イースター、復活祭とは(聖書の言葉)


イースター(Easter、wikipedia)とは、イエスが十字架にかかり三日目に復活するのを祝うときです。

クリスマスのように日付は固定していなく、毎年変動します。

イースターの日付の決め方は、春分の日の後にやってくる、最初の満月の次の日曜日です。

2023年は4月9日、

2024年は3月31日、

2025年は4月20日、

2026年は4月5日、

2027年は3月28日です。

このページでは、おもにハーベストタイムや片柳神父のブログのリンクを中心の内容になっています。


目次

1、木曜日、イエスは弟子たちの足を洗う(十字架刑にされる前日)

2、ペトロはイエスに裏切らないという

3、十字架につけられ、

墓に葬られる(金曜日)

4、復活した朝(日曜日の朝)

・マルコによる福音書より

・マタイによる福音書より

・ヨハネによる福音書より

5、エルサレムからエマオへの道を一緒に歩む

6、復活したイエスは弟子たちの前にあらわれる

・ヨハネによる福音書より

・ルカによる福音書より

7、イエスは弟子たちへ、ゆるしの指命を与える

8、疑い深いトマスの前に、イエスはあらわれる

9、ティベリアス湖畔(ガリラヤ湖)で、イエスは弟子たちに食事を準備する

10、ガリラヤへ(イスラエル北部)

11、祝福しながら天にのぼられる

12、フランシスコ教皇の言葉

13、参考サイト


1、木曜日。イエスは弟子たちの足を洗う(十字架刑にされる前日)

過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。

ヨハネによる福音書 13:1‭, ‬4‭-‬9‭, ‬14‭-‬15 口語訳


片柳神父のブログ

バイブル・エッセイ(796)足を差し出す

にもかかれていますが、このエッセイは片柳弘史著『あなたはわたしの愛する子』 (教文館)にも収録されています。わたしの別サイトで本書を紹介しているので転載いたします。


~私はいつもよいこでないと愛されない、と誤解していました。

しかし著者は次のように言います。

イエスは、わたしの汚れた足、汚れた心を見たところで、決してわたしたちを嫌いになることはありません。むしろ、わたしたちがイエスの愛を信じ、汚れた部分を差し出すことを喜んでくださいます。何も隠さず、あるがままの自分を差し出すということは、とりも直さず、「わたしはあなたを信頼している」という意味だからです。信じて汚れた部分を差し出すとき、心の汚れを包み隠さず告白するとき、イエスはその汚れをすべて洗い流してくださいます。

片柳弘史著『あなたはわたしの愛する子』 (教文館刊)より

~わたしは、「神さまの助けなんていらないので、自分でやっていきます」と強がっている自分に気づきました。しかし、等身大のあなたで大丈夫なんだよ、と慰められた気持ちになりました。自分の弱さを隠す必要はなく、弱さもイエスの前に差しだし、等身大の自分を受け入れられてゆきたいです。

なお、

バイブル・エッセイ(1020)この上ない愛

もわたしの好きな聖書エッセイです。


★関連サイト

2019年4月19日、ロイターニュース

ローマ法王が「洗足式」、受刑者12人の足洗い


2、ペトロはイエスに裏切らないという

シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」 イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

ヨハネによる福音書 13:36‭-‬38 新共同訳


~ペトロは、イエスのいちばん弟子でした。ペトロは強がりましたが、実際にはイエスを裏切って、「あんな人など知らない」と、言ってしまいます。

復活したイエスは、それでもペトロを愛され、大切な働きのために用いられました。失敗することは誰にでもあります。しかし失敗は終わりではないと思います。失敗も成功も、神さまは宝物にされる方。そして神さまはどんな過去を背負っていても、「あなたは大切な存在」と、一人ひとりを必要としてくださり、やりなおすちからを与えてくださるのです。


「共に生きていくための欠かせない一員として、自分という存在が必要とされている」と理解さえできれば、人はかなりの肉体的、精神的苦痛に耐えることができるものです。

ヘンリ・ナウエン著『すべて新たに』(日下部拓訳、あめんどう刊)より


3、十字架につけられ、墓に葬られる(金曜日)

夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。 この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。 ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、 岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。 マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。

マタイによる福音書 27:57‭-‬61 新共同訳


イエスの復活前のお話し

ハーベストタイム。Youtubeサイトです

丁寧に聖書から説明されています。

メシアの生涯(201)

メシアの生涯(202)


