目次
はじめに
1、理想になれない自分でも十分です
2、イエスはゆるす力があります
3、できないことも宝物です
4、失敗しても、やりなおせるよ
5、ルカによる福音書とゆるし
6、片柳神父の言葉
※罪悪感が強いときは、精神医療をうけることも、私は大切だと私は思います。保険適用な臨床心理(カウンセリング)と精神科医の受診がある病院もあります。信仰も大切ですが、医療的なケアや、お薬、病院を工夫して、私は生活しています(^^)
人は自分をゆるせないときがあります。他人はゆるせても、欠点のあるじぶんをゆるせないのは、心に「自分の問題は自分の力で解決できる」というプライドがあるかもしれません。
・神さまは、あなたをゆるしたい
草は枯れ、花はしぼむ。
主の風が吹きつけたのだ。
この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
イザヤ書 40:7-8 新共同訳
~時代のつくりあげた価値観にしたがうと、そうなれない自分に疲れはててしまうときがあります。神さまは、あなたをゆるしたくてたまらないのです。片柳神父は『あなたのままで輝いて』(PHP)の中で、次のように書いています。
「わたしたちは日々、自分の弱さや不完全さと直面し、ときに腹を立て、ときに反省しながら生きてゆくのです。いつか、ありのままの自分を隅々までゆるし、自分と和解できたなら、そのときわたしたちはすべてをゆるし、すべての人と和解できるに違いありません。」
・ここからはじめてゆきましょう。
主を畏れることは
知恵の初め。
箴言 1:7 新共同訳
~思い通りにならない自分、いつも失敗してしまう自分。そんな自分でもゆるしてあげてよいのではないでしょうか。
「自分はもっと強いはずだ」というプライドが自分を追い詰めてしまう時があります。しかし本当の強さとは、自分の限界を謙虚に認め他人と助けあっていく力ではないでしょうか。たとえ時代の価値観とずれていても良いと思います。
一番大切なのは、神さまの価値観だと思います。神さまは、「あなたがあなたであるだけ」で喜んでくださる方。弱く不完全であっても、神様はゆるしてくださる方です。
主(神さま)を畏(おそ)れるとは、ビクビクすることではないと思います。神さまは「あなたをゆるす」というのに、「そんなのは嘘です。神さまのいうことはデタラメです」という必要はないと思います。神さまを神さまと認め、「あなたをゆるす」というあいの言葉に心をひらくこと。神への信頼から、はじめてゆきたいですり
「愛するとは、その人の存在を喜ぶことです。その人の隠れた価値や美しさを、気付かせてあげることです。人は、愛されて初めて、愛されるにふさわしいものになります。」ジャン・バニエの言葉
・完璧でないから、良いのです
正しい者はいない。
一人もいない。
ローマの信徒への手紙 3:10 新共同訳
~「正しい者はいない」とは完璧な人は誰もがいないということ。正しくなろうと努力したことがありますが、背伸びしてしまいクタクタになってしまったことがあります。
しかし、「私は完璧ではなくても、それでも神さまは私を愛してくださる」と信頼することが、神への信頼ではないでしょうか。イエスはわたしたちの能力や業績ではなく、「あなたがいるだけで、私は嬉しい」と、命があるだけで喜んでくださると思います。
・やり直す希望
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕
ヨハネによる福音書 8:11 新共同訳
~イエスは、「あなたを罪に定めない」といいます。私たちは人生でどんなにがんばっても、相手を悲しませてしまうことがあります。しかしイエスは私たちを裁くのではなく、ゆるしてくださり、広い世界をみせてくださる方てます。「もう終わったんだ」という絶望ではなく「私はゆるされて新しくやりなおせるんだ」という希望を与えてくれます。
※ギリシャ語メモ
罪に定めないは、裁く、判断するなどの意味があるカタクリノー(κατακρίνω)の動詞に、否定のウーデ(οὐδέ)がついて、決してあなたを罪に定めないとなります。パウロも
だれがわたしたちを
罪に定めることができましょう。
ローマの信徒への手紙 8:34 新共同訳
