なぜ人は生きるのか


わが助けは、

天と地を造られた主から来る。

詩篇 121:2 口語訳

~「生きることがわからない」「消えたい」と、ときどきSNSで見かけます。たしかに、自分がわからない時代、希望をつかみづらい時代であると思います。それは、心の飢えであるかもしれません。片柳弘史神父は、ブログで次のように言っています。

わたしたちが日々の生活の中で感じる飢えは肉体の飢えだけではありません。物事が自分の思った通りに進まないとき、本当にやりたいことが何一つできないと感じられるようなとき、わたしたちの心はさらに深刻な飢えに襲われます。それは、自分が生きていることの意味への飢え、自分が生きていることには何の意味もないのではないかという疑いです。

 

目次

1、愛し、愛されるために

2、聖書に耳をすまして

3、祈りを通して

4、無気力で祈れないとき

5、助けあうために

6、命を喜ぶために

7、最後に

 

※なお、この文章は答えではありません。

あくまで、ひとりが聖書を読んで思ったことを書いてみました。


1、愛し、愛されるために

マザー・テレサは、神さまが人を創られた理由として、次のように言っています。

どうか互いにより大きな苦しみを与え合うのはやめてください。神は、わたしたち一人ひとりを偉大なことのために創られました。愛し、そして愛されるために創られたのです。

『わたしはあなたを忘れない』(写真・編訳片柳弘史、ドン・ボスコ社、70頁)

 

聖書には最も大切な掟として次のように書いています。

そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

マタイによる福音書 22:35‭-‬40 口語訳

~マザーはわたしたちが愛し愛されるために創られた、といいます。イエスも、わたしたちが神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい、といいます。聖書は、私たちが生きている大切なこととして、互いに支え合い愛し合うことを大切にしていると思います。


2、聖書に耳をすまして

疲れているときは、なにもかも悪い方向に考えてしまうものです。心身が疲れているとヘトヘトになって、どうしてもネガティブに物事を考えてしまいます。そういうときは、思いきって休みをとってみたらいかがでしょうか。

「自分であれもしなければ、これもしなければ」と思っているなら、完璧主義に陥っているかもしれません。人は神様のようになりたいという欲望があります。人生を理想どおりにしたい、家族が思い通りに動いてほしい。自分を中心にするとき、ますます疲れが玉っていくでしょう。人は神さまになれないからです。

生きることを考えるとき、どうしても自分が中心になってしまいます。自分の限界を認め聖書に戻る時、新しい道がみえてくると思います。この世界は神さまがお作りになりました。わからない時は、世界を作った神さまに聞けばよいと思います。

 

イエスは彼に言われた、

「わたしは道であり、真理であり、命である。

だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

ヨハネによる福音書 14:6 口語訳

イエスは、自分が道であると言いました。イエスの声を聞き、聖書をひらくとき道がみえてくると思います。生きるのがわからないのは、自分で必死に道を作っているからだと思います。私たちは神さまではありません。自分が神ではないことを認めることは勇気がいることかもしれません。人は、自分でなにもかもコントロールしたいものだからです。しかし、無理はしなくてよいのです。イエスは、私たちの道になってくださり、私たちの道を作ってくださるのです。片柳弘史神父は、次のように言っています。

イエスは聖書のページの向こう側におられ、

いまここで、その聖句をとおしてわたしたちに何かを語りかけようとしているのです。

心を沈黙させ、全身を耳にしてその言葉を聞きとりましょう。・・・

どんな箇所であっても、書かれた言葉や出来事の中には必ず「わたしはあなたを愛している」という救いのメッセージが隠されています。それは絶対に間違いのないことです。心を空っぽにして、愛のメッセージを感じとりましょう。

片柳弘史著『祈りへの旅立ち』(ドン・ボスコ社)

 

主は無学な者を守られる。 わたしが低くされたとき、

主はわたしを救われた。

あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、

わたしの足をつまずきから助け出されました。

詩篇 116:6‭, ‬8 口語訳

 

