私が好きな讃美歌(ワーシップソング)


目次

1、御心(みこころ)のままに/Lyre 

2、もちいてください/Lyre

3、井戸のそばで/Lyre

4、小さな祈り/Lyre

5、このままで/Lyre

6、花のように海のように/Lyre

7、このままの姿で/ノアミュージック

8、君は愛されるため生まれた/イ・ミンソプ

9、主は道を造られる/ドン・モーエン

10、イエスがいるから

11、Lyreの紹介(Youtube)

12、Third place Worship(サドプレ)の紹介(Youtube)

13、帰り道/Lyre

14、月の光/Lyre

15、Lyreの30周年動画


★関連サイト

・LyreのYoutubeアカウント(外部サイト)


・【10分で解説】

讃美歌や聖歌、ワーシップソングとは?

(外部サイト、新生宣教団)




1、御心(みこころ)のままに/Lyre

Lyre(リラ、wikipedia)の曲に「御心のままに」という讃美歌があります。この歌詞から考えてゆきたいと思います。


【御心のままに】Lyre

詞  小山晶子

曲  若林栄子


苦しみも悲しみも

別れへの恐れも

主は知って それでもと

最善をなし続ける


取らないでと祈ったり

助けてと祈ったり

でも 御心のままにと

心から祈っていたい


生きることも死ぬことも

その中にあるから


~人は神さまに様々な祈りをします。「神さま、こうしてください」とか「神さま、私の願い通りにしてください」など、様々な願望がでてきます。自分の願いどおりいけば神さまに感謝し、そうならなかったら不平を言ってしまうのです。しかし、イエスは十字架にかけられる前に、ゲッセマネという場所で次のように祈りました。


「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

マタイによる福音書 26:39 新共同訳


この杯(さかずき)とは十字架刑のことです。イエスは最初、この苦しみをなくしてくださいと、神さまに祈っていました。しかし、イエスは神さまのみ心のままに、と祈ります。自分の願いどおりではなく、神さまのみ心を信頼しました。

時に生活のなかで、「こうしてください」とか「ああしてください」と、神さまを利用してしまうことがあります。リラの歌詞では「取らないで」と祈ったりとありますが、神さまの前でジタバタして自分の願いどおりになるように願ってことはないでしょうか。しかしイエスは言われました。


あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

マタイによる福音書 6:8 新共同訳


神さまは、私たちが願う前から、私たちの思いを知っていてくださる、とイエスは言います。神さまに「あなたの御心のままにしてください」とゆだねるとき、そこからは神さまの出番(片柳神父のブログより)です。神様は、私たちをベストな方向に導いてくださるのです。


Maro著『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)には次のように書いています。

神様の計画は常に人間の計画よりもよいものです。ですからもし、自分の立てた計画通りに人生が運ばないなら、それは神様の立てた、よりよい計画に人生が導かれているのかもしれません。人間の目には一見、価値がないように見えるもの、無駄に見える時間に、神様は価値を見出したり、与えたりしてくださる方です。


2、もちいてください/Lyre

【もちいてください】Lyre

作詞:若林 栄子

作曲:若林 栄子


この世界の 痛みと叫び

全て知っておられる

主の声を聞いた


誰を遣わそう

誰が わたしのために

ゆくのだろう


いつか もっと

素晴らしい人になれた

その時ならと 思っていたけど


なにも いらない

そのままでいい

主が 共にいるから


今 あなたの前に進む

私はとても 小さいけれども

あなたの愛と 力によって

私を もちいてください

~「もっと素晴らしい人間になったら、神様は私を必要としてくれる」と思いがちです。しかし歌詞をよくみると、「そのままでいい」と歌っています。私はこの箇所を読んで、胸があたたかくなりました。

ついクリスチャンであると、しらないところで見本のような生き方をしないといけない、と私は誤解をしていました。がんばればがんばるほど、疲れてしまう自分。むしろ、「クリスチャンでなかったほうが楽だったのではないか?」と愚痴をいってしまう自分。エレミヤという預言者がいました。彼と神さまのやりとりが、聖書に書かれています。


わたしは言った。 「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。 わたしは若者にすぎませんから。」 しかし、主はわたしに言われた。 「若者にすぎないと言ってはならない。 わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。 彼らを恐れるな。 わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」と主は言われた。

