クリスマスに出てくる人物(聖書の言葉)


目次

1、マリアとヨセフの戸惑い

2、マリア、3ヶ月エリサベドの自宅に滞在する

3、野宿していた羊飼いたち

4、東方の博士たち(占星術の学者)

5、イエスの産まれた場所(飼い葉桶、かいばおけ)

6、マリアとヨセフは、エジプトに避難する7、両親はイエスを神さまにささげる

8、クリスマスに関連する動画

9、フランシスコ教皇の言葉

10、クリスマスソング


1、マリアとヨセフの戸惑い(受胎告知)

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

ルカによる福音書 1:26‭-‬38 新共同訳

https://bible.com/bible/1819/luk.1.26-38.新共同訳


ナザレに住んでいたマリアに、天使が聖霊によってみごもってイエスを産むことがつげられます。受胎告知(wikipedia)として、絵画でも、様々な芸術家によって描かれています。

このときマリアの年齢は、14歳くらいだったと考えられています。一方男性は当時の人々が結婚する年齢が、20歳くらいだったと説明されています(外部サイト)。

マリアは急に「あなたは妊娠して子供を産む」と言われたら、誰だって不安になると思います。ヨセフという婚約者もいました。マリアはヨセフの困った顔を浮かべたのではないでしょうか。

ヨセフ(外部サイト)は、マリアの裏切りを誰かに明らかにしたら、マリアの死刑は確定していました。それは、結婚中であっても婚約中であっても、姦淫の罪をおかせば死刑と律法によって定められていたからです。

旧約聖書の申命記には、次のように掛かれています。


男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。 ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、 その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。

申命記 22:22‭-‬24 新共同訳

https://bible.com/bible/1819/deu.22.22-24.新共同訳


しかし、ヨセフはどのような行動をとったのかはマタイ福音書に書かれています。


夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。

マタイによる福音書 1:19‭-‬20 新共同訳

https://bible.com/bible/1819/mat.1.19-20.新共同訳


ヨセフは、「表ざたにしなかった」とあります。それは、マリアとひそかに婚約関係をといて、別れようと思ったのです。そうすれば、マリアは死刑からまぬがれたのです。

しかしそんなヨセフは困惑していたときに、天使があらわれます。ヨセフは、天使の声を聞いてホッとしたのか、慌てたのかはわかりません。しかし彼は、神さまの声を受け止め、行動する人でした。

私たちも意図しないことがおこり、あわてふためくことがあるかもしれません。愛する人の急死、思わぬ大病、予期せぬ失業のなかで、道がみえなくなりそうな時があります。しかし、神さまは私たちを見放すことなく、必ず道を示してくださいます。

その道は、必死になって作る道ではありません。「神さま、もう疲れました。お手上げです。ここからは、あなたがやってください」と神さまに委ねるのです。神さまの手に委ねたとき、そこからは神さまの出番です。イエスとヨセフ、マリアに共通していることがあります。それは、神さまに委ねたことです。


マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

ルカによる福音書 1:38 新共同訳

マリアは天使に神さまの言葉が伝えられ、「お言葉どおりなりますように」と神さまに委ねました。それは、神さまの御心のままに、ということだと思います。


イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

ルカによる福音書 23:46 新共同訳

イエスは、十字架でしにゆくとき、「霊を神さまの手にゆだねます」と告げ、最後をとげました。3日後に復活しますが、イエスの生涯は神さまの手に自分の人生を委ねる人生でした。

私も、計画どおりいかないと、イライラしてきます。現実は、自分や周りをコントロールしようとピリピリしています。しかし、そこには冷たい緊張した空気がながれます。

そんなときに、「神さまのままにしてください」と、両手に握っていた執着から手をはなすと、心がそっと軽くなるのを感じるのです。イエスは、「そんなに重たい荷物をひとりで抱えなくていいんだよ」と、私達に言ってくださる方。旧約聖書の詩編(しへん)や箴言(しんげん)には、次のように書かれています。


