片柳神父のブログより


片柳弘史神父のブログに、『祈りの小箱』という連載がありました。とても素敵な文章です(^^)

祈りの小箱

祈りの小箱(223)『ありのままの輝き』

わたしたちが、一番輝くのは、ありのままの自分を自然体で生きているときです。自分の弱さや限界を素直に認めた上で、自分に与えられたよいものを精いっぱいに生かして頑張っているときにこそ、わたしたちは一番輝くのです。


祈りの小箱(216)『自分の弱さを知っている人』

自分の弱さを知っている人は、人と協力できる人でもあります。自分は強いと思い込んでいる人は、プライドがあるので人に何かを頼むことができませんが、自分の弱さを知ってい人は、謙遜な心で人に何かを頼むことができるからです。

 こうして、弱い人は堅実に仕事をこなし、弱点を克服して成長し、人と協力して一人ではできないようなことをなしとげてゆきます。


祈りの小箱(215)『最後まで描き上げる』

理想通りの絵を描く必要はありません。たとえ不完全だったとしても、自分らしい絵を描くことができればいいのです。描き上げられた絵には、無限の価値があります。その絵は、世界でたった一人、自分にしか描けない絵だからです。完璧な絵を描くことではなく、自分らしい絵、世界でたった一枚だけの自分の絵を描くことを目指しましょう。


祈りの小箱(212)『幸せの条件』

仮に「誰も自分を愛してくれない」と思うことがあったとしても、あきらめる必要はありません。たとえ世界中の人から見捨てられたとしても、イエス様だけはわたしたちを見捨てることがないからです。イエス様は、あらゆる機会に、あらゆる出来事、出会いを通してわたしたちに語りかけ、愛を伝えようとしておられます。その愛に気づくことさえ出来れば、たとえ一人ぼっちでもわたしたちは幸せに生きることができます。幸せになるために必要なのは、たった一人の愛に気づくことなのです。


祈りの小箱(211)『「できる」ことと「である」こと』

わたしたちはつい、自分の価値を何かが「できる」ことに求めてしまいがちですが、わたしたちの価値はむしろ自分が自分「である」ことから生まれます。精一杯に自分らしく生きている人は、たとえ誰からも見られることなく、世間の役に立たなかったとしても、それだけで十分に美しく、価値があるのです。本当に美しいのは、背伸びをして「できる」自分を演じる人ではなく、精いっぱいに自分らしく生きる人。そのことを、花たちから学びたいと思います。

祈りの小箱(207)『共感する力』

病気の苦しみを味わったことがある人は、病気の人の苦しみを思って相手のために涙を流すことができます。肉親との死別の苦しみを味わったことがある人は、肉親を失った人の傍らに立って涙を流すことができます。そうすることで、相手の苦しみを一緒に担うことができるようになるのです。自分の苦しみを我がことのように共に担ってくれる人の存在ほど、苦しみの中にいる人を励ますものはありません。共感してくれる人の存在は、苦しみの中にあってある種の「救い」になりうるのです。その意味で、苦しみはわたしたちに、誰かを救うための力を与えてくれると言っていいでしょう。

 神がわたしたちに苦しみを与えるのは、同じ苦しみの中にある人たちに共感できるようになるため。その人たちの苦しみを共に担う力を与えるためなのです。苦しみを与えられるとは、使命を与えられることだと言ってもいいかもしれません。


祈りの小箱(206)『自分の本当の価値』

神様は、そんなわたしたちに、「何もできなくても、何も持っていなくても、あなたはあなたであるだけで価値がある。あなたは大切な『神の子』なのだ」と語りかけて下さいます。わたしたちの心に真の安らぎが訪れるのは、この愛のメッセージを受け入れられた時だけです。何もできなくても、何も持っていなくても、自分には価値があると信じられたとき。何もできない自分、何も持たない自分を受け入れることができたとき、わたしたちは初めて真の安らぎを味わうことができるのです。「何かができなければ、自分には価値がない」という思い込みを捨て、神の愛を信じられたとき、わたしたちは初めて、自分の本当の価値に気づくことができるのです。


祈りの小箱(205)『ありのままを認める勇気』

「ありのままの自分」になるとは弱くて不完全で醜い自分の姿を直視し、受け入れるということに他ならないのです。自分で勝手に思い描いている理想の自分、幻想の自分にしがみついている人は、決して「ありのままの自分」になることはできないでしょう。「ありのままの自分」を直視し、現実として受け入れる勇気を持った人だけが、「ありのままの自分」になることができるのです。等身大の自分を受け入れ、気取りも、劣等感もなく自然体で生きていくことができるのです。「ありのままの自分」を直視できるほどの勇者になれるように、神様に勇気の恵みを願いたいと思います。


