目次
1、国籍は天にあり
2、死後も永遠に共にいる神
3、死は終わりではなく
4、場所を用意してくださる
5、片柳弘史神父のブログより
6、片柳神父のTwitterと、本より
7、キリスト教葬儀と弔辞袋
8、キリスト教葬儀と死を考える本
9、葬儀の式文
10、トラクト(いのちのことば社)
11、典礼歌、讃美歌
12、死者の日とは
13、外国と葬儀について
14、死や葬儀について考えるサイトや動画
15、グリーフケア、病院や書籍について
16、大嶋重徳牧師の聖書メッセージ
◼️日本グリーフケア協会
◼️マザー・テレサの言葉より
Death is nothing else but going home to God, the bond of love will be unbroken for all eternity.
死とは、神の家に帰ることに他なりません。愛の絆は、永遠に切れないでしょう。
マザー・テレサの言葉
最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが、それは、わたしには煩わしいことではなく、あなたがたには安全なことになる。 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。
ピリピ人への手紙 3:1, 20-21 口語訳
~聖書には、「私たちの国籍は天にある」、といいます。それは死は終わりではなく、蛹から蝶になるように、命が生まれ変わる時だからです。死は終わりではなく新しい命のはじまりです。安心して、神さまにお委ねすることができますように。
見よ、わたしは世の終りまで、
いつもあなたがたと共にいるのである。
マタイによる福音書 28:20 口語訳
~「何があっても必ず神様が守ってくださる。神様は私たちを見捨てずどんな時も共にいる」。死でさえも、神様の愛から引き離すものはないのです。死は終わりではありません。神さまがこれからも共にいて、新しい命のスタートです。
わたしは、
とこしえの愛をもってあなたを愛し
変わることなく慈しみを注ぐ。
エレミヤ書 31:3 新共同訳
~私たちは、誰もが神さまの子ども。死は、天のお父さんへの里帰り。神様は、天の国でも愛してくださるのです。神様の愛は一時的なものではなく永遠なもの。神様の愛の中で
生き続けるのです。
しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。
ヨハネによる福音書 6:50-51 口語訳
~生も死も、地上のすべては神様の手の中にあります。死は終わりではなく、命のはじまり。死ぬとは、命を作られた神さまのところに帰ることです。神さまのところに帰るなら、心配することはひとつもありません。
眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
テサロニケ人への第一の手紙 4:13-14 口語訳
~死は決して終わりではありません。イエス様が死から復活したように、眠っている人々を起こしてくださるのです。私たちにできるのは、神さまの愛を信じること。「神様の愛なんて嘘だ」と疑うのではなく、「神さまは私を愛してくださる」と確信できますように。
はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
ヨハネによる福音書 16:20, 22-24, 33 新共同訳
~どれほどひどい悲しみも、神さまの手の中で大きな喜びに変わります。大切な人が残してくれた愛は私たちの心に残ります。それは、その人が天国で生きているしるし。今も天国から、私たちを見守り愛してくださっているのです。
主はわたしの牧者であって、 わたしには乏しいことがない。 主はわたしを緑の牧場に伏させ、 いこいのみぎわに伴われる。 主はわたしの魂をいきかえらせ、 み名のためにわたしを正しい道に導かれる。 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、 わざわいを恐れません。 あなたがわたしと共におられるからです。 あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、 わたしのこうべに油をそそがれる。 わたしの杯はあふれます。 わたしの生きているかぎりは 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。 わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
詩篇 23:1-6 口語訳
~神さまは私たちの羊飼い。
