安心(聖書の言葉)


目次

1、神さまのほうから来てくれる

2、あなたがいてくれるだけで

3、なんとかなるさ

4、いろいろな工夫

5、待ってみる

6、まねをしてみる

7、イエスでさえ誤解されました

8、悲しいときもあっていい

9、片柳神父の書籍から


安心がうまれる聖書の言葉を調べてみました。不安が多い生活のなかで安心は必要ではないでしょうか。神さまは私たちに、休息と安心を与えてくださる方です。


1、神さまのほうから来てくれる

まことに私のいのちの日の限り

いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。

詩篇 23篇 6節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~私は昔、聖書の知識をつんだり、素晴らしい人間になったら神様に愛されると誤解していました。祈れば祈るほど疲れました。神さまはずっと遠くに感じました。

しかし神様は、私たちが弱くても愛してくださることを知りました。聖書には、恵みが私たちを「追ってくる」と書いています。神様のほうが私たちに近づいてくださるのです。いつくしみとは、私たちが欠点や弱さがあってもまるごと包み込んでくれる愛。今のあなたをみて、神さまは喜んでくださるのです。

 

知れ。主こそ神。

主が私たちを造られた。

詩篇 100篇 3節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~主(しゅ)とは神様のことです。神さまがあなたを造られました。だから他の誰かになる必要はなく、神さまが作られたあなたの花を咲かせるだけでよいのです。今のあなたのいる場所に神様のほうからやってきてくださるのです。だから、たとえ疲れはてて動けないときも安心してください。

神さまはあなたを助けにやってくるのです。私たちは「イエスよ来てください」と祈ればよいと思います。


2、あなたがいてくれるだけで

あなたで良かった

花婿が花嫁を喜ぶように、

あなたの神はあなたを喜ぶ。

イザヤ書 62章 5節

聖書 新改訳2017

~人は強さを求めて焦ってしまうときがあります。そのため、自分にも他人にも「もっと強くなりなさい」と言ってしまいがちです。しかし神様は、今のあなたを見て「今のあなたで十分だよ」と喜んでくださるのです。愛されるために他の人になる必要はないと思います。あなただから良いのです。

荷物は手放せば軽くなり、リフレッシュできるのではないでしょうか。「あれもなければ、これもなければ幸せになれない」と思うと逆に不自由になってしまいます。100本の花がなくても、一輪の花でも感謝できるとき、人は幸せを感じれるのではないでしょうか。神様はあなたがいるだけで、喜んでくださる方。神様の前で強がったり演技する必要はありません。「今の自分で大丈夫なんだ」と思えるとき人はゆったりくつろぎ、心が休まるのではないでしょうか。


★あなたは大切な存在

わたしの目には、

あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
イザヤ書 43章 4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~旧約聖書は、ヘブライ語で書かれました。

「高価」は、ヘブライ語でヤーカール「יָקַר」という動詞が使われています。他の聖書箇所では

 

わたしは人を純金よりも、

人間をオフィルの金よりも尊くする
イザヤ書 13章 12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~「尊くする」の箇所で「ヤーカール」(יָקַר)が使われています。

 

サウルは言った。「私が間違っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。

もう、おまえに害を加えない。今日、おまえが私のいのちを尊んでくれたのだから。

本当に私は愚かなことをして、大変な間違いを犯した。」
サムエル記第一 26章 21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~ダビデがサウル王を「尊んでくれた」の箇所でもヤーカール「יָקַר」が使用されています。ヘブライ語辞書は、https://biblehub.com/hebrew/3365.htm

を参考にしました。

神様の目から見たあなたは尊い存在。尊いは名詞ではく動詞が使われています。動詞ですから動作であらわれます。神さまはあなたを歓迎してくださり、喜んでくださる方。今日も「私は神様に愛されている」と確信してよいのです。愛されている自分を知ったとき、安心は心にひろがってゆくでしょう。

 

彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

マルコの福音書 5章 33〜34節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~彼女は「真実をすべて」話しました。聖書協会共同訳では「女は・・・すべてをありのまま話した」と翻訳されていました。
神様に愛されているのに、競争社会の中で自信をなくし「自分はつまらない存在」と思いこまされてる方がいるかもしれません。神さまがいくら、「あなたは大切な存在」と呼びかけても心を開かなければ、神様の愛をうけとることはできません。愛されるために特別なことは必要ないのです。ただ神様の愛を信じて、心を開くだけでよいのです。
イエスが言った安心して行きなさいの「安心」は、エイレネー(εἰρήνη)というギリシャ語の名詞が使われています。

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
ヨハネによる福音書 14:27 新共同訳
~「平和」はエイレーネー(εἰρήνη)という、先ほど「安心」と使用されていたギリシャ語が使われています。ハーモニーや静けさ(harmony, tranquility)という意味もあると、ギリシャ語辞典サイトで説明されていました。
イエスは「心を騒がせるな」といいます。それは、神様の愛を疑わなくても大丈夫だよ、ということではないでしょうか。神様はあなただけの素敵な人生を準備しているのです。幼子のように「私は神様に愛されている」と信頼してゆきたいです。

3、なんとかなるさ

目を覚ましていなさい。

堅く信仰に立ちなさい。

雄々しく、強くありなさい。

コリント人への手紙第一 16章 13〜14節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~聖書は、あなたの強さに立ちなさい、とは言っていません。「信仰に立ちなさい」と言っています。これは神さまへの信頼にたちなさいという意味だと思います。

一人ではた耐えられないことも、神さまが味方ならば「なんとかなる」ことがあります。「私は自分でなんでもできますから、助けなどいりません」と強がる必要はありません。じぶんのできることは精いっぱいして、後は神様の手に委ねるとき、神様は道を作ってくださるのです。その道は自分の思った通りではないかもしれません。しかし、神さまが作った道は一番いい道です。神様に与えれたものとして感謝するとき、喜びの道に変わるでしょう。


4、いろいろな工夫

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

コリント人への手紙第一 10章 13節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~人によって、居心地のいい枕は違うと思います。「なんか違うな?」と思ったら、変えてみてもよいのではないでしょうか。

神様は試練を与える時もありますが、試練とともに「脱出の道」を与えてくださいます。

脱出とはギリシャ語でエクバシィス(ἔκβασις)といいます。ギリシャ語辞典のサイトでは、出口(way out)とも翻訳できると書いてありました。試練は耐えるだけではなく、ときには脱出したり、逃げてもいいのではないでしょうか。

絶対に「こうでなければならない」という方法はないと思います。方法をかえてみたり、環境を変えることも大切です。一人で判断するのが辛かったら、民生委員や神父(牧師)さんに相談したらいかがでしょう。一人でなにもかも背負う必要はないと私は思います。神様は必ず逃れの道を用意してくださいます。もし困り事があったら環境を少し変えてみませんか?


5、待ってみる

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。

伝道者の書 3章 11節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~なんでも、すぐに結果を求めてしまうときがあります。しかし花の種をまいてから「待つ」という時間が必要です。

今日できないことがあってもいいのではないでしょうか。疲れをとって、ゆっくり休んでまたあしたやってみる。やがて、美しい花が時期がきたら咲くでしょう。

神様は私たちがどんな状態にいても慰めてくださいます。大切なのは、慌てないこと。神様に「すぐに幸せな気持ちにさせて」といっても、困ってしまうでしょう。神様はベストなタイミングを用意しています。安心して「神さまが一緒だから、なんとかなるだろう」と楽観的に待っていていいと思います。ゆっくり歩くと道端に咲いている花も楽しむことができます。マイペースでゆっくりが一番です。


6、まねをしてみる

ですから、

愛されている子どもらしく、

神に倣う者となりなさい。

エペソ人への手紙 5章 1節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~神に倣(なら)うとは、神様の考え方をまねることです。神様は「あなたは大切な存在。私の大切な子供」と呼びかけています。子供はおやの言う言葉をまねます。ユダヤ人は、親が繰り返し子供に聖書の言葉を伝えます。


