十戒とは


カトリック教会の十戒

わたしはあなたの主なる神である。


1、わたしのほかに神があってはならない。

2、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

3、主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

4、あなたの父母を敬え。

5、殺してはならない。

6、姦淫してはならない。

7、盗んではならない。

8、隣人に関して偽証してはならない。

9、隣人の妻を欲してはならない。

10、隣人の財産を欲してはならない。


女子パウロ会

プロテスタント教会の十戒

モーセがシナイ山で、神さまから与えられた10個の戒律を、十戒(Ten Commandments)といいます。


1、あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。


2、あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。


3、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。


4、安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。


5、あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。


6、殺してはならない。


7、姦淫してはならない。


8、盗んではならない。


9、隣人に対して偽証してはならない。


10、隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

(出エジプト記20・2-17

以下は、大嶋重徳著

自由への指針~今を生きるキリスト者の倫理と十戒』(教文館)(※Amazon )を引用します。

引用が長くなってしまいましたがとても大切なことが書かれているので、この恵みを共有したいと思い、

のせることにしました。教文館さん、大嶋重徳牧師、御許しください(´;ω;`)。

素敵な書籍なので、十戒を考える方や、キリスト教の物の見方を考える方にとっては、

私からおすすめの一冊てす。

十戒の第4戒

安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト20・8-11)

 

ここでは安息日を守る理由について、主が6日間働きをなさって、7日目に休まれたことが記されています。そして「あなたはどんな仕事もしてはならない」と休むことを命じている理由は、「神が休まれたこと」のゆえだと第4戒は語るのです。非常に意味深いことは、私たちの信じる神が「休みを取られる神」だということです。そして神に似せて造られた私たちは、神のように休みを取る必要がある存在であることを指し示しています。大嶋重徳『自由への指針 今を生きるキリスト者の倫理と十戒』(教文館)

      

創世記22節には「第7日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた」とあり、この「休む」という言葉は、「やめる」「離れる」という意味であり、後に「安息日」を意味するようになった「シャーバード」という言葉です。

 詩編の作者は「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」(詩編4610)と語り、「神であることを知る」ために、私たちにはやめるべきものがあると語ります。

また、「聖とする」とは、「分離する」「切り分ける」という意味があります。自分の中で「取り分けた」場所や時間を持つことです。すなわち、神の言葉が聞こえてくる場所を、私たちの死せ間の中で取り分けることです。私たちは何かで埋められているところにはもうこれ以上何も手に入れることができません。本当に必要な何かを手に入れるためには、何かを捨てなければいけないのです。あなたが神に「やめよ」と言われている具体的な何かとは、いったい何でしょうか。

「やめる」というのは、修練が必要なことだと思います。忙しい日常の中で、私たちは絶えずプランを立て、前進すること、何か作り出すことを絶えず強いられますし、あるいは絶えず自分自身がそれを求めています。ある神学者は、この安息日のために「やめる」ことを不安にさせる三つの要素として「計画性「勤勉」「能率」をあげています。一見、非常に良い徳目に思われる行為が、私たちを「忙しさ」という奴隷状態に陥れます。安息日によっても止められない計画性や、安息日を超えるも超える勤勉や、安息日をも支配する能率の良さが、私たちを奴隷の状態に引き戻そうとするのです。

大嶋重徳『自由への指針 今を生きるキリスト者の倫理と十戒』(教文館)

 

出エジプト記31章17節で「主が6日間に天と地を造り、7日目に休み、いこわれた」と記されています。この「憩う」という言葉は「ナーファシユ」という言葉で、「深く息をつく」という意味です。安息日は神の前で深く息をつく深呼吸をする時です。文字通り、私たちは礼拝において安らかに息をつくのです。安らかな呼吸が安息日に生まれ、呼吸の乱れることのない生活を始めていくのです。大嶋重徳『自由への指針 今を生きるキリスト者の倫理と十戒』(教文館)

 

福音的なキリスト者たちは、一日の初めあるいは終わりに、神の前に静まり、聖書の言葉を読み、祈るという「静思の時」「デボーション」と呼ばれる時間を大切にしてきました。これは日常の中での、安息の時間を確保する意味を持ちます。安息日をきちんと守るキリスト者は、安息日だけを神との時間とすることなく、日常の中で神を思い巡らす安息の時を持つことを選びます。この時間においてキリスト者は、新しく始まる自分の一日を神の御前に差し出し、思い巡らし、そこに働いてくださる神のご計画を祈りの中で受け取るのです。あるいは一日のおわりに、神が働いてくださった一日であったことを「非常に良かった」と神に感謝をささげるのです。

大嶋重徳『自由への指針 今を生きるキリスト者の倫理と十戒』(教文館)


※十戒については、キートンさんの説明がわかりやすいです(^^)