生きてるときも、神さまに帰ってからもかわることはありません。人は「死んだらすべては終わりだ」と思ってしまいます。しかし、イエス様は十字架にかかり三日目に復活なさいました。イエスは、わたしたちをも愛によって復活の命にあずからせてくださるのです。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 死んだ者は、罪から解放されています。 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
ローマの信徒への手紙 6:4-11 新共同訳
~使徒パウロは、洗礼によってキリストにあるものは、新しい命にあるといいます。それは、私たちがこの地上の寿命を終えるときも、そこで終わりではないということです。キリストのうちにあるものは、誰もが、生きるときも死ぬときも、命は終わることはないと、書は約束しています。
最初に読んだ詩編に、「主はわたしの魂をいきかえらせ」とあります。私たちは神さまによって命がつくられ、神さまに愛されるものとして生まれてきました。神様の愛は、この地上の使命をはたし、神さまに帰ったあとも変わることはありません。
生きるときも、帰ったときも、イエスは「あなたは、私に愛されている大切な神様のこども。あなたは生きる」とよびかけてくださるのです。
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
ローマの信徒への手紙 8:38-39 新共同訳
~パウロは、死も、命も、どんなものも、神様の愛から引き離すことはできない、といいます。私たちの寿命は、長くて100年です。しかし、神様の関係は永遠です。
神さまは、エリートで良い人間だけを愛してくださる、という誤解があるかもしれません。しかし聖書で語られ、イエスキリストが示してくださったのは、私たちが何ができるのではなく、あなたをあなたであることだけで愛してくださるのです。生きていることを支配され、死も支配される方は、私たちの罪のために十字架にかかり、死後受けなければならなかった罪と裁きを、キリストが代わりにおってくださったのです。
この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
エフェソの信徒への手紙 1:14, 18 新共同訳
~神様は、聖霊として働いてくださり、神の国を受け継ぐ保証を与えてくださいました。神さまは「あなたは私のもの。あなたは死んでも生きる」と約束してくださるのです。パウロは、「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」といいます。私たちは、旅行をする前に、ワクワクします。死後まっているのは、神さまがつくられた美しい神の国なのです。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
ヨハネによる福音書 14:1-3 新共同訳
~人間が一番ストレスがたまるのは、未来がわからないことです。しかしイエスは「心を騒がすな。私を信じなさい」と言われます。イエスを信頼し、なにもかも委ねるとき、人は神さまに慰められるのです。イエスは、「あなたがたのために場所を用意してくださる」といいます。神さまは、ちゃんと神さまに帰ってからも住む場所を用意してくださるのです。神さまにまかせていれば、心配することはありません。
イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。 マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。
ヨハネによる福音書 11:25-27 口語訳
~片柳神父はブログで次のように言っています。
命とは、わたしたちを生かす力であり、わたしたちが創造されたとき、神さまによって灯された愛の炎です。命の炎、愛の炎が燃え上がるとき、そこから喜びや力、優しさの温もりが生まれます。心に愛の炎を灯し、喜びと力に満たされ、周りの人々を優しさの温もりで包んでゆく。それが、「生きる」ということなのです。
イエスの言葉を信じるとき、わたしたちの心に命の炎が燃え上がります。イエスが、またイエスを通して父なる神がどれほどわたしたち一人ひとりを愛してくださっているかに気づくとき、「わたしは神に愛されている。神はどんなときでもわたしと共にいてくださる。神がわたしを見捨てることは決してない」と確信するとき、わたしたちの心に愛の炎が燃え上がるのです。その確信は喜びと力を生み、愛の炎の温もりは、わたしたちの周りにいるすべての人を包んでゆきます。そのとき、わたしたちは「生きる」者となるのです。
イエスの言葉を信じ、神の愛を信じる限り、わたしたちの心に灯された愛の炎が消えることはありません。たとえ死がやって来たとしても、神の愛とつながっている限り、愛の炎が消えることは決してないのです。肉体の死の向こう側には、復活の世界が待っています。復活の世界では、わたしたち一人ひとりのうちに灯された命の火は、いまより一層まばゆい光を放つことでしょう。「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがない」とは、そういう意味だと思います。
