新しい年に思うこと(聖書の言葉)


 旅にいくなら、カバンには必要最小限のものしか持っていけません。人生の旅においても、「あれもなければ、これもなければ」と思うと、荷物がいっぱいになってしまいます。新しい年をはじめるにあたって、心のカバンに私なら何をいれようかな?と考えてみました。


愛されている自分を確信する

聖書の言葉

わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。

ヨハネの第一の手紙 4:19 口語訳

~心のカバンにいれたいのは、「私は神さまに愛されている」という確信です。私は苦しいときは、「私は神さまに愛されている」と繰り返し心でつぶやくようにしています。すると、心地よいそよ風が吹いてくるように、少しずつ落ち着いていくのを感じます。もちろん、しんどい時は、精神薬の力もかりますが、「私は愛されている」という喜びも、心の安心に影響を与えると実感しています。

  誰もが神さまの手によって作られました。すべてのひとは神さまに愛されるために生まれてきました。愛されるのは未来でもなく、過去でもなく、今日というこの日です。神さまはいつも、今日というこの日に、一人ひとりを愛してくださるのです。

つい、愛されるために、何か特別なことをしなければ、他人から評価されなければ、と誤解してしまいます。しかし、何もできなくても、神さまはあなたがそこにいるだけで喜んでくださる方です。

  タンポポはタンポポの花を咲かせ、バラはバラの花を咲かせます。あなたも、神様から作られた自分という花を精いっぱい咲かせるだけでよいのです。他の人になる必要はなく、誰かの真似をする必要もありません。ただ心を開いて、神さまの愛を受け入れてすごしてゆけますように。


参考サイト

中村譲『いのちのことば

 


沈黙して耳をすましてみる

聖書の言葉

かえって、乳離れしたみどりごが、

その母のふところに安らかにあるように、

わたしはわが魂を静め、

かつ安らかにしました。

わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。

詩篇 131:2 口語訳

 ~心のカバンにいれたいのは、沈黙です。神さまの言葉を反論しないで、そのまま心で受け止め、神さまの言葉を聞くことです。人には神さまに反抗する性質があります。神さまに愛されているのに、「そんなのは嘘だ」と信じられなくなるのです。

 神さまの声を疑ってしまう一つとして、高すぎるプライドにあるのではないでしょうか。なんでも、一人のみの力でやろうとするのです。ほかの人の助けは、必要ないと思ってしまいます。それだと、やがてくたびれてしまうのではないでしょうか。「自分にはできることもあるが、できないこともある。」と謙虚に認め、自分の限界認めたいと思います。

 また、低すぎる自尊心も、神さまの愛を受け入れるのを妨害しているかもしれません。「他の人は愛されますが、私は他人と比べて劣っています」と自分を否定してしまうのです。競争社会のなかで、幼い頃からから他人と比べられて育った環境にあって、しょうがないことかもしれません。しかし、神さまは他人との比較のなかで、あなたの価値を決めません。神さまは「あなたがあなただから」愛する方なのです。

プライドと低すぎる自尊心を捨て、「私は愛されている、神さまの子ども」と、神さまの愛をそのまま受け止める勇気を、持ちたいと思います。

 

参考サイト

工藤信夫医師『いのちのことば

工藤信夫医師『多弁な宗教』


聞き分ける

聖書の言葉

わたしの羊はわたしの声に聞き従う。

わたしは彼らを知っており、

彼らはわたしについて来る。

ヨハネによる福音書 10:27 口語訳

 ~色々な声があります。それが、神さまの声なのか、それとも自分の声なのか、他人の声なのか。今でも、耳をすますと色々な声が聞こえてきます。鳥のさえずり、風の音。色々な音がきこえてきます。しかしイエスは、私の羊はわたしの声を聞き分ける、というのです。

神さまの声の特徴は、なんといっても愛に満ちている、ということです。「あなたはかけがえのない大切な存在。あなたは神さまの子ども」。イエスは、今も繰り返し私たちに愛の言葉をつげています。

しかし、時には自分をだます声が聞こえてきます。「あなたは、もっと成長しなければいけない。もっと優れていなければ、神さまの子どもになれない」。そう言って騙してくるのです。もしかすると悪魔の声だったりするかもしれません。暮らしていますと、色々な声が聞こえてきます。

 

聖書の言葉

へびのように賢く、はとのように素直であれ。

マタイによる福音書 10:16 口語訳

 

鳩のような素直さとは、神さまの前で純粋でまっすぐ、ということです。偽らなくてよい、ということです。人は、実際の自分以上のことを演じようとすると、自分本来の輝きを失っていくのです。私たちの命が一番輝くのは、神さまに愛された自分をありのままの姿で受け取め、神さまに与えられたもので精いっぱい生きようとするときです。神さまの愛を受けて、世の光として輝くのです。自分の光で輝こうとするのをやめ、自分のありのままの姿をイエスは愛し、ゆるしてくださると知ったときに、私たちは神の前で素直な自分になれるのです。無理にして、他人になる必要はなく、「私は私でよいんだ。私は愛されているんだ」と確信してよいのです。