祈りの小箱(200)『失うからこそ与えられる』

「神様が与えて下さるものは何でも笑顔で受け取り、取り去られるものは何でも笑顔で差し出しなさい」と、マザー・テレサは口癖のように言っていました。わたしたちのことを隅から隅まで御存じの神様は、わたしたちにとって必要なものだけを与え、必要がないものは取り去られる。だから神様を信頼して、受け取りたくないものでも笑顔で受け取り、手放したくないものでも笑顔で手放しなさいと言うのです。

 もし神様が取り去ろうとしておられるものを、ぎゅっと握りしめて手放さなかったらどうなるでしょう。神様は、わたしたちに必要なものを手渡すことができないに違いありません。古いものにしがみついていれば、わたしたちは新しくてもっと必要なもの、もっといいものを受け取ることができなくなってしまうのです。


祈りの小箱100~199はこちらより


祈りの小箱(199)『愛は終わらない』

「好き」と「愛する」の違いはなんでしょう。それは、相手を大切に思う気持ちに条件があるかどうかだと思います。「好き」というのは、文字通り、相手が好ましいということです。相手が好ましい限りにおいて相手を大切にするのが「好き」ということなのです。それに対して、「愛する」には条件がありません。神様が出会わせてくれた人だから、その人がその人である限りいつまでも大切に思い続ける。それが、「愛する」ということです。


祈りの小箱(198)『あなたは、あなただからすばらしい』

「きみは、きみだからすばらしい」と言われて育った子どもは、自分と人とを比べることもないでしょう。「自分は自分だからすばらしい。同じように、あの子もあの子だからすばらしい」と思うことができるようになるのです。「何かができなかったとしても、きみは、きみだからすばらしい」ということを絶えず伝えながら、子どもが自由に成長していくのを妨げないような励ましのことば、子どもの努力を讃えるような言葉だけをかけてゆきたいと思います。


祈りの小箱(195)『人生にまわり道はない』

「まわり道」という言葉は、いわゆる「結果論」だと思います。自分の進むべき本当の道を見つけたいまから見ると、これまでの人生が曲がりくねった「まわり道」に見えてしまうのです。ですが、その曲がりくねった道を通らずには「本当の道」にたどり着くことができなかったとすれば、その道も必要だったのです。曲がりくねった道を通って、たくさんの出会いや別れ、喜びや悲しみを経験したからこそ、「本当の道」を見つけることができたとさえ言えるでしょう。


祈りの小箱(191)『自分自身を愛するように』

「隣人を、自分のように愛しなさい」と、イエスは言います。ただ「隣人を愛しなさい」ではなく、「自分のように」と加えているところが大きなポイントだと思います。わたしたち人間は、結局のところ、自分自身を愛するようにしか隣人を愛することができないからです。隣人を愛したいなら、まず自分自身を愛することを学ばなければならないのです。


祈りの小箱(190)『タンポポにはタンポポの花』

どんなに頑張っても、タンポポの種がバラの花を咲かせることはできないし、バラの種がタンポポの花を咲かせることもできないのです。自分に一番ふさわしい花を、誇りを持って精いっぱいに咲かせることができたらいいですね。


祈りの小箱(187)『神様の鉛筆』

マザー・テレサはよく自分のことを、「神様の手の中の小さな鉛筆」と呼んでいましたが、そんなときにこそ、わたしたちは神様の手に握られた小さな鉛筆になればいいのです。そこから先は、自分の力でするのをやめ、神様の力で動かしていただくようにするのです。自分の思った通りに動くのをやめ、神様が思う通りに動くのです。


祈りの小箱(185)『苦しみのときこそ成長のとき』

苦しみがひどけれはひどいほど、わたしたちは大きく成長していくことができます。苦しみのときこそ、弱点を克服し、謙遜になり、思いやりに満ちた人になるためのチャンス。神様が下さった、成長のためのチャンス。そう思って、あらゆる苦しみを乗り越えてゆきたいと思います。


