目次
はじめに
1、あなたは大切な存在
2、生きているだけで十分です
3、サポートをうける大切さ
4、違う自分になる必要はありません
5、落ち込むときもあっていい
6、関連記事
あなたを造った主は、
今こう言って慰めてくれます。
「恐れるな。
わたしはあなたを買い戻したのだ。
わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのものだ。 ・・・
わたしにとって、あなたは高価で尊いからだ。 わたしはあなたを愛している。」
イザヤ書 43:1-2, 4 JCB(リビングバイブル)
Because you are precious in my sight and honored and I love you,
一人一人は神さまの目からみてprecious(貴重で、かけがえのない、大切な)存在です。一人一人は神さまに愛されて作られた、最高傑作です。ちなみに「愛する」は旧約聖書が書かれたヘブライ語で、アーハブ(אָהַב、英語辞典サイト)という動詞が使われています)。
この動詞は、
「自分自身を愛するように
隣人を愛しなさい。」
レビ記 19:18 新共同訳
の箇所でも「アーハブ」が使用されています。「自分自身のように」は、カモーハ(כָּמ֑וֹךָ、英語辞典サイト)が使用されています。またアーハブは、
あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。
と書かれています。寄留者(きりゅうしゃ)とはゲル(גֵּר)といわれ一時滞在しているユダヤ人以外の、外国人のことでした(参考サイト)。どんな国籍や状況にある方も、神さまにとって大切な存在です。
自分がわからないと、他人の評価で振り回されてしまいがちです。「わたしって、どんな存在?」と迷うときがあります。
しかし、「自分は愛された大切な存在」と信じていたら心がラクになるのではないでしょうか。
『あなたの隣人を
自分自身のように愛しなさい。』
これらよりも重要な命令は、
ほかにありません。」
マルコの福音書 12章 31節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
~自分を好きになりたいが、欠点があるからという理由で自分を受け入れられないかもしれません。
イエスは
「隣人を自分自身のように愛しなさい」
(マルコ12:31)
と言われました。
他人を愛するためには「自分自身」も含めて愛すること大切だと思います。愛を与えつくしたマザー・テレサも次のように言っています。
「イエスはあなたたちを愛しているのです。もし、ほかの人々から受け入れられないときも、自分で自分を受け入れられないときでも、イエスはいつでもあなたたちを受け入れるのです。イエスから愛されるために自分と違ったものになる必要はありません。信じなさい、あなたたちはイエスにとってかけがえのないものなのです。」
~マザーはイエスから愛されていることを大切にしていました。マザーの自己犠牲にみえるほどの愛する力は「私はこんなにもイエスに愛されている」という喜びにあったのではないでしょうか。
父がわたしを愛されたように、
わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
ヨハネによる福音書 15:9 新共同訳
~イエスも「父がわたしを愛された」といいます。愛されたはギリシャ語でアガパオーというギリシャ語が使われています。これは弱さも強さも含めた全てを愛する愛です。イエスは「私は神から愛されている」と確信していたと思います。
渡辺和子さんも次のように書いています。
自分を愛するということは、かくて、主なる神を愛することと矛盾するどころか、むしろ、不可分の関係にあるのです。創られたものが、「自分はつまらない、惨めなものでしかない」と卑下することは、決して、創造者への賛美にはなりません。そうではなくて、自分のありのままの姿を認め、自分の至らなさ、惨めさを認めながら、それを「たいせつ」なものと愛してくださる神に応えて、価値ある人生にしてゆくことがみ心に叶う生き方なのです。
自分を愛するということは利己主義ではなく、むしろその反対です。なぜなら、利己主義というのは、自分がいつも光り輝き、他人より良い立場に無いと自分が愛せない人が取る行動だからです。その反対に、どんな自分でも、つまり、どこといって取柄のない、それどころか、時に愛想の尽きるような自分でも、いとおしむことのできる人こそ、真に自分を愛している人であり、それを可能にするのは、そんな自分もすでに愛されている、つまり、「デウスのごたいせつ」であることへの確信です。信じるということ、信仰というのは、結局そういうことだと思うのです。
渡辺和子著『愛をつかむ』(PHP)より
わたしたちの価値観は親や社会によって形成されます。当たり前と思っていたことも、間違っている可能性があります。たとえば『自分はつまらない』と決めているのは他の誰かだったりします。
★耳をすますと
わたしには、
この囲いに入っていないほかの羊もいる。
その羊をも導かなければならない。
その羊もわたしの声を聞き分ける。
新約聖書
ヨハネによる福音書 10:16 新共同訳
生活していると、テレビやSNSや、他人の評価など、様々な声がきこえてきます。ときどき、「今日は失敗したから、わたしはダメな存在」と決める方がいます。しかし、ダメな存在と決めてるのは、自分の価値観だったりします。