そもそも「生きる」とはどういうことなのでしょう。創世記の中には、土から創られた人間は、「命の息」を吹き込まれて生きるものになったと書かれています。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2)というのです。エゼキエル書でも、「わたしがお前たちの中に息を吹き込むと、お前たちは生きる」と書かれています。わたしたちは、神の霊を吸い込み、神の霊に満たされたときにだけ生きるものとなるのです。神の霊を吸い込まないならば、ただの土くれに戻り、死んでしまうのです。
神は愛そのものなので、神の霊を愛と言い換えてもいいでしょう。神に心を向け、神の愛を深く吸い込んで心を満たされるとき、わたしたちは生きるのです。喜びに満たされて、力強く歩み続けることができるのです。神の愛に心を閉ざすなら、たとえ体は生きていても命がありません。悲しみに打ちひしがれ、絶望の闇に沈むことになるのです。
絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。
エペソ人への手紙 6:18 口語訳
~片柳神父のブログより。
「目を覚ましている」とは、やがて迎える最期の時、神様のみもとに召されるときを、いつも意識しているということです。・・・
いつも目を覚まし、神様から与えられた使命を精いっぱい生きているなら、そもそも死を恐れている時間がないでしょう。死を恐れるより、むしろ「死がいつやってきてもいいように、いまを精いっぱい生きよう」と考えるはずです。
★片柳神父のブログの、祈りの小箱も慰められるメッセージです。また、バイブル・エッセイ(174)永遠の命を生きるも死について考えられています。
片柳神父の Twitterサイトの検索より、死に対するメッセージを読むことができます。
天国に行った人は、私たちがその人を愛するより、はるかに私たちを愛してくれています。「申し訳ない」と思っていることさえ「そんなこと、まったく気にしていない」と寛大にゆるして下さるのです。その愛に、感謝することができますように。https://t.co/iHNcSMbdXn
「亡くなった家族に自分がしてしまったことを悔やみ、自分を責め続ける必要はありません。その方は、天国ですべての真実を知り、そうせざるを得なかったあなたの苦しさも知っておられます。幸せな姿を見せて喜んでもらうのが、何よりの償いです。」
『こころの深呼吸~気づきと癒しの言葉366』(教文館) https://t.co/ZWFfJvgjtt
「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。」(ヨハ16)
~死ぬとは、神さまのもとに帰るということ。その人がどこへ行ったのかを考えることによって、死の悲しみを乗り越えることができますように。
https://twitter.com/hiroshisj/status/1262532658174676992?t=UtnNyBa6pcCjmxHHshUy9Q&s=19
死とは、芋虫が蛹を通って蝶に生まれ変わるように、一つの命が別の形に生まれ変わるとき通過する節目。暗闇に呑み込まれ、すべてが消えてしまうような死は存在しません。まばゆい光に包まれ、新しい命に生まれ変わる。その瞬間が死なのです。https://t.co/k49Vlsz9z5
芋虫が、死んだ仲間を思って「あいつはもう地面をはえない。葉っぱを食べられない」と悲しんでいるとき、その仲間は蝶として空を舞い、花の蜜を吸っています。人間の死も、それと同じかもしれません。
片柳弘史著『こころの深呼吸』(教文館刊)より
https://twitter.com/hiroshisj/status/1455772889072816128?t=dJMu5XX9rTXzsyJaz7sQvg&s=19
冷たい闇に吸いこまれ、永遠に消えてしまう死を想像するなら、そのような死は存在しません。そのような死は、私たちの恐怖心が作り出したものだからです。温かな光に包まれ、新しい命に生まれ変わる。死とは、むしろそのようなものでしょう。https://t.co/BN40JcmbUL
自分の死を目前にしたとき、初めて命の尊さ、大切さを実感する私たち。そのとき以上に、命を与えられたことに感謝できる瞬間はないでしょう。死への恐怖ではなく、生きられたことへの感謝の中で、喜んでこの世を去ることができますように。 https://t.co/FYT1fbsSAD
長い距離を走ってゴールした人には、「おめでとう」と声をかけるもの。「かわいそう」と悲しむ人はいないでしょう。死は、人生という長い道のりのゴール。走り抜いて天国に到達したその人には、「おめでとう」と声をかけるのがよいでしょう。 https://t.co/sZ0urEZHUM