互に思うことをひとつにし、

高ぶった思いをいだかず、

かえって低い者たちと交わるがよい。

自分が知者だと思いあがってはならない。

ローマ人への手紙 12:16 口語訳

~私はなんでも知っている、と思いこんでいては、心に新鮮な空気が入ってきません。幼子のように、単純でいいのです。聖書には、「主(神様)は無学な者を守られる」と書いてあります。たくさんの聖書の知識があるから、神様に認められるのではありません。むしろ、無学で何も知っていない人に、神さまは愛で満たしてくださるのです。

 

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。

それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネによる福音書 3:16 口語訳

~神さまは、あなたの誕生を心待ちにしていました。あなたは神さまによって作られた、最高傑作です。私たちは、いつも相手の期待に答えなければならないと、焦らされているときがあります。なぜか知らないけど疲れる、生きるのがしんどいのは、しらないうちに、「何かしなければ自分には価値がない」と思っているからではないでしょうか。相手の期待にこたえなければ、と背伸びしていないでしょうか。神さまは私たちを愛しているという言葉に、焦点をあててみたいと思います。私たちは、必死に誰かに認められるために、評価されるために生まれてきたのではありません。

 

あなたのみ言葉はわが足のともしび、

わが道の光です。

詩篇 119:105 口語訳

 

イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、

神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

マタイによる福音書 4:4 口語訳

 ~自分がどちらの方向に進めば良いのかわからない時があります。迷ったときは、聖書をひらき、道を確認したら良いと思います。神さまの言葉こそあなたの足元を照らす光だ、と聖書はいいます。月は太陽の光をあびて輝いているように、私たちも神さまの光をあびて輝くことができるのです。神さまの愛という光をたっぷり浴びて、夏に咲くひまわりのように、すくすく成長してゆけるでしょう。聖書をひらき、神さまの愛をたっぷり感じ、充電できますように。聖書はどこから読んでもよいですが、イエスの教えや生涯を知りたい方は、4つの福音書から読んだらよいと思います。聖書は、こころのオアシスのようなものです。新鮮な空気がはいり、深呼吸できるようになります。イエスは次のように言います。

 

しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、

わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。

ヨハネによる福音書 4:14 口語訳

深い井戸を掘るには、「神さまはどんな時も私を愛してくださる。神さまに委ねていれば、何も心配することはない」と神さまを信頼することだと思います。「こんなに弱い私をイエス様は知ってくださり、ゆるしてくださった」というイエス様との出会いこそ、井戸を深く掘るコツです。

参考サイト

片柳弘史神父のバイブルエッセイ

https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/2020/03/14/173053

https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20170319/1489894524

 

聖書をひらき、祈り、ミサ(礼拝)にあずかるなかで必ずイエスはあなたと出会ってくださいます。無気力で外にでられないとき。活字がだめで言葉が頭に入ってこないときもあるでしょう。そういうときは部屋のなかで短い祈りで大丈夫です。『イエスよどんな時も、あなたは私を愛してくださっていることを感謝します。あなたにお委ねします。助けてください』と祈ってみてください。休養して聖書を読める元気がでてきたら、聖書を開いてみてください。聖書は、無料アプリ(Youversion)でも読めます。大切なのは聖書に耳を傾けて心を沈黙させることだと、マザーは言います。

神は沈黙の友です。わたしたちは神を見つけなければなりませんが、騒音や興奮の中に神を見いだすことはできません。自然が、木が、花が、草が、深い沈黙の中でどうやって成長していくかを見なさい。星が、月が、太陽が、沈黙の中でどう動いていくかを見なさい。

沈黙の祈りの中で受けとれば受けとるほど、活動の中でより多くのものを与えることができます。沈黙は、すべてのものをまったく新しい視点から見せてくれます。魂に触れるためには、この沈黙が必要なのです。

大切なのは、わたしたちが何を言うかではなく、神がわたしたちに何を言われるか、神がわたしたちをとおして何を言われるかなのです。

『聖なる者となりなさい』(写真・編訳片柳弘史、ドン・ボスコ社、30頁)


3、祈りをとおして

朝はやく、夜の明けるよほど前に、

イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

マルコによる福音書 1:35 口語訳

~イエスはいつも、神に祈っていました。神に愛されていることを確認していたのでしょう。わたしたちも、静かな場所で立ち止まってゆっくり考えてみましょう。もしかして心は疲れはて、SOSを出しているかもしれません。神さまにお祈りしてみると、道を示してくださいます。イエスの生きる力は、祈りにありました。生きる意味をなかなか見いだせないときは、神様に聞いてみたらよいと思います。神様は、あなたにはあなたに最適なアイデアを与えてくださいます。