エレミヤ書 1:6‭-‬8 新共同訳

~神様は、「あなたは若者でもいい」といったのです。それは、「あなたがまだ弱くても気にしない」ということだと思います。「もっと素晴らしい人間になったら神様は私を用いてくださる」と誤解しがちなとき、神様は「今のあなたでだいじょうぶだよ。いまの、あなたを用いてくださるんだよ」と言われているみたいで、私の大好きな讃美歌になりました。


Maro著『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)には、次のように書いています。

神様は「立派な人間」を通してその力を発揮するわけではありません。ダビデという「若くて体も小さい羊飼いの末っ子」を用いて力を発揮したように「無理。ましてこの人にはもっと無理。やってみる価値さえない」と、周りの人が思うような人を用いて、その力を発揮したりします。 「自分には何の才能も境遇もパワーもない」という人にこそ、神様は力を与え、その人を用いるんです。もし、皆様のなかでそんな風に悩んだり落ち込んだりしている方がいるなら、神様が次に用いるのはあなたかもしれないんです。



3、井戸のそばで/Lyre

聖書にでてくる人物2から転載しました。


『井戸のそばで』Lyre

作詞、若林栄子

作曲、若林栄子


1番

彼女は生きることに疲れて

すべてを投げ出したい日々の中

誰にも分かってはもらえない

痛みと涙を持ってた彼女を

あの井戸のそばで

あたたかな微笑みをして

ずっと待っていた 

ずっと待っていた

イエス様は待っていた


2番

雲は流れ風も過ぎてく

あわただしく変わる 

このときの中

決して変わらないみことばは

今も私に語りかけるたしかに

あの井戸のそばで

あたたかな微笑みをして

ずっと待っている 

ずっと待っている

イエス様は私たちを


あの井戸のそばで

あたたかな微笑みをして

ずっと待っていた

ずっと待っていた

イエス様は待っていた・・・

ずっと待っていた

ずっと待っていた

イエス様は待っていた


イエスは旅に疲れて井戸にいました。この時代、正午に井戸に水をくむ人はいません。みんな涼しい朝や夕にあわせて、水汲みをしていました。しかし、そんな暑いときに、ひっそりと水をくみにきた一人の女性がいました。このサマリアの女性が、社会から孤立していたことがわかります。太陽の熱が彼女に容赦なく照りつけます。イエスはその井戸にいました。彼女をずっと待っていたのです。イエスも暑かったでしょう。

この女性は過去に5人の夫がいたのでしょう。不道徳な生き方をしてユダヤ人からも、サマリア人からも嫌われていたのがこのサマリアの女性でした。

しかし、イエスは彼女に「水をのませてほしい」と頼むのです。イエスは、「あなたは必要とされている大切な存在なんだよ」と気づかせたのです。誰からも無視をされ嫌われていた彼女はビックリしたことでしょう。彼女はイエスとの会話のなかできたるべき救い主が、このイエスであると気づきます。彼女は嬉しくてたまらなくて、みんなのすんでる町にイエスのことを跳び跳ねていき、伝えはじめたのでしょう。この女性によってイエスを信じる人があらわれます。サマリア人はしばらく滞在してほしいことを頼んで、イエスは2日間その町に滞在します。

彼女はもう一人ではありません。たとえ過去がどうであれ、神さまに必要とされ「愛されている存在」であることを確信したのです。

今日もイエスはあの暑い井戸のそばで、あなたを待っています。私たちが大切な存在であることをつたえるために、今日もずっと待っています。私の大好きな讃美です。



4、小さな祈り/Lyre

【小さな祈り】Lyre

作詞、若林栄子

作曲 、若林栄子


この心の恐れや

苦しみの全てを

今わたしの内から

取り除いてください


ずっと幼い頃に

空を見上げながら

感じていた平安

与えてください


祈り求めた時

目の前の雲がとけてゆき

ただの澄みきった空


こんなに大きな空の下で

空より大きな主のふところで

今わたしはただ

あなただけの力の中で

生かされてる


~24時間どこにいても、私たちは祈ることができます。歌詞をみると、作者は大きな空に気づきます。しかし、その空よりも神さまのふところの暖かさを歌います。ふところとは、おそらく神様の愛だと思います。聖書には次のように言っています。


