目次
1、聖書とありのままについて
2、パウロの手紙から考える
3、聖書の語る成長とは
4、片柳弘史著『日々を生きる力』を読んで
5、関連リンクや書籍
6、片柳神父のメッセージから
7、ありのままに関する、様々な誤解
8、マザー・テレサの言葉
9、渡辺和子さんの言葉
ありのままの自分を受け入れることができれば、どんな悪口もあなたを傷つけることができないし、どんな称賛もあなたを思い上がらせることができません。
マザー・テレサ
~弱くて不完全な自分を、それでもかけがえのない大切な存在として受け入れた人は、悪口によって傷つけられることも、お世辞を言われて思い上がることもありません。どんなときでも、ありのままの自分を、自然体で生きることができるのです。
片柳弘史著『世界で一番たいせつなあなたへより』(PHP )より
★関連サイト
・ありのままじゃいけない?
あるクリスチャンは、
「ありのままではいけない。悔い改めて今の状態から変わることが大切だ。人には罪がありありのままのあなたは素晴らしいとは言えない」
と言っていました。
私はどこか違和感を感じました。私は障害がありどんなに努力しても、できないこともあります。「いまの私ではダメ」と言われているみたいで、悲しくなりました。人前では明るいふりをしていましたが、「今の自分ではだめだ。もっと神さまに感謝し、かわらなければ」と思っていました。神さまに最善なものをささげようと思っていました。しかし、うつで苦しむ私には、体を動かすことすらもできなくなりました。
・聖書はなにを語っているのか
それから私は、聖書は一体なにを語っているのかを読み返しました。
もちろん聖書は、罪や、悔い改めの大切さ、信仰の成長が書かれていました。しかし同時にイエスは、いまそこにある「命そのもの」を愛されていたことが書かれていました。ありのままでいいことと、そこから成長することの二つが、バランスよく聖書に書かれていました。
・子どもたちを喜んだイエス
そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。 するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」
マタイによる福音書 19:13-14 口語訳
~イエスは、こどもたちの存在そのものを愛されました。子供たちはまだ親に助けてもらわないと生きていけません。しかしイエスは、「あなたが何か特別なことができるか」ではなく、子どもたちがそこにいてくれるだけで喜ばれました。
現代はともすれば、効率だけを目指して「もっと強くなりなさい、もっと早くしなさい」と、相手に変わることを求めてしまっているかもしれません。また何かできることに重点がおかれ、「なにかできないとあなたは価値がない」と隠れた重圧を与えてしまっているように思います。
しかしイエスは、聖書の知識もない子どもたちを大切にされました。愛するとは神さまに造られた命を喜び、相手の命が美しいことを気づかせてあげることではないでしょうか。ありのままに愛されている安心があるからこそ挑戦し、失敗しても、またやりなおせる神の愛を信じられるのではないでしょうか。
→このサイト(biblestudy)が分かりやすいです。
・シンプルに生きよう
ただし見よ、見いだしたことがある。
神は人間をまっすぐに造られたが
人間は複雑な考え方をしたがる、
ということ。
コヘレトの言葉 7:29 新共同訳
~神さまは人間をまっすぐに(単純)につくられました。人は、複雑に信仰を考えてしまいがちだと思います。
しかし、シンプルでよいと私は思うのです。イエスは、子供たちを愛されました。おなじように、イエスは私たちを愛してくださり、「あなたがいてくれて本当に嬉しい」と喜んでくださるのです。
パウロは、教会の様々な信仰の問題を修正するために手紙を書きました。
コリントや、テサロニケの教会などは様々な信仰の問題を抱えていました。
そんなパウロは、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」というイエス様の教えを、すべての中心としています。
・宗教の危険さ
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。
ローマ人への手紙 13:9-10 口語訳