イエスの復活後のお話し

ハーベストタイムよりYoutubeサイトです

聖書から丁寧に説明されています。

メシアの生涯(203)復活(1)

メシアの生涯(204)復活(2)

メシアの生涯(205)復活(3)

メシアの生涯(206)復活(4)

メシアの生涯(207)復活(5)

メシアの生涯(208)復活(6)

メシアの生涯(209)復活(7)

メシアの生涯(210)復活(8)


4、復活した朝(日曜日の朝)

マルコによる福音書より

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

マルコ16:1-7、新共同訳


片柳神父のブログより

バイブル・エッセイ(799)墓から抜け出す

バイブル・エッセイ(776)墓から抜け出す

バイブル・エッセイ(775)ゆるしを信じる


マタイによる福音書より

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』 確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

マタイ28:1-10、新共同訳


片柳神父のブログより

バイブル・エッセイ(776)墓から抜け出す

バイブル・エッセイ(775)ゆるしを信じる


ヨハネによる福音書より

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 それから、この弟子たちは家に帰って行った。 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

ヨハネによる福音書 20:1‭-‬16 新共同訳


~マグダラとは、イスラエルにあるガリラヤ湖の西側に位置した港町です。マグダラのマリアは、おそらくこの地方の出身者だったのでしょう。

私はここを読んだときに疑問に思ったのは、イエスが復活してまっさきに出会ったのは、なぜ弟子たちが最初ではなかったのかということです。

ルカによる福音書8章には、マグダラのマリアは、イエスに7つの悪霊を追い出してもらったと書かれています。


イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、

ルカによる福音書 8:1‭-‬2 新共同訳


マグダラのマリアは、特別ではない問題を抱えていたと思われます。

企業は面接などして、一般的に受け答えがうまいひと、表情がいい人材を選ぶのではないでしょうか。そして、そのような人たちを集めようとします。

ところが、イエスがしたことはその逆でした。マグダラのマリアは、7つの悪霊がとりついていたと福音書は書いているからです。当時悪霊とはどのようなものだったのでしょう。もしかして、近づきたくもない存在。なんらかの問題を犯していたのかもしれません。7つというのですから、よっぽどひどかった状態だったのではないでしょうか。

あきらめたくなる評価がマグダラのマリアにくだされていたかもしれません。あの人はもうどうにもならない。神さまに見捨てられている人。置き去りにされている人。

しかし、復活のイエスを一番最初に目撃した人物は、問題を抱えていたマグダラのマリアであったと、ヨハネによる福音書は記録しています。

欠点や問題をかかえていても、おそれる必要はないということだと思います。神さまは、わたしたちがなにかできるから愛するのではなく、あなたがあなたであるだけで、生きているだけで喜んでくださるのです。


片柳神父のブログより

バイブル・エッセイ(61) 復活したイエス

バイブル・エッセイ(448)『墓の扉は開かれている』


★関連サイト

デイリーブレッド(マグダラのマリア)


5、エルサレムからエマオへの道を、一緒に歩む

この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。

ルカによる福音書 24:13‭-‬35 口語訳


~エルサレムからエマオ村へ歩く二人に、イエスは寄り添いました。

実際には、捕縛を恐れてエルサレムから故郷であるエマオへ逃げ帰っているところだったと思います。彼らは、イスラエルに残る仲間たちとわかれたのでしょう。聖書には、エルサレムからエマオ村まで7マイル(新共同訳では60スタディオン)と書いています。これは11キロくらいの距離です。

復活したイエスは、彼らと同じ距離を歩かれました。イエスは「わたしがここにいるではないか」とすぐ説教するのではなく、たとえ迷いのなかにあっても、寄り添われ11キロも歩まれました。

現代はともすれば、スピードを求めてしまいます。回り道や、ゆっくり考えたりする時間がかろんじられてしまいがちです。

しかしイスラエルの歴史では、モーセに導かれて40年の長い期間をえて脱出の旅をしました。回り道や40年という長い時間をとおして、神さまは恵みのときにしてくださいました。

エマオへの旅も、イエスは「そんなことで迷う必要はない。私が復活したイエスだから、エマオなんて行く必要はない。すぐエルサレムに戻ろう。時間の無駄だ」と、すぐ答えをいえたはずです。しかしイエスは迷える人のペースにあわすて、すぐに正論をだすのではなく、共に歩んでくださいました。2人の一人は、クレオパといいます。彼は