神は羽をもってあなたを覆い 

翼の下にかばってくださる。 

詩編 91:4 新共同訳

~親鳥が雛(ひな)を羽のなかで守るように、神さまは私たちを愛し、守ってくださるというのです。人は、失敗したり、過ちを犯してしまうことがあります。それを知ったうえで、神様の愛は空よりも大きく、私たちを受け止め、ゆるしてくださいます。私たちは今日、イエスに祈ることができます。不安やありのままの気持ちをイエスに伝えることができますように。


一日のうち5分でも祈るなら、残り23時間55分の質がまったく変わります。悲しみを喜びに、絶望を希望に、不満を感謝に、心配を信頼に変えるもの、それが祈りなのです。

片柳弘史著『こころの深呼吸』(教文館刊)



5、このままで/Lyre

【このままで】Lyre

作詞、塚田献

作曲、塚田献


誰か助けて叫ぶ心はいつも

あなたを求めていた

誰も知らない心の奥を

いつもゆるせず過ごしていた

このままで愛されてる喜びに

出会って今すぐに

主の御手の中に飛び込む

そのまま


愛にこたえて生きてゆくには

弱くおろかな自分だから

愛を求めて信じ続ける

確かなのぞみを抱きながら

ひとつだけ願うならば

かたわらに座って

主の声にその愛の声に

生きてく それだけ


恐れないで何も飾らずに

生きてゆけばいい

すべてのこと知っておられる主が

あなたを愛してる

このままで愛されてる喜びに

出会って今すぐに

主の御手の中に飛び込む

そのまま

ひとつだけ願うならば

かたわらに座って

主の声にその愛の声に

生きてく それだけ


作詞者は、「いつもゆるせず過ごしていた」とあります。どこかで、神様の愛を信じられなく、ゆるしを感じなかったのだと思います。しかし作詞者は、「このままで愛されてる喜びに出会って」と歌います。弱く、欠点があるけれどそれを含めて「私はこのままで愛されているんだ」と確信するのです。

私はサポートされるのが苦手で、「自分でなんでもできる」と強がっていた時期がありました。弱さを必死に隠し、強い時分をみせるために飾っていたのです。その毎日は、クタクタでした。私は「強くないと愛されない」と思っていたので、現実の弱い自分を受け止めることはできませんでした。

とうとう限界がきて、心の病がかかり体がまったく動かなくなりました。そのときに私は、弱くてもこのままで愛してくださる神さまの愛を知りました。片柳神父は、ブログで次のように書いています。

自分を苦しめるだけのプライドなど、捨ててしまうのが一番です。わたしたちのプライドは、「神から愛されている」ということだけで十分です。もう自分で自分を苦しめるのはやめましょう。自分をゆるしてあげましょう。


わたしは今、サポートされながら生活しています。少しずつ体も動くようになってきました。作詞者は、「何も飾らずに生きてゆけばいい」と歌います。タンポポはタンポポの花を咲かせ、コスモスはコスモスの花を咲かせ、私も神さまに造られた自分を飾らずに、すごしてゆきたいと思いました。


6、花のように海のように/Lyre

【花のように海のように】Lyre

作詞・作曲 塚田献


1.今まで歩んだ道には

恵の調べが満ちてる

「あなたを忘れない」と

語るその声が

今も心の深くで

あふれて響く


キリストの愛が今も

確かに私を囲んで

その中に生きることが

変わらぬわれらの道


どんなにつらい嵐も

逆巻く波に流されず

主を見上げて生きてゆこう

明日は花のように


2.涙でかすんだ空には

輝く光が差し込む

「あきめることはない」と

語るその声に

決して絶えることのない

愛を信じて


キリストの愛が今も

確かにあなたを囲んで

その中に歩むことが

変わらぬわれらの道


ゆるがぬ心の中に

希望の光をともして

主に全て委ねてゆこう

明日は海のように


キリストの愛に今も

確かにわれらは包まれ

その中に生きることが

全てに勝る喜び


★聖書の言葉

何よりもまず、

互いに熱心に愛し合いなさい。

愛は多くの罪をおおうからです。

ペテロの手紙第一 4章 8節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~人は過ちをおかします。しかし、神さまは私たちをゆるし、傷を優しく覆ってくださる方。愛は多くの罪をおおうとは、どんなに大きな過ちや失敗も、神様の愛によってゆるされることを示していると思います。おおうとは、ギリシャ語でカルプトー(καλύπτω)という動詞が使われています。この動詞はカバーするという意味があります。


