弱さをかんじるとき(聖書の言葉)


目次

1、弱さも愛してくださる

2、恵みに支えられて

3、一人でないよ

4、今のあなたで十分です

5、関連サイト


1、弱さも愛してくださる

どんなときもあなたは大切です

神はお造りになった

すべてのものを御覧になった。

見よ、それは極めて良かった。

創世記 1:31 新共同訳

~神は造られたものを見て「極めて良かった」といわれました。しかし、人は何かできなければ価値がない、ともがくときがあります。幼いときから競争社会の中で生きてきて体にしみこんでしまっているのかもしれません。

イエスがうまれた地代も、イスラエルは宗教の掟(律法)を守れる人だけが神さまに受け入れられました。しかしイエスが生まれてから世界は変わりました。イエスは言われました。


「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

マルコによる福音書 2:17 新共同訳


イエスは、職業や病気のゆえに律法を守られない罪人とよばれた人たちも愛されました。

強いときだけに神さまに愛される世界ではなくなったのです。たとえ弱さを抱え、欠点があっても、神さまはあなたを大切に思ってくださるのです。


★あなたがいるだけで、十分です

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

ルカによる福音書 18:15‭-‬17 新共同訳

~大人はどうしても、その人に生産性があるのかみてしまう傾向があると思います。社会の役にたつのか、何か資格があるか、優秀で知識があるのかみてしまいます。

しかしイエスは、まだ聖書の知識もなく、誰かに頼ってしか生きられない子供たちを喜ばれ、祝福されました。イエスはあなたをみて「あなたがうまれてきてくれて本当に良かった」と喜んでくださいます。


★心をひらくだけで十分です

今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 ・・・。わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。 子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。

コリントの信徒への手紙二 6:2‭, ‬12‭-‬13 新共同訳

~パウロは今が恵みの日といいます。神さまは成長したあなたを愛するのではなく、過去に純粋だったあなたを愛するのではありません。

たとえどんなに弱く欠点があっても、今日のあなたを愛してくださる方。

パウロは、「心を狭くしないように」と言います。「愛されるはずはない」とあきらめる必要はないと思います。

ギリシャ語で心を「広くする」の原形はプラツノー(πλατύνω)で、「狭くする」はステノコーレオー(στενοχωρέω)です。広くするは、命令形で受動態です。直訳は「広がれよ!」という意味が近いのでしょうか。NRSVUEの翻訳では、「open wide your hearts also.」となっていました。私はマザー・テレサの次の言葉が思いうかびました。


愛されるためには、

心を開くだけでいいのです。

マザー・テレサ

~愛されるために、何か特別なことをする必要はありません。真実の愛は、何もできなかったとしても、あなたがあなたというだけで、あなたを受け入れてくれるからです。愛されるために必要なのは、「自分は愛される価値がない」という思い込みを捨てること。愛は、力ずくで勝ち取るものではなく、心を開いて受け入れるものだからです。

片柳弘史著『日めくりマザー・テレサ』(PHP)より


★弱いほうがいい?

主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。

士師記 7:2 新共同訳

~神さまは、小ささやシンプルさ、弱さすらも大切にされます。弱いときは、純粋に神さまや誰かに頼ります。神さまは、私たちのそのときを待っている方だと思います。

私は生きていると、「もっとつよくならなければ。もっと大きくならなければ」と、求めてしまうときがあります。しかし、神さまは私たちが、どんなに弱く小さくても「あなたでよかった」と喜んでくださる方だと思いました。数をふやし、おおきくするより、自分がどんなに小さくても愛されていることを感謝したいです。

なおこの文書は、デイリーブレッドを参考にしました。

https://japanese-odb.org/2023/04/10/%e5%bc%b1%e3%81%95%e3%81%ae%e4%b8%ad%e3%81%ae%e5%bc%b7%e3%81%95/


2、恵みに支えられて

キリスト教で、悔い改めという言葉があります。

私は実は必死で悔い改めたことがあります。しかし、できませんでした(涙)。どんなに生活を清くし正しくいきようとおもっても、自分の力で実現できないのです。

それでは悔い改めとは、どういう意味があるのでしょうか。私は、神さまに帰る、という意味であると思います。それだと、私もできました。

ギリシャ語の悔い改めは、メタノエオー(μετανοέω)であり、「こころの向きを変える」という意味があります。「私はこんなにも愛されている」という愛に気づき神さまの愛に心を開くことは、悔い改め(方向転換)であると私は思います。