エルサレムに滞在していながら、

この数日そこで起こったことを、

あなただけはご存じなかったのですか。」

ルカによる福音書 24:18 

と、少し相手を突き放すいいかたしています。「あなたは、そんなことも知らないの?」と、クレオパはあきれたのかもしれません。しかしイエスは彼を批判せず、「どんなことですか」と謙虚にたずねられます。イエスは彼らの言葉をすぐに反論するのではなく、かれらの言葉をじっくり聞かれました。


主はシオンを慰め 

そのすべての廃虚を慰め 

荒れ野をエデンの園とし 

荒れ地を主の園とされる。 

そこには喜びと楽しみ、

感謝の歌声が響く。

旧約聖書、イザヤ書 51:3 新共同訳


失敗がするのが人間ですが、いつのまにか失敗がゆるされない社会になっていないか心配です。

誰かの期待にこたえることは、たしかに成長にとって大切かもしれません。しかし、その期待にこたえきれないとき、「弱い人間はつまらない」と命を否定するまでに至る要因を、社会が子供たちに圧力を与えているのではないか、と想いました。

イスラエルの民たちは、繰り返し神さまに背きました。イエスの弟子たちもイエスを見捨てました。パウロはクリスチャンになるまえまで、クリスチャンたちを迫害していました。人間の目からみたら最悪の状況です。しかし、イエスはゆるしました。そして、たいせつな使命を与えられました。

エマオ村へ歩く二人も完璧だったら復活したイエスと、エルサレムからエマオまで歩く時間がなかったかもしれません。神さまは、私たちの失敗や弱さからも、宝物をつくってくださる方なのです。


6、復活したイエスは、弟子たちの前にあらわれる

ヨハネによる福音書より

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

ヨハネによる福音書 20:19‭-‬21 新共同訳


~イエスを裏切った弟子たちは「なんてことをしてしまったんだ」と思い、部屋に鍵をしてこもっていました。しかしイエスは、これっぽっちも弟子たちを憎んでいませんでした。それどころか、復活したイエスは弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」と伝えました。

イエスの弟子たちは「こんな私でもゆるされた」という大きな喜びに包まれたではないでしょうか。

もしかして、イエスの弟子たちは弟子として成長するために「ゆるされる」という体験が必要だったのです。もし失敗がなければ間違えを犯した人をみて、「あなたはなんでこれぐらいもできないんだ。もっと、しっかりしなさい」と、厳しい人になり、他人の弱さをみつけて非難していたかもしれません。しかし自分の弱さを知った弟子たちは、他人の弱さに「私も弱さをかかえた仲間だよ。だいじょうぶだよ」と、伝えていったのではないでしょうか。

初期キリスト教会の指導者は強く完璧な指導者ではなく、弱くまちがえてもゆるしあう指導者だったのです。


片柳神父のブログより

バイブル・エッセイ(905)平和があるように


ルカによる福音書より

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。

 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

ルカによる福音書 24:36-‬43 新共同訳


~先ほどはヨハネの福音書からみましたが、こちらはルカの福音書からです。

弟子たちはなぜおそれたのでしょう。一つは亡霊をみておそれてしまったことがあるかもしれません。

もう一つに、イエスを見捨てて逃げてしまった罪悪感から厳しく批判されるにちがいない、というおそれもどこかにあったと思います。

現在は疑いの社会かもしれません。神さまの愛でさえ、「よい子にしてないとならない」など、様々な固定観念をつけくわえてしまうことがあります。そこには「もし・・・なら、救われる」という条件がつきます。そのために、愛され認められるために、自分とは違う自分になったりしてしまいます。心の奥底には「いまの私ではだめだ」と、根強い自己否定があるのです。

しかし、イエスは「あなたがたに平和があるように」といいます。「平和があるように」ということは、「何も心配しなくてよい。あなの罪はゆるされた」ということではないでしょうか。イエスはひとりひとりを、ゆるさずにおられない方なのです。


7、イエスは弟子たちへゆるしの指命を与える

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

ヨハネによる福音書 20:21‭-‬23 新共同訳


~弟子たちは赦され、もう一度やりなおす力が与えられました。そしてイエスは弟子たちに、「あなたがたを遣わす。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と託しました。裏切った弟子たちに、ゆるしの使命をあたえられました。

時に自分を赦すことができない時、他者も同じように裁いてしまうことがあります。不甲斐ない自分を認めることができず、理想の自分を演じてしまうことがあります。しかし、失敗した弟子たちが赦されたように、イエスは欠点があっても、神のゆるしをあたえてくださいます。

