目次
1、背伸び
2、自分を飾ってしまう
3、必要なら医療をうけてみるのも、
一つの選択です
4、やわらかさ
5、不安くんを調べてみよう
6、ゆったりと
現実の自分が理想の自分とずれていると、人は不安になりがちです。理想の自分は背伸びしていることがあります。力んでいた力をゆっくり抜いて、「なんだ。ありのままの自分でも良かったじゃないか」と思うと心が楽になることがあります。弱い自分を見せたら、みんなは幻滅すると思っているかもしれません。しかし神様は素のあなたを愛しています。
自分を過大に評価してはなりません。
むしろ、神が各自に分け与えてくださった
信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
ローマの信徒への手紙 12:3 新共同訳
神さまは一人一人に、「度合い」を与えています。無理に他の人になる必要はないのです。なぜなら、神さまはあなたをあなたとして造られたからです。背伸びしたり飾ったりしてもくたびれてしまうでしょう。神さまが造られた「あなた」で良いのです。
周りの人はあなたに、たくさんのことを期待していたかもしれません。その期待にこたえようと、がんばりすぎてしまったのではないでしょうか。しかし人間には体力の限界があります。いつまでも演技しつづけることはできないと思います。実際の自分をみたらみんな悲しんでさっていくんだろうと思うとき、人は不安を感じるかもしれません。そうならないために、必死に自分を飾ってしまうのです。
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。
偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。
マタイによる福音書 6:5 新共同訳
~イエスは、偽善者のようにあってはならないといいます。それは、じぶんを飾って相手によくみせようとする人たちではないでしょうか。偽善者は、他人からよく見られたいために飾ります。
しかし、本当の友人はあなたが飾らなくても、あなたを大切にしてくれるのではないでしょうか。飾るとどんどん複雑になってしまいます。大切なのはシンプルなこと。「あなたはあなただから大切な存在」であり、あれもこれも付け加える必要はないと思います。
主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
コリントの信徒への手紙二 12:9 新共同訳
~神様はあなたが強いから愛するのではなく、
弱くても恵みを与えてくださるのです。
★不安を言葉にだしてみよう
全般性不安障がい(外部サイト)とよばれる障がいがあります。また不安障害も様々な種類があり、パニック障がい(外部サイト)とよばれる障害もあります。
自分の力だけではなく、医療的なケアは大切だと思います。周りの人はつい、「不安にならなくていいよ。だいじょうぶだよ」と、不安を否定することがありますが、本人にとっては辛いと思います。
不安を感じることも否定しないで、じっくり話を聞いてあげることは大切だと思います。精神科医にかかりカウンセリングをうけながら、ゆっくり治療しませんか。
そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、
恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
コリントの信徒への手紙一 2:3 新共同訳
~私はこのパウロの言葉が好きです。パウロは強がらないで、ありのままの自分の気持ちを仲間たちに伝えました。パウロは指導者のような立場でありましたが強がりませんでした。自分の気持ちに向き合う大切さを、聖書は伝えていると思います。
★やわらかく
人はどうしても、「こうであるべき」と決めてしまいがちです。しかし、それらの思いにこだわると、身動きがとれなくなってしまうのではないでしょうか。
もちろん、自分の計画は大切です。しかし、「この大学に合格できなければ私には価値がない」などと言ってしまうのは、幸せな考え方ではないように私は思います。片柳神父は、ブログのバイブル・エッセイ(1042)天国の戸口で、次のように書いています。
天国の戸口をくぐるためには、さまざまなものにしがみつく心も捨てなければなりません。「あれも欲しいし、これも欲しいのに、なかなか手に入らない。なぜ、この世界はわたしが思った通りにならないんだ」などと考えていると、天国に入ることができないのです。天国に入りたいなら、「あれも欲しい、これも欲しい」という欲望を捨て、小さくなる必要があります。「思った通りにはならなかったが、わたしの人生はこれで十分だ。神さまありがとうございます」と思える謙虚な心、小さな心になったときにだけ、わたしたちは戸口を通ることができるのです。
