偽預言者(にせよげんしゃ)とは


神さまは、歴史において神様の言葉を預かる預言者(イザヤ、エレミヤなど)を与えてくださいました。聖書には、たくさんの神さまに言葉を預かった人物の言葉がかかれています。一方、自称預言者とよばれる偽預言者もいました。偽預言者とはどんな預言者なのか聖書をみてゆきたいと思います。

 

エレミヤ書23章16節では

「万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの/

言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ/

主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。」

と書いてあります。

偽預言者は、神さまの言葉ではなく、自分の幻の言葉を語る、と書いてあります。

神さまを思うといいながら、自分の考え、固定観念に執着していたのです。

ペトロの手紙2の2章1ー2では次のように書いてあります。

「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。」

ペトロは、自分たちを贖ってくださった主を否定している、と言っています。イエスは、私たちを十字架の贖(あがな)いによって「ゆるし」を約束してくださいました。自分たちを贖ってくださった主を否定するとは、イエスの十字架を不完全なものだとみていたグループが、初期キリスト教会にいたのだと思います。

特徴

わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、

律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

ローマ人への手紙 3:28 口語訳

偽預言者が語る特徴をみていきます。

第一に、努力によって救われる、という考え方です。必死に努力をして、神さまに良い子に認められることによってはじめて、救われるという考え方です。イエスにあう前のパウロが、この生き方をしていました。律法という宗教の掟をしっかり守れるものが、神さまに救われると言ってくるのです。

おそらく、パウロもイエスと出会う前は、律法を忠実に守って、きよらかな生活をしようと、熱心だったと思います。しかし、律法主義の一番の問題は、律法を守りさえすれば、神さまから愛されると思い込んでしまうところです。神の愛さえ、自分の努力で手に入れることができるのです。そこには、神への愛はありません。「わたしは取るにたりない罪びとでしかたない。それでも、神さまはわたしを赦してくださったんだ」。そう思う時、人は神への愛が生まれます。取り返しのつかない罪さえも、神さまは赦してくださるのです。また律法主義の問題は、律法を守らなければ、神に愛されないと思い込んでしまうことです。結局は、自分を中心に、神の愛が動いてしまうのです。神の愛さえ、自分の行動次第で、コロコロかわるのです。

しかし、イエスの愛は、「あなたを愛するから愛する」と決断した愛なのです。それが、新しい契約の福音なのです。「あなたを愛するから愛する」という愛には、たとえ私たちが、どのような状況であろうとも、神の前にひざまづき、悔い改め、神の愛に心を開いた時、すべての罪が赦されるのです。

 

彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ

神を賛美しました。 神は約束したことを実現させる力も、

お持ちの方だと、確信していたのです。

ローマの信徒への手紙 4:20‭-‬21 新共同訳

第二に、最初からあきらめてしまう、という考え方です。神さまの愛は不完全だから、

「私は、赦されない存在なんだ」と最初からあきらめてしまうのです。

神さまがどんなに、あなたを赦そうといっても、心をひらくことはありません。

 

もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、

なぜ、なおこの世に生きているもののように、 「さわるな、味わうな、触れるな」などと

いう規定に縛られているのか。 これらは皆、使えば尽きてしまうもの、

人間の規定や教によっているものである。

コロサイ人への手紙 2:20‭-‬22 口語訳

第三は、様々なルールをおしつけてきます。

「あなたは、~しなければクリスチャンじゃないよ」といってくるのです。

生活のすみずみまで干渉してきて、自由を奪ってゆくのです。

偽預言者とは、そのように自分の幻に頼り、

イエスの十字架の救いを否定するものだったのでしょう。

シンプルに

しかし、イエスの教えは、幼子にもわかるものです。マタイによる福音書では、11章25節で「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」と、イエスは言いました。幼子のような者にこそ、福音は知らされたのです。それは、複雑なものではありません。イエスは「あなたの罪は赦された」といってくださる方なのです。イエスを救い主と信ずる者にはだれも、その救いからもれることはない、ということです。とてもシンプルです。十字架の前にたつときに、それはとてもシンプルなのです。イエス様は、福音を難解にしませんでした。誰もがわかるような教えにされたのです。

 

見よ、神はわが救である。 わたしは信頼して恐れることはない。

主なる神はわが力、わが歌であり、 わが救となられたからである」

イザヤ書 12:2 口語訳

私たちは今日、「自分は神さまに愛されている。赦されている」ということを、改めて強く感じてよいのです。福音書を読みますと、新しい発見がたくさんあります。私たちは、幼子のようなものになって、そのイエスの愛の前で驚かされるのです。どんなに絶望して、さすがにこの失敗は赦されないだろうと落胆しているときに、「恐れるな。あなたは、かけがえのない大切な存在。私はあなたを赦す」と慰めてくださる方がいるのです。それが、幼子のような者たちに示されたイエスの福音です。「あれもこれもしなければ」と複雑にならなくていいのです。神さまは、自分にちょうどいい荷物を与えて下さいます。それを両肩で背負って、ゆっくり歩いていけばいいのです。ちょっと重たすぎるな、と感じたならば、荷物を減らしてもよいのです。祈りの中で、神さまと相談して、一つ一つのことを決めていけばよいのです。神さまは、必ず祈りにこたえてくださいます。

 

人間の心は自分の道を計画する。

主が一歩一歩を備えてくださる。

箴言 16:9 新共同訳

ゆっくり歩くと見えてくる景色が変わります。また、人生は立ち止まってしまうこともあります。すると、道端に咲いている花に気づくことがあります。焦って前へ進もうとしていた時には気づかなかった景色を、神さまは見せてくださるのです。花は、とても美しく咲いています。鳥のさえずりも聞こえてきます。神さまは、一人一人に、最善な方向に導いてくださっています。そして、どんなときも一番いい道を準備してくださるのです。神さまの造ってくださる道に失敗はないのです。ですから安心して、「今の自分で大丈夫なんだ。これからも、神さまは導いてくださるから、大丈夫なんだ」と確信してよいのです。

教会の歴史

カトリック中央協議会のカトリック教会の歴史がわかりやすいです。

また、教会史の父として、エウセビオス(wikipedia)が有名です。