 

イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、 「彼をどこに置いたのか」。

彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。イエスは涙を流された。

ヨハネによる福音書 11:33‭-‬35 口語訳

~いつも幸せなふりをしなくて良いと私は思います。イエスも、悲しいときは涙をながしました。神さまには、ありのままの気持ちを告白して大丈夫です。私は精神科にかかっていますが、主治医には困っていることを話します。祈りもそうです。自分の気持ちに耳を傾け、ゆっくり感じている気持ちを神さまに話してみてください。その中で気持ちが整理され、等身大の自分がみえてくると思います。

 


4、無気力で祈れないとき

疲れはてて言葉がでないときがあります。混乱して、何を話せば良いのかわからない時があります。祈らなければだめだ、と焦ってしまうことがあります。

マザーは、次のように言っています。

「もし祈れないときがあったらどうするか、それは簡単なことです。

もしイエスがこころの中にいるならば、彼に祈ってもらうことです。・・・。

もし与えるものを何も持たないならば、その何もなさをイエスに捧げなさい。

もし祈れないならば、その無力さをイエスに捧げなさい。」

『わたしはあなたを忘れない』(写真・編訳片柳弘史、ドン・ボスコ社、28頁)

~抱えている無力さをイエス様の前に差し出せば良いとマザーは言います。イエスは、生きる力と希望で満たしてくださるでしょう。以下の聖書の箇所は、イエスや聖霊が、わたしたちのために祈ってくださっていることが書かれています。

 

しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、

あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、

兄弟たちを力づけてやりなさい。

ルカによる福音書 22:32 口語訳

※わたしとは、イエスのことです。

 

だれが、わたしたちを罪に定めるのか。

キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、

また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。

ローマ人への手紙 8:34 口語訳

 

御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。

なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、

御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、

わたしたちのためにとりなして下さるからである。

ローマ人への手紙 8:26 口語訳

※御霊(みたま)とは聖霊のことです。


5、助け合うために

このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。 夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。 すなわち、ペテロとも呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、 マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと、熱心党と呼ばれたシモン、 ヤコブの子ユダ、それからイスカリオテのユダ。このユダが裏切者となったのである。

ルカによる福音書 6:12‭-‬16 口語訳

~イエスは、12の弟子たちを選ばれたことが聖書に記されています。本来イエスは完璧だったので、弟子など必要ありませんでした。1人でやったほうが失敗もなく、効率もよかったかもしれません。

しかしイエスは、弱く不完全な弟子たちを選ばれ、愛されました。神さまの心とは、一人の能力によって教会が成り立つのではない、ということを示しています。一人の偉大な人物によって維持される共同体ではなく、お互いを生かしあって違いを喜び合う共同体をイエスは目指されたのです。

1人でなにもかもする必要はないと私は思います。市役所、病院、教会、保健師さん、神父さん、牧師さん、友人、家族、色々な方と、支えあえばよいと思います。ほかの人ができることを自分ができないからといって落胆する必要はありません。互いに支えあうなかで、いま自分がすべきことがみえてくると思います。


6、命を喜ぶために

片柳弘史神父は、ブログで次のように言っています。

「神さまからいただいた命をよろこんで生きることで、神さまをよろこばせる。それこそが、わたしたちの人生の意味だと言っていいでしょう。世の中の人たちからほめられるような大きなことが何もできなかったとしても、病気で寝たきりだったり、歳をとって体が動かなくなったりしても、よろこんで生きているだけで、わたしたちは神さまをよろこばせることができるのです。そして、それこそが、わたしたちが生きる意味なのです。何かをすることではなく、生きていること自体に意味がある。生きるからこそ人生に意味が生まれる、そう言ってもいいかもしれません。」

~片柳神父は、神さまからいただいた命を喜んで生きる。それこそが生きる意味だといっています。イエスから「わたしにとってはあなたはかけがえのない存在だ。わたしはあなたを愛している」というメッセージを受け止めるとき、生きていることに意味があることを知ると思います。イエスに委ねて助けを求めるとき、イエスは必ず耳を傾けてくださいます。

 

