幸せはあなたのそばに(聖書の言葉)


目次

1、いてくれてありがとう

2、幸せはあなたのそばにあります

3、あなたで良かった

4、弱さも宝物


★関連サイト

片柳弘史著『やさしさの贈り物』 (教文館)を読んで→幸せを感じる言葉


1、いてくれてありがとう

一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

ルカによる福音書 10:38‭-‬42 口語訳

~マルタは「あれもしなければ、これもしなければ」と焦ります。イエスをもてなすために大忙しのマルタは「なんで私だけ忙しいのですか。マリアは、なにも奉仕していません。ただ話を聞いているだけです。なんか言ってやってくれませんか」。マルタは、そう思ったにちがいありません。

マルタは、何かをすることだけに価値があると思い込んでいたのでしょう。黙って話を聞いているマリアに腹をたてたのです。

しかしイエスは答えます。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

現代はマルタのように「何か行動をおこすことが素晴らしいことだ」と思いがちです。そのために人は小さい時から、結果を出さなければならないと焦ってしまいます。幼子から大人までもが結果をだす人間を求め、人間の存在の大切さを忘れてしまっているようです。

そんな私たちに向かってイエスは、「野の花や、空の鳥を見なさい」と言われます。神さまに装ってもらった野の花のほうが、どんな立派な服装を着ている王よりも美しい、とイエスはいうのです。

「道端のタンポポなんて、誰の役にたっているのか」と見てしまいがちですが、神様は野の花が咲いている存在自体を美しいもの、と呼んでくださるのです。

もしかして、マルタと同じように「あれもしなければ、これもしなければ認められない」と、慌てていないでしょうか。イエスは、何もできない幼子を愛する親のように、ただマリアがいてくれるだけで喜ばれました。いるだけで大切にしてくださる神さまの愛を、喜んで信頼することができますように。


2、幸せはあなたのそばにあります

新約聖書より
新約聖書より

イエスは、「空の鳥をよく見なさい」、といわれました。社会の役に立たないから、鳥は価値はないと思う人はいないでしょう。むしろ、神様に作られた命の美しさに感動するはずです。社会の役に立たなくても、精いっぱいに生きているというだけで、命は限りなく尊い存在。神様に創られた花も同じ。誰からもみられない山奥に咲いている花も、花壇で人から見やすく目立つ場所に咲いている花も、どちらも神様の目からみたら価値がある花なのです。神様に置かれた場所で、自分の花を精一杯咲かせるだけで、十分なのです。 しかし人は、「自分にはあれが足りない、これが足りない」と不平不満を言ってしまうことがあるでしょう。新しい服を手にいれたら、またすぐ新しい服を欲しくなった、という話もききます。本も一回読んで、本だなに眠ってしまうこともあります。毎日あわただしく生活をしても、いま与えられているもので満足しないかぎり、人は幸せになれないのではないか、と思います。

 片柳神父は『やさしさの贈り物で、『庭の手入れや鳥の世話、豆から挽いた一杯のコーヒー。幸せは、わたしたちの身の回りの、ささやかなことのなかに隠れています。大きな幸せを探しに、出かけてゆく必要はありません。すくそばにある幸せを見つけましょう。』と言っています。人は、すぐそばにある幸せを見過ごしてしまいがちです。しかし、私たちは今を感謝できるならば、いつでも幸せになります。片柳神父は『やさしさの贈り物』で、『幸せは、手に入れるものではなくむしろ感じとるもの。「幸せの感受性」を磨きましょう。』と言っています。すぐそばにある幸せを、今日感じとることができますように。

 


3、あなたで良かった

しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。

エペソ人への手紙 4:7 口語訳

~神さまはわたしたちの気持ちに寄り添ってくれます。「不安なんだね。我慢しなくていいよ」と慰めてくださいます。自分の気持ちが受け止められて、「私は一人ではないんだ」と自信がつきます。自信がわいてくると、「私は神さまに愛されている、大切な神様の子供」と確信できます。

自分とはなにか明白になるとストレスはぐんと減るでしょう。聖書は「あなたに恵みが与えられています」といいます。恵みとは、神様の愛です。「あなたは愛されている」と、聖書はいっています。

自分が明白になったら、いくら人からけなされようとも、人からおだてられようとも、高ぶることもありません。神さまは、「あなたは美しい」と呼んでくださることを、確信しているからです。


片柳弘史著

『やさしさの贈り物』(教文館)には、

『「どうせ死ぬのに、なぜ生まれてきたんだろう」と言う人には、「あなたが生まれてこなければ、わたしはあなたに会えなかった。わたしはあなたに会えてうれしい。あなたが生まれてくれて本当によかった」と言ってあげるのがよいでしょう。』

という文章があります。神さまは一人は一人に「あなたが生まれてくれて本当によかった。生まれてきてくれて、ありがとう」と呼びかけているのです。神様の愛を受けたら、それだけでこころは満たされるのです。

もう、自分以外の誰かになる必要はないと思います。神様に愛されているのですから、自分の花を誇りをもって咲かせてよいのです。あなたで大丈夫です。


4、弱さも宝物

それで、わたしのこれらの言葉を聞いて

行うものを、岩の上に自分の家を建てた

賢い人に比べることができよう。

マタイによる福音書 7:24 口語訳

~人間の評価を気にしていると、生きていると、いつも不安になりがちです。そういう時は、生きている土台を、神さまに変えたらいいのです。神さまはどんな時も、「あなたをあなたとして」愛する方。神様の愛は変わることはありません。

片柳弘史神父が指摘していましたが、人は自分を低く評価して、「私にはなんにもできない」という時があります。しかし、「私にはなんでもできる」と言うくらい、それは間違えています。神様は、一人一人にその人にしかない良いものを与えているからです。「私にはなんにもできない」というのは、謙遜ではなく、傲慢であるかもしれません。

神様は私たちに強さのみではなく、弱さも与えておられます。弱さがあるのは偶然ではなく、私たちが互いに助け合い、神様に助けを求めるために、私たちに与えたものなのです。「私は弱いから価値がない」と落胆する必要はありません。神さまに作られた等身大の自分を大切にしてよいのです。

 自分の力でがむしゃらに頑張るのではなく肩の力を抜き、神さまの導き(神さまのサポート)を信じてよいのです。人は、つい自分の人生の計画を自分の思った通りにならないとイライラします。

しかし考えてみますと、神さまは一人一人に一番よい道を準備してくださっています。それは、もちろん自分の思った通りにならなかったかもしれません。試練、病気、さまざまな状況によって、神さまは違う方向に人を導かれることがあります。

しかし、その道は無駄な道ではありません。神さまの目からみたら、その道はどうしても必要な道だったのです。神さまが与えてくださった道は、一番良い道です。神様の創られた道を喜んで歩いてゆけますように。


片柳神父はブログ

次のように書いています。

他人の言葉で、わたしたちの価値が下がることはないのです。わたしたちを「辱める」のは、むしろ自分自身です。神の思いよりも人間の思いを優先するとき、わたしたちは自分で自分の価値を下げ、自分で自分を「辱める」ことになるのです。