目次
1、クリスチャンも人間です
2、助け合う
3、みんな違っていい
4、失敗するときがある
5、弱さを宝にして
6、愛し、愛される時間
マザー・テレサは
「余計なことを付け加えて、
人生を複雑にしてはいけません」
と言います。「今の私は不十分だから」と焦って背伸びする必要はないと思います。弱く不完全であっても、今のあなたで十分だと思います。余計なものを付け加えるよりも、シンプルなあなたで十分だと思います。それでは、聖書をみて考えてゆきたいと思います。
1、クリスチャンも人間です
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
エフェソの信徒への手紙 2:8 新共同訳
~素晴らしい人間にならなければならない、と思い込む必要はないと思います。神様の恵みとは、私たちが何かできるから愛されるのではなく、弱く不完全であっても、神さまは私たちを愛してくださることです。もしクリスチャンになって、「愛のある見本になる人間にならなければ」と思うと疲れはててしまうと思います。それを、律法主義といって行いによって神さまに認められようとする考え方をいいます。しかし聖書は、律法主義を否定しています。自分のできることは精いっぱいして、あとは神さまに委ねられますように。
律法によって義とされようとするなら、
あなたがたはだれであろうと、
キリストとは縁もゆかりもない者とされ、
いただいた恵みも失います。
ガラテヤの信徒への手紙 5:4 新共同訳
すべてを自分の力でしようと思えば、恐れや不安に陥ります。「神さま、わたしを使ってあなたの思いを実現してください」と祈れば、あとのことは神さまがしてくださるでしょう。「あれもしなければ、これもしなければ」と考えて一日を始めれば、仕事追われて一日が終わります。「何をすべきでしょうか」と神さまに尋ねて一日を始めれば、一日を神さまに捧げることができます。
片柳弘史著『始まりのことば』(教文館刊)より
2、助け合う
互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
ガラテヤの信徒への手紙 6:2 新共同訳
~社会では、自立した人間を求めてしまいます。そのため「何事もテキパキ自分一人で頑張らなければならない」と思いがちです。クリスチャンとは、スーパーマンではありません。聖書には、互いに重荷を担いなさい、とあります。それは、助けあってゆきなさい、ということだと思います。完璧なクリスチャンは存在しません。完璧なのは神様だけで、あるがままの自分を受け入れ、仲間と力をあわせてゆけますように。
3、みんな違っていい
皆が使徒であろうか。
皆が預言者であろうか。
皆が教師であろうか。
皆が奇跡を行う者であろうか。
皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。
皆が異言を語るだろうか。
皆がそれを解釈するだろうか。
コリントの信徒への手紙一 12:29-30 新共同訳
~聖書には、クリスチャンはみんな違う才能が与えられ、みんな違うことが書かれています。賜物(たまもの)とは、神様が与えてくださったあなたへのプレゼントのことです。
洗礼をうけたとたん自分に厳しくなり「クリスチャンとはこうでなければならない」と思い込んでしまうことがあります。
自分に厳しいと他人にも厳しくなり、「あなたはクリスチャンらしくない」と裁くようになります。クリスチャンとは、みんな違うことを忘れると、自由がなくなり信仰生活がくたびれてしまうでしょう。
神さまは、あなたをあなたとして造られました。タンポポはタンポポの花を咲かせ、コスモスはコスモスの花を咲かせます。一人ひとりも神さまに造られた自分の花を咲かせるだけで十分ではないでしょうか。
神さまは、性格や考え方のまったく違う12人を選ばれました。さまざまな違いを乗り越え、互いを受け入れあうことによって愛を証するためです。
片柳弘史著『始まりのことば』(教文館刊)より
神さまという陶芸家は、何かを造るときに手を抜くことがない。どの作品も、妥協なく、完璧に仕上げてからこま世界に送り出す。だから、言ってみれば、わたしたちの誰もが神さまの最高傑作なのだ。少なくとも、神さまが造ったものに失敗作など存在しない。
片柳弘史著『ぬくもりの記憶』(教文館)より
4、失敗するときがある
だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。
ヤコブの手紙 5:16 新共同訳
~聖書には、互いに罪を告白しなさい、とあります。それは、失敗や過ちをクリスチャンになっても犯してしまうからだと思います。もちろん、罪を犯さないのが一番ですが、人間であるかぎり失敗はさけられません。失敗しても、神さまはゆるしてくださり、やり直す力を与えてくださいます。「わたしはどんな時も神さまに愛され、ゆるされている」と確信できますように。
片柳神父はTwitterで、フランシスコ教皇の言葉を用いて次のように書いています。
教会は完璧な人びとの集まりではなく、
自分が罪びとであることを知り、
ゆるしを求める人の集まり。
キリスト教徒の生活は、
謙遜を学ぶための学校です。
フランシスコ教皇
~自分自身の弱さを認め、
互いに支え合いながら
生きてゆけますように。
『日めくり教皇フランシスコ』(ドン・ボスコ社)
「もうだめだ。取り返しがつかない」と決めつける必要はありません。神さまは、取り返しがつかないほどの間違いさえ、ゆるす力をもっておられるからです。
弱さを隠す必要はありません。イエスは人間の弱さを十分に知り、それでも人間を見捨てなかった方。弱いわたしたちを、そのまま受け入れてくださる方なのです。
片柳弘史著『始まりのことば』(教文館刊)より
5、弱さを宝にして
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
コリントの信徒への手紙二 12:9-10 新共同訳
~クリスチャンになったら、つい強さだけを求めてしまうことがあります。しかし、神さまに用いられた人物はみな弱さを抱えていました。
イエスの弟子たちも、イエスが十字架にかかるとき師を見捨てて逃げてゆきました。パウロも、病気を抱えていたと言われています。モーセは口下手で、アロンというサポート役がいました。弱さを自分からなくすことは不可能だと思います。むしろ、弱ささえも神様が与えられ、自分ではなく神さまに頼るようになるための神様からのプレゼントだと私は思います。
神さまは、一人ひとりにできることと、できないことを与えられました。だからこそ、仲間と力をあわせて美しいものを作ることができます。弱く欠点があっても、神さまは「あなたがあなたである」だけで愛してくださる方。「私は愛されている神様の子供」と喜びと誇りをもって、互いに助けあってゆけますように。
6、愛し、愛される時間
イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」
マルコの福音書 12章 29〜31節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
愛の奉仕ばかり熱心で、愛されることを軽んじるなら、愛は壊れてしまいます。ゆっくり休んで神さまと向かい合い、愛をたっぷり受け止めるための時間、祈りの時間を大切にしましょう。
片柳弘史著『始まりのことば』(教文館刊)より
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