あなたの重荷を主にゆだねよ。

主があなたを支えてくださる。

詩篇 55篇 22節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


人は心に計画を持つ。

しかし、舌への答えは主から来る。

箴言 16章 1節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


あなたのわざを主にゆだねよ。

そうすれば、あなたの計画は堅く立つ。

箴言 16章 3節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


聖書は、「重たい荷物や困り事は神さまにあずけていいんだよ」と告げます。もちろん、自分なりに精いっぱいやってみることは大切です。しかし、精いっぱいやっても、壁があるときはないでしょうか。そんな私達に「あなたのわざを主にゆだねよ」というのです。

私は高校でいじめられ、人生が思い通りいかなくなりました。必死に中学生のときに勉強し合格できた高校でした。砂漠の緑化事業に興味があり、夢はふくらんでいきました。しかし、「お前を高校にいかせなくさせてやる」などの言葉の暴力を同級生から言われ、また心理的な暴力をうけ(きもいなど)、対人恐怖になり、いつかは体は固まってしまい登校できなくなりました。

高校を退学した私は「学生」という身分証がはがされました。それから「私ってなに?わたしの存在ってなに?」と、次から次へと考えが脳を駆け回り、頭は痛く、呼吸するのも疲れて、息がとまりそうでした。しかし、そこから神さまは、聖書や三浦綾子さんの作品を通して、道を作ってくださいました。

マリアも、思わぬ妊娠やスキャンダルで、「え?

わたしの人生はどうなってしまうの?」

と、不安でいっぱいだったと思います。

しかし神さまは天使をつかわし、マリアは神さまの言葉を、

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と、受け止めました。

人生は、失敗や予想外の連続かもしれません。しかし、私たちが立ち止まっているその場所まで、神さまのほうから近づいてきて「一緒に歩もう。大丈夫だよ」と慰めてくださいます。

私は大人になってから、「あなたは発達障がいがある可能性がある。検査にいこう」とアドバイスを上司からうけました。仕事が覚えられず、他人とのコミュニケーションや雑談ができず、「人生はどうしてうまくゆかないのだろう」と思いました。発達障がいと診断され、最初は「私は障がい者なんかじゃない!」と泣きちらしていました。

しかし、あるひから、「無理しなくてよいんだ」とおもったのです。そこから楽になってきました。今は障がい福祉サービスの利用者として、私ができることを精いっぱいしています。

神さまは私たちの才能とか、学歴とか一切関係なく、ありのままの姿を「君で良かった」と喜んでくださいます。

すると朝起きたときに、「そういえば、私って愛されているんだ」と思えるようになってきました。朝おきたら、「私は愛されているかも?」から、はじめてみると私は落ちついてきます。

「あなたの御心のままに」と、神様の手にゆだねてゆけますように。


◼️参考サイト

片柳神父のプログより

バイブル・エッセイ(1041)委ねる者の幸い

バイブル・エッセイ(940)本当の謙虚さ

バイブル・エッセイ(429)『神にできないことは何一つない』

https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20141221/1419161201


バイブル・エッセイ(327)心に納めて思い巡らす

https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20130102/1357110617


2、マリア、3ヶ月エリサベドの自宅に滞在する

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 ・・・。

マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

ルカによる福音書 1:39‭-‬40‭, ‬56 新共同訳


聖書の言葉を読んでいきますと、神さまはマリアを決して一人ぼっちにしておかないことに気づかされます。

ルカ1・36には、  マリアの親戚のエリザベト洗礼者ヨハネの母)も、もう年をとっていましたが、子供が与えられることを神さまは約束してくださいました。エリサベドも、「本当に子供がうまれるのか」とても不安だったと思います。同じような不安を抱えている仲間がいることを、天使はマリアにつげました。

