目次
1、私は愛されている
2、完璧じゃなくてもいいんだよ
3、立ち止まってもいいんだよ
4、荷物整理
5、弱さも宝
6、心の貧しい人は幸いです
7、神さまの準備してくれた道
あなたは、
わたしの内臓を造り
母の胎内にわたしを
組み立ててくださった。
胎児であったわたしをあなたの
目は見ておられた。
わたしの日々はあなたの書に
すべて記されている
まだその一日も造られないうちから。
詩編 139:13, 16 新共同訳
~人は村社会を大切にしてきたように思います。周りからの評価によって、自分の価値を決めてきたのではないでしょうか。
聖書は私たち一人ひとりは神さまが造られ、他人に評価されなくても、一人ひとりが生きているだけで尊い存在だとみます。
「自分には価値がない」と思いこんでいた方が「わたしは神に愛された大切な存在」とされていることを信じると、自分らしい歩みをはじめてゆけると思います。
しかし、今まで周りの人間関係によって、自分の価値を決めていた人がすぐに変わることは難しいと思います。
時間はかかっていてもいいから、朝起きたとき「私は愛されている。私の人生には意味がある」と信じると、少しずつホッとできる時間をもてるようになると私は思います。
※参考にしました
正しい者はいない、一人もいない。
ローマの信徒への手紙 3:10 新共同訳
~生きづらさの中には、時に高すぎる理想があるのではないでしょうか。
「有名な大学にいかなければならない」
「完璧な子育てをしなければならない」
「いつも他人の期待にこたえなければならない」。
もちろん理想は大切ですが人は体力も精神にも限界があり、スーパーマンではありません。
子育てにしても、育児書を読み教科書どおりいかないとピリピリしだすと、毎日が苦しくなってくると思います。
完璧な親や、完璧な子どもはいません。だからこそ、助け合ってゆくという素晴らしいことができると思います。
聖書には、「正しい者は一人もいない」とあります。それは、完璧な人はいない、ということです。誰もが弱さを抱えているのです。
しかし、それはあきらめではないと思います。自分の限界を認められるからこそ、希望の道は開かれ、自分の予想を遥かに超えて助けあって成長してゆけると思います。
※参考サイト
イエスは、
「さあ、あなたがただけで
人里離れた所へ行って、
しばらく休むがよい」と言われた。
マルコによる福音書 6:31 新共同訳
~休んでいたら自分は怠けているのではないか、と心配になるものです。それは、「何かをしていないと価値はない」という考えが、体にしみこんでいるからだと思います。そのため、働いたり行動することは価値があって、休んだり立ち止まったりすることを軽んじてしまうのです。
価値がないと言われることは人間にとっては恐怖そのもの。そのために必死になって、認められるために頑張ってしまうと思います。
しかし、イエスは疲れている弟子たちを心配して「休みなさい」といってくださる方。イエスの言葉に甘えて、疲れたときは早めに寝てゆっくり休んでみましょう。
「力を捨てよ、知れ
わたしは神。
国々にあがめられ、
この地であがめられる。」
詩編 46:11 新共同訳
~力を捨てよとは、「あなたは今まで頑張って自分の力でなにもかもやってきた。しかし、私にまかせていいんだよ」ということではないでしょうか。
神さまに荷物をあずけると軽くなって歩んでゆけるのではないでしょうか。力を捨てられないと、いつも自分が中心になって「こうでなければならない」と、神になったかのように相手を支配しようとします。もっとがんばらなければと焦ってしまい、疲れてしまうのではないではないでしょうか。背負っている荷物をたまに確認して、荷物を軽くしてリフレッシュしたとき、再び歩きだす力がわいてくると思います。
この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
コリントの信徒への手紙二 12:8-9 新共同訳
~神さまがパウロに教えたのは、「もっと強ければ愛してあげる」というものではありませんでした。神さまはパウロが弱さを抱えても、それを含めてあるがままを愛していることを伝えました。
「あなたがあなたである、ただそれだけの理由で、あなたはわたしにとってかけがえのない存在だ。もし何もできなくなっても、わたしはあなたを愛している」。それが、キリスト教の説く愛。まったく無条件の愛なのです。このような愛に出会ったとき、わたしたちの心は初めて本当の安らぎを得られる。わたしは、そう確信しています。・・・。もし、「何もできない人間には愛される価値がない」と信じてこれまで生きてきたのなら、その思い込みを捨てることです。「何もできなくても、生きているだけで価値がある」と信じられれば、周りの人たちが注いでくれる無条件の愛も、きっと信じられるようになるでしょう。
片柳弘史著『何を信じて生きるか』(PHP)より
※ガーベラの花。
愛されると分かったら、背のびがとまるので、だんだんリラックスできるようになるでしょう。それでも、人は失敗をしたら神様に愛されないのではないか、と心配してしまうことがあります。すると、失敗をおそれてしまって、何もできなくなってしまうのです。
しかし、人は泥のなかにまみれて挑戦してみないと、自分には何ができて、何ができないかを知ることは難しくなります。できることを探すことも大切ですが、自分ができないことを謙虚に知ることも大切だと思います。
つい、「なんでもできます」と強がってしまいますが、なにもかも頼まれてしまうと、荷物はどんどんたまってしまいます。ノルマをこなすために残業もふえ、荷物がありすぎて動けなくなってしまいます。
イエスは次のように言われました。
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
マタイによる福音書 5:3 新共同訳
~心の貧しいとは、心が弱い人のことだと思います。誇れるものは何一つない状態です。
しかし、弱さを抱えている人は自分の限界を知り、他人と助け合っていくことができます。自分が完璧に、なにもかもすることはできないことを知っています。
イエスはそんな弱さを抱えている人を幸い、とよんでくれました。できないことは人は弱さと考えてしまうかもしれません。しかしできないからこそ他人と支えあって、美しい偉大なものを作り出してゆけると思いました。
神を愛する者たち、つまり、
御計画に従って召された者たちには、
万事が益となるように共に働くということを、
わたしたちは知っています。
ローマの信徒への手紙 8:28 新共同訳
~どんなときも愛されることを知り、できないことがあってもだいじょうぶなんだと知ると、ちょっとだけホッとすると思います。
しかし、いくら愛されていることを知っても、自分がこの社会でなにをしたいのかわからない時もあります。
そういう時期は、ゆっくり自分探しなんかいいかもしれませんね。読書をしたり、音楽をきいたり旅をしたり、また神様に祈るなか、神さまは必ずあなたにしかできない使命を教えてくださると思います。
私は学校でいじめられ学校に行けなくなるまで、人生は1本のレールしかないと思っていました。しかし、色々な人生があってたくさんの道があっていいんだと思いました。
もし疲れてなにもかも分からなくなったら、神様に「もうつかれました。ここからはあなたに委ねますので、助けてください」と私は祈ります。
精いっぱいして、あとは神さまに委ねた人を、最も良い方向に導いてくださると、聖書に書いてあります。
その道は、自分の計画とは違うかもしれません。しかし、神さまが準備してくれた道は一番いい道です。
先のことが不安で夜も眠れない。そんなことでは体力が落ち、判断力も鈍って、ますます状況を悪化させてしまいます。どうにもならないことは神さまの手にゆだね、自分が今できることを精いっぱいやる。どんな場合も、それが一番の対応策です。
片柳弘史著『やさしさの贈り物』(教文館刊)