祈りの小箱(181)『待つのも信仰』

聖母マリアは、イエスの誕生に始まって次々と起こる不可解な出来事を、すべて「心に納めて、思いめぐらした」と言われています。どれほど意外な出来事に直面しても、すぐに答えを出さず、心の中でその出来事の意味を考え続けたのです。わたしたちの人生には、「これから一体、どうなるのだろう」と悩まざるを得ないことが、ときどき起こります。そんなとき、マリアのこの姿を思い出したいと思います。


祈りの小箱(170)『揺らぐことのない自信』

本当の意味で自分に自信を持つとは、人と比較しなくても、自分が自分であることに自信を持つということでしょう。自分自身との関係で、自分の生き方に納得している人。「人がどう思おうと、自分は精一杯に生きている。このような生き方にも必ず意味がある」と考えて、自分に誇りを持てる人こそ、本当の意味で自分に自信がある人なのです。


祈りの小箱(169)『自分に誇りを持つ』

神様から愛されていることを実感し、自分自身との間で自分の価値に合意できさえすれば、他には何も必要がないのです。自分と同じようにたくさんの欠点を抱えながらも頑張っている隣人に対して、そのような人たちは心からのエールを送ることができます。


祈りの小箱(168)『「思った通り」を手放せば』

いずれにしても、いらだちの根本的な原因は、何かが「思った通り」にならないことにあります。いらだたず、平安な心を取り戻したいならば、「思った通り」を手放す以外にありません。わたしたちは、家族や友人、社会はもちろん、自分自身さえ「思った通り」にすることができない、弱くて小さな存在にすぎないのです。全能の神ではないわたしたちに残されている唯一の選択肢は、ただあるがままを受け入れるということです。


祈りの小箱(166)『蒔きもせず、紡ぎもしない鳥たちさえ』

「わたしは役立たずだ。生きている意味がない」、そんな思いに取りつかれたときには、空の鳥を見上げたいと思います。何かの役に立つ必要など、まったくないのです。精いっぱいに生きているというだけで、わたしたちには価値があるのです。


祈りの小箱(165)『空の鳥をよく見なさい』

空の鳥たちは、この世の基準で見たときに、役に立つようなことを何もしていません。ですが、そんな鳥たちでさえ、神様は養って下さるというのです。働くことができなくても、はっきりと目に見える形で世の中の役に立つことができなくても、「自分には価値がない」などと思い込む必要はありません。空の鳥を愛して下さる神様は、何もできないわたしたちも必ず愛して下さるに違いないのです。


祈りの小箱(163)『自分をゆるしてあげましょう』

なぜ、わたしたちは自分で自分を裁き、苦しめてしまうのでしょう。それはきっと、その人の中に、「今の自分ではだめだ、もっと優れた自分にならなければ生きる価値がない」という思い込みがあるからでしょう。それは、大きな誤解です。神様は、たくさんの弱さや罪深さを抱えたありのままの姿のわたしたちを愛して下さっているからです。わたしたち人間は、誰もが弱くて罪深い存在にすぎないけれども、神から愛されているがゆえに生きる意味があるのです。


祈りの小箱(157)『自分自身へのいらだちと怒り』

思い通りに生きられない自分自身へのいらだちや怒りを、人にぶつけても仕方がありません。むしろ、自分自身さえ自分の思った通りにはできない自分の無力さを素直に認めて、神に助けを願うべきでしょう。相手の中に自分と同じ弱さを見つけたならば、その相手のためにも祈ったらいいでしょう。いらだちや怒りを感じるたびごとに、その根にあるものをしっかり見極めるようにしたいと思います。


祈りの小箱(149)『孤独の痛み』

神の愛を信じ、神の愛に満たされたときにだけ、愛を確認したいという強迫観念からまったく自由になることができるのです。孤独から自由になるために、一人になって神と向かい合う時間、祈る時間を大切にしたいと思います。


祈りの小箱(141)『真の謙遜』

本当に謙遜な人とは、自分の強さと弱さを過大にも過小にも評価せず、ありのままに受け入れられる人のことでしょう。神様が与えて下さったよさを神様が与えて下さった強さも弱さも、あるがままに受け入れられた人こそ、神様の前に身を低くした人、神様の前で謙遜な人なのです。


祈りの小箱(136)『動き出すのを待ちましょう』

止まっているように見える人を無理に動かそうとすれば、その人が抱えている問題はもっと複雑になってしまうでしょう。必ずいつか動き出す。そのことを信じて、ただひたすら待つことが必要な場合もあるようです。