マリアは、ルカ1・39以降の聖書の言葉に書かれていますが、天使の言葉を聞いた後、急いでエリサベトのところに向かいます。

エリサベトとマリアは親戚でした。マリアが住んでいたのはガリラヤのナザレです。エリザベトが住んでいたユダの町とは、夫ザカリアはエルサレム神殿で奉仕していたので、エルサレムからそう遠くない場所に住んでいたと考えられています。ナザレからエルサレムまでは140キロくらいあります。まだ、マリアは14歳くらいの女性でした。旅には危険もあったことでしょう。しかし、神様は辛いときに、支えあう仲間を与えてくださるのです。一人ぼっちで重荷を背負わなくてよいのです。マリアは、3ヶ月ほどエリサベトのところに滞在し心も体も休まって、ナザレへ帰っていったことでしょう。

ときには辛く祈れないときに、とりなしの祈りをしてくれる仲間がいます。何もかも、自分の力でやろうとする必要はありません。できないことまでやろうとして失敗するより、できないことはできないと認め助けてもらう勇気を願い求めてよいのではないでしょうか。

マリアは誰にも言えない悩みもエリザベドに話して、心身ともにリラックスしてマリアはすごしたのではないでしょうか。マリア一人では、あまりにも不安か喜びかはわかりませんが、荷物がおおきすぎて、決して一人では背負いきれなかったのだと、私は思います。そのときに、ちゃんと神さまは耐えられるように仲間を与えてくださり、出口がみつかるようにしてくださいます。

聖書には、

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。( 1コリント10・13)」

と書かれています。

神さまは、私たちが必ず耐えられるように、逃れの道を備えていてくださる、と約束しています。「あれも一人でしなければ、これも一人でしなければ」と慌てることはないと、神さまは一人一人に呼びかけています。

神さまの言葉を聞いて、「そうか、私は一人でなにもかも背負わなくてよいんだ。神さまの助けをかりて、仲間と協力して、いまから歩んでゆけばよいんだ」と思えます。

もし重たい荷物があったら、サボートしあうときに、荷物整理ができて、身軽になって歩くことができると思います。

旅をしたときも、きっと荷物がおおすぎたら、そっちばかりに目がいってしまい、美しい風景や道端に咲いている花の美しさには気づかずに、パニックになってしまいます。本当に必要なものだけ最小限でも、人は幸せに生活できると思います。


疲れた者、重荷を負う者は、

だれでもわたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう。(マタ11・28)

~重くのしかかる心配事があるなら、

神さまにそれを打ち明けましょう。

一人で背負えば重すぎる荷物も、

誰かに打ち明け、

誰かとともに担うなら、

なんとか背負える重さになります。

片柳弘史著『日々を生きる力』(教文館刊) より


3、野宿していた羊飼いたち

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

ルカによる福音書 2:8‭-‬20 新共同訳

https://bible.com/bible/1819/luk.2.8-20.新共同訳


イエスの誕生の知らせは、神さまは羊飼いにまっさきに知らされました。夜通し羊の番をするとは過酷な職業の一つでした。徴税人(ローマ帝国から雇われ、税金を集める仕事)などと同じくさげすまれる職業の一つでした。羊飼いたちは罪人のレッテルをはられていました。また、市民として認められていなく、住民登録の対象外でした。

私は精神疾患がありますが、一度「あなたのことは精神疾患があるので信じられない」と言われたことがあります。一人の人間として認められていないことに悲しみを感じました。羊飼いたちも、一人の人間として認められていないことに、「自分はつまらない存在なんだ」と思い、暗い夜空を見上げていたことでしょう。

しかし、そんな羊飼いたちにイエスの誕生が、まっさきに届きました。他人から、どんな悪い評価をされていようとも、神様は「あなたが産まれてきてくれて良かった。私はあなたに会えて嬉しい」と、呼びかけてくださるのです。

イエスの生まれた家畜小屋は、羊飼いと同じ家畜の匂いがしたでしょう。城のような高級な場所なら羊飼いたちは、イエスに近づくことすらもできませんでした。しかしイエスは、飼い葉おけまで自分を小さくされ、誰もがイエスに会えるまでおりてこられました。