自分を大切にする

聖書の言葉

イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。

マルコによる福音書 12:29‭-‬31 口語訳

  ~献身的な介護や誠実にする仕事は、もちろん大切です。しかし、自分を大切にしゆとりがなければ、いつか自分が倒れてしまうのではないでしょうか。

 人を心から愛するためには、まず自分が救われている必要があると思います。まずは、他人を救うためにも、しっかり遊び、しっかり食べて、しっかり寝られる環境が必要だと思います。

 私の想像にすぎませんが、マザー・テレサも、献身的な奉仕活動は、毎日のミサと祈りにあったと思います。神様の前に静まり、神さまに愛される時間、休む時間をマザー・テレサは大切にしていたと思います。マザー・テレサすら、そのような時間を大切にしていたのであれば、私たちもなおさらではないでしょうか。

しんどいときは、他人の支援のお世話になり、体をいたわる時間をもつことも大切ではないでしょうか。隣人を愛するためにも、まず自分の体を整えることから、はじめたいと思います。


自分を受け入れる

聖書の言葉

ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。

わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、

キリストの力がわたしに宿るように、

むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

コリント人への第二の手紙 12:9 口語訳

 イライラして心が落ち着かないとき、その原因は自分の思った通りにいかないことにあるのではないでしょうか。家族や友人が、自分の思った通りに動いてくれない。人は、自分すらも思った通りにできない存在だと思います。ましてや、他人を思った通りにすることなど、できません。

 また、理想通りに生きられない自分を嫌いになることはないでしょうか。それは、自分の作り出した「こうでなければならない」という理想に、しがみついているからだと思います。

 理想にしがみついているのは、なんでも自分の思いどおりに支配しようと神を演じているからだと思います。自分を神の位置におけば、疲れるのは当たり前かもしれません。自分は神ではないことを認め、プライドや名誉ばかり気にしていた重たい荷物を、一度整理してみましょう。

 「あれもなければ、これもなければ幸せになれない」と、新しい物を次から次へと買い込んでしまうときがあります。それは、今あるものに立ち止まって感謝できないからではないでしょうか。

 また自分に対しても、「もっと成長しないと、今の自分では愛されない」と誤解してしまうことがあります。神さまは、弱く不完全であっても、「いまのあなたで十分だよ」と呼びかけてくださる方。背伸びするのをやめ、現実の自分を受け入れてこそ、自分の予想を遥かに超えて成長することができると思います。神さまに愛されたあるがままの自分に喜びをもって、隣人の命を喜んで、助け合って旅をしてゆけますように。

 


神さまにゆるされて

聖書の言葉

互に情深く、あわれみ深い者となり、

神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、

あなたがたも互にゆるし合いなさい。

エペソ人への手紙 4:32 口語訳

 ~「もっと優れていなければダメだ」と、自分をゆるせない時があります。

不甲斐ない自分を受け入れることができないのです。それは、自分の力を過信しているからだと思います。

 人はどんなに頑張っても、完璧な存在にはなれません。

「自分の力でなんとかできる」と思うことも大切ですが、自分の限界を認められることは、もっと大切なことだと思います。

 命が最も美しく輝くのは、ありのままの自分の輝きです。背伸びして大きくみせようとするのをやめ、神さまに作られた自分自身になるとき、命は美しく輝くのです。自分自身を見つめるとき、自分ができることと、できないことがみえてきます。タンポポがバラの花になれないように、あなたも他の花になることはできないことに気づきます。できないことがあっても良いのです。できないことは、力をあわせて、より美しいものを作りあげることができます。

たとえ弱く、不完全であっても今の自分をありのままゆるしてあげましょう。何も誇るものがなくても、あなたが生きているだけで素晴らしいことです。神さまに大切につくられた自分を傷つける必要はないのです。自分をそのまま、ゆるしてあげましょう。

 


待つことを大切にする

聖書の言葉

天が下のすべての事には季節があり、 

すべてのわざには時がある。

伝道の書 3:1 口語訳

 ~「もっと早くしなさい」と、相手を焦らせてしまうことがあります。自分に対しても、のんびりしている自分をゆるせずセカセカしてしまうことがあります。それは、自分や他人にいつも、「あなたは、どんな素晴らしいことができるか」と見ているからだと思います。いつも、評価しながらエネルギーを使ってしまうのです。しかし、この生き方だと、やがて疲れはててしまうのではないでしょうか。絶えず相手や自分を監視し、束縛してしまうからです。