祈りの小箱(134)『無条件の受け入れ』

真の愛が相手を無条件に、ありのままに受け入れることだとすれば、真に愛することができるのは、自分自身を無条件に、ありのままに受け入れることができた人だけです。その人がその人であるというだけで受け入れ、愛することができる人になるために、まず自分が自分を自分であるというだけで受け入れ、愛することから始めたいと思います。


祈りの小箱(133)『こんな私が』

たとえわずかなことしかできなかったとしても、そのできたことを神様に、周りの人々に感謝することができるのです。そのような人は、人生の終わりにも「こんな私が、あれもできたし、これもできた」と感謝して人生を終えることになるでしょう。

 「私としたことが」と考えるか、それとも「こんな私が」と考えるかに、傲慢な心で生きるか、それとも謙遜な心で生きるかに、私たちの幸せがかかっていると言ってもいいかもしれません。


祈りの小箱(132)『完璧さより、誠実さを』

周りの人からよく見られたい一心ですべての仕事を引き受け、すべてを完璧にこなそうとすれば、どんなに有能な人だってパニックを起こして当然でしょう。できないことをしようとするから、パニックに陥るのです。


祈りの小箱(128)『神様のストップ・サイン』

困難に直面したときには、立ち止まって、その困難がどんな意味であるかをよく考える必要があると思います。その困難が成長のために必要なもの、乗り越えるべきものであれば頑張って乗り越えなければなりません。ですが、もしその困難が神様のストップ・サインなら、むしろ進む方向を変えなければならないのです。たとえ遠回りになったとしても、神様が準備してくださった道ならば、それが一番の近道に違いありません。我を通さず、神の御旨を通す生き方を選びたいと思います。


祈りの小箱(125)『神様にすべてを委ねる』

本当に「神様にすべてを委ねる」なら、まずどの学校、どの会社に入るべきかを神様によくお尋ねするべきなのです。よく祈り、尋ね求めた結果、その道が神様の御旨に適うものであることを確かめてから、その道を進むために全力を尽くす。それが、本当の意味で「神様にすべてを委ねる」人の生き方でしょう。


祈りの小箱(124)『方向を確かめながら』

いま、自分が何とかして前に進もうと思っている道は、本当に自分の幸せにつながる道なのか、祈りの中でよく確かめるのです。もしかすると、目先の欲望にとらわれて本当の道を見失い、迷い道に入ったからその困難がやって来たのかもしれません。そうだとすれば、その困難を乗り越えず、方向を転換した方がいいでしょう。がんばらず、乗り越えないことによって、本当の道に立ち返るのです。

 「がんばり」は、ときによって我儘、頑固の隠れ蓑になることがある。それを忘れないようにしたいと思います。


祈りの小箱(123)マザー・テレサ『人を愛したいなら』

学歴や能力、財産、社会的地位など、自分について何か受け入れられないことがあれば、わたしたちはその同じ基準を相手にも当てはめてしまいがちです。弱くて不完全な相手を受け入れたいと思うなら、まずは弱くて不完全な自分を受け入れる必要があるのです。



祈りの小箱(118)『そんな自分が大好き』

自分の弱点や欠点を指摘されて傷ついたり、腹が立ったりするのは、自分でもその弱点や欠点を受け入れることができないからでしょう。こんな自分ではいたくない、なんとかしなければと思っているときにそんなことを言われたからこそ傷つくし、腹が立つのです。ですが、自分の中でその弱点や欠点を受け入れていれば、そんなことにはなりません。


祈りの小箱(116)『想像力の欠陥』

神の恵みを信じることによって、わたしたちは安心して将来のことを考えることができます。何かを奪い取られ、大きな試練に直面するかもしれませんが、神様それを補ってあまりあるほどの恵みを与え、試練を乗り越えるための力も与えて下さいます。だから、将来については何も心配する必要がないのです。神様の愛を信じて、まっすぐ将来に向かって進んでゆきましょう。


祈りの小箱(110)『傷を癒していただきましょう』

祈りの中で神様に怒りや憎しみを素直に打ち明けることです。「怒りや憎しみは悪いことだから」と思って隠す必要はまったくありません。神様は、わたしたちの愚痴にいつまでも付き合って下さる方です。膿が出尽くしたところで、神様はわたしたちの心の傷口に触れ、愛の温もりの中でその傷を癒してくださいます。


