目次
1、ゆだねる
2、助けてもらう勇気
3、自分のサイズで生きよう
4、逃げても道は開かれる
5、片柳神父の言葉より
あなたがたの思い煩いを、
いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを
心配してくださるからです。
ペテロの手紙第一 5章 7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
困難なことは、問題とは呼びません。
むしろ、チャンスと呼びます。
マザー・テレサ
片柳弘史著『日めくりマザー・テレサ』 (PH P)より
~※私の感想です。困難なとき、自分の無力さを感じます。しかし、背伸びして無理をしていた自分から、等身大の自分に戻るチャンスのときではないでしょうか。自分のサイズを知ったら、無駄な荷物もへりシンプルになります。困難さえも、チャンスの時にできますように。
それぞれが賜物を受けているのですから、
神の様々な恵みの良い管理者として、
その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。
ペテロの手紙第一 4章 10節 聖書
新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
人は心に自分の道を考え計る
しかし、その歩みを導く者は主である。
箴言 16:9 口語訳
~自分の思い通りになることは、もちろん、満足します。しかし、私たちの人生の道では、自分で計画していないことが起こることがしばしばあります。聖書は「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」と言います。
限界を認めるとはあきらめではないと思います。自分のサイズを知っている人は、できることと、できないことを知っているので、仲間と協力して美しいものを作りあげていくことができるのではないでしょうか。
一つの町で迫害されたなら、
他の町へ逃げなさい。
マタイによる福音書 10:23 口語訳
~「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」とイエスはいいます。
立ち向かうだけではなく、時には逃げて行きなさいと、イエスは言われました。
他の町へ逃げる時「これから先どうなるんだろう」そんな不安が沸き起こってきたと思います。持ち物もなく、将来のことを考えるのと不安だらけですよね。
ただし、そんなときにこそ、神により頼み、自分の思いではなく神の思いを行うチャンスの時かもしれません。そう考えますと、無力であることを恐れたり、恥じたりする必要はないかもしれません。無力な時こそ、私たちは自分の予想を遥かに超えて成長することができると思います。
おそらく、逃げた先の町にもキリスト者はいたのでしょう。そうやって初期キリスト教会は、助け合って生活し、イエスの愛を宣べ伝えていったのでしょう。「どうしてあなたは逃げてきたんだ。弱い人間だ。あなたは帰っていきなさい」と追い出す人はいなかったのでしょう。むしろ「あなたはかけがえのない大切な存在。怪我などありませんか」と、キリスト者たちは励まし合い、暖かく迎えたのでしょう。
迫害した人たちは、逃げて行くキリスト者たちを見て笑っていたかもしれません。しかし、逃げて行くキリスト者たちは「人からどう言われようと関係ない。神さまから愛されているのでそれだけで十分だ」と思っていたでしょう。
「逃げる」はギリシャ語でフェウゴー(φεύγω)です。聖書を見ると、色々な場面でこの言葉が使われていました。
モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、
そして、ミディアン地方に身を寄せて
いる間に、二人の男の子をもうけました。
使徒言行録 7:29 新共同訳
~モーセはミディアン地方に逃げまし。(φεύγω)。しかし神さまは、そんな逃亡者モーセも必要とされ用いられました。
マイナスのことさえ宝としてくださるのです。
婦人たちは墓を出て逃げ去った。
震え上がり、正気を失っていた。
そして、だれにも何も言わなかった。
恐ろしかったからである。
マルコによる福音書 16:8 新共同訳
~イエスの墓が空っぽだったのをみた婦人たちは、震えあがり逃げ去りました(φεύγω)。
弟子たちは皆、
イエスを見捨てて逃げてしまった。
マルコによる福音書 14:50 新共同訳
~イエスの弟子たちは、イエスが逮捕されるのをみて逃げてしまいました(φεύγω)。しかし復活したイエスは弟子たちを愛され、ゆるされました。逃げなければ、ゆるしを体験できずにいたかもしれません。逃げることは残念でしたが、逃げることさえ神さまは宝に変えてくださいました。
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。コリントの信徒への手紙一 10:13 新共同訳
~神さまは立ち向かうだけではなく、時には逃れの道を用意してくださいます。逃げることは生きるために必用なことがあります。まず、自分の安全を守るために、逃げることも大切だと思います。
逃れるは、ここでは名詞のエクバスィス(ἔκβασις)が使われています。新約聖書では2回だけ使用されていて「出口」「結果」「終わり(ヘブライ13・7)」という意味もあるみたいです。「備える」はポイエオー(ποιέω)という動詞です。この動詞は、
イエスは立ち止まり、二人を呼んで、
「何をしてほしいのか」と言われた。
マタイによる福音書 20:32 新共同訳
この聖書の箇所で、「する(do )」という意味で使われています。
イエスは、どんなに忙しくても、わたしたちのために立ち止まって(ヒステーミ、ἵστημι)くださる方。そして、私たちに耳を傾けてくださる方です。イエスが大切なのは一人一人です。私たちが疲れて動けないときも、イエスは立ち止まってくださり共にいてくださいます。
『マザー・テレサカレンダー2022』ドン・ボスコ社より
乗り越える力、片柳弘史神父より
大きな困難に直面したなら、すぐ「すべてはイエスの手の中にある」ことを思い出しなさいとマザー・テレサはいいます。悪魔は、わたしたちが目の前の困難に気を取られてそのことを忘れ、不安や恐れに飲み込まれて自滅してゆくことを願っているに違いないからです。しかし実際のところすべてはイエスの手の中にあり、何も心配する必要はないのです。
困難はむしろ「神から与えられたチャンス」だとマザーは言います。大きな困難でこそ、わたしたちは自分の無力さを思い知り、すべてを神の手に委ねることができるからです。自分の無力さを知り、心を空っぽにして神の前にひざまづくとき、神はわたしたちの心を聖霊で満たしてくださいます。人間の力をはるかに超えた力がわたしたちに宿り、わたしたちを動かし始めるのです。
「大切なのは、どれだけ持っているかではなく、どれだけ手放したか、どれだけ持っていないかです」とマザーは言います。 これだけは絶対に手放せない、と何かにしがみついているかぎり、わたしたちの心はすっかり空になりません。すっかりに空にならないかぎり、聖霊がわたしたちの心をすっかり満たすこともないのです。
自分を忘れるほど誰かを愛するとき、イエスの愛がわたしたちを包み込みます。イエスの愛がわたしたちを守り、 すべてをいちばんよい方向に導いてくださるのです。「自分のことを忘れれば忘れるほど、イエスがあなたたちのことを考えてくれる」というのはそういうことです。
自分の力で自分を守ろうとして、悪に立ち向かうために悪を選べば、その瞬間に悪が勝利します。悪に打ち勝つためには、愛をもって立ち向かう以外ないのです。だからこそマザーは、「みにくさに対しては美しさで、無礼に対しては親切で、乱暴な言葉に対してはていねいな言葉で立ち向かいなさい」と言うのです。
困難に直面したとき、わたしたちの心はさまざまな心配事で満たされます。 それは、人間である 以上仕方がないことです。 何より大切なのは、自分の力で困難を乗り越えようとしないこと、心配事をすべてイエスに委ねることです。「わたしにはもう無理です。 ここから先は、わたしを使ってあなたがしてください」と祈るとき、あらゆる困難を乗り越える力がわたしたちに与えられます。すべてを イエスに委ねるとき、イエスがわたしたちを使ってすべてをしてくださるのです。「あとのことはイエスがしてくださる」とはそういうことです。わたしたちも、マザーにならって自分を空にし、イエスと 共にあらゆる困難を乗り越えてゆくことができますように。