愚かな者たちの目には
彼らは死んだ者と映り、
この世からの旅立ちは災い、
自分たちからの離別は破滅に見えた。
ところが彼らは平和のうちにいる。
(知3・2ー3)
~芋虫が蝶の生活を想像できないように、
わたしたちは死後の命を想像できません。
死は終わりではなく、
いまより素晴らしい命の始まりなのです。
片柳弘史著『日々を生きる力』(教文館刊)より
キリスト教では、死は終わりではなく、命を造られた神さまに帰る、という考え方があります。そのため、遺族には「お悔やみ申し上げます」とはいわずに、「神様の慰めがありますように」など言い特に決まりはありません。
また、葬儀の受付で準備のある方は、「お花料」を渡します。弔事袋の専用の袋がないかたは、白無地の封筒を使用します。表の上面に「お花料」と書き、その下に自分の名前を書いて受付で渡します。袋は、Amazonやいのちのことば社などで売っているみたいです。
クリスチャン以外でも、教会で葬儀ができる教会は多いです。お近くの教会に相談されたらよいと思います。カトリック藤沢教会のサイトが参考になります。
デーケン,アルフォンス著(カトリック司祭、上智大学で「死の哲学」などの講義を担当。日本における「死生学」のパイオニア)
『より良き死のために――「死への準備教育」創始者が伝えたいこと 』
一部引用します。
私はカトリックの司祭ですが、カトリックでは死後も生命が永遠に続くと信じています。死は終わりではなく、そこから永遠の生命が始まる。先に亡くなった愛する人たちと天国で再会し、神の無限の愛に包まれて生き続ける。そういう希望が、カトリックの信仰を支えています。 死ですべてが終わると考えると、生きることが空しくなったりしますが、死の先に永遠の生命が続いていると信じられたら、いま生きている生に大きな意義を見出すことができます。
デーケン神父の他の著作としては
『新版 死とどう向き合うか 』
葬儀のしおり(女子パウロ会のサイト)
葬儀のしおり(参列者用)(女子パウロ会のサイト)
日本人にとってキリスト教とは何か: 遠藤周作『深い河』から考える (NHK出版新書 662)
◼️プロテスタントの視点からは
加藤常昭著『キリストの教会はこのように葬り、このように語る 』
慰めと希望の葬儀―キリスト教葬儀の考え方と実際 (TOMOセレクト)
≪CD≫主は豊かなあがないに満ち 通夜、葬儀、命日祭の聖歌(女子パウロ会)
理由や代表的な讃美歌は?(外部サイト)
お葬式にまつわる英語表現がまとめられていて、わかりやすいです。
https://eikaiwa.dmm.com/blog/learning-english/expressions/funeral/
カナダでの葬儀に参加したブログです。
「葬式(funeral) service ではなく Celebration of Life (人生のお祝い)」があるんですね。ブログがとても、ためになりました。
◼️晴佐久神父の説教
・だから私たちも復活する
https://fukuinnomura.com/?tag=%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%B1%E3%82%A2
・グリーフケアの集い
日本キリスト教団の岡山市にある旭東教会は、葬儀にかかわる専門のHPがあり、わかりやすいです。
https://kyokuto-omoide.jimdofree.com/
また、旭東教会では、人生途上のさまざまな悲嘆を抱える方々と共に過ごす〈グリーフケアの集いl〉を2ヶ月に一度、定期的に続けているみたいです。
◼️病院
〒533-0024 大阪市東淀川区柴島1丁目7番50号
にある、淀川キリスト教病院は、
精神科医や公認心理士による
グリーフケア外来があるみたいです。
https://www.ych.or.jp/department/other/psychiatry/greef-care/
東京女子医科病院でも、グリーフケアを
受診できるみたいです、
その他に全国に「遺族ケア」「遺族外来」「グリーフケア」をしている病院があると思います。
◼️日本グリーフケア協会
◼️上智大学グリーフケア研究所
https://www.sophia.ac.jp/jpn/otherprograms/griefcare/index.html
◼️書籍
グリーフケア協会のHPに書かれていた
推薦書籍です。
『はじめて学ぶグリーフケア』第2版
(日本看護協会出版会)
『はじめて学ぶグリーフケア』
(日本看護協会出版会)
『愛する人を亡くした方へのケア
グリーフケアの実践』
(日総研出版)
『家族を支え続けたい!
ナースが寄り添う グリーフケア』
(日本看護協会出版会)
『ながれるままに涙をながしましょう―愛する人を喪った悲しみを越えるために』
(ソニーマガジンズ)