祈りの小箱(106)『たった5分でも祈るなら』

祈りには、わたしたちの生活のすべてを変える力があるのです。

 ためしに、1日のうちに5分だけでも祈ってみて下さい。その祈りの中で神様の深い愛に触れることができたなら、すべてが変わります。これまで悲しみに沈んでいた心は喜びに満たされ、絶望していた心は希望を見出し、不満をつぶやいていた心は感謝を取り戻し、将来のことへの心配に駆られていた心は大きな安らぎに包まれるのです。


祈りの小箱(105)『自分に自信を持ちましょう』

わたしたちは誰でも、一人ひとりが神様の作品だということを忘れないようにしたいと思います。例えて言うなら、わたしたち一人ひとりは、神様という陶芸家が作った茶碗のようなものなのです。もし茶碗がしゃべって、「わたしは本当につまらない茶碗だ、駄作だ」と言ったら、それを聞いている陶芸家はどう思うでしょう。


祈りの小箱(104)『幸せはつながりの中に』

本当の幸せは、理想の自分になることよりも、理想の自分になれない自分を受け入れてくれる人と出会うこと、たくさんの物を手に入れて自分を喜ばせることよりも、喜びを誰かと分かち合うことの中にあるのではないでしょうか。本当の幸せは、自分の中にも、物の中にもなく、人と人とのつながりの中にこそあるとわたしは思います。


祈りの小箱(103)『98%の恵み』

2%というのは特に根拠のある数字ではないのですが、1日のうちに起こったたくさんの出来事の中で、その嫌な出来事が占める割合はおそらくその程度のものなのです。1日の出来事のうちの圧倒的な部分は、神様の恵みに満たされているに違いないのです。


祈りの小箱(101)『たくさんの奇跡に守られて』

これまでの道のりを神様がそれほどの恵みで守り、導いて下さったとすれば、これからの道のりにも、わたしたちが想像できないほどたくさんの恵みが待っているに違いありません。何も心配する必要などないのです。先のことばかり考えるのはやめ、これまでに神様から頂いたすべての恵み、すべての奇跡を思い出しましょう。


祈りの小箱1~100はこちらからです。



祈りの小箱(100)『一番いい道』

すべてを正確にご存知の神様は、わたしたちが一番幸せになれる道を必ず準備してくださるはずです。もしわたしたちが一ヵ所で立ち止まり、不安や心配、恐れに駆られて先に進むのを躊躇すれば、その道が無駄になってしまいます。神様を信頼し、全力で前に向かって進み続けましょう。神様が準備して下さった道を、まっすぐに進んでゆきましょう。


祈りの小箱(93)『手の中にある幸せ』

人間の心は、たくさんの物を手に入れることによって満たされるのではなく、手に入れたものに感謝することで満たされる、そのことを彼女から改めてはっりと教わったような気がします。

 もしかすると、わたしたちが幸せになるために必要なものは、すでにわたしたちの手の中にあるのかもしれません。


祈りの小箱(91)『満たされるために』

欲望にとりつかれた人間の心は、どれだけたくさんのものを手に入れても決して満たされることがないのです。

 では、どうしたら心を満たすことができるのでしょう。そのためのカギは、「感謝」にあると思います。次から次へと新しいものを手に入れるのをやめ、今すでに手元にあるもの、神様がわたしたちに与えてくだったものに感謝するのです。


祈りの小箱(90)『天国の誕生日』

天国から地上で泣いているわたしたちの姿を見れば、きっとその人とは悲しむことでしょう。そして、いま自分は天国でこんなに幸せだということを知ってほしいと願うに違いありません。地上のわたしたちの目には死と見え、終わりと思える出来事が、神様の目から見たときには誕生であり、始まりであること。誰かがこの世を去った日、地上での命日は、その人が天国で永遠の命を頂いた日、天国での誕生日だということを忘れないようにしたいと思います。


祈りの小箱(89)『安らぎをもたらす人』

ピリピリした緊張感は、その場の状況を自分の思った通りにコントロールしたいというわたしの思いから生まれてきていたのです。想定外の発言や質問があれば早く打ち切ろうとイライラしたり、思った通りの反応が返ってこないことに不安を感じりするのは、すべてを自分の思った通りに動かしたかったからだったのです。

 そのことに気づいてからは、自分の思った通りにすべてをコントロールしようとするのをやめ、その場にいる人たちの中から出てくる動きによって会議や講座を進めていくことにしました。