羊飼いたちは、おそらく土で汚れている服のまま、イエスの場所までくることができました。社会では、「羊飼いたちは、もっと宗教の掟を守って、きちんと綺麗になってから神様のところにきなさい」と、条件をつけてくるかもしれません。しかしイエスは、「今のあなたのままで私のところにきてだいじょうぶだよ」と、呼びかけておられます。もっと良い人間になったら神様に会えるわけではありません。私たちは、このクリスマスも、今日の私で受け入れられているのです。

天使の声を疑わずに、羊飼いたちは耳を傾けました。自分の限界に縛られていませんでした。「こんな私が、救い主を礼拝しにいってよいものか」と否定しませんでした。

羊飼いたちは、イエスの誕生に差し出すプレゼントさえなかったことでしょう。しかし神さまは、手ぶらのままでも羊飼いたちを喜んだでしょう。もしかして、手があいていたから赤ちゃんのイエスを抱かせてもらったかもしれません。両親のヨセフもマリアも、笑みをうかべたかもしれません。

フランシスコ教皇は、2019年の降誕祭ミサで次のように言っています。https://www.cbcj.catholic.jp/2019/12/26/19945/


すてきな話が言い伝えられています。イエスがお生まれになったとき、羊飼いたちはさまざまな贈り物をもって馬小屋へと駆けつけたそうです。それぞれ、自分のもっているものを携えて行きました。労働の実りを届けた人もいれば、何か貴重なものをもって行った人もいました。皆が何かしらの贈り物を携えている中、何ももたない羊飼いが一人いました。その人はとても貧しく、差し出す贈り物がなかったのです。他の人たちが競って贈り物を差し出す中、彼は離れたところに立って恥ずかしそうにしていました。やがて、聖ヨセフと聖母は、すべての贈り物を受け取るのが大変になってしまいました。とくにマリアは幼子を抱きかかえていて大変でした。そして何ももっていないその羊飼いを見て、マリアは近くに来るよう頼み、その腕に幼子イエスを預けます。幼子を受け取ったこの羊飼いは、身に余るものを受けたのだ、あらゆる時代でもっとも偉大な贈り物を手にしたのだと気づきました。彼は自分の手を見ます。ずっと空だったはずの手です。その手は神のゆりかごになっていました。彼は自分が愛されていると感じ、羞恥心は消え去り、他の人々にイエスを示し始めました。この最高の贈り物を、自分のもとだけにとどめておけなかったのです。

 愛する兄弟姉妹の皆さん。あなたの手には何もないと思えたり、あなたの心に愛が足りないと感じたなら、今夜はあなたのためにあります。神の恵みが現れました。あなたのいのちをさらに輝かせるためです。その恵みを受け取ってください。そうすれば、クリスマスの光はあなたの中で輝き続けるでしょう。


私たちも羊飼いたちと同じように、理想の自分を演じる必要はありません。等身大の自分で、神さまに愛されるからです。愛されるために、他の人になる必要はないのです。神さまに造られた、あなただから良いのです。


4、東方の博士たち(占星術の学者)

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、 お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。 お前から指導者が現れ、 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

マタイによる福音書 2:1‭-‬11 新共同訳


~この時代、ユダヤ人以外は、神様の救いの対象になっていませんでした。この博士たちも、ユダヤ人でないので異邦人(いほうじん)とよばれ見捨てられた民でした。たとえば旧約聖書には、次のように書いてあります。


あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた。

申命記 14:2 新共同訳

https://bible.com/bible/1819/deu.14.2.新共同訳


旧約聖書の申命記(しんめいき)で書かれている聖なる民とは、ユダヤの民だけをさしています。

しかし、そんなユダヤ人ではない博士たちを、神さまは星を通してイエスの誕生の場所まで導きました。聖書には三人と書いていませんが、イエスに渡されたプレゼントが3個(黄金、乳香、没薬)だったことから、代々3人と考えられてきました。