さあ、我々は主のもとに帰ろう。 主は我々を引き裂かれたが、いやし 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。

旧約聖書、ホセア書 6:1 新共同訳

~神さまは、私たちの傷を優しく包帯をまいてくださる方。怪我をしているのに、「たいしたことはない」と強がっていたら、傷は化膿してしまうでしょう。弱さや悲しみを、ありのまま神さまに打ち明けたらきっと楽になると思います。


というのは、キリストの愛が

私たちを取り囲んでいるからです。

コリント人への手紙第二 5章 14節

聖書 新改訳第三版

~作詞者は、「キリストの愛が今も確かに私を囲んで、その中に生きることが変わらぬわれらの道」と歌います。神様の愛は、私たちの弱さや欠点を含めて囲んでくださるもの。囲むとは、優しく包みこんでくださるものだと思います。失敗して自己嫌悪に陥ったとき、「神さまは私をゆるしてくださる」と確信し、神様のゆるしを信頼できますように。神さまにゆるせない罪などないからです。

※新共同訳では、取り囲んでいるの箇所を「駆り立てる」と翻訳され、新改訳2017では「捕えている」と翻訳されています。ギリシャ語では、συνέχω(スネコー、英語サイト)という動詞が使われています。


★参考サイト

片柳神父のブログ

祈りの小箱(163)『自分をゆるしてあげましょう』


7、このままの姿で/ノアミュージック

このままの姿で

作詞・作曲、ノアミュージック


ちいさな野の花でも

主の愛をうけて かがやく

あふれる 主のめぐみは

いついつまでも


バラは バラのように

すみれは すみれのように

わたしも このままの姿で

ついてゆきます


空をとぶ 鳥たちは

主の愛を 歌いつづける

あふれる 感謝 喜びは

いついつまでも


ワシは ワシのように

すずめは すずめのように

わたしも 主の ほめうたを

歌いつづける


~神様は世界を作ったときに、次のように書かれています。


神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。

創世記 1章 31節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


神様は花や鳥、人や自然を見渡して、造られたものを「非常によかった」と思われました。一人ひとりは性格やできることは違います。しかし、神さまの目からみたとき一人ひとりは神さまの造られた最高傑作です。つい、何が「できる」かで人を評価してしまいがちですが、自然には様々な花や鳥たちがいて、みんな違うけれど「ある」だけで美しい存在です。愛されるために他の姿になろうとせず、このままの姿で神さまに委ねてゆきたいと思いました。とても歌詞が優しい、美しい賛美だと思います。


8、君は愛されるため生まれた/イ・ミンソプ

【君は愛されるため生まれた】

作詞・作曲、イ・ミンソプ


きみは愛されるために生まれた

きみの生涯は愛で満ちている

きみは愛されるために生まれた

きみの生涯は愛で満ちている

 

永遠の神の愛は 

われらの出会いの中で実を結ぶ

きみの存在が 

私にはどれほどの大きな喜びでしょう

 

きみは愛されるため生まれた 

今もその愛

受けている

きみは愛されるため生まれた 

今もその愛

受けている


私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

ヨハネの手紙第一 4章 10〜11節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


~人は相手につい、「もっとこうしてほしい」と言ってしまいます。相手を自分の理想にかなったら気に入って、そうでないと機嫌を悪くしてしまうのです。もしそのような親に育てられたなら、いつも「お母さんの期待にこたえないと、見捨てられる」と不安になるのではないでしょうか。

しかし、そもそも愛するとは、相手を自分の理想の相手に変えることではないと思います。愛するとは、「あなたがあなたであるだけで」喜ぶことだと思います。私たちが神を愛したから、見返りで神が私たちを愛されたのではありません。

人は他人の役にたち、能力があったら愛されると思いがちです。しかし、すべてのはじまりは、神が私たちを愛しており、一人ひとりは愛されるために生まれました。何か「できる」から愛されるのではなく、あなた「である」だけで神さまは喜んでくださるのです。「あなたは愛されるため生まれた」と歌う賛美は、生きる勇気を与えてくれる賛美ではないでしょうか。


9、主は道を造られる/ドン・モーエン

『主は道を造られる』 

作詞・作曲 、ドン・モーエン

 