とカタクリノー(κατακρίνω)をつかい、イエスに助けを求めるとき、ゆるしにあずかれることを書いています。パウロのゆるされた喜びが伝わってきます。
★間違えも宝に
イエスを裏切った弟子たちは「なんてことをしてしまったんだ」と思い、部屋にこもっていたことでしょう。
しかしイエスは、これっぽっちも弟子たちを憎んでいませんでした。それどころか「あなたがたに平和があるように」と伝えました。
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
ヨハネによる福音書 20:19-21 新共同訳
~イエスの弟子たちは「こんな私でもゆるされた」という大きな喜びに包まれたでしょう。イエスの弟子たちは弟子として成長するために「ゆるされる」という体験が必要だったのです。もし失敗がなければ間違えを犯した人をみて、「あなたはなんでこれぐらいもできないんだ」と非難していたかもしれません。しかし自分の弱さを知った弟子たちは、他人の弱さに「私も弱さをかかえた仲間だよ。だいじょうぶだよ」と、伝えていったのではないでしょうか。
初期キリスト教会の指導、は強く完璧な指導者ではなく、弱くまちがえても、ゆるしあう指導者だったのです。
・荷物を軽くしよう
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
神が、あなたがたのことを
心にかけていてくださるからです。
ペトロの手紙一 5:7 新共同訳
~今まで「私はゆるされない」という考えに縛られていたかもしれません。その考えを手放してみるのです。タンポポの綿毛も風にふかれて飛んでゆかないと新しい命はうまれません。「私はゆるされない」と決めているのは自分で決めつけている場合があります。神さまは「あなたはゆるされる」というのです。その愛をしったとき、さまざまな背負っていた荷物が軽くなり、身の丈にあった自分でいいことに、気づくと思います。
わたしたちはつい人と自分を比較して、「あの人はあんなにできるのに、わたしは何でもできない」と考えてしまいがちですが、そんなことはありません。単に、あの人とわたしでは、できることが違うだけ、神から与えられた使命が違うだけなのです。・・・。「生きているというだけで、すべての命には価値がある。さまざまな欠点や弱さがあったとしても、わたしの人生には確かに意味がある」、そう考えて自分自身と和解することでしょう。
片柳弘史著『何を信じていきるか』 (PHP刊)
~私たちはときに他人と比べてできないことを嘆くときがあります。しかし、神様は一人一人にできることと、できないことを与えられています。
できないことも神さまから与えられた恵みであり、できることも神さまから与えられた恵みなのではないでしょうか。「自分は完璧でなにもかもできる」とスーパーマンになる必要はないと、私は思います。
落胆は、傲慢のしるし。
あなたはまだ、
自分の力に頼っているのです。
マザー・テレサ
もし思いがけない失敗をして落ち込んだなら、「自分はこれまで、もっとできると思い込んでいた。でも、ここが自分の立つべき高さなのだ」と思い直しましょう。そんなことを何回、何十回と繰り返しているうちに、わたしたちは自分が本当に立つべき場所、高すぎもせず、低すぎもしない自分の場所を見つけることができるでしょう。「もうだめだ」と思ってくじけてはいけません。落ち込んだときこそ、自分が本当に立つべき場所を知るためのチャンスなのです。
片柳弘史著『世界でいちばん大切なあなたへ』(PHP)より
・失敗してもいいんだよ
主は倒れようとする人をひとりひとり支え
うずくまっている人を起こしてくださいます。 ものみながあなたに目を注いで待ち望むとあなたはときに応じて食べ物をくださいます。 すべて命あるものに向かって御手を開き 望みを満足させてくださいます。
詩編 145:14-16 新共同訳
~失敗したり、ころんでもだいじょうぶ。
倒れても神さまはゆるしてくださり、やり直すことができるのです。しかも、何度でもです。「本当に?」と驚くかもしれませんが、イエスは弟子たちに、相手をどこまでもゆるすように教えています。当時ユダヤ教では三回までゆるすように教えていました。ペテロは少し多めに七回までとききました。それに対してイエスは、七の七十倍(無限大)にゆるしなさい、と言われました。