~パウロが批判したのは、人間の知識や掟だけが大切にされて「自分を愛するように互いに愛し合う」という教えを忘れていたからだと思います。
宗教は時に、弱い人に向かって「あなたには信仰が足りない」と批判することがありましは。宗教自体が差別を生み出す組織になるなら、それはイエスが造ろうとした教会から、かけはなれてしまうでしょう。教会すらも、互いに競争するなら本末転倒です。
・イエスは誰のためにきたのか
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
マルコによる福音書 2:16-17 口語訳
~イエスの時代、イスラエルの宗教にも様々な宗派がありました。そのなかで、ファリサイ派(パリサイ人、日本語wikipedia)とよばれる宗派がありました。ファリサイ派は、庶民の生活のなかで様々な規則があり、それらを守り、献金を捧げ、その当時正しい人だと思われていました。
しかし、イエスは彼らを批判しました。様々な理由があると思いますが、自分でなんでもできると思い込み、弱い人たちを罪人と定めていたからだと思います。
創世記で、人類に罪がはいりこんでくる箇所でヘビは人間に次のように言っています。
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
創世記 3:1, 4-5 口語訳
~ヘビはそれを食べると「神のように善悪を知る者となる」と言っています。聖書の語る罪は「神のようになれる」という態度にあるのではないでしょうか。他人の弱さを裁き、自分を神の位置においてしまうのです。
・自分の行いに頼ると・・・
イエスは、ルカ福音書で次のたとえ話を言っています。
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ルカによる福音書 18:9-14 新共同訳
~ファリサイ派の人々は、様々な掟を真剣に守っていました。当時の掟は週に2回断食することになっており、それも守っていました。
イエスは「自分を正しい人だとうぬぼれている」人に、この話を言われました。うぬぼれるは、ギリシア語のペイトー(πείθω、英語ギリシャ語辞典サイト)で、「信頼する」「頼る」という意味があります。パリサイ派の人は、神さまを頼むのではなく自分の行いに頼んでいたのです。しかし、パウロは次のように言っています。
・弱さを大切にする
わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。
コリント人への第二の手紙 1:8-9 口語訳
~パウロは「自分自身を頼みとしないで」といいます。ここで、頼みは先ほどのπείθωというギリシャ語が使われています。
宗教の掟を上手に守られない人は、みんなから批判され、自分の弱さを感じていたでしょう。そのため神さまにすがって生きていたと思います。イエスが大切にされたのは、「自分は絶対に正しいんだ」と威張るのではなく、自分の弱さをを知っている人だと思います。
・弱くても愛される
片柳神父はブログで、次のように言っています。
イエスが復活したということを聞いたとき、彼らは自分たちの間違いに気づいたことでしょう。
「どれほど律法を実践したとしても、自分たちは間違いだらけの弱い人間に過ぎない。
本当に正しいのは神様だけだ」、そう気づいたとき、彼らは律法から解放されました。神の愛に包まれ、神の愛を生きる道。罪人や社会の片隅に追いやられて生きる人たちを助けながら、神のみ旨のままに生きる道へと導かれたのです。・・・。神は、わたしたちの弱さ、不完全さを知りながら、それでもわたしたちをゆるし、愛してくださる方。優れた行いによってではなく、たとえ何も出来なかったとしても、ただわたしたちがわたしたちであるというだけで愛してくださる方なのです。
成長とはどういう意味をもつのか、聖書から確認してゆきたいと思います。
・神の愛を知る
わたしたちの主、
救い主イエス・キリストの恵みと
知識において、成長しなさい。
ペトロの手紙二 3:18 新共同訳
~成長とは、イエスへの知識を知ることだと思います。祈りのなかで聖書をよみ、イエスの愛を知ること。そこに聖書の語る成長があるのではないでしょうか。知識とは、難しいものではなく、子どもでもわかることだと思います。それは、「神はあなたを愛している。あなたはたいせつな存在」ということです。
・あなたは、ゆるされる
そして今、神とその恵みの言葉とに