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。

あなたがたを休ませてあげよう。

マタイによる福音書 11:28 口語訳

~疲れているときは、イエスのそばにいきましょう。イエスは、「あなたが生まれてきてくれて、本当に良かった」と、あなたに呼びかけてくださる方です。

 

片柳神父は、ブログで次のように言っています。

エレミア書に、「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた」とあります。エレミアは母の胎の中で神によって造られ、預言者としての使命を与えられて生まれてきたのです。同じように、わたしたち一人ひとりにも、誕生のときに神から与えられた尊い使命があります。親の職業や家柄、生まれた場所などと関係なく、わたしたちには、神から与えられた尊い使命があるのです。まず、自分自身についてこのことを思い出す必要があるでしょう。「自分は生まれながらに駄目な人間だ」と思っているなら、それはまったくの間違いです。わたしたちは皆、神の愛の中から生まれてきたかけがえのない存在であり、果たすべき尊い使命を持って生まれてきました。もしかすると、その使命がまだ見つからない人もいるかもしれません。しかし、それは単にまだ見つかっていないというだけのこと。自分の命のかけがえのなさ、自分自身の素晴らしさに気づくなら、必ずそのとき、わたしたちは自分に与えられた使命にも気づくでしょう。


最後に

神さまは「あなたは生きる意味がある。あなたは必要な存在なのだから」と言ってくださいます。人間の知識には限界があります。いくら知識をつけても、限界があります。生きる意味は自分で造りだすものではなく、神さまが作り出してくださるものではないでしょうか。「あなたには生きる意味がある。あなたは大切な存在」と呼びかけてくださるのです。マザー・テレサは、わたしたちの生きる目的として次のように言っています。


わたしたちの最初の目的は、彼らの人間としての基本的な成長を助けることです。

人間として、同じ神の子としてもつべき尊厳を回復するように務めるのです。」

『聖なる者となりなさい。』(写真・編訳片柳弘史、ドン・ボスコ社、36頁)

 

片柳神父は『祈るように生きる』(ドン・ボスコ社)で次のように言っています。

競争社会と呼ばれる厳しい現実社会では、何ができるか、何の役に立つかによって人間の価値が決められてしまうからです。「人間としての尊厳」をもつとは、そのような社会の中にあって、周りの人がどう思うかとはまったく関係なく、「自分は自分だというだけで価値がある」という揺るがぬ確信をもって生きるということなのです。

この確信がある人は、人生の中でどのような苦しみにあったとしても、それを乗り越えてゆくことができます。どれほど大きな失敗をし、人から罵られたり裏切られたりしても、「自分は自分だというだけで価値がある」と確信している人は、決して絶望することがないのです。「自分は自分だというだけで価値がある」と確信している人は、すべてを失っても、何もできなくなっても、誰からも評価してもらえなくても、自分に自信をもって、あらゆる困難を乗り越えてゆくことができるのです。「自分は自分だというだけで価値がある」という確信は、生きていくための底力だと言ってもいいかもしれません。

片柳弘史著『祈るように生きる』(ドン・ボスコ社)

 

霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。

務は種々あるが、主は同じである。

働きは種々あるが、

すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。

コリント人への第一の手紙 12:4‭-‬6 口語訳

一人ひとりは違います。神さまから与えられている使命も、一人ひとり異なります。タンポポはタンポポの花を咲かせ、アジサイはアジサイの花を咲かせればよいのです。世界には沢山の花の種類や色があるから、カラフルで美しいと私は思います。

「私は弱いから、神様の使命をはたせない」と落ち込む必要はありません。神さまは必ず、あなたにしか果たせない神様の使命をを与えてくださいます。「わたしはどんな時も、神さまに愛されている」という深い確信こそが希望の出口が見つかる光。神様の愛に包まれて、「わたしはわたしでよいんだ。生きる意味はあるんだ」と確信できますように。

      


参考文献

片柳弘史著『祈るように生きる』(ドン・ボスコ社)

片柳弘史著『祈りへの旅立ち』(ドン・ボスコ社)

『聖なる者となりなさい』(写真・編訳片柳弘史、ドン・ボスコ社)

『わたしはあなたを忘れない』(写真・編訳片柳弘史、ドン・ボスコ社)

片柳弘史神父のブログ


参考になる書籍