目次
はじめに
1、カトリックにおける主の祈り
2、プロテスタント教会における主の祈り
3、天におられるわたしたちの父よ
4、み名が聖(せい)とされますように
5、み国が来ますように
6、みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように
7、わたしたちの日ごとの糧(かて)を今日もお与えください。
8、わたしたちの罪をおゆるしください。 わたしたちも人をゆるします
9、わたしたちを誘惑におちいらせず、 悪からお救いください。
10、主の祈りを深めるサイトや本
11、祈りに関するYoutube
主の祈り(wikipedia、ギリシャ語Κυριακή προσευχή、英語Lord's Prayer)とは、イエスが弟子たちに「このように祈りなさい」と教えた祈りです。キリスト教における、最も代表的な祈りです。聖書にはマタイによる福音書6・9-13、ルカによる福音書11章2-4にイエスの言葉が記されています。
だから、こう祈りなさい。
『天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように
天におけるように地の上にも。
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
私たちを試みに遭わせず
悪からお救いください。
マタイ6・9-13、聖書協会共同訳
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
天にまします我らの父よ、
ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。
み国(くに)を来(きた)らせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧(かて)を今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
(1880年訳、プロテスタント教会で多く用いられている翻訳です。その他にも、異なる翻訳があります。)
神さまは天のお父さん。私たちは神さまの子ども。お父さんは、子どもを養い、
愛し、守ってくれます。天の神さまを、パパと呼んでよいのです。私たちは、神さまに愛されている神さまの子ども。あなたが生まれてきて本当に良かった、と神さまは喜んでいるでしょう。
πάτερ(パテール)父
ἡμῶν(へーモーン)私たちの
οὐρανοῖς(ウーラノイス)天
カトリックでは、「み名が聖とされますように」と祈ります。プロテスタントでは「あがめます」と祈る教会が多いと思います。しかし、最新の聖書協会共同訳では「聖」と翻訳されています。
聖とは、「分離」をあらわします。神さまは神さま自身であられますように、ということです。神さまは、一人の人格をもった存在です。
人間は、自分の名誉ばかり気にしてしまうことがあります。自分が神さまのようになって、支配したい欲望にかられることがあります。しかし、人間は完璧になれなく、誰もが間違えをおかしてしまいます。
ἁγιασθήτω(ἁγιάζωの受動態)あがめる、聖とする
ὄνομα(名前)
神さまの国とは、将来のことなのか、
現在実現しているものなのか、二つの意見があります。
1、将来イエス様が再び地上にこられることを、
クリスチャンは信じています(イエスの再臨)。その国が、来てくださいという考え方。
「この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。
彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。」
ヨハネの黙示録 20:6 口語訳
2、二つ目は、いま現在神の国は私たちの間に来ているという考え方。
「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。」
ルカによる福音書 17:20-21 口語訳
「そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。」
ルカによる福音書 6:20 口語訳
~神の国は、貧しい者、つまり自分の弱さ、無力さを知っているものこそが、神さまの国にふさわしい、というのです。逆に、「自分は神さまの力など必要ない」と傲慢になって、プライドや見栄を張るのは、本当に強い人ではないと思います。
「それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。」
マルコによる福音書 10:14-16 口語訳
~子供たちは、親の愛を疑いもなく信じます。神の国では「あなたはかけがえのない大切な存在。あなたは神さまの子ども」という、神さまの愛が響いています。誰一人、
「自分なんてつまらない人間なんだ、生きていてもしょうがないんだ」と思わない社会をつくりあげていくこと。神さまの愛を伝えること。それが福音宣教です。
ἐλθέτω(ἔρχομαιの命令法、来るの意味)
βασιλεία(王国、国)
人の思いではなく、神さまのみ心がこの世界で実現してくださいという祈りです。イエスは次のように言いました。
「そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。」
ルカによる福音書 10:21 口語訳
~「自分はなんも知っていないんだ。それでも、神さまは私を愛してくれるんだ」という幼子のような者を神さまは喜んでくださいます。真実の愛とは、たとえ何もできなくても、「あなたがあなただから愛する」ということです。イエスはなにもできないけれど、疑いなく親の愛を信じる子供たちをほめたのです。私たちも、神さまの御心がこの地上でなされますように、祈りたいと思います。
γενηθήτω(なる、行われる)
θέλημά(意思)
ὡς(~のように)
οὐρανῷ(天)
γῆς(地、大地)
おそらく、イエスは毎日と食事をとるのにも必死だったのではないでしょうか。
イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。
ルカによる福音書 9:58 口語訳
~イエスは、野宿をしたときがあったかもしれません。人の子とはイエスのことですが、枕するところもない、というのです。しかし、イエスは喜びに溢れていました。そして神さまに生涯を委ねていました。不安なこともあるけれど、すべては神さまは備えてくださいます。「あれもしなければ、これもしなければ」と焦るよりも、今日も1日をすべて支えてくださる神さまに祈りたいと思います。そして、食べ物をわかちあい、飢える方がいなくなるように、助け合いたいと思います。
ἄρτον(パン)
ἐπιούσιον(毎日の、必要な)
δός(δίδωμιのアオリスト)与える
σήμερον(今日、セーメロン)
ここの説明は、片柳弘史神父の言葉が分かりやすいので、片柳神父のブログより転載させていただきました。
「ここで罪というのは、「犯罪」というような大きなことではなく、わたしたちの心の中にあって、わたしたちと神を隔てるもの。神を悲しませるもの、と考えたらよいでしょう。人を傷つけたり、自分自身を傷つけたりするようなこと。「互いに愛し合いなさい」という神の思いを踏みにじるような思い。それが罪なのです。わたしたちは誰も、心の中で「そんなことはしてはいけない」と分かっています。そんなことをすれば、相手がかわいそうだし、自分自身の心も痛むからです。それにも拘らずついやってしまう。それが罪なのです。
そう考えれば、幼稚園の子どもでも、心の中に罪か入り込む可能性はあるでしょう。よくないことだと自分でも分かっているのに、ついやってしまう。相手や神さまを思う心を、わがままな心が押しのけてしまう。そんなことは、子どもから大人まで、誰にも起こりうることなのです。」
ἄφες(ἀφίημιの命令、アオリスト)ゆるす、捨てる(マタイ4・20、6・14など)
ὀφειλήματα(ὀφείλημα借金、罪)
ὀφειλέταις(罪を犯したもの)
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」
ヤコブの手紙 1:2 口語訳
~神さまは人間を成長させるために、わざと試練を与える時があります。
「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。
罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」
ヘブル人への手紙 4:15 口語訳
~大祭司とはイエスのことです。 イエスご自身も試練にあわれたことが書かれています。
ここでいうこころみとは、悪魔の誘惑のことだと思います。悪魔の誘惑は、神さまの御心とまったく逆の事を言います。たとえば、「あなたはかけがえのない大切な存在」なのに「あなたは、誰からも愛されてないよ」と悪魔は言います。この世界は、神さまに愛された世界なのに、逆の事を上手に誘ってくるのです。
「道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、
悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。」
ルカによる福音書 8:12 口語訳
~悪魔に抵抗するのには、「自分は愛されていない」という思いを否定し、神さまの愛を信じることだと思います。なぜなら、一人一人は神さまに大切に作られた最高傑作だからです。
★主の祈りのギリシア語
http://toxa.cocolog-nifty.com/phonetika/2006/04/__a740.html
★主の祈りを深める本
大嶋重徳著『朝夕に祈る 主の祈り ―30日間のリトリート 』(いのちのことば社) https://amzn.asia/d/h9hqGpX(Amazon)