目次
1、旧約聖書における主
2、新約聖書における主
3、ニケア(ニカイア)信条、イエスは神
4、ニケア(ニカイア)・コンスタンチノープル信条
5、使徒信条とは
6、古ローマ信条
7、新約聖書における初代教会の信条が反映されていると仮定される聖書箇所(確定ではない)
主とは神さまのことです。旧約聖書では、神さまの名前は神聖四文字「יהוה」(YHWH、ヤハウェ、wikipedia)と書かれていました。ユダヤ人たちは神さまの固有の名前を呼ぶのは恐れおおく、神聖四文字(YHWH)で呼ぶのは避け、アドナイ(私の主)と置き換えて呼んでいました。わさわざ主を使うとわかりづらい、という方もいると思います。神さまをさす言葉ですがユダヤ人はなぜ主という言葉を使ったのか、それには理由があります。それは、モーセが神さまから預かった十戒にあります。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
出エジプト記 20:7 新共同訳
~十戒には神さまの名前をみだりにとなえてはならないという教えがあります。そのためユダヤ人たちは神さまの名前をいうのは避けて、アドナイ(私の主、אֲדֹנַי)と神さまを呼んでいました。そのために聖書では主という言葉が多く使われています。
ギリシア語では、Κύριος(キュリオス)が主という意味です。新約聖書では、主はイエスに対して、主が使われています。パウロは、
次のように主がイエスであるといいます。
「私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。
『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」
使徒言行録 26:15 新共同訳
「口でイエスは主(Κύριονキュリオン)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら(πιστεύσῃςピスティウセース)、あなたは救われるからです。」
ローマの信徒への手紙 10:9 新共同訳
また、イエス様の12弟子の一人であったトマスは、復活したイエスに向かって次のようにいいます。
「トマスは答えて、
「わたしの主(Κύριόςキュリオス)、
わたしの神(Θεόςセオス)よ」と言った。」
ヨハネによる福音書 20:28 新共同訳
イエスの12弟子の一人であったペトロは、次のように言います。
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、
天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」」
使徒言行録 4:12 新共同訳
新約聖書では、イエス・キリストに対して主と呼びかけています。そのため、イエスのことを、主イエスと呼んで聖書のお話(説教)する聖職者がいます。キリスト教徒はそのため、父(YHWH)と子(イエス)と聖霊は一つであるという理解にいたる、三位一体という考え方をカトリックもプロテスタントも信じています。
イエスは神であったのかは、初期キリスト教徒たちにとっても、一定の議論があったとされます。
しかし、初期の段階からイエスは、父(YHWH、ヤハウェ)と本質は一つであることは、トマスの告白から信じられていたと思います。
歴史において325年、ニケア(現在はトルコのイズニク)で開催されたニケア公会議で「ニケア信条」(※後に改定されるので、この信条を原ニケア信条と呼ぶ)が宣言されました。
会議でアリウス(アレクサンドリア教会の長老)は、「イエスは神さまに作られた子にすぎない」と主張しました。「イエスは最高の人ではあるが、神さまではない」という意見でした。しかしアタナシウス(アレクサンドリアの司教、wikipedia)は「イエスは、YHWH(父)と本質において同質である。イエスは神である」と主張しました。会議では、アタナシウスの教理が正統とされ、イエスは「父(YHWH)と同一(ホモウーシス)」であると認められました。
381年にコンスタンチノープル(現在のトルコ、イスタンブール)で行われた公会議で、
ニケア・コンスタンチノープル信条(wikipedia)がキリスト教徒の信条として定められました。
カトリック、プロテスタント、東方正教会ともに、この信条は信仰告白として受け入れられています。
わたしは信じます。唯一の神、
全能の父、
天と地、
見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
わたしは信じます。
唯一の主イエス・キリストを。
主は神のひとり子、
すべてに先立って父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、
まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。
すべては主によって造られました。
主は、わたしたち人類のため、
わたしたちの救いのために天からくだり、
聖霊によって、
おとめマリアよりからだを受け、
人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、
わたしたちのために十字架につけられ、
苦しみを受け、葬られ、
聖書にあるとおり三日目に復活し、
天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
その国は終わることがありません。
わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、
父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、
唯一の教会を信じます。
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、
死者の復活と
来世のいのちを待ち望みます。アーメン。
使徒信条(wikipedia)は、カトリック、プロテスタントともにおける信仰告白の一つです。
ラテン語で書かれ、クレド(Credo※私は信じる)とも呼ばれます。東方正教会(正教会、東方諸教会)では使徒信条は公会議によって採択された信条でないので、使用されません。
カトリック、東方教会で使用される共通の信条としては、ニケア・コンスタンチノープル信条(381年)があります。
使徒信条はキリスト教最古の信仰告白としられ、紀元200年頃に作られた「古ローマ信条」に基づいて作られたとされています。原文はギリシア語で書かれました。古ローマ信条は、洗礼時の信仰告白や信仰教育として使用されていました。現在の使徒信条に定まったのは8世紀ころだとされています。
天地の創造主、 全能の父である神を信じます。 父のひとり子、わたしたちの主 イエス・キリストを信じます。 主は聖霊によってやどり、 おとめマリアから生まれ、 ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、 十字架につけられて死に、葬られ、 陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、 聖徒の交わり、 罪のゆるし、 からだの復活、 永遠のいのちを信じます。アーメン。
2004年2月18日
日本カトリック司教協議会認可
われは全能の父なる神を信ず。また、そのひとり子、イエス・キリスト、われらの主を。彼は、聖霊と処女マリヤから生まれ、彼はポンテオ・ピラトのもとで、十字架につけられ、葬られ、3日目に死せる者よりよみがえり、天に昇り、父の右に座し、かしこより来たりて、生ける者と死せる者をさばかん。また、聖霊を、聖なる教会を、罪の赦しを、肉のよみがえりを。
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
マタイによる福音書 16:15-16 新共同訳
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
ローマの信徒への手紙 10:9-10 新共同訳
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
フィリピの信徒への手紙 2:6-11 新共同訳
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
コリントの信徒への手紙一 15:3-5 新共同訳