神さまに「あなたは私の大切な存在。あなたと会えて本当に良かった」とよびかけられても、「私はふさわしい人間ではありません」と拒否してしまうことがあります。それは、神さまに愛される条件にふさわしい人だけが価値があり、ふさわしくない人は「駄目な存在」と勘違いしているからだと思います。

しかしクリスマスの知らせは、神様の救いから対象外とされていた異邦人の博士たちにも知らされました。博士たちは、「私はユダヤ人でないから、私がイエス様の誕生を祝いにいっても喜んでくれないだろう」と、あきらめませんでした。博士たちは、「私も神さまに愛されているんだ。私を待っていてくださる方がいるんだ」という喜びをもって、星に導かれて旅をしたと思います。

また博士たちの占星術という仕事は、旧約聖書では、あまり良く思われていませんでした(占星術とは、天体の動きを観測して個人や国家の運命を判断していたのであり、占いにはあたらないという意見もあります)。それは、聖書は占いなどを禁止しているからです。


占いや呪術を行ってはならない。

レビ記 19:26 新共同訳


その預言者や

夢占いをする者の言葉に

耳を貸してはならない。

申命記 13:4 新共同訳


占星術と翻訳されているギリシャ語は、マゴス(μάγος)といいます。使徒13章6節では、魔術師と翻訳されています。

しかし、どんなに神さまが悲しむ仕事であっても、神様の愛から博士たちはもれることはありませんでした。過去の失敗によってつい、「私はつまらない人間だ。もうゆるされない人間だ」と決めつけてしまうことがあります。自分を責めてしまうと、だんだん自分が生きているのは悪いことだと勘違いしてしまうこともあります。

しかし、神さまは博士たちを通して、「過去がどうであれ、あなたも神さまにゆるされ、愛されているんだよ」と伝えていると思います。

「もっと素晴らしい人間だったら、神さまにあいされるだろう」と、つい人間の能力によって「あいされる」と思いがちです。しかし、どんなに過去に過ちがあり、失敗だらけであっても、神さまはゆるしてくださり、やり直すことができるのです。そして神さまに愛されて、ありのままで輝くことができるのです。

私もいじめられ高校を自主退学してしまい、親の悲しそうな顔をみると、「私は駄目な人間だ」と責めては、じぶんを追い詰めていました。自分が嫌いで、こんな役に立たない自分が生きていても良いのかを、真剣に考えてしまう時間がありました。

しかし、そんな時に三浦綾子さんの書いた『光あるうちに』『道ありき』(Amazon)という本と聖書に出会い、「私はこんなにもイエスに愛されているんだ」という神の愛しを知ることができました。

クリスマスは、どんなに過去が過ちに満ちていても、神様の愛からもれていないことが確認できるときです。どんなに暗闇な、ためいきがでる毎日であっても、「私はイエスに愛されている」と知ったとき、暖かい愛に包まれ、明るい出口がみえてくると思います。

博士たちのように、このままの姿でイエスを礼拝しにゆけるのです。イエスは私達をみて、「あなたに会えて本当によかった。あなたが産まれてきてくれて、本当に嬉しい」と喜んでくださるでしょう。


失敗しても、

また始めればいいのです。

マザー・テレサ

~人間であるかぎり過ちはさけられません。しかし、神さまは失敗してもやり直す力を与えてくださる方。繰り返しゆるしてくださる方がいるから、希望をもってやりなおすことができるのです。


◼️関連サイト

教皇フランシスコ、2019年1月6日「お告げの祈り」でのことば

https://www.cbcj.catholic.jp/2019/01/06/18561/


片柳神父のブログ

バイブル・エッセイ(1005)地上に輝く星

バイブル・エッセイ(836)四人目の博士~愛の贈り物



5、イエスの産まれた場所(飼い葉桶かいばおけ)

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

ルカによる福音書 2:1‭-‬7 新共同訳

https://bible.com/bible/1819/luk.2.1-7.新共同訳


この当時イスラエルはローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国は市民を把握し、税金を徴収するために、イスラエルの民たちに故郷にいかせ住民登録をさせました。