悔い改めの逆は、自分の考えにこだわってしまうことだと思います。神さまは「あなたは、ゆるされる」と聖書で言っているのに、「私は才能がないので、絶対にゆるされません。」と反抗していたら、自分の考え方を神にしていると思います。自分の考え方を絶対的にするのは、宗教の危険なことだと思います。

柔らかい心で、多様な考えを尊重して、話を聞いて、話し合っていくことは、大切だと思います。

ヤコブは

だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、

また怒るのに遅いようにしなさい。

ヤコブの手紙 1:19 新共同訳

と言っています。聞くはアクオー(ἀκούω)で、早いはタクス(ταχύς、英語ギリシャ語辞典)という形容詞です。派生語としてタク(

ταχύ)があります。

話すことや、説教することや、自分たちの宗教の教えをつい話すことに夢中になってしまうときがあります。しかし、同時に、話をきき、学ぶことも大切だと、私は思います。


「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」

マルコによる福音書 10:42‭-‬45 口語訳

~イエスは、「私のいうことは正しいから、いうことを聞きなさい」と言いませんでした。自分の命まで与え、私たちの身代わりとなり神の審判を受けてくださいました。

イエスは人をひたすら愛しゆるしつづけました。最後には弟子たちからも捨てられ、母マリアの前で十字架にかけられました。これがイエスの生涯でした。

夫婦でも会社でも、私たちは自分が中心でいたいと思いやすいものです。自分の思い通りにしたいと思い、そうならなかったらイライラしがちです。

しかしイエスは仕えなさいといわれました。イエスは復活し、イエスを信ずるグループができクリスチャン(キリストのもの)と呼ばれました。クリスチャンたちは、イエスの心を受け継ぎました。それは、すべての命は神様に愛され互いに愛し合い、支えあっていこうとする社会です。

パウロはクリスチャンを迫害していたにもかかわらず回心し、キリストの良き知らせを伝えるものになりました。パウロは次のように言っています。


あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。

エペソ人への手紙 2:8‭-‬9 口語訳

~「行いによるのではない」とは、宗教の掟を守れたから愛されるのではない、ということだと思います。人間は自分の弱さに気づくことがあります。しかしそれは、あきらめではありません。自分の弱さに気づき、空っぽになった心を、神さまの愛で満たしてくださるのです。

救いとは、「神様に作られたあなたでだいじょうぶだよ」ということだと思います。自分を愛せずにいると自分に厳しくなり、他人に厳しくなりがちです。イエスは言われました。


彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

マルコによる福音書 12:28‭-‬31 新共同訳

~片柳神父は『あなたはわたしの愛する子』(教文館)で次のように言っています。

「あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」、この二つこそが最も重要な律法だとイエスは言います。この二つの律法は、二つで一つであり、切り離して考えることができないものだとわたしは思います。神を愛するからこそ、わたしたちは自分自身を愛し、隣人を自分のように愛することができるようになるのです。

ではどうしたら、神を愛することができるのでしょう。まずは、神の愛に気づくことだと思います。神さまは、わたしたちが愛する前から、わたしたちを愛してくださっています。恩知らずで、わがままで、欠点だらけのわたしたちを、あるがままに受け入れ、愛してくださっているのです。神さまの愛に気づくことから、神さまへの愛が始まります。そんな神さまの愛に気づくとき、わたしたちは喜びと感謝に満たされ、神を賛美せずにいられなくなるのです。

「でも、どうしたら神さまの愛を感じられるのでしょう」とよく尋ねられます。神さまは目に見えないし、話しかけてもくれないからです。ですが、神さまはわたしたちに、目に見える形で、いつもはっきり語りかけておられます。たとえば、道端で咲いているコスモスの一輪を通してさえ、神さまはわたしたちに語りかけておられるのです。花の美しさに気づいて感動するとき、わたしたちの心に喜びが湧き上がってきます。それは、花の美しさを通して、神さまがわたしたちを励ましておられるからなのです。花や鳥、森の木々など、この地上に存在するすべてのものは、神さまからのメッセージであり、わたしたち人間に宛てて愛情を込めて書かれたラブレターだと言っていいでしょう。大切なのは、その一つひとつに目を向け、耳を傾けて、しっかりメッセージを受け取ることです。

神の愛に気づいて感謝するとき、わたしたちと神さまの間に、確かな愛の絆が結ばれます。神さまと愛の絆で結ばれたなら、今度は「隣人を自分のように愛する」ことです。ここで大切なのは順番です。まずは、自分自身をあるがままに受け入れ、愛する必要があります。自分にあちこち気に入らないところがあり、自分をあまり愛せない人が、同じように隣人を愛しても意味がないからです。どれほど弱く、欠点だらけだったとしても、神さまはそんなわたしたちを「神の子」として愛してくださっています。神さまがこれほどまでに愛してくださる自分を、あるがままに受け入れ、大切にする。それが自分を愛するということです。自分を愛することができたなら、次は「隣人を自分のように」愛しましょう。弱くて欠点だらけのその人も、自分と同じように神さまから愛された「神の子」だと思えば、きっと愛することができるでしょう。