失敗しても、
また始めればいいのです。
マザーテレサ
~すぐれた画家は、間違った線を引いても消さずにそのまま描き続け、間違った線さえ美しい絵の一部にしてしまいます。わたしたちの人生もそれと同じ。失敗を、いつまでも悔やむ必要はありません。あきらめずに最後まで描き続け、失敗さえも美しい人生の絵の一部にしてしまいましょう。
片柳弘史著『日めくり超訳マザー・テレサ』(PHP )より
・ゆっくりやすみましょう
ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
マタイによる福音書 18:21-22 新共同訳
~イエスは「疲れてないかい?」と心配してくださいます。疲れているとゆとりがなくなり、なにもかもネガティブになってしまいます。失敗して泥んこになっても、神さまは私たちを抱きしめてくれて、私たちを喜んでくださいます。無気力なときは、たくさん失敗して自信を失っているときかもしれませんね。今日はゆっくり休んで、また明日やってみたら落ち着いてとりくめるかもしれません。
失敗しない人などいませんからね。「もう取り返しがつかない」と思うような大きな間違いだって、犯さないとは限りません。でも、そんなわたしたちでさえ、ゆるして受け入れてくださる方がいる。この安心感があるからこそ、わたしたちは、どんな間違いを犯しても立ち上がることができるのです。
片柳弘史著『何を信じて生きるか』(PHP)より
参考サイト
こころのともしび、松尾太神父の「委ねる」
聖書には、イエスの生涯が書かれている本(福音書)が4冊おさめられています。その一冊に医師のルカが記した、ルカによる福音書があります。
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。 主がわたしを遣わされたのは、 捕らわれている人に解放を、 目の見えない人に視力の回復を告げ、 圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」
ルカによる福音書 4:16-19 新共同訳
~イエスは故郷のナザレで、イザヤ書61章を読みました。
「捕らわれている人に解放を」の解放は、ギリシャ語でἄφεσις(アフェシス、英語ギリシャ語辞典サイト)という名詞が使用されています。アフェシスは、解放の意味の他に、「ゆるし」(マタイ26・28、マルコ1・4、3・29等)という意味もあります。
・十字架上で
イエスは十字架上で、アフェシスの動詞であるάφιημι(アフィエーミ、英語ギリシャ語辞典サイト)を使用し、次のようにいいます。
そのとき、イエスは言われた。
「父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです。」
ルカによる福音書 23:34 新共同訳
・わたしたちは罪のゆるしの証人
また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 あなたがたはこれらのことの証人となる。
ルカによる福音書 24:47-48 新共同訳
~ルカは最終章の24章で「罪の赦しを得させる悔い改め」と書きます。
名詞形である「赦し」(ἄφεσις、アフェシス)という言葉を使用しています。
ルカ福音書はナザレでイエスのアフェシス(解放、ゆるし)の宣言からはじまりました。
そして十字架でイエスは「人々のためにゆるし」を祈り、最終章でわたしたちの使命がイエスのゆるしを伝えることであると書かれています。このように、ルカによる福音書はとても重要な場面で、ゆるし(アフェシス)が使用されています。それは、イエスの大切にした一つに「ゆるし」があったからではないかと、私は思います。
・がんばる宗教から、恵みの宗教へ
「貧しい」はギリシャ語でプトーコス(πτωχός)が使用されています。自分の限界を認め、「私は神さまの恵みによって生きている」と信じることが、自分の貧しさを知っている人だと思います。自分の貧しさとは、言葉をかえれば自分の弱さという言葉に近いと思います。
イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
ルカによる福音書 6:20 新共同訳
