもって、生活していけるのではないでしょうか。

聖書の救いを説明することは、簡単そうで難しく私は考えてしまいます。しかし、イエスに出会った人たちがイエスの教えや言葉を思いだし、語り伝え、福音書が書かれました。

そして、パウロやペトロといったイエスの弟子たちが、イエスの福音を世界へ伝えていきました。イエスは自分の命を差し出してまで、私たちを救うために十字架の道へと歩まれました。救いは、いまも聖書やイエスの「あなたは大切な存在」とよびかける声に耳をすますとき、誰もが受け取れる神さまからのギフトだと思います。

 

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。

エフェソの信徒への手紙 2:8


以下から聖書のギリシャ語の「救い」がどのような箇所で使われているか調べていきます。


5、イエスの言葉と救い

そこでイエスは言われた。

「さあ、行きなさい。

あなたの信仰があなたを救いました。」

すると、すぐに彼は見えるようになり、

道を進むイエスについて行った。

マルコの福音書 10章 52節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~盲目であったバルティマイに、イエスが語った言葉です。救うは、原型がソーゾー(σῴζω)というギリシャ語の動詞が使われています。英語のギリシャ語辞典はこちらからみれます

 

すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。

マタイによる福音書 9:20‭-‬22 新共同訳

~元気になりなさいはギリシャ語では、サルセオー(θαρσέω)。

マタイ9・2、22、14・27、

マルコ6・50、10・49

ヨハネ16・33

使徒23・11で、サルセオーが使用されています。

「あなたを救った」は、ソーゾー(σῴζω)が使われている。最近の翻訳の聖書協会共同訳では、娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」と翻訳が「救った」から「治した」に変更されている。ソーゾーを、なんでも「救い」と翻訳する必要はないということだと思います。彼女は「癒された」の箇所もギリシャ語ではἐσώθη(原型はσῴζω)が使用されています。

神が御子を世に遣わされたのは、

世を裁くためではなく、

御子によって世が救われるためである。

ヨハネによる福音書 3:17 新共同訳

~ヨハネも救うは原形がσῴζωの動詞を使用しています。裁くは、原形がクリノー(κρίνω)という動詞です。

 

イエスは言われた。

「今日、救いがこの家を訪れた。

この人もアブラハムの子なのだから。 

人の子は、失われたものを捜して

救うために来たのである。」

ルカによる福音書 19:9‭-‬10 新共同訳

~徴税人ザアカイにイエスが言った言葉です。「救いが訪れた」は名詞のσωτηρία(英語サイト)をルカは使用している。訪れたはγίνομαιのアオリスト態が使用されています。

「捜して」の原形はゼテオー(ζητέω)で「救う」の原形は「σῴζω救いはイエスとの出会いによって、今日起きるものだと思います。ルカ福音書では特に今日(σήμερον)という言葉が大切にされていると思います(ルカ2・11、4・21、23・43)。イエスは、一緒に十字架につけられた犯罪人に、


イエスは、「はっきり言っておくが、

あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

と言われた。ルカによる福音書 23:43 新共同訳


と、書かれています。犯罪人がしたのは悔い改めで、十字架にかけられているので良い行いや、聖書を学ぶことや、神様に対する礼拝などなにもできなく無力でした。しかしイエスは救いを約束されました。イエスは今日の私たちを愛してくださると思います。


6、パウロの言葉と救い

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

ローマの信徒への手紙 1:16 新共同訳

信じる者は、原形がπιστεύωの動詞が使用されています。「救い」は名詞のソーテリア「σωτηρία」が使用されています。


であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

ローマの信徒への手紙 5:10 新共同訳

「救われる」は原形がσῴζωの動詞が使用されています。未来形になっています。


口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。

ローマの信徒への手紙 10:9 新共同訳

~「救われるは、σῴζωの未来形が使用されています。


「主の名を呼び求める者は

だれでも救われる」のです。

ローマの信徒への手紙 10:13 新共同訳

救われるは、σῴζωの未来形が使用されています。


わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。 なぜなら、 「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。 救いの日に、わたしはあなたを助けた」 と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

コリントの信徒への手紙二 6:1‭-‬2 新共同訳

「日は」ヘーメラ(ἡμέρα)という名詞で、救い(σωτηρία)の名詞が使われています。「助けた」は、原形がボエテオー(βοηθέω、外部サイト)という動詞が使われています。

事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

ヘブライ人への手紙 2:18 新共同訳

の箇所でも、「助ける」(ボエテオー)の動詞が使われています。イエスは、わたしたちを助けてくださる方です。


あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。

エフェソの信徒への手紙 1:13 新共同訳

~聞くは、原形がアクオー(ἀκούω)の動詞です。真理はアレーセイア(ἀλήθεια)。「救い」は名詞のソーテリア(σωτηρία)が使われています。


罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――

エフェソの信徒への手紙 2:5 新共同訳

救われたは、σῴζωの完了形の分詞が使われています。未来形でソーゾーが使われると「将来救われるだろう」になりますが、完了形は「すでに救われている」と完了になると思います。恵みによって、いま神様に救いに既にいれられているという著者であるパウロの強い感謝が読み取れます。