片柳弘史著『あなたはわたしの愛する子』(教文館刊)


3、一人でないよ

わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

ヨハネによる福音書 13:34‭-‬35 口語訳

~イエスは「互いに愛し合いなさい」といわれました。人は愛し愛されるとき、互いに支えあってすごしてゆけると思います。神さまは人をスーパーマンのようになにもかもできる存在として作られませんでした。できることと、できない使命があると思います。人は、じぶんの限界を忘れなにもかもしようとしがちです。しかし、聖書には一人ひとりの働きが違うことが書かれています。


★多様性

霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。 務は種々あるが、主は同じである。 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。

コリント人への第一の手紙 12:4‭-‬6 口語訳

~タンポポの花がコスモスの花を咲かせられないように、あなたにはあなたの花を咲かせればよいのです。自分を否定して違うものになる必要はありません。生きづらいときは、自分が自分であることを否定したり、抱えきれない荷物を背負い無理をしてしまう時ではないでしょうか。

イエスは完全な神さまであったのにどうして弟子を必要とされたのでしょう。それは、私たちの人生は完璧を目指す旅ではなく、互いに助けあってゆるしあっていくことを教えるためだったと私は思います。


その後、主はほかに七十二人を任命し、

御自分が行くつもりのすべての

町や村に二人ずつ先に遣わされた。

ルカによる福音書 10:1 新共同訳

イエスは12人だけでなくたくさんの仲間たちと協力しました。また、一人で困らないように二人ずつ派遣しました。


★性別に関係なく

女預言者デボラが、士師としてイスラエルを裁くようになったのはそのころである。

士師記 4:4 新共同訳

~神さまは歴史において、男性のみを預言者にしませんでした。デボラは女性でしたが神さまはデボラを用いられました。


また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

マルコによる福音書 15:40‭-‬41 新共同訳

~イエスが十字架にかけられたとき、男性の弟子たちは逃げていきましたが、女性たちはイエスを見守っていました。女性たちは、イエスの世話をしたと書かれており、イエスにとってはなくてはならない大切な存在であったことがわかります。

聖書協会共同訳では、「この女たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、その後に従い、仕えていた人々である」と翻訳されており、イエスに従っていたのは男性だけではありませんでした。従うはἀκολουθέω(アコルーセオー)という動詞が使われています。


イエスはそれを知って、

そこを立ち去られた。

大勢の群衆が従った。

イエスは皆の病気をいやして、

 御自分のことを言いふらさないように

と戒められた。

マタイによる福音書 12:15‭-‬16 新共同訳

~名もなき群衆もイエスに従ったとかかれています。イエスにとっては、1人ひとりが大切な存在であり、神さまに使命が与えられた大切な存在なのです。神さまは、「あなたがあなたである」だけで喜んでくださいます。できないことがあってもいいのではないでしょうか。完璧な人はいないからです。できないときこそ神さまの出番。自分のできることはせいいっぱいして、あとは神さまお委ねしましょう。神さまは必ず助けてくださいます。

なにもかも荷物を背負うと、重たすぎて疲れてしまうでしょう。「あれもなければ、これもなければ幸せになれない」と焦る必要はないと思います。自分の限界を謙虚に認め、背負えるだけの荷物でいいと思います。時に休憩して、野に咲く花の前でゆっくり深呼吸できたらいいですね。神さまは今のあなたを見て、「あなたで良かった」と喜んでくださいます。


★弱さも宝

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

コリントの信徒への手紙二 12:9 新共同訳

~パウロは、病気を抱えていたといわれます。もっと強く健康になったら、神さまに用いられると思ったかもしれません。そのため、自分から弱さをなくそうと思ったのだと思います。

しかしあるときパウロは、神さまの恵みは弱いときであっても十分であることを知りました。パウロは、ホッとしたのではないでしょうか。これからも助け合ってゆきたいです。


英語ギリシャ語辞典

・弱さ(アステネイア、名詞、ἀσθένεια)、新約聖書で24回使用。不完全、虚弱、病気などの意味もある。

パウロは、「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。」(ローマ8:26 新共同訳)」と書いているが、ここでもアステネイアが使用されている。