ヨセフも住んでいたナザレ(wikipedia)から、故郷のベツレヘムへマリアを連れて行かなければなりませんでした。

ナザレからベツレヘムは直線距離にして115キロくらいあります。道などは曲がっているので実際には150キロくらいあったと思われます(GoogleMap)。国家権力のため強制的であり、みごもっていたマリアたちにとっては、精神的にも肉体的にも、疲れたことだったでしょう。

しかも、ベツレヘムについてゆっくりやすみたい夫婦には、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と聖書に書いてあります。住民登録のためどこの宿屋もいっぱいだったのでしょう。そのためマリアとヨセフに残されていたのは家畜小屋でした。そこでマリアは月が満ちて(産気がきて)、イエスはうまれました。

飼い葉桶とは、家畜の餌をいれる場所でした。家畜のヨダレで汚れていたでしょう。

大嶋牧師の解説1

大嶋牧師の解説2


また飼い葉桶は、石でできていました。イエスは王様のベッドのような暖かい場所ではなく、ひんやりと冷たい石の飼い葉桶でうまれました。

それは、イエスの生涯を表していると思います。イエスは、私たちの弱さを裁くのではなく、人々の悲しみや辛さを身にもって経験した方。私達がどんなに絶望のそこにいようとも、私達を慰める力がある方です。

聖書には、次のように書いています。


事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

ヘブライ人への手紙 2:18 新共同訳


イエスは、悲しみにある人たちを助ける力がある方です。悲しみは、1人で背負うと重たすぎて疲れはててしまうときがあります。しかし、誰かと一緒なら荷物が軽くなり楽になることがあります。

自分の限界を謙虚に認め、できないことはサポートをうけて助けてもらえばよいと思います。イエスは、冷たい飼い葉桶でうまれたからこそ、私たちの悲しみをすべて知っていてくださる方。どんなときも、決して1人ではないのです。

イエスがいるから道はひらかれ、希望が差し込んでくるでしょう。

イスラエル神殿でイエスをみた老人のシメオンは、次のように言っています。


シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。 ・・・「これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光、 あなたの民イスラエルの誉れです。」

ルカによる福音書 2:28‭, ‬31‭-‬32 新共同訳

https://bible.com/bible/1819/luk.2.28-32.新共同訳


シメオンの言った「異邦人を照らす啓示の光」とは、もはやイスラエル人だけに限定された民族の神ではなく、イエスはすべての民族を照らす光であることを示しています。その啓示の光とは、イエスが生涯において示されましたが「神はあなたを愛している」ということでしょう。啓示(wikipedia)とは、難しい言葉ですが、神さまが人間に自己紹介することだと思います。

大切なのは、「私は、ふさわしい存在ではなく、愛されません」という、固い扉を開くことだと思います。愛されるために、特別なことは必要ないからです。ありのままを愛してくださる神さまの愛に、心を開くだけでよいのです。


耐えられないほどひどい苦しみも、

誰かがそばにいて手を握ってくれるなら

耐えられる苦しみに変わります。

愛する人の苦しみを

なくすことはできなくても、

耐えられる苦しみに

変えることならできるのです。

片柳弘史著『こころの深呼吸』(教文館刊)より


◼️参考サイト

ナザレからベツレヘムの距離(外部サイト)

飼い葉桶とは(外部サイト)


片柳神父のブログ

バイブル・エッセイ(892)苦しみに寄り添う

バイブル・エッセイ(1001)魂の安らぎ

バイブル・エッセイ(833)全人類の救い

バイブル・エッセイ(781)幼子の心

バイブル・エッセイ(430)『下りてきてくださる神



6、ヨセフとマリアは、エジプトに避難する

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 ・・・

ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、 言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。 しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