主は道を 日々つくられる

何もないように 思える時でも

主は御手で 御もとで支え

新しい明日へ 主は道をつくられる

 

天と地が滅び失せても

主の御言葉 滅びず

荒野に道を 砂漠に川を

今日もつくられる


この賛美ができた背景は、

ギデオン協会がわかりやすいです。


見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。

イザヤ書 43章 19節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


~神さまはなにもない荒れ野のような場所にも、私たちに人生の道を設けてくださるとイザヤ書には書いています。

迷いの連続のときがあります。「どうしよう」と焦るときがあります。しかしそんな時、この賛美を聞くと、自分のできることは精いっぱいして、あとは神さまに委ねようと思えるのではないでしょうか。

受験に失敗したり、面接でおちたり、途方にくれるときがあります。まるで、荒野におきざりにされ方角を失うことがあります。しかし、神様は私たちを見捨てることなく、今日も道を造ってくださいます。自分の思いどおりにいかないときがあります。しかし、たとえそうだとしても、神様が準備してくれた道は一番いい道ではないでしょうか。神様が準備してくれた道を、助けあって歩んでゆけますように。


10、イエスがいるから

【イエスがいるから】


神は人を愛されて 

そのひとり子をこの世におくり

私たちの罪のために 

十字架につけてくださった

イエスがいるから 明日はこわくない 

イエスがいるから 恐れは消え

イエスがいるから 人生はすばらしい 

彼に全てを ゆだねた今は


イエスは死んで 墓にほうむられ 

三日目の後に甦られた

救い主(ぬし)は今も生きておられる 

あなたへの愛を示すため

イエスがいるから 明日はこわくない 

イエスがいるから 恐れは消え

イエスがいるから 人生はすばらしい 

彼に全てを ゆだねた今は


作詞者は、「イエスがいるから人生はすばらしい」と歌います。それは、「神が人を愛された」という歌詞に関係あると私は思います。


イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

マルコによる福音書 2:17 新共同訳


イエスは、職業や病や弱さによって「罪人」とよばれた人たちに、「あなたは、神にゆるされる神さまの大切な存在」であることを伝えました。逆に、「自分はいつも宗教の教えを守り、正しい生活をしている。じぶんたちは救われる」と相手を見下した宗教家たちを批判しました。イエスに愛され、ゆるされ、人間としての誇りを取り戻した人たちは、生活がかわったと思います。

朝おきて、「私は誰にも必要とされていない」と思う生活から、「私は神さまに必要とされ、互いに助けあって生きてゆける」と目を耀かせたでしょう。イエスがいるから人生は素晴らしい、という歌詞は、神さまと一緒に生きる喜びがたくさんつまった賛美だと思いました。


Ruahworship

Youtube公式サイト


11、Lyreの紹介(Youtube)

Lyre楽譜集(外部サイト、教文館)


12、Third place Worship(サドプレ)の紹介(Youtube)


13、帰り道/Lyre

【帰り道】Lyre

作詞・作曲、若林 栄子

ほんのささいなことで

傷ついてしまう私はとてもちいさく

こんな多くの人が

足早に過ぎていく中をながれてあるく


生きてゆく ただそのことが 

難しくおもう夜だけど

今日がたとえ 涙で終わって 

朝の光はこの心を照らす

私たちが見上げるそのかたは 

ここにおられる

今わたしのうちに


~リラのアルバム『きっと朝(あした)には』に収録されている曲です。

今日がたとえ涙で終わっても希望の朝(あした)はきっと来る。─「心のかなしみはいつか 喜びにかわることを信じて 」

(いのちのことば社より)


~この讃美歌(ワーシップ)をきいて、

詩編の聖書の言葉を思い出しました。

涙を蒔く人は、

やがて喜びを刈り取ります。 

種を手にし、

泣きながら出て行った人々が、 

やがて収穫の束をかかえ、 

歌いながら帰って来るのです。

詩篇 126:5‭-‬6 リビングバイブル


「夜はよもすがら泣きかなしんでも、

朝と共に喜びが来る。」

旧約聖書

詩篇 30・5、口語訳

今は生産性がもとめられ、たえず「あなたは何かしなければならない。何かできなければならない」と評価され、足早になっているきがします。ほんとうは立ち止まり、やすみたいのに・・・。