神の赦しが信じられないとき、自分を責めてしまうことがあります。なぜ、わたしたちは自分で自分を裁き、苦しめてしまうのでしょう。それはきっと、その人の中に、「今の自分ではだめだ、もっと優れた自分にならなければ生きる価値がない」という思い込みがあるからだと、ブログに片柳神父は書いていました。

しかし欠点があっても、理想通りになれなくても、それでもイエスはわたしたちを愛してくださる方。「これくらいの自分で良いではないか」と、身の丈でよいのではないでしょうか。


★完璧よりも大切なもの

イエスは弟子を必要とされました。

ルカによる福音書10章1節には、

「その後、主はほかに七十二人を任命し、

御自分が行くつもりのすべての

町や村に二人ずつ先に遣わされた。」

と書いてあります。

イエスは、72人も福音宣教の仲間をつくられました。しかしイエスは神であったので、一人で福音宣教をすることは可能でした。効率的にも一人でやったほうが間違いもないし、よかったのかもしれません。それでも、イエスは弟子たちを必要とされ、互いに支えあい助け合う道を選ばれました。

宣教のさいも一人で派遣しなく、二人ずつ行かせました。一人が怪我をしても二人なら助け合えます。二人ならさまざまな困難でも、協力して立ち向かえます。なにもかも1人でする必要はないと思います。一人でできないなら、二人ではじめてみればよいのではないでしょうか。


何もかも、自分の力でやろうと

する必要はありません。

マザー・テレサ

~自分の力だけで、何もかもできるはずがありません。できないことまでして失敗するより、できないことはできないと認め、助けてもらう勇気を持ちましょう。片柳弘史著『日めくりマザー・テレサ』(PHP)


8、疑い深いトマスの前に、イエスはあらわれる

十二弟子の一人のトマスは、その時、その場に居合わせませんでした。 それでみんなが、「ほんとうだ。主にお会いしたんだ」と口をすっぱくして話しましたが、本気にしません。頑としてこう言いはるばかりです。「主の御手に釘あとを見、この指をそこに差し入れ、この手を主のわき腹に差し入れてみなければ、信じない。」 八日たちました。その日も、弟子たちは集まっていました。今度はトマスもいっしょです。戸にはかぎがかかっていましたが、突然、前の時と同じようにイエスが一同の中に立ち、「平安があるように」とあいさつなさいました。 それからイエスは、トマスにおっしゃいました。「さあ、あなたの指をこの手に当ててみなさい。あなたの手をこのわき腹に差し入れてみなさい。いつまでも疑っていないで信じなさい。」 「ああ、わが主、わが神よ!」感きわまって、トマスは叫びました。 「わたしを見たから信じたのですか。しかし、見なくても信じる者は幸いです。」

ヨハネの福音書 20:24‭-‬29 JCB(リビングバイブル)


片柳神父のブログより

バイブル・エッセイ(777)目に見えないものを信じる


バイブル・エッセイ(449)『見えないものを信じる』


バイブル・エッセイ(342)2つの平和


バイブル・エッセイ(86)疑い深いトマス



9、ティベリアス湖畔(ガリラヤ湖)で、イエスは弟子たちに食事を準備する

このことがあってから、ガリラヤ湖のほとりで、イエスはもう一度、弟子たちの前に現れました。その時のいきさつはこうです。 シモン・ペテロ、トマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、私の兄弟のヤコブ、それに私と、ほかに二人の弟子がいっしょにいました。 「漁に行くぞ」とシモン・ペテロが言いだしました。するとみんな、「それじゃあ、おれたちも」というわけで、そろって出かけました。小舟に乗り込み、漁が始まりました。ところが一晩中かかっても、小さな魚一匹とれません。 もう夜明けというころ、だれかが岸辺に立っているのが見えました。ぼんやりかすんでいるので、だれなのかはわかりません。 「魚はとれましたかー。」その人が声をかけてきました。「いやー、全然だめだよー。」 「では、舟の右側に網を下ろしてごらんなさい。きっと、たくさんとれますよ。」さっそくそのとおりにすると、どうでしょう。重くて引き上げられないほど、たくさんの魚がかかったのです。 その時、私ははっと気がつき、「おい、あの方は主だよ!」とペテロに言いました。それを聞くと、ペテロは裸だったので、あわてて上着をはおり、水に飛び込みました。 舟に残った私たちは、百メートルほど離れた岸辺まで、魚ではち切れんばかりの網を引いて、そろそろ進みました。 着いてみると、炭火がおこしてあります。その上では魚がいいぐあいに焼けており、パンもあります。 「今とった魚を少し持って来なさい。」 イエスにこう言われて、シモン・ペテロがまっ先に飛んで行き、網を陸に引き上げました。数えてみると、なんと大きな魚が百五十三匹もとれていて、しかも網はどこも破れていません。 「さあ、ここへ来て、朝ごはんにしなさい」とイエスはうながされます。「ほんとうに主ですか」とあえて尋ねる者は一人もいません。それほどはっきりわかったのです。 イエスはそばに来られ、パンと魚をめいめいに配ってくださいました。 死から復活されたあと、私たちに現れてくださったのは、これで三度目です。