聖書は私たちは神さまの羊で、神さまの声を聞き分けるとあります。神さまの声とは、愛の声。「わたしはあなたを愛している」という声です。もし、なにもかも理想どおりいかなくイライラした時があっても、神さまの言葉に耳をすましてみませんか。
★信頼
わたしたちが愛するのは、
神がまずわたしたちを
愛してくださったからです。
新約聖書
ヨハネの手紙一 4:19 新共同訳
~一人ひとりは神様に愛された存在です。何か「できる」からではなく、あなたがあなた「である」だけで、神さまは喜んでくださいます。信じるはギリシャ語で、ピスティス(πίστις)とよび、信頼する(trust)という意味もあります(英語のサイト)。
信頼とは相手を信じ、頼ることではないでしょうか。自分でなにもかもする必要はなく、サポートしてほしい部分は神さまにサポートしてもらえたら心の重荷が軽くなると、私は思います。片柳神父はブログで次のように言っています。
祈りの小箱(21)『信仰を生きる』〜ベネディクト16世のメッセージに基づいて
「信仰」という言葉を誰にでもわかる日常生活の言葉に置き換えるなら、「信頼」という言葉が一番近いのではないでしょうか。信仰とは、神への信頼に他ならないからです。神を信頼している人は、どれほど大きな危険が迫っても動揺することがありません。困難なときこそ、神が必ず守って下さると確信しているからです。自分自身の力に頼っている人は、「もし失敗したらどうしよう」と将来のことを心配します。ですが、ただ神の力だけに頼っている人には、将来の心配はありえません。神が失敗することは絶対にないからです。
あらゆる心配は、神への信頼の不足から起こってくると言っていいかもしれません。自分の力に頼る気もちがある限り、わたしたちは危険におびえ、将来の失敗を心配し続けなければならないのです。信頼の拠り所、人生の土台を自分の力から神の力へと完全に移すときにこそ、わたしたちは安らかな気持ちで日々を過ごすことができるでしょう。
★あなたが産まれて、本当に良かった
あなたは、わたしの内臓を造り
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
胎児であったわたしを
あなたの目は見ておられた。
わたしの日々はあなたの書に
すべて記されている
まだその一日も造られないうちから。
旧約聖書
詩編 139:13, 16 新共同訳
~目の色、鼻の高さ、髪の色、すべてが、神さまの手によって作られ、一人ひとりは生まれてきました。
自信を失っているときは、どこかで「自分はダメだ」と否定しがちです。自分の能力であったり、過ちを犯してしまったかもしれません。しかし人は新しくやり直す力が与えられます。神さまはあなたが産まれる前からあなたを愛しており、あなたの誕生を心待ちにしていたのです。
★神様につくられたあなた
良識を得る者は自分自身を愛する者。
英知を保つ者は幸いを見つける。
旧約聖書
箴言 19章 8節、新改訳2017
~聖書をシンプルにまとめれば、神さまはあなたを愛していることではないでしょうか。聖書の良識(レブ、לֵב)をえるものは、神様につくられた自分の命を愛すると、聖書にかいています。レブを英語ヘブライ語辞典で調べると、
→https://biblehub.com/hebrew/3820.htm過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
ヨハネによる福音書 13:1 口語訳
~愛しとおすとは、醜さや弱さも含めて相手を喜ぶことだと思います。弟子たちは弱さを抱えていても、イエスは「あなたが大切な存在」と呼びかけ愛されました。
神の恵みにより、
キリスト・イエスによる贖いを通して、
価なしに義と認められるからです。
ローマ人への手紙 3章 24節、新改訳2017
恵みとは神様からのプレゼント。
義と認められるとは、神様に愛されゆるされることです。
聖書の知識があって素晴らしい人になったら神様に愛されると誤解しがちです。
しかし「価なしに」という言葉があります。なにか「できる」のではなく「できなく」ても、あなたがあなたであるだけで神さまは喜んでくださるのです。
同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
ローマ人への手紙 8章 26節、新改訳2017
~御霊(みたま)とは聖霊です。とりなしとは自分が疲れ何もでないときに、神様がすべての面でサポートしてくださること。自分の力でなにごともやっていかなければ、と心配する必要はないと思います。神様に委ねたときそこからは神様が助けてくださり、神様の出番がはじまるのです。
★重荷をおろして
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、
すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
ローマ人への手紙 8章 28節
聖書 新改訳2017
~神さまが道を作ってくださり、わたしたちを最も良い方向に導いてくださると聖書は約束しています。肩の力をぬいて、重たい荷物をゆっくりおろしてよいのではないでしょうか。
イエスに愛されるなかで、少しずつ自分を大切にできてゆくと思います。そのためにも、「神さまはあなたを愛している」と呼びかけを聞きたいと思います。
★完璧じゃなくてもいい