聞け、イスラエルよ。

主は私たちの神。主は唯一である。

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。

これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。

申命記 6章 4〜7節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~神様の言葉は愛の言葉。神様は一人一人を手抜きすることなくオリジナルな存在として大切につくられました。「私は愛されている。生きる意味はあるんだ」と確信してよいのです。愛されるために特別なことは必要ありません。美しくみせようとしてタンポポに色をぬったり、キラキラをつけたら、せっかくのタンポポの美しさが台無しになってしまう気がします。人もシンプルで自然体なとき、もっとも美しいのではないでしょうか。色々なもので飾らなくてもあなたは美しいと思います。

神さまの言葉を毎日のライフでまねてみませんか。「私は今日もイエスにいっぱい愛されている」と思うだけです。さまざまな声がきこえてきて、邪魔をするかもしれません。しかし、神様の愛は最強です。どんなときも「私は私で大丈夫なんだ」と思うと、安心がひろがってゆくでしょう。


7、イエスでさえも誤解されました

この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。

マルコの福音書 6章 3節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~イエスは故郷のナザレで育ちました。小さい頃のイエスを知っていたナザレの町の人たちは、イエスに「大工の子ではないか」とみくだしました。

イエスでさえ、すべての人に理解されませんでした。私たちも、すべてのひとに好かれることは難しいと思います。イエスは、ナザレであまり奇跡を行いませんでした。イエスは、目立つことなく日常を大切にされたのです。イエスでさえ誰からも好かれることはできませんでした。自分の出来ることは精いっぱいして、あとは神様の手に委ねてよいと思います。神様は、わたしたちに完璧を求めることはありません。


私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。

私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。

ヤコブの手紙 3章 1〜2節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~聖書は、「みな過ちを犯してしまう」と現実をのべています。完璧な人間や、完璧な親、完璧な子供はいないのです。私たちができるのは、ベストをつくして自分のできないことも謙虚に知ることだと思います。

もちろん、できるように努力することは大切です。しかし、人間はどんなにがんばっても、苦手なことがあります。数学を何年も勉強しても空間図形の計算が苦手で、できない人もいます。しかし、神さまは他の分野で必ず一人ひとりにうつくしいものを与えています。その1つは「あなたがあなたである」ことです。神様はあなたを愛され、手抜きすることなく作られました。「神様は私を作ってくださった。私であることに感謝」と神様に伝えてみたら、かみさまは喜ばれると、私は思います。


総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

ルカによる福音書4:29‭-‬30 

~とイエスでさえも、人々に誤解され山の崖からおとされそうになりました。

いまイエスは故郷の生まれそだったナザレにいます。イエスの子供のときのことや、知り合いもいたかもしれません。22節にイエス様のことを、「ヨセフの子ではないか」と言われたのも、昔からイエスのことを知っていたからだと思います。故郷の人は、なんであの大工の息子がこのような権威をもって話しているのか驚いたのです。びっくりさせてくれるような、めのみえる印をカファルナウムでしたように、故郷のナザレでもしてくれたら、イエスを信じようと村の人はおもいました。しかし、イエスは特別な奇跡をおこなわなかったのでしょう。ナザレの人たちは、憤慨してイエスに殺意をもちました。故郷の人たちは、イエスは「大工のむすこではないか」と過去の先入観にしばられていました。心を固くしてしまっていたのです。

イエスでさえ誤解され、敵対する人がいました。私たちもどんなに精いっぱいやっても、誤解されたりすることがあると思います。しかし、完璧になれなくても、それは人間の限界であると思います。

イエスは貧しく自分の限界を知っているものを幸いだ、とよびました。イエスは、私たちがじぶんでがんばって救いを達成するのではなく、恵みによってわたしたちを愛してくださる福音を語りました。

詩編には

沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。 」と、書かれています。私たちの現実は、黙っていることなどできない状況になり、自分の力や行いに頼ってしまい、神への信頼を失ってしまいやすいことがあります。しかし聖書は、

立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』(イザヤ30・15)といいます。

それは自分の強さを誇るのではなく、たとえ貧しくても、「こんなわたしでも神さまは救ってくださる。ゆったりゆこう」という、神への信頼に生きることを大切にしていると思います。


8、悲しいときもあっていい

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

ヨハネの福音書 16章 33節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~いつも笑っていなければ、と思うと心は逆に辛くなってくると思います。イエスは、あなたがたは苦難があると言っていますが、苦難とはトラブル(trouble)のことです。「神様を信じているからいつもハッピーを演技していなければ」と思い、悲しんだり弱音をはいている人に文句を言ってしまうことはないでしょうか。