~なぜ貧しさが幸いなのかは、自分の力ではなく、神さまの恵みによって満たしてもらおうとするから幸いなんだ、とイエスは言われたと思います。
イエスの時代は、宗教の掟(律法)をしっかり守ることが全てでした。貧しいとはとんでもないことでした。みんな、毎日必死に生きていました。そして、自分で心の貧しさを自分の力で満たそうとしていました。
がんばることや、一生懸命にすることは大切なことかもしれません。しかし、一番の危険なのはカルト宗教もそうですが、「~できないと、神さまに救われませんよ」とか、性格がよくないと「神さまは離れていきますよ」と、自分次第で神さまがあっちにいったり、こっちにいったりすることだと思います。
信仰の中心が、自分の才能や行いになっているのです。いつも豊かでなければならない、弱くてはいけないと思ってしまいます。新約聖書のヤコブの手紙には、次のように書いています。
わたしの愛する兄弟たち、
よく聞きなさい。
神は世の貧しい人たちをあえて選んで、
信仰に富ませ、
御自身を愛する者に約束された国を、
受け継ぐ者となさったではありませんか。
ヤコブの手紙 2:5 新共同訳
この「貧しい」という箇所でもギリシャ語のプトーコスという言葉が使われています。
イエスが伝えたのは、たとえ私たちが弱くても行いによってではなく、恵みによって愛してくださる良き知らせ(福音)でした。それは、過去でもなく未来でもなく、今日の私たちを神さまは喜んでくださり、愛してくださっています。
・あなたで良かった
そこでイエスは、
「この聖書の言葉は、今日、
あなたがたが耳にしたとき、
実現した」と話し始められた。
ルカによる福音書 4:21 新共同訳
~ルカは、今日神さまの恵みがおとずれたことを伝えています。実現したという言葉には「満たされた」という意味もあります。
欠点があるならそれを良くしたらはじめて神さまは受け入れてくださると、心配する必要はないのです。今日、神さまはわたしたちを喜んでくださり、受け入れてくださいます。
・あなただから嬉しいよ
あなたがたは賜物に
何一つ欠けるところがなく、
わたしたちの主イエス・キリストの
現れを待ち望んでいます。
コリントの信徒への手紙一 1:7 新共同訳
~賜物とは、神さまが与えてくださったプレゼントです。それが、何一つ欠けていない、とパウロはいいます。
「あれもたりない、これもたりない」と、人はつい、心配になります。不足を心配するだけではなく「もっと強くならなければ」と、自分の能力についても心配してしまいがちです。
しかしパウロは、神さまが全てを備えてくださり、「なにひとつ不足するものがない」から、あなたで大丈夫だよとコリントに住むクリスチャンたちに伝えたと思います。
パウロの言葉はわたしたち一人ひとりにも、「神さまは全てを備えてくださるから、大丈夫だよ」とよびかけていると思います。
大きな失敗をしたときや、なにもかもうまくいかないとき「自分はなにもできない」と落ち込んでしまうことがあります。
耳をすまし沈黙して神の言葉をきくとき、「私は神にゆるされている」と感じることができ、神さまの安らぎで満たされると思います。
片柳神父のプログより
なぜ、わたしたちは自分で自分を裁き、苦しめてしまうのでしょう。それはきっと、その人の中に、「今の自分ではだめだ、もっと優れた自分にならなければ生きる価値がない」という思い込みがあるからでしょう。それは、大きな誤解です。神様は、たくさんの弱さや罪深さを抱えたありのままの姿のわたしたちを愛して下さっているからです。わたしたち人間は、誰もが弱くて罪深い存在にすぎないけれども、神から愛されているがゆえに生きる意味があるのです。
弟子たちの使命は、誰一人としてゆるされないまま残る人がいないように、すべての人に神の愛を伝え、すべての人を神との和解に導くことなのです。
家庭でも、職場でも、教会でも、どこでも当てはまることだと思います。大切なのは、家族や部下、仲間などが自分の思った通りに動かなくても、そんなことは当たり前だ思えるようになることです。自分の思ったとおりにならない相手をあるがままに受け入れ、相手のために何ができるかを考えること。それこそ、相手をゆるすということであり、相手を愛するということなのです。
※以下の動画は、
片柳弘史著『世界で一番たいせつなあなたへ』 (PHP 刊)よりです。