祈りの小箱(88)『神さまからのプレゼント』

神さまからいただいた命をよろこんで生きることで、神さまをよろこばせる。それこそが、わたしたちの人生の意味だと言っていいでしょう。世の中の人たちからほめられるような大きなことが何もできなかったとしても、病気で寝たきりだったり、歳をとって体が動かなくなったりしても、よろこんで生きているだけで、わたしたちは神さまをよろこばせることができるのです。


祈りの小箱(84)『それぞれに違った使命』

人はそれぞれに違った使命を持って生まれてきたということを忘れると、わたしたちは自分にできることができない人を見下したり、裁いたりしてしまうかもしれません。わたしにできることがあの人にはできなくても、私にできないことをあの人はできる。そのことを、忘れないようにしたいと思います。


祈りの小箱(82)『無力さの恵み』

無様な姿を見せたくないと思うのは、これまで何かができる自分にプライドを持ち、自分を強く見せようとしてきたからでしょう。そうだとすれば、何かができなくなったときこそ、自分のありのままの弱さを人々にさらけだし、人々に助けてもらうためのチャンスだと言えます。何かができなくなったときにこそ、わたしたちはプライドを捨て、自分の弱さを相手にさらけだして助けてもらうことができるのです。


祈りの小箱(81)『自慢話と人の悪口』

神様はすべてをご存知です。不完全で間違いだらけのわたしたちをありのままに受け入れてくださる神様の愛に信頼し、神様に愛されている自分に自信を持ちましょう。神様の愛を感じられさえすれば、自慢話をせずにいられない気持ち、人の悪口をいわずにはいられない気持ちはどこかに消えてしまうのです。


祈りの小箱(79)『美しいデッサン』

消せない過去の失敗を悔やみ、いつまでも気に病む必要などまったくありません。今からでも神さまの手に身を委ね、神さまの思うままに線を引き始めさえすれば、神さまは必ずわたしたちの人生を美しい1枚の絵に仕上げて下さるでしょう。


祈りの小箱(77)『愛し、愛される交わり』

真実の愛は、愛し、愛される交わりの中にあります。愛されるばかりの人は、愛するための時間を、愛するばかりの人は、愛されるための時間をとりましょう。愛し合うことで、愛を完成させましょう。


祈りの小箱(75)『私たちを追いつめるもの』

自分を苦しめるだけのプライドなど、捨ててしまうのが一番です。わたしたちのプライドは、「神から愛されている」ということだけで十分です。もう自分で自分を苦しめるのはやめましょう。自分をゆるしてあげましょう。


祈りの小箱(73)『愛された罪人』

「罪人だが、しかし神から愛されている」「わたしは愛された罪人だ」という自覚こそ、イエスの弟子として生きようとする者にとって最もバランスのとれた立ち位置だと言えるかもしれません。この立ち位置をとった人だけが、傲慢にも卑屈にも陥らず、まっすぐ神の前に立てるからです。

 信仰生活を重ねて自分に自信を持ち、他の人々を裁くような傲慢に陥ったら、ただちに「自分は罪人である」ということを思い出しましょう。


祈りの小箱(72)『隠れた傲慢』

ありのままの無力な自分を、それでも神様から愛されている自分として受け入れられた人は、決して「もうだめだ」と思うことがありません。何が起こっても当然のこととして受けとめ、祈りながら乗り越えていくことができるでしょう。無力な自分を受け入れられた人、自分は弱いと分かっている人こそ、実は一番強いのです。


祈りの小箱(72)『等身大の自分を生きる』

「人からどう思われようと、何と言われようと、そんなことは関係ない。神様から愛されているのだからそれで十分だ」、そう思える人は、自分を実際より大きく見せよう、偉く見せようなどとは絶対にしないでしょう。そして、どんなときでも気取らず、驕らず、等身大の自分を生きることができるのです。

 いつも自分を実際より大きく見せようとして生きるのは肩が凝ります。それに、きっと長続きもしないでしょう。ありのままの不完全で無力な自分を神様に差出し、神様の大きな愛に包まれて等身大の自分を生きてゆきたいと思います。


祈りの小箱(71)『落ち込まないための秘訣』

自分の思った通りに物事が運ばなかったときや、認めがたい自分の弱さを誰かから突き付けられたとき、わたしたちは落ち込み、「もうだめだ、どうせわたしなんか」と思ってしまいます。ですが、それはもしかすると傲慢かもしれません。自分には思った通りに人々や状況を動かしていく力などないこと、自分は様々な欠点を抱えた弱い人間であることが初めから分かっていれば、どんなに失敗しても、どんなに批判されても、落ち込むことなどありえないのです。