互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。
ガラテヤの信徒への手紙 6:2-4 新共同訳
~無気力なときは、エネルギーを使い果たしていることがあります。それは、自分のサイズを忘れて偉くみせようと誇ってしまうからではないでしょうか。
しかし聖書には、他人に誇ることはできないといいます。人は、自分の価値を他人に認められることによって、自分の価値を探そうとしがちです。そのために他人の上にたち、つい威張ってしまうのです。威張るなかで自分を飾り、自分の等身大のサイズを忘れてしまうと生きることに疲れてしまうと思います。いばっていても、本音では「実際の自分をみたらみんな私のことを嫌うだろう」とおもっています。
しかし、神さまはたとえあなたが弱く、不完全であっても、あなたをありのまま愛してるくださいます。自分を強くみせるためにつけていた飾りは捨てていいのです。
聖書では互いに重荷を背負いなさいといいます。それは、互いに助け合っていこうよ、ということだと思います。助け合えば荷物が軽くなり、リフレッシュしてすごしてゆけるのではないでしょうか。
色々なことに挑戦することは良いことですが、「あれもしなければ、これもしなければ」と焦ると荷物が重くなりできることさえできなくなります。
完璧にしようとするとパニックにもなります。自分の限界を謙虚に認め互いに仲間と助けあい、支えあうことが大切だと、私は思います。
いろいろなことに挑戦するのはよいですが、わたしたちは、つい張り切りすぎて、自分が背負いきれる以上の荷物を背負ってしまいがちなのです。ときには、背負った荷物を下ろし、どれが本当に背負うべき荷物なのかを確かめてみたらよいでしょう。・・・。荷物を下ろすということは、自分ひとりで背負い込まないという意味にもとれると思います。自分が抱えている問題を、心の中で神に向かって打ち明ける。あるいは、友人や誰か信頼できる人に聞いてもらう。そうすると、気持ちが少し軽くなるのではないでしょうか。
片柳弘史著『何を信じて生きるか』(PHP)
★あなたのままで
思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
ローマ人への手紙 12章 3節
聖書 新改訳2017
~聖書は「限度を越えなくてよい」と言います。愛されるために、違う自分になる必要はないということでしょう。
神さまはあなたをあなたとして造られました。赤いチューリップは赤のままで美しく、黄色のチューリップは黄色のまま美しいように、あなたはあなたのままで美しいと思います。ありのままのあなたの輝き(片柳神父のブログ)が一番だと思います。
★自分をさばかない
それどころか、
私は自分で自分を
さばくことさえしません。
コリント人への手紙第一 4章 3節
聖書 新改訳2017
~パウロは自分をさばかないと言います。それは信仰の中心は、私たちの強さやできることではないからではないでしょうか。
信仰の中心は、私たちを愛しゆるしてくださる神の愛だと思います。他人の評価によって「私はつまらない存在」と卑屈になってしまいます。しかし自分で自分をいたみつける必要はないと思います。
★等身大でいいんだよ
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、
そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、
その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
マタイによる福音書 7:13-14 新共同訳
~様々なもので自分を飾っていたら、狭い門から入ることはできません。背伸びするのをやめて、等身大のサイズになるとき、門から入ることができるでしょう。「愛されるためには、魅力的でなくてはいけない」と思っているかもしれません。しかし、神さまはあなたが何ができるかではなく、あなたがあなたであるだけで、喜んでくださる方。
イエスは涙を流された。
ヨハネによる福音書 11:35 新共同訳
そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
コリントの信徒への手紙一 2:3 新共同訳
~一年中、元気なきもちををもてる人は少ないと思います。晴れの日もあれば、雨の日もあります。たまには自分を嫌いになるときも、生きているとあるかもしれません。私も、失敗したときは落ち込むことがあります。
パウロも、コリントの教会に「そちらに行ったとき、ひどく不安だった」ときもちを伝えています。不安とはギリシャ語で、トロモス(τρόμος、英語ギリシャ語辞典)です。
イエスが復活したとき、婦人たちは墓が空っぽだったので「震えあがり(トロモス)」(マルコ16・8)、「逃げた」(フェウゴー、φεύγω)と書いています。パウロは不安が強すぎて、震えていたのでしょう。
自己肯定感は大切です。しかし、「自己肯定感をいつももたなければ」と縛られてしまうと、それもしんどくなってくると思います。
自分を大切にするとは、自分の悲しみも、喜びも大切にすることではないでしょうか。悲しいときもあっていいし、不安なときもあっていいと思います。
精神科医に私も調子がよくないときは、紙に書いて伝えます。隠して元気なふりをする必要はないと思います。悲しい自分、嬉しい自分も否定せずに、きもちに気づいていきたいと私は思います。