・十分である(アルケオー、ἀρκέω)、新約聖書で8回使用。

・発揮される(テレオー、τελέω)、新約聖書で28回使用。完成する、満たす、実現するなどの意味がある。

・喜ぶ(最上級)(ヘディスタ、ἥδιστα)、新約聖書で2回使用。


★関連サイト

教皇フランシスコ、2022年12月11日「お告げの祈り」でのことば

~洗礼者ヨハネの疑いについて、書かれています。



4、今のあなたで十分です

★シンプルにいこう

片手に安らかさを満たすことは、

両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。

伝道者の書(コヘレトの言葉) 4章 6節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

片手でわずかなものしか持っていなくても、両手で必死になって苦労するよりはまさる、と書いています。

わずかで目立たない片手(一握り)でも、

人は幸せを感じられると思いました。

「あれもたりない、これもたりない」と広告は消費をさせようとします。もちろん、物は便利にさせます。しかしあまりにも物に縛られると、様々な不安がうまれると思います。

人は静かに立ち止まったり、今に感謝したりすれば幸せに気づくことがあります。そこにシンプルがうまれ、心の抱えている荷物が軽くなると思います。


英語聖書では

Better is a handful with quiet than two handfuls with toil and a chasing after wind.

Ecclesiastes 4:6 NRSVUE(New Revised Standard Version, Updated Edition)

苦労して風を追う二握りよりも、

一握りの静かな一握りの方がよい。

伝道の書 4:6 NRSVUE

~新改訳2017の聖書は「安らか」と翻訳しているが、NRSVUEは「静か」と翻訳しています。

原典のヘブライ語では、ナハト(נַחַת)というヘブライ語の名詞です。静かな一握りとは、わずかで小さな一握りでも、身の丈以上にするのはよくないうことだと思います。

ナハトには、静けさ(quietness),

休息(rest)の意味があります。

イザヤ書の

わが主なる神は、こう言われた。 「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。 安らかに信頼していることにこそ力がある」と。

イザヤ書 30:15 新共同訳

この箇所の「静かにしている」ならば、でナハトが使用されています。

つい、大きなことや目立つことをしようとしますが、小さいことや目立たないことも神さまは大切にしてくださると思いました。ひとりでなにもかも抱えず、神さまを信頼して、助けあってゆきたいです。


★身の丈を受け止めてくださる

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 それで、受け取ると、主人に不平を言った。 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

マタイによる福音書 20:1‭-‬15 新共同訳

~夕方の17時に雇われたひとは、もしかして体力がなかったかもしれません。優秀な人はすぐに必要とされ、朝の9時から働けるかもしれません。

イスラエルは、9月下旬から雨季にはいるので、炎天下の 8~9月にぶどうを収穫する必要がありました。

しかし、主人(神)は、わたしたちが長時間すごくしたら愛するのではなく、身の丈をら愛してくださるのです。励まされますね。


外部サイト

聖書ブリッジの世の光

タイトル:「不公平では?


5、関連サイト


◼️デイリーブレッド

2023年9月30日曜日より
https://japanese-odb.org/2023/09/30/%e6%9c%80%e3%82%82%e3%81%aa%e3%81%95%e3%81%9d%e3%81%86%e3%81%aa/


あなたがたの神、主は、上は天において、

下は地において、神であられるからです。

旧約聖書

ヨシュア記2:11

イスラエルのスパイ2人がエリコに忍び込んだ時、彼らを追手からかくまったのはラハブでした(ヨシ2:4)。彼女は神が諜報活動に用いそうな人物ではありません。なぜなら、カナン人、女性、娼婦とあり得ない条件がそろっていたからです。しかし、ラハブはイスラエル人の神を信じ始めていて「あなたがたの神、主は、上は天において……神であられる」(11節)と言いました。彼女は神のスパイを屋上に上がらせ、亜麻で覆い、その後の逃走を助けました。神は「遊女ラハブと、その一族……をヨシュアが生かして」(6:25)おくようにされました。彼女の信仰に報いられたのです。

よもや神に用いられることはないと感じていませんか。体が弱かったり、人を動かす華やかさが無かったり、過去に汚点があったり……。しかし、歴史はラハブのように神の使命を与えられた、罪を贖(あがな)われた人で満ちています。保証します。神は、凡人中の凡人という各々のために、みこころの目的を持っておられます。

~※文章を読んで思ったことです。

神さまは、私たちがどんな過去が失敗してようとも、大切に思ってくださり、神様の働きのために用いてくださると思いました。

「間違いをおかしたから、もうだめだ」と絶望するのてまはなく、まだやりなおせる、と思いたいと思います。


・聖書ブリッジ、水谷潔牧師の

挫折からの飛躍」のメッセージ