使命とは(聖書が大切にしていること)


目次

1、互いに愛し合うため

2、イエスの弟子となるため

3、一人ひとりの使命は違う

4、できることと、できないこと

5、聖霊に教えられて

6、ゆるしの使命


1、互いに愛しあうために

隣人を自分のように愛しなさい。

マルコによる福音書 12:31 新共同訳

神さまは、私たちが愛し、愛されるために作られました。愛すると、好きは違います。好きは自分に好ましい時だけ好きですが、愛するとは、自分の理想どおりにならなくても「あなたで良かった」と喜ぶことです。

また愛することも大切ですが、愛されることも大切だと、私は思います。イエスは子供のとき、「神と人とに愛された」(ルカ2:52)と書いています。

またパウロは、クリスチャンたちに、「あなたがたは神に愛されている子供ですから」(エフェソ5:1 )といっています。ローマの手紙でも「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」(ローマ1・7)と書いています。愛することはもちろん大切ですが、「私は神さまに愛されている」という喜びがあるからこそ、人は愛する力を神様から与えられると思います。

「私はつまらない人間だ」と思い込んでいる人に、「あなたは神さまに愛された大切な存在ですよ」と伝えること。それが、イエスの弟子としての大切な使命の一つだと思います。


私にはまだ、この世で生きる使命があるのです。あなたがたの信仰の成長を助け、あなたがたがもっと喜びにあふれるために、もうしばらくの間、地上で長らえることになるでしょう。

ピリピ人への手紙 1:25 リビングバイブル

パウロは、自分の信仰だけにこだわっていませんでした。いつも、他人の成長のためにサポートして、協力していました。パウロは、それが神さまから与えられた、自分の使命と考えていました。「自分だけ強く、成長していれば、他人は関係ない」とは、言わなかったのです。仲間を愛し、サポートし、仲間と共に歩むこと。私たちも、隣人とともに歩むものでありたいと思います。


2、イエスの弟子となるために

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。

彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

マタイによる福音書 28:19‭-‬20 新共同訳

~イエスの弟子とは、イエスが大切にされたことを、現代で実践することだと思います。

イエスの教えは福音書や聖書に書かれています。しかし、完全なクリスチャンはいません。だれもが限界があり、弱さを抱えています。

「あれもしなければ、これもしなければ」と焦ると、やがて疲れはて、信仰生活に喜びを感じなくなってくると思います。

しかし、神さまは一人ひとりに異なる才能を与えています。神さまは、あなたを必要としておられるのです。目立つこと、特別なことが全てではありません。どんなに小さなことでも愛をこめたとき、神さまは喜んでくださるのです。


3、一人ひとりの使命はちがう

このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、

もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、 奉仕であれば奉仕をし、

また教える者であれば教え、 勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、

指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。

ローマ人への手紙 12:6‭-‬8 口語訳

~「主は完全なキリスト者を求めてはおられないと教えています。主は完全なキリスト者を求めてはおられません。本当に、自分自身が完全だと信じているキリスト者や一部のキリスト者の集まりを見ると、恐ろしくなります。主は完全なキリスト者、つまり決して疑わず、常に確固たる信仰を誇るキリスト者を探してはおられません。そのようなキリスト者は、何かが違います。」

フランシスコ教皇

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/04/27/24569/より、転載させていただきました。

 

私はフランシスコ教皇の言葉を読んで、ホッとしました。つい「クリスチャンらしく生きなければ。完全なクリスチャンにならなければ」と、焦っていたからです。「なんか最近疲れるな」と思ったら、聖書に帰ってみると、ふたたび勇気をもらえることがあります。時々「クリスチャンとは、こうあるべき」と決めたがりますが、聖書には多様性が書かれています。神さまは、他人と比べて「あなたは信仰がたりない」といわない方。イエスは、幼子を抱え、命そのものを愛されました。「わたしは信仰がたりない」と、自信を失っていたら、イエスの声に耳を傾けてみてください。「あなたで大丈夫だよ」と、神さまは優しい声で呼びかけてくださっています。1人ひとりの使命は違います。全ての人が、神父やシスター、牧師であるわけではありません。すべての人が、オルガンをひけるわけではありません。一人ひとりの使命は違ってよいと思います。

 