祈りの小箱(67)『苦しみのときは成長のとき』

自分は強い人間だと思い込んでいる限り、わたしたちに成長はありません。自分の弱さを知るからこそ、その弱さを客観的に見つめ直して克服することができるのです。思い込みを完全に崩し、自分の弱さを徹底的に思い知らせてくれる痛みや悲しみ、辛さは、その意味で本当に大きな恵みです。それらは、神がわたしたちの傲慢を砕き、成長させるために与えてくれた贈り物だとさえ考えていいでしょう。わたしたちは、涙を流せば流すほど、強くなることができるのです。


祈りの小箱(65)『祈ることは愛すること』

「誰かのために祈る」と言いながら、実は自分のために祈っている。そんなことがよくあります。例えば、お母さんが「うちの娘が間違いに気づいて、わたしの思った通りの人生を選びますように」と祈る場合、会社で「同僚が回心して、わたしの提案を受け入れてくれますように」と祈る場合など、わたしたちは「相手のために祈る」と言いながら、実は自分の思いが実現するようにと祈っているのです。


祈りの小箱(59)『契約の虹』(創世記9)

神さまがノアに契約のしるしとして虹を見せたのは、疲れや苦しみに呑みこまれて神さまのことを忘れ、自分の心の中に閉じこもってしまいがちなわたしたち人間の弱さを神さまが知っておられるからに違いありません。仮にしるしがなかったとしても、神さまの心はただ一つ、わたしたちをなんとか励ましたい、神さまの愛を思い出させたいということだけです。神さまは、どんなときでもわたしたちを愛して下さっているのです。疲れたとき、苦しいときには、自分の中に閉じこもらず、空を見上げて神さまのことを思い出すようにしたいと思います。


祈りの小箱(56)『一緒に跪くことから』

やっかいなのは、わたしたちは自分自身の弱さや不完全さについて十分に知らないということです。自分のことさえよく知らないのですから、相手についてはなおさらでしょう。自分のことも相手のことも知らないままま、裁き続け、不平を言い続けていて状況がよくなるはずがありません。一番いいのは、互いの限界を認め合い、神の前に跪くことです。そうすれば、わたしたちのすべてをご存知の神様が、一番よい道をしめして下さるでしょう。


祈りの小箱(52)フランシスコ教皇『人々と出会う』

福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と言われたイエスの言葉を思い起こせば、これは当然のことでしょう。イエスは、大きな聖堂を作ってそこに人を集めなさいとは言いませんでした。出かけて行って苦しんでいる人々と出会い、神の国の福音を宣べ伝えなさいと言ったのです。


祈りの小箱(50)フランシスコ教皇『神の創造の傑作』

「神の栄光は生きている人間」という聖エイレナイオスの言葉を引用しながら、フランシスコ教皇は、すべての人間は神の創造の業の傑作だと言います。すべての被造物の中で唯一、神の似姿として造られた人間は、生きているだけで十分に価値があるということでしょう。神の前では、すべての生命が同じように限りなく尊いのです。

祈りの小箱(46)『苦しみの恵み』

「人間は、苦しみの中でだけ成長することができる」、というのはそういう意味だと思います。

 そう考えれば、多くの苦しみを、成長するための苦しみとして受け入れることができるようになるでしょう。その苦しみは、罰としての苦しみではなく、むしろ神から与えられた恵みとしての苦しみなのです。


祈りの小箱(45)福者コルカタのマザー・テレサ『神が何を言われるか』

神様に向かって祈るというとき、わたしたちはつい、神様に向かって一方的に自分の思いをぶちまけてしまいがちです。神様に自分の思いを正直に打ち明けるのはいいことですが、それで満足してはいけない。もっと大切なことがあるとマザー・テレサは言います。それは、神の声に耳を傾けることです。


祈りの小箱(42)福者コルカタのマザー・テレサ『愛し合うために』

心を静かにして振り返ってみれば、人間は、誰もが不完全な存在です。わたしは、わたし自身のことさえよく知らないし、相手のこととなればもっと分かりません。そんな不完全なわたしたちに、相手を見下したり、裁いたりする資格などないのです。そのことを認められる人は、偉大な人です。なぜなら、自分の弱さを素直に認められる人は、世の中にそれほど多くないからです。