いきていると悲しみがあります。その半分は、じぶんのおもいどおりになってほしいところから生まれてくるようなきがします。しかしたとえ悲しみであっても、喜びであっても、思いどおりにならなくても、かみさまはすべての道を宝にしてくださるのではないでしょうか。

たとえ悲しみにしずんでも、かみさまは新しい朝を与えてくださいます。私たちが見上げる方(かみさま)は、私たちの内にいるとは、神は私たちと一緒にいてくださり、決して一人ではないことを歌っていると思いました。

神さまに愛された自分をしるときに、自分のペースを取り戻し、ゆっくりと深呼吸してゆけるのではないでしょうか。

一人でなにもかも背負う必要はなく、身の丈にあった荷物だけでよいと思います。背伸びしなくても欠点があっても、神さまは私たちを愛してくださり、「あなたがいてくれて、ほんとうに嬉しい」と喜んでくださる方。

朝おきたときに、「今日も私は愛されている」と安心し、新しい日を仲間と助けあってゆきたいと思いました。


参考サイト

月刊いのちのことば(2024年3月号)


14、月の光/Lyre

【月の光】Lyre

作詞・作曲 若林栄子


どこまで続く広い大地が

すいこまれる空の下で

かたいじ張って生きてる

私はあまりにも無力で

何も残っていないと思ってた

自分の足あとたどれば

この空の広さにまさる

愛に生かされた日々があった 


ひとりで泣いてた夜も

月の光があったように 

今の私のありのままを

包みこむ愛があった


今日の言葉(2月)より引用します

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。

腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、

教えられた。 

・・・あなたがたは世の光である。

山の上にある町は、隠れることができない。

マタイによる福音書 5:1‭-‬2‭, ‬14 新共同訳

ヨハネ福音書8章12節によれば、イエスは

「私は世の光である。

私に従う者は闇の中を歩まず、

命の光を持つ。」と言われました。

わたしたちが光となるためには、神さまの愛の光を、まず受ける必要があると思いました。

「私はは神さまに愛されている、かけがえのない大切な存在なんだ。神さまの子どもなんだ」と確信してよいのです。

人間は、神さまの愛の光をたっぷりあびて、はじめて安心することができると思います。

またイエスは、「あなたがたは世の光である」といいました。これを聞いていたのは、弟子たちの周りに群衆がいたことも聖書に書かれています。

もしかすると、子どももいたかもしれません。ご高齢の方もいたかもしれません。病気を抱えていた人もいたでしょう。群衆ですから、多種多様な人の集まりであったことでしょう。そんなみんなに、イエスは世の光と呼んでくださいました。

それは、どんな人にも神さまから与えられた使命があり、どんな人も神さまは必要としておられるということではないでしょうか。

「自分なんてつまらない人間なんだ。

生きる意味はないんだ」と言う人に、

「あなたがたには希望がある。

あなたは必要とされている、大切な存在」と、

イエスはよびかけたのです。

「イエスよ、私は世の光ではないですよ。

ほら、全然光っていないですよ。

不器用で毎日は失敗だらけです」と、

私はふとイエスに反論してしまいました。

しかし、イエスはわたしたちの弱さを知ったうえで、「あなたがたは世の光だ」といってくださいます。

私たちが輝くことができるのは、自分を実際より、よくみせようと思ったり、自分以上の自分を演じる必要はないと思いました。

この賛美には、

ひとりで泣いてた夜も

月の光があったように 

今の私のありのままを

包みこむ愛があった

という歌詞があります。

月は自分でひかりをはなっていませんが、太陽の光をうけて輝くように、一人だけの力でがんばるのではなく、互いに助けあえばよいと思います。

イエスは、私たちのありのままを包みこみ、「あなたがいてくれて、嬉しい」と呼び掛けてくださる方。

イエスは「あなたの光」といっていません。「あなたがた」といっています。もし自分の光が消えそうで、弱ってしまう時があります。そんなときは、サポートしてくれる人がいるのではないでしょうか。「私は強いからひとりで生きていける」と強がる必要はないと思います。

ときには、相手の優しさを信頼して、仲間の光で照らしてもらいましょう。いつか元気がでてきたら、小さな光でもよいか、困っている方に寄り添い、照らしてあげられたらいいですね。

いつも、互いにたすけあってゆけますように。

参考サイト、片柳神父のブログ

祈りの小箱(223)『ありのままの輝き』


15、Lyreの30周年動画