パウロは、次のように言っています。

霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。

務は種々あるが、主は同じである。

働きは種々あるが、

すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。

コリント人への第一の手紙 12:4‭-‬6 口語訳

~賜物(カリスマ、χάρισμα)は様々(διαίρεσις)です。様々とは、違い(difference)があってよく, 多様性があると思います。

しかし、それはバラバラではなく、キリストにおいて互いに助けあいささえ合う働きをします。賜物は互いに助けあって、愛し合うために神様から預かったものです。


4、できることと、できないこと

わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、

わたしの務を光栄とし

ローマ人への手紙 11:13‭口語訳

~パウロは、自分ができることとできないことを知っていました。異邦人とは、ユダヤ人以外の人をいいますが、パウロはなにもかもしようとは思っていません。自分のサイズを知って、背伸びしなくてよいのだと思います。失敗したときは、自分の力のなさに自信をなくすことがあるかもしれません。しかし、自分の弱さや限界を知るのは、素晴らしいステップだと私は思います。

 

イエスは彼らを見つめて言われた、

「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。

マタイによる福音書 19:26 口語訳

~人は神さまの愛によって、命が与えられ、生きるものになりました。イエスは、人にできることと、神さまのできることを知っていました。たとえば、どんなに素晴らしい行いをしても、それを条件に神さまに認められるのではありません。ただ、神さまの愛によって、人は神さまに受け入れられ、愛された存在であるのです。演技して、「できる」ふりをしなくてもいいのです。神さまは、あなた「である」ことを大切にしているからです。

 

シラスとテモテが、

マケドニヤから下ってきてからは、

パウロは御言を伝えることに専念し、

イエスがキリストであることを、

ユダヤ人たちに力強くあかしした。

使徒行伝 18:5 口語訳

~パウロは、テント作り職人の仕事もしていました。しかし、仲間たちが来たら、福音宣教に専念しました。「あれもしなければ、これもしなければ」と焦ってしまうと、何事も雑になってしまうでしょう。自分にできないことは協力してもらい、助けあってゆきたいです。

 


5、聖霊に教えられて

すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。

ローマ人への手紙 8:14 口語訳

心を沈黙させ、神さまの声に耳を傾けてみると、神さまは、「私はあなたを愛している」と呼びかけてくださる方です。神さまは、あなたの使命を、聖霊によって教えてくださぃす。

聖霊を受けるためには、何の資格もいらず、何の条件もいりません。雨をあびるかのように、恵みによって誰もが、無料で受けることができるのです。


6、ゆるしの使命

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

ヨハネによる福音書 20:21‭-‬23新共同訳

 

これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 コリントの信徒への手紙二 5:18 新共同訳

イエスは、自分を見捨てた弟子たちをゆるし、これまで以上の信頼をもって福音宣教の業をまかせました。弟子たちは間違いを犯し、誰もが脅えていたことでしょう。「なんてことをしてしまったんだ」「こんな罪は許されないだろう」と、罪悪感で苦しんでいたことでしょう。

しかし、復活したイエスは弟子たちに出会い、弟子たちは赦されて神の愛を知りました。喜びの涙をながしたかもしれません。自分の弱さを弟子たちは経験し、神さまの愛の偉大さを知ったことによってはじめて、福音宣教の準備が整ったのです。もし失敗も、過ちを犯さない弟子たちであれば、神さまの赦しの大きさも分からずにいたと思うのです。弟子たちは、イエスの赦しを信じることができました。

マタイ6章14節で、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」とイエスは言われました。弟子たちに、主の祈りを教えたあとに、どうしてこんなことをイエスは言われたのか。それは、とても大切な弟子たちの使命があったからだと思います。

弟子たちの使命とは、誰一人として自分で自分を責めることがないために、神さまの赦しへ導き神さまと和解に導くことです。

私たちは、他人をゆるせても自分をゆるすことが難しいという人がいます。「いまの私では駄目だ」と自分を責め、自分で自分を苦しめてしまうのです。それは、「自分が優れていなければ価値がないから、今の自分では駄目だ」という思い込みがあるからではないでしょうか。しかし、それは大きな誤解だと思います。神さまは、弱い不完全な私たちをゆるし、ありのままの私たちを愛してくださるからです。どんなに頑張っても、自分の罪をぬぐいさることはできません。どんなに修行して、努力して、汗をながして働いても、十字架の赦しなしに、人には救いはないのです。

十字架の前にたつとき、「私は赦されているのだ」と信じきってよいのです。

もし信じられないならば、「あなたの赦しを信じることができますように」と、繰り返し祈り続ければよいのです。繰り返し祈る中で「私は本当に赦されているんだ」と神さまの赦しを心の底から信じ、自由になることができると思います。空っぽになった自分の心に、神の愛が心のすみずみまで満たしてくださいます。

赦しの使命を伝えることができる人は、強い人ではありません。自分の弱さを体験した弟子だからこそできるのです。弱くて不完全な自分を、それでもかけがえのない大切な存在として自分を受け入れ、「自分は本当に赦された」と信じることがゆるされています。