事実、あなたがたは、恵みにより、

信仰によって救われました。

このことは、自らの力によるのではなく、

神の賜物です。

エフェソの信徒への手紙 2:8 新共同訳

ソーゾーの完了形が使用されています。救いは自分の力ではなく、神さまの贈り物(ドーロン、δῶρον)です。

クリスマスで東方の博士たちが、黄金、乳香、没薬を乳飲み子であるイエスにささげました。そのときにドーロン(贈り物)が使用されています。

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

マタイによる福音書 2:11 新共同訳


神がわたしたちを救い、

聖なる招きによって

呼び出してくださったのは、

わたしたちの行いによるのではなく、

御自身の計画と恵みによるのです。

テモテへの手紙二 1:9 新共同訳

「救い」はσῴζω、時制ではアオリストが使われています。日本にはない時制なのでアオリストは難しいです。

神さまが私たちを救ったのは、わたしたちの行い(ἔργονの複数形が使用されている)ので、あらゆる行い(複数形)によるのではないことがわかります。救いの根拠は、神さまが決められた計画(πρόθεσις)と、恵み(カリス、χάρις)によると、聖書には書いています。

イエスの故郷のナザレの人たちは、

皆はイエスをほめ、その口から出る

恵み深い言葉に驚いて言った。

「この人はヨセフの子ではないか。」

ルカ4・22

と、イエスに対して言っています。このときに、恵み(カリス、χάρις)が使われています。イエスの言葉には、恵みにあふれる愛のぬくもりがあったのでしょう。


神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました(※原型はソーゾー)。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

テトスへの手紙 3:5 新共同訳

~義(δικαιοσύνη)の業(ἔργον)とは、律法を正確に守ることです。当時イスラエルには613の宗教の戒律(wikipedia)がありました。しかし、神様はわたしたちが弱くても、イエスの十字架のゆるしによって、ゆるしてくださるのです。


二人は言った。

「主イエスを信じなさい。

そうすれば、あなたも家族も救われます。」

使徒言行録 16:31 新共同訳

~イエスを信じる(πιστεύω)ことと、救われる(σῴζωの未来形)が結びついています。


こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。

ピリピ人への手紙 2章 12節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~パウロがどのような意思で

「救いを達成しなさい」といったのか、解釈が難しい箇所です。救いは名詞のソーテリア(σωτηρία)が使われ、達成するはκατεργάζομαι原形の動詞が使われています。パウロは、フィリピ2章13節では

あなたがたの内に働いて、

御心のままに望ませ、

行わせておられるのは神であるからです。

フィリピの信徒への手紙 2:13 新共同訳

と書いています。すべての中に働いてくださるのは神さまだとパウロは書いています。

救いは自分の力で努力したらもらえるのではなく、あなたを大切にして精いっぱいやってみなさい、というエールだと思いました。

文語訳聖書が、この箇所の翻訳が伝わりやすいと下記のYouTubeで言われています。


7、ペトロの言葉から

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

ペテロの手紙第一 1章 8〜9節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~救いは名詞のσωτηρία。得ているは、コミゾー(κομίζω)の現在形が使われています。コミゾーは、「受ける」という意味もあります。

神の御心を行って約束されたものを

受ける(※原形がκομίζω)ためには、

忍耐が必要なのです。

ヘブライ人への手紙 10:36 新共同訳


8、ヘブライ語と救い

救い(イェシュア、יְשׁוּעָה)旧約聖書では、77回この名詞が使用されています。救いは他に(ヤシャアישַׁע)という名詞も使われています。

ちなみに、「イエス・キリスト」、ヘブライ語では「イェシュア・ハマシーアッハ」(יְשׁוּעַ הַמַּשִׁיחַַ)で、イェシュアが使われています。(参考サイト)


主よ、私はあなたの救いを待ち望む。

創世記 49章 18節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~「救い」は、原形がイェシュア(יְשׁוּעָה)の名詞が使われています。

主は私の力、また、ほめ歌。
主は私の救いとなられた。
この方こそ、私の神。
私はこの方をほめたたえる。
私の父の神。この方を私はあがめる。
出エジプト記 15章 2節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
~救いはヘブライ語で、イェシュア(
יְשׁוּעָה)が原形の名詞が使われています。