もちろん、どんなことにも感謝し、神様を信頼することは大切かもしれません。しかし、人間は感情があり、涙をながし悲しむこともあります。


喜んでいる者たちとともに喜び、

泣いている者たちとともに泣きなさい。

ローマ人への手紙 12章 15節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~パウロは、泣いている人とは共に泣きなさいといいます。絶体に「こうでなければならない」というのはなく、悲しみを神様に告白してよいのではないでしょうか。

あなたがたのところに行ったときの私は、
弱く、恐れおののいていました。
コリント人への手紙第一 2章 3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
~パウロは、自分の不安を伝えています。神様は弱音を聞いてくださる方。自分の気持ちを我慢することなく、悲しみは悲しみとして伝えることができますように。

9、片柳神父の書籍から

片柳弘史著『ほんとうの自分になるために』(PHP)より

「いろいろなことを付け加えて、人生を複雑にしてはいけません。」

マザー・テレサ

「なくてはならないもの」が増えれば増えるほど、わたしたちの生活は複雑になります。「あれも手に入らなければ、これも手に入らなければ」と、気がかりなことが増え、ものに振り回されるようになってゆくのです。便利なものだけではありません。一度手に入れた地位や収入、住まい、人間関係なども、幸せな生活のために「なくてはならないもの」になってゆきます。こうして、わたしたちは少しずつ人生を複雑にし、幸せのハードルを上げてゆくのです。わたしたちは、自分勝手に人生を複雑にしていないでしょうか。「あれも欲しい、これも必要」とあちこちに手を伸ばし、幸せになるために一番大切なものを見失ってしまう。そんなことがないでしょうか。幸せになるために本当に必要なものは何なのか、ときどき立ち止まって自分の生活をチェックしてみたいと思います。

 

片柳弘史著『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)より

ルカ福音書には、復活したイエスが、弟子たちに「どうして心に疑いを起こすのか」(ルカ24・38)と語りかける場面があります。「信じる」ということの反対は「疑う」ということでしょう。イエスの愛を疑うとき、わたしたちの心に「これから一体どうなるのだろう」という恐れや不安が生まれます。恐れや不安は絶望や自暴自棄な態度を生み、わたしたちを滅びへと誘ってゆきます。・・・。イエスの愛を疑うとき、わたしたちは心の平和を失うのです。逆に、イエスの愛を信じている限り、何も恐れる必要はありません。「たとえ目に見えなかったとしても、自分はイエスに愛されている。目に見えない大きな力に守られている。だから、何があっても大丈夫」。そう信じている人は、どんな困難に直面しても、その困難を乗り越えることができるのです。

 

片柳弘史著『希望する力』(キリスト新聞社刊)より

将来のことを考えて思い悩んでいる人に、ぜひお勧めしたい聖書箇所があります。それは、「空の鳥をよく見なさい」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」という言葉で有名なマタイ福音書6章25~34節です。この箇所の新共同訳聖書でのタイトルは、ずばり「思い悩むな」となっています。仕事や家事に追われ、鳥や花を見るために立ち止まっている暇などない生活をしていれば、心が荒み、将来への不安が生まれてくる。逆に、鳥や花をじっと見つめて立ち止まるゆとりを持ちさえすれば、すべての被造物に惜しみなく注がれる神の愛、この世界を満たした神の愛に気づき、思い悩む必要などないことに気づくだろう。この箇所で、イエスはそう言っておられるように思います。・・・。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」ともイエスは言います。いまこの時にこそ、深く心に刻みたい言葉です。先のことまで思い煩い、それだけで疲れてしまって、いま自分がすべきことをしないなら、明日がよきなることはないでしょう。私たちはただ、「よりよい明日のために、いま何ができるか」だけを考えていればいいのです。「神の国と神の義」を求めて生きるなら、今日すべきこと、今日できることはいくらでもあります。先のことは神さまの手に委ね、安らかな心で今日この一日、いまこの瞬間を精いっぱい生きていきましょう。