ヨハネの福音書 21:1‭-‬14 JCB(リビングバイブル)

~復活したイエスは、漁をおえて疲れはてた弟子たちのために自ら炭火をおこし、魚をやき、パンを準備して待っていました。

愛することも大切ですが、イエスから魚やパンをいただき、イエスの愛を受けとる「愛される時間」も大切ではないでしょうか。

「イエスの迷惑になることはしたくないので、私は結構です。自分で料理します」と、断る必要はないと思います。イエスの隣にすわり、ゆっくり食事をし、楽しむ時間を大切にしたいです。


愛の奉仕ばかり熱心で、愛されることを軽んじるなら、愛は壊れてしまいます。ゆっくり休んで神さまと向かい合い、愛をたっぷり受け止めるための時間、祈りの時間を大切にしましょう。

片柳弘史著『始まりのことば』(教文館刊)


片柳神父のブログより

バイブル・エッセイ(1025)共にいてくださる方

バイブル・エッセイ(171)焼いた魚とパン

バイブル・エッセイ(133)すべてを準備してくださる方



10、ガリラヤへ

さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。 すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。 そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。 そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。

マタイによる福音書 28:1‭-‬10 口語訳


片柳神父のブログ

バイブル・エッセイ(1079)ガリラヤへ


ガリラヤ(日本語wikipedia)とは、イスラエル北部にある地域の名前です。ガリラヤとは、イエスの時代どのような場所のであったのかは、ブログで触れられています。Youtubeでも公開されていますのでのせておきます。

私は著作権フリーの口語訳を用いています。



11、祝福しながら天にのぼられる

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

ルカによる福音書 24:50‭-‬51 新共同訳


「祝福」は、ギリシャ語ではユーロゲオー(εὐλογέω、

https://biblehub.com/greek/2127.htm)です。

「良い」と「言葉(ロゴス)」がつながった連結語です。意味は、良い言葉や、称賛する、祝福する等の意味があります。

創世記1章31節には、神さまはつくられたものをみて、「極めてよかった」と言われました。私の解釈は間違っているかもしれませんが、「あなたがいてくれて本当に嬉しい。あなたを祝福したい」という、神さまのあなたへの喜びが、祝福だとふと感じました。日本語のwikipediaの祝福の説明も、参考になりました。

祝福とは、雨をうけたり太陽のひかりをうけたりするのと同じで、自分の努力によってではなく、神さまからのプレゼントでうけとるものだと思います。

どんなに欠点があっても、神さまは弟子たちを愛されゆるされました。愛されるためにほかの人になったり、特別なことは必要ないと思います。「私はイエスに愛されている」と、心を開くだけでよいのです。

信仰のギリシャ語はピスティスといいますが、信頼する(trust)の意味もあります。不甲斐ない自分や、間違いだらけの自分をみて、「愛されているなんて信じられない」と疑ってしまうことが現実にはあるかもしれません。信頼するのが難しい時代かもしれません。しかし神さまの愛を信頼したいです

\(^-^)/


12、フランシスコ教皇の言葉

カトリック教会HPより

教皇フランシスコ、

2022年復活祭メッセージ(2022.4.17)

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/04/18/24537/


2021年復活祭メッセージ(2021.4.4)

https://www.cbcj.catholic.jp/2021/04/08/22384/


2020年復活祭メッセージ(2020.4.12)

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/04/15/20660/


2019年復活祭メッセージ(2019.4.21)

https://www.cbcj.catholic.jp/2019/04/21/18929/


2018年復活祭メッセージ(2018.4.1)

https://www.cbcj.catholic.jp/2018/04/01/16565/


13、参考サイト