マタイによる福音書 2:13‭-‬15‭, ‬19‭-‬23 新共同訳

https://bible.com/bible/1819/mat.2.13-23.新共同訳


ヨセフは、夢であらわれた天使の告げたようにエジプトに避難します。それは、ローマ帝国から認められて領主になっていたヘロデ大王(wikipedia)がイエスの命をねらっていたからです。

ベツレヘムからエジプトまでは、東京から神戸くらいあるそうです。赤ちゃんをうみたてのマリアにとって、それは過酷な旅だったことでしょう。

しかしヨセフとマリアは、いつも神さまに心が開かれていました。神様を信頼し、エジプトへと避難します。

人は時に逃げることは負けだと思い、前へ進むことだけを考えてしまいます。しかし、神さまは前へ進むだけを両親にあたえませんでした。

現代人は、時として、前へすすむだけが人生だと思ってしまいます。たえず成長を求め、勝ち組を求めて、他人より一歩先にいこうと必死です。より強く、より早く、より便利さを求めます。しかし、物にしばられて、不自由になっているような気がします。便利さは、むしろ物に縛られてしまい、不満だけが産み出されてしまうことがあります。

しかし、神さまは私たちに、もうひとつの価値観があることを教えていると思います。それは、失敗したり、退いたり、避難したりすることも、決して無駄なことではないことです。この世界は競争し争うためにあるのではなく、助けあうためにあるということです。失敗した人や、過ちを犯したひとを笑うのではなく、互いにゆるしあい、助け合う道です。まえへ進むだけではなく、神さまに導いていただきたいと思います。


わたしたちは、競い合うためでなく、愛し合うために生まれてきたのです。

マザー・テレサ

~周りの人を危険なライバルと思い込み、争い合って生きる人生と、周りの人を大切な仲間と信じ、助け合って生きる人生。いったいどちらが幸せでしょう。・・・。わたしたちはもっと偉大なことのために生まれてきました。わたしたちは、愛し合うために生まれてきたのです。片柳弘史著『日めくりマザー・テレサ』(PHP)


◼️参考サイト

フランシスコ教皇の使徒的書簡「父の心で

ベツレヘムからエジプトまでの距離


7、両親はイエスを神さまにささげる

さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

ルカによる福音書 2:22‭-‬24 新共同訳

https://bible.com/bible/1819/luk.2.22-24.新共同訳


「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」とは、イエスの生後40日後をあらわしています(旧約聖書、レビ記12・2-4参照)。

両親は律法(宗教の掟)に従って動物のいけにえをささげました。お金がある家族は雄羊をささげ、貧しい家庭は鳩をささげることがゆるされていました(レビ記12・6-8参照)。ヨセフの家庭は貧しかったので、鳩をささげたのでしょう。

また、両親は自分の子供を主(神さま)に献(ささ)げるためと聖書に書いてあります。

子供を信頼しない親は、この子供は自分のものだと思い、自分の期待どおりになった時だけほめるのではないでしょうか。子供は、親の期待にこたえるために本音もいえず、気持ちを隠して生きてゆかなくてはなりません。

しかし、神さまに子供をささげた親は「この子は神さまから預かった子だ。子供なりに精いっぱいやったら、結果がうまくゆかなくても十分だ」と思えるのではないでしょうか。子供を神さまにささげるとは、なにもしないということではありません。困った時は寄り添い、子供の気持ちを大切にし、信頼することだと思います。


片柳神父のブログ

バイブル・エッセイ(943)委ねる愛

バイブル・エッセイ(784)神様からの預かりもの

バイブル・エッセイ(377)『聖なる家族


のびのびと自分らしく成長できるのは、

競争しなくてよいと知っている人。

「自分には自分のよさがあり、

相手には相手のよさがある。

競いあう理由など何もない」

その確信が、

自分らしい成長を可能にするのです。

片柳弘史著『やさしさの贈り物』(教文館刊)より


8、クリスマスに関連する動画


9、フランシスコ教皇の言葉

カトリック教会のHPより

降誕祭・復活祭メッセージ


10、クリスマスソング