 赤ちゃんは、何もすることはできません。誰もが赤ちゃんで生まれてきて、世話をされてきました。神さまは私たちに「あなたが、そこにいるだけで嬉しいよ」と呼びかけてくださる方。神さまは評価しないで、まっすぐ命を大切に見つめてくださる方なのです。神さまの与えられた愛のなかで、ゆっくりいきるとき、人は安心を感じて生きることができるのではないでしょうか。神さまに作られた命は、美しく輝くでしょう。ありのままのあなたが、一番美しいのです。

 また、なんでも焦って結果をだそうとするときがあります。「早く結果が知りたい」と思い、待てないときがあります。しかし、種を蒔いてすぐに花を咲かす花はありません。時間がかかります。

 神様は私たちに、待つという恵みを与えてくださいました。人も最初から上手にできる人はいないと思います。失敗を経験し、少しずつ上手になってゆくのです。完璧な人はいません。私たちは、それぞれ異なるペースで成長してゆきます。もっと速くないといけない、と他人と比べて焦る必要はありません。神さまに与えられた一人ひとりのペースは違うからです。ゆっくりと自分のペースを大切にしてすごしてゆけますように。

 


聖書

キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。

そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、

感謝して心から神をほめたたえなさい。

コロサイ人への手紙 3:16 口語訳

~パウロは、キリストの言葉を豊かに宿らせなさいといいました。

情報社会のなかで、何が正しいのか混乱する時代にあって、聖書の言葉は何千年も時代を超えてありました。私は仕事が覚えれなく、「あなたは仕事のできない人だ」とみんなから評価されたとき、わたしを支えてくれたのは、聖書の言葉でした。聖書は、私たちの能力に関係なく、一人ひとりをかけがえのない大切な存在として見ています。人間であるかぎり、私たちは他人から評価される時があります。しかし、聖書に示されている神さまの愛はいつまでも変わらず、たとえ弱くても「あなたは大切な存在」と呼びかけてくださいます。


今を生きる

だから、明日のことまで思い悩むな。

明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

マタイによる福音書 6:34 新共同訳

~イエスは「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」といわれました。

人は、未来を心配してしまいます。それは、神様が共にいることを忘れ、自分の力のみに頼るプライドにあるのではないでしょうか。

自分の思い通りにならなくても、「人生の道は神様が準備してくださるから、神様に与えられた賜物を用いて、自分らしく精一杯生きるだけで十分だ」と思えたら、身軽になって生きられるのではないでしょうか。

「あれもしないと、これもしないと、神さまに愛されない」と心配してしまうのは、私たちが神様の愛を疑ってしまうときだと思います。疑いという力は強いものです。疑いは神様を信頼するより、自分の力だけに頼ってしまいます。一人のみのちからでやるなら、疲れはててしまうか心配です。

聖書のエフェソの手紙2章8節には

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。

このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。

と書いてあります。

自らの力ではなく、恵みによって神さまは「あなたは神様に愛されている」とよびかけてくださる方。1日にできることには限界があります。私は作業所で草取りをしていますが、長い期間をかけてしていきます。1日にすべてをしようとすると、結果的に疲れはて、倒れてしまうでしょう。続けていくには、1日にできる限界を知ることは大切だと思います。暑い夏はこまめに休み、水分補給をしないと熱中症になってしまいます。

続けていくためにも、ゆっくり休むことは大切です。あまりにも重たい荷物を抱えられないように、人も1日に対処できる体力には限界があると思います。その日の苦労はその日で十分で、明日できることは明日にしてみましょう。


終わりに

片柳弘史神父は『あなたはわたしの愛する子』(教文館)の中で、次のように書いています。

 「ああなったらどうしよう、こうなったら困る」と心配ばかりしている人もまた、自分を恐れや不安という闇の中に閉じ込めています。この闇は、自分の力ではどうにもならないことを、自分の力でなんとかしようとするときに生まれてくる闇です。自分の力ではどうにもならないこと、寿命や健康、家族や友人の心などを自分の思いどおりにしようとするから、恐れや不安が生まれてくるのです。すべてを自分の思い通りにしようとして、恐れや不安の闇の中をぐるぐると歩き回っている状態。それが古い自分、不安や恐れの中に閉じこもっている自分です。

  この古い自分から抜け出すことこそ古い自分に死ぬということであり、古い自分から抜け出して神の愛の光の中に出ることこそが復活です。神の愛は、わたしたちすべての上に豊かに降り注いでいます。「自分の人生には価値がない」という思い込みを捨て、墓の外に出さえすれば、そこは光にあふれた愛の世界なのです。たとえ成功できなくても、社会的に見て失敗ばかりだったとしても、神さまは私たちをあるがままに受け入れてくださるのです。