見よ、わたしを救われる神。 

わたしは信頼して、恐れない。

 主こそわたしの力、わたしの歌 

わたしの救いとなってくださった。

イザヤ書 12:2 新共同訳

救いはヘブライ語で、イェシュア(

יְשׁוּעָה)が原形の名詞が使われています。
神はエル(אֵל)が使用されています。
「わたしの救い」も原形は
イェシュア(יְשׁוּעָה)です。


主はわたしの光、

わたしの救い 

わたしは誰を恐れよう。

主はわたしの命の砦 

わたしは誰の前におののくことがあろう。

詩編 27:1 新共同訳

~救いは原形のヤシャア(יֶשַׁע)。

光はオール(אוֹר)という名詞がつかわれています。


あなたはわたしの隠れが。 

苦難から守ってくださる方。 

救いの喜びをもって 

わたしを囲んでくださる方。

詩編 32:7 新共同訳

~「取り囲む」は原形がサバブ(סָבַב、biblehub)という動詞が使われています。救いは原形がパレット(פַלֵּט)の動詞が使われています。苦難はצַר。ヘブライ語では「狭い」という意味もあるみたいです。


主はわたしの砦、

わたしの歌。 

主はわたしの救いとなってくださった。

詩編 118:14 新共同訳

~「救い」はイェシュア(יְשׁוּעָה)。歌はジムラス(זִמְרָת)が使用されています。

ジムラスは以下の聖書箇所でも

使用されています。

はわたしの力、わたしの歌 

主はわたしの救いとなってくださった。 

出エジプト記 15:2 新共同訳


見よ、わたしを救われる神。 

わたしは信頼して、恐れない。 

主こそわたしの力、わたしの歌 

わたしの救いとなってくださった。

イザヤ書 12:2 新共同訳


9、慰め

救いからはずれますが、聖書の慰めのヘブライ語とギリシャ語を考えてみたいと思います。旧約聖書はヘブライ語でかかれ、新約聖書はギリシャ語で書かれました。


・慰めの名詞(ヘブライ語)

「慰め」はヘブライ語では、タンクム(תַּנְחוּם、Biblehub)という名詞が使われています。旧約聖書では以下の箇所などでも使用されています。


どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。 

聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。

ヨブ記 21:2 新共同訳


わたしの胸が思い煩いに占められたとき 

あなたの慰めが 

わたしの魂の楽しみとなりました。

詩編 94:19 新共同訳


慰めの動詞

慰めの動詞はナーハム(נָחַם、Biblehub)です。旧約聖書では108回使用されています。

イザヤ40書1節を解説しているこのサイトが慰めのヘブライ語が考察されていて、私はわかりやすかったです。ナーハムの語源には「深い呼吸」があり、また慰めのほかに「考えを思い直す」、という意味を持ちます。


詩編23章4節

新共同訳では私の慰め(イエナハムニー、יְנַחֲמֻנִי)を「それが私を力づける」と翻訳され、フランシスコ会訳では「わたしを安心させる」と翻訳されています。


は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ 

憩いの水のほとりに伴い 

魂を生き返らせてくださる。 

主は御名にふさわしく 

わたしを正しい道に導かれる。 

死の陰の谷を行くときも 

わたしは災いを恐れない。 

あなたがわたしと共にいてくださる。 

あなたの鞭、あなたの杖 

それがわたしを力づける。

詩編 23:1‭-‬4 新共同訳


・新約聖書と慰め

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、

慰めを豊かにくださる神が

ほめたたえられますように。

コリントの信徒への手紙二 1:3 新共同訳

~神さまは慰め(ギリシャ語の名詞は原形がパラクレイシス、παράκλησις)であると、パウロは書いています。慈愛は、ギリシャ語で原形がοἰκτιρμόςという名詞です。

ローマの手紙でも、

忍耐と慰めの源である神が、

あなたがたに、

キリスト・イエスに倣って

互いに同じ思いを抱かせ、

ローマの信徒への手紙 15:5 新共同訳

とパウロは書き、

神さまが慰め(παράκλησις)の源と表現します。


慰めを受けて

デイリーブレッドでは、

慰めについて次のように書かれています。

聖書研究者のW.E.ヴァインは、「慰め」と訳されるギリシア語の単語「パラクレシス」の文字通りの意味は、「自分のかたわらに呼び寄せる」だと言います。今日の聖書のみことばの中には、「慰め」という言葉が繰り返し登場します。それは、主が私たちを抱き寄せて、しっかり離れないようにくっついていなさいと言われることを、私たちが忘れないためです。

主イエスが、愛の御腕の中に私たちを包み込んでくださるとき、「自分自身が神から受ける慰めによって」(4節)、私たちも人を慰めることができます。


神は、どのような苦しみのときにも、

私たちを慰めてくださいます。

それで私たちも、

自分たちが神から受ける慰めによって、

あらゆる苦しみの中にある人たちを

慰めることができます。

コリント人への手紙第二 1章 4節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

※慰めるの動詞は、パラカレオーπαρακαλέωです。