★ゆだねて
心の頑な者は苦難に陥る。
箴言 28:14 新共同訳
~「こうであるべき」と心の頑な者は苦難に陥る、と書いています。聖書の根底には、人生は神さまが導き養う方であるという考え方があります。たとえ、自分の思いどおりにならなくてもそれは神さまが与えてくださったことであり、神さまの準備してくれた道だとわたしは思います。
片柳神父はTwitterで
教皇の言葉を引用して
次のように言っています。
悲しくて、すべてが悪い方に
向かっているように感じたときは、
「神はわたしを愛している。
神は決して見捨てない。」と
いうことを思い出しましょう。
~自分の思った通りにならなくても、
神様が準備して下さった道なら、
それが一番いい道なのです。
『日めくり教皇フランシスコ』(ドン・ボスコ社)
「不安を感じる私は弱い人間だ」と、自分を否定する必要はないと思います。不安を感じやすい人もいますし、それは人それぞれだからです。人はなにごとも、「すぐに治さなければ」と慌ててしまいがちですが、心の病気の治療は慌てる必要はないと思います。主治医と信頼関係を結べて、治療にとりくめば、必ず楽になると思います。
「不安」についても、様々な本があります。最近では子どものための認知療法やマインドフルネスなどの本が出版されていて、大人が読んでもとても学びになると私は思います。大人向けなのは難しい本があります。
不安についてもっと知りたいと想うと、色々な発見があり、気持ちが楽になる場合があります。ある方は自分の不安にかわいい名前をつけている方もいました。「フアちゃん」でもいいし、「不安くん」とか、なんでもいいです。不安になったとき、「フアちゃんがきた」と言う感じです。
すべて重荷を負うて苦労している者は、
わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。
マタイによる福音書 11:28 口語訳
~疲れたときも、神さまは一緒にいてくださり「ゆっくり休んでね」と声をかけてくれます。不安な夜も一人なら耐えられない苦しみも、手をとりあえば耐えられる苦しみにかわります。私も不安くんを知る旅を、少しずつ本を読んでしていきたいと思います。
イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、
丈夫な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、
正しい人を招くためではなく、
罪人を招くためである。」
マルコによる福音書 2:17 新共同訳
~イエスは不安を抱えたり、失敗してしまったり
助けを必要とする人たちのためにこられました。大嶋重徳牧師は『世の光』で次のように言っています。
イエス様はおっしゃいました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
今朝、私たちもそうです。真面目に生きていきたいと思います。しかし、実際はどうしても自分の中の聖く生きられない生活を認めざるを得なくなっていきます。その時に、「あの人たちよりもましだ」と思える不真面目な人たちを見つけようとします。そして、その人を非難し、自分の生き方を肯定しようとしていくようになることがあるかもしれません。しかし、イエス様はそのように真面目に生きることのできない私たちのために、「わたしは来たのだ」とおっしゃったのです。
朝はやく、夜の明けるよほど前に、
イエスは起きて寂しい所へ出て行き、
そこで祈っておられた。
マルコによる福音書 1:35 口語訳
~イエスは、朝早くさびしい場所にいかれました。なぜイエスはそんな寂しい場所にいかれたのでしょう。それはイエスが神さまとの祈りの時間を大切にし、休まる時間が必要だったと思います。
精神的につらいときは、生きているだけでしんどいときもあります。不安が強いときは、ゆっくり休んで人にあうのもやめる方法もあります。
いつも人と仲良くしなければと思い、自分を後回しにしては傷が深まってしまうことがあります。時には方法をかえて、ゆっくり静かな場所で休むことも大切だと思います。
主なる神は、こう言われた。
「お前たちは、
立ち帰って静かに
しているならば救われる。
安らかに信頼していることに
こそ力がある」
イザヤ書 30:15 新共同訳