祈りの小箱(39)福者コルカタのマザー・テレサ『傲慢のしるし』

がっかりするのはなぜでしょう。それは、心のどこかに、自分の力への期待があるからです。自分にはそれができたはずなのに、どういうわけかできなかった。そう思うからこそ、わたしたちはがっかりし、「できたはずなのに」と自分を責め続けるのです。


祈りの小箱(37)福者コルカタのマザー・テレサ「ありのままで愛されるために」

悪魔の誘惑とは、「こんな私がイエスから愛されるはずがない」、「わたしはイエスの愛に値しない」と思い込ませて、自らイエスの愛に背を向けさせるよう仕向ける罠のことです。悪魔は、プライドや傲慢に付け込んでわたしたちを自分自身に失望させ、「もうだめだ、終わりだ」と思い込ませてしまうのです。


祈りの小箱(31)マザー・テレサ『ありのままの自分』

神の前でありのままの自分、多くの欠点を抱えた弱い自分を受け入れている人は、自分の身に余るような褒め言葉を聞いても思い上ることがありません。それは事実に反するとはっきり知っているからです。ところが、ありのままの弱い自分を受け入れられない人は、過分な称賛をうけると、自分は優れたものであるとすぐに思い込んでしまいます。自分の欠点を覆い隠してくれる過分な称賛は、その人にとって好都合なのです。


祈りの小箱(28)『ありのままを受け入れる勇気』

勇気をもってありのままの自分の弱さを認めるとき、そこからわたしたちの成長が始まります。自分の弱点を冷静に受け止めたとき、初めてなぜその弱点が生まれるのか、どうしたら克服できるのかを考えることができるからです。

 ありのままの自分より立派な「こうありたい自分」になれなかったとしても、がっかりしたり、自分を否定したりする必要はありません。神様は、たくさんの弱点を抱えたわたしたちをありりのまま愛して下さっているからです。そのことを信じて、ありのままの自分の弱さを認める勇気を持ちましょう。


祈りの小箱(26)福者コルカタのマザー・テレサ『力を合わせれば』

何でもできる人など誰もいないし、逆に何もできないひ人など誰もいません。わたしたちは誰も、できることもあればできないこともある、不完全な人間なのです。

 マザー・テレサのこの言葉は、わたしたちにそのことを思い出させてくれます。傲慢になっても、絶望してもいけません。神様の愛の中で、よいところもあれば足りないところもある、ありのままの不完全な自分を受け入れましょう。


祈りの小箱(25)福者コルカタのマザー・テレサ『神の声を聞くために』

ときには考え事をやめ、立ち止まって神様のメッセージに耳を傾けてはどうでしょう。一輪の花の美しさを通して神様はわたしたちを「がんばりなさい」と優しく励ましてくれるかもしれないし、鳥のさえずりを通して神様はわたしたちに「そんなこと、気にしなくていいよ」と語りかけてくれるかもしれません。

祈りの小箱(21)『信仰を生きる』〜ベネディクト16世のメッセージに基づいて

「信仰」という言葉を誰にでもわかる日常生活の言葉に置き換えるなら、「信頼」という言葉が一番近いのではないでしょうか。信仰とは、神への信頼に他ならないからです。神を信頼している人は、どれほど大きな危険が迫っても動揺することがありません。困難なときこそ、神が必ず守って下さると確信しているからです。自分自身の力に頼っている人は、「もし失敗したらどうしよう」と将来のことを心配します。ですが、ただ神の力だけに頼っている人には、将来の心配はありえません。神が失敗することは絶対にないからです。

 あらゆる心配は、神への信頼の不足から起こってくると言っていいかもしれません。自分の力に頼る気もちがある限り、わたしたちは危険におびえ、将来の失敗を心配し続けなければならないのです。信頼の拠り所、人生の土台を自分の力から神の力へと完全に移すときにこそ、わたしたちは安らかな気持ちで日々を過ごすことができるでしょう。


祈りの小箱(19)マザー・テレサ『シンプルな人生』

神の御旨が分からないという人もいるかもしれません。ですが、本当にそうでしょうか。神の御旨は、聖書に書いてある通り、いつもとてもシンプルです。愛しなさい、赦しなさい、仕え合いなさい、貧しい人々を虐げてはならない。どこにも複雑なことなどないのです。神の御旨が分かりにくいと感じるなら、それはわたしたちが何かにしがみついているかもしれません。