あなたがたをゆだねます。
この言葉は、あなたがたを造り上げ、
聖なる者とされたすべての人々と
共に恵みを受け継がせることができるのです。
使徒言行録 20:32 新共同訳
~恵みの言葉とは、「神さまはあなたを愛している。イエスの十字架のゆるしによって、あなたはゆるされる」ということではないでしょうか。
パウロは、「あなたはゆるされない」とする裁きの言葉ではなく、「あなたはまだやり直せる。あなたはゆるされる」とする、恵みの言葉に委ねたのです。
・あなたで良かった
わたしは植え、アポロは水を注いだ。
しかし、成長させてくださったのは神です。
ですから、大切なのは、
植える者でも水を注ぐ者でもなく、
成長させてくださる神です。
だれも自分を欺いてはなりません。
もし、あなたがたのだれかが、
自分はこの世で知恵のある者だと
考えているなら、
本当に知恵のある者となるために
愚かな者になりなさい。
コリントの信徒への手紙一 3:6-7, 18 新共同訳
~「成長させてくださるのは神さま」と書かれています。私たちは、相手に自分の理想を押し付けて「もっとこうなってほしい」と変えようとします。
しかし、私たちにできるのは相手を変えることではなく、「今のあなたで良かった」と、相手の命を喜ぶことではないでしょうか。あとは神さまがしてくださり、一人ひとりのスピードで成長させてくださると思います。
私たちの社会では、宗教は人間が立派になるためにある、という考えがあります。いつのまにかイエスを信じて立派になることを、信仰の成長と勘違いしてしまうのです。そのため信仰が成長していない人を探したり、批判してしまうのです。
・様々な情報のなかで
いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
ヘブル人への手紙 12:1-2 口語訳
~「いつもイエスを見つめていなさい」と聖書は言います。イエスをみつめるとき、いつも「あなたを愛している」と呼びかけているのを知るでしょう。
悪魔は「神様の愛なんて嘘だ」とうたがわせたり、「もっと良い人間にならないと神さまに愛される資格はないよ」と混乱させようとします。
しかし、様々な情報のなかで、イエスを見つめたいと思います。イエスは間違いなく一人ひとりに「あなたを愛している。あなたは大切な神さまの子ども」と呼びかけているからです。
※以下は私の感想です。
2月5日
主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。(ヨハ21・17)
~どんなに相手を愛していても、不安や恐れ、よくない思いに引きずられて裏切ってしまう。神さまは、そんな人間の弱さを知り、そんな弱ささえ、あるがままに受け入れてくださる方です。
片柳弘史著『日々を生きる力』(教文館刊)より
※なにげなく言った言葉で相手を傷つけたり、怒らせてしまうことがありました。
ある日、私は職場で声がでなくなってしまいました。勤務時間をへらしましたが回復せず、傷病手当てをもらいながら休職しました。減っていく貯金をみながら、これからのことで不安でいっぱいでした。
しかし、弱さや不完全もゆるされているとしったとき「私は生きていても良いんだ」と思いました。完璧な人間を目指すのではなく、互いに弱さをサポートしあってゆきたいです。
3月21日
主であり、師であるわたしが
あなたがたの足を洗ったのだから、
あなたがたも互いに
足を洗い合わなければならない。
(ヨハ13・14)
~互いに足を洗い合うとは、
互いが、ありのままの自分を
相手にさらけ出すということ。
あるがままの相手を受け入れ、
互いに愛しあって生きるということです。
片柳弘史著『日々を生きる力』(教文館刊)より
~私は欠点を隠し、強がることがあります。また相手が自分の弱さを受けいれてくれることが、なかなか信じられないこともあります。わたしの頭のどこかに「優秀でなければ社会人として失格だ」と勘違いしているからだと思います。思い込みを少しずつとかしてゆきたいです。
5月8日
わたしの父の家には住む所が
たくさんある。
もしなければ、あなたがたのために
場所を用意しに行くと言ったであろうか。
(ヨハ14・2)
~神さまは、
弱さや欠点を抱えたわたしたちを、
あるがままに受け入れてくださる方。
神さまの家では、
すべての人に居場所があるのです。
片柳弘史著『日々を生きる力』(教文館刊)より
※しあわせは遠くではなく、そばにあるよう思いました。居場所は、聖書からきこえてくる「あなたは愛されている」に耳をすましていたら、居場所が見つかるように感じました。
12月1日
わたしが命のパンである。
わたしのもとに来る者は
決して飢えることがなく、
わたしを信じる者は
決して乾くことがない。
(ヨハ6・35)
~体の飢えはパンで癒やせますが、
心の飢えを癒せるのは命のパン、
その人の命をあるがままに受け入れる、
無条件の愛だけなのです。
片柳弘史著『日々を生きる力』(教文館刊)より
※物に囲まれていても、心が渇いているときがありました。同じものを通販で何度も買ったり、心はいつも渇き、次々に新しいものをほしがりました。人にはもちろん、栄養を支えるパンは必要です。しかし「私は愛されている」と感じる命のパンを食べることも必要だと感じました。
片柳弘史神父のブログより、
祈りの小箱『ありのままの輝き』。
愛されるために、
自分と違ったものになる必要
はありません。
ありのままで愛されるには、
ただ心を開くだけでいいんです。
マザー・テレサ
もりたまみ著『幸せになる勇気~超訳マザー・テレサ』(泰文堂)より
3月24日
たとえば自分の学歴を気にしている人は、
誰かと出会ったとき
まず相手の学歴を気にします。
そして、自分より学歴が
高い相手には劣等感を、
低い相手には優越感を抱くのです。
相手をありのまま受け入れたいなら、
まずありのままの自分を受け入れましょう。
片柳弘史著『こころの深呼吸』(教文館刊)より
5月3日
条件を付けて相手を縛るのは、
真実の愛ではありません。
真実の愛は、
無条件に受け入れることで
相手を自由にするもの。
「この人の前では、
ありのままの自分でいられる」
と感じさせる人こそ、
真実の愛を生きている人です。
片柳弘史著『こころの深呼吸』(教文館刊)より
★こんな本も・・・
遠藤周作著『自分をどう愛するか<生活編>幸せの求め方 ~新装版~ 』
無理をして強がらなくてもいいのだ。ありのまま、自分の弱さを承知して、その弱さを「できるだけ自分に有利に活用してみよう」と思うようになったのです。(はじめにより)
・渡辺裕子著『「自分」を愛するために』(いのちのことば社)
・東後勝明著
『ありのままを生きる』 (いのちのことば社)
片柳弘史神父より。
イエスから愛されるために自分と違ったものになる必要はありません。信じなさい、あなたたちはイエスにとってかけがえのないものなのです。マザー・テレサ(片柳弘史編・訳『愛する子どもたちへ マザー・テレサの遺言』ドン・ボスコ社、19頁)
「わたしは神の愛に値しない」という言葉の裏側には、「もっと優れた人間にならなければ、神は愛してくれない」という思い込みがあります。この思い込みこそが、悪魔がわたしたちの心に巧妙にすべりこませた罠だと言っていいでしょう。競争社会と呼ばれる現代社会には、「優れていなければ人から評価されない。幸せになることができない」という価値観が蔓延しています。それがいつの間にかわたしたちの心の深くに染み込み、神と自分の関係を考えるときにも顔を出すようになるのです。
「いい会社に入らなければだめ。業績を上げなければだめ。結婚しなければだめ」。この世がそのような考え方をするのだから、神もきっとそのようにわたしたちを評価するに違いない。わたしたちは心のどこかでそう思い込み、困難に直面したり、大きな失敗をしたりしたとき自分を責め始めます。ところが、それは神の愛とは全く正反対のことなのです。神は、どんなときでもわたしたちをありのままで、無条件に愛してくださる方なのです。イエスから愛されるために、自分と違ったものになる必要などありません。今の自分よりもっと優れた者になる必要など、どこにもないのです。
あなたが苦しんでいることを、すべてイエスの足元に運びなさい。ありのままでイエスから愛されるためには、ただこころを開くだけでいいのです。残りのことはイエスがしてくれます。マザー・テレサ(同 19頁)
「もっと優れた人間にならなければ」とも
がくとき、わたしたちの心に大きな苦しみが生まれます。自分の力で自分を神の愛に値する者にしようともがき続ける限り、わたしたちの苦しみが止むことはないでしょう。
この苦しみから抜け出す唯一の道は、自分は不完全な罪びとなのだと潔く認め、「こころを開いて」ありのままの弱い自分をイエスに差し出すことです。ありのままの弱い自分を恥じ、もっと優れた人間であるかのように振る舞ったり、恥じることなく神の前に出られるようにもっと優れた人間になろうと努力したりする必要などありません。ただ、ありのままの弱い自分を、ありのままイエスの前に差し出せばいいのです。
そうすれば、「残りのこと」はすべてイエスがしてくださる、とマザーは言います。イエスは、わたしたちを大きな愛で包み込んで傷を癒し、汚れを清め、新しい勇気と希望、生きる力を与えてくださるでしょう。
★関連サイト
心のともしび→片柳神父『心を開く』
・ありのままと、そのままの違い
DVやいじめをうけていてそのままで良い、ということではありません。暴力からは距離をおき、環境を変える必要はあると思います。ありのままは、現状維持とは違います。誰でも学び、好きなことを知り、自分らしく成長する権利があります。また、平和をつくりだし助け合って生きる工夫も必要だと思います。ありのままとそのままは違うと思います。
・ありのままと自分中心は違う
「ありのままを大切にする人は、神さまを中心にするのではなく、自分の考え方を中心にしている」という誤解があります。しかし、ありのままを愛されているからこそ、神さまの言葉を愛さずにいられないのてはないでしょうか。
「自分の好きなように楽しみ、自由にさせて」というのは、神さまとの深い信頼がある人がいうことでしょうか。むしろ、「神さまの言葉が、私の喜び」となると思います。
イエスは、「互いに愛し合いなさい」といわれました。等身大の自分に満足できると、安心がうまれ、他人を大切にするきもちがわくと思います。逆に「~できないと、あなたは愛されないよ」と等身大の自分を受け入れられないと、他人にも「~できないと、だめだよ」と厳しくなってしまうのではないでしょうか。
・ありのまま愛されている安心から、人はおおらかに成長できる
ありのままとは、考えることをやめ、あきらめることではないと思います。神に愛されていることを知っているので、いつも神に耳を傾けています。そして、気づいたことは喜んで、神さまに喜ばれる態度になるために変えてゆきたいという勇気がうまれると思います。
しかし、それは「愛されるためにかわらなければ」という不安からではないと思います。子どもがのびのびと喜んで学んでいくように、成長していくものだと思います。
★まとめにかえて
身を横たえて眠り
わたしはまた、目覚めます。
主が支えていてくださいます。
詩編 3:6 新共同訳
~ダビデは身を横にして(シャーカブ、שָׁכַב、英語サイト)、眠り(ヤーシェン、יָשֵׁן、英語サイト)ました。
シャーカブには休憩や、眠るなどの意味があります。ダビデは、静けさのなかでゆっくり休みました。
平和のうちに身を横たえ、
わたしは眠ります。
主よ、あなただけが、
確かに わたしをここに
住まわせてくださるのです。
詩編 4:9 新共同訳
~詩編4・9でも、ダビデは身を横たえねむります。横になることは、ともすると警戒がとけて無防備です。しかしダビデは、横になって静まっています。横になっていても、「神は私を愛している」という、神への信頼があったのではないでしょうか。
マザーテレサの言葉(英語サイトより)
When not accepted by others, even by yourself sometimes — he is the one who always accepts you. My children, you don't have to be different for Jesus to love you. Only believe — you are precious to him. Bring all you are suffering to his feet — only open your heart to be loved by him as you are. He will do the rest.
~他人に受け入れられないとき、時には自分自身でさえ(自分を)受け入れられないときも、彼はいつもあなたを受け入れてくれます。私の子供たちよ、イエスがあなたを愛されるために、あなたが違う人になる必要はありません。ただ信じてください—あなたは彼にとって大切です。苦みのすべてを彼の足元に持ってきてください—あなたが彼に愛されるために、あなたの心を開いてください。 残りは彼がしてくれるでしょう。
マザー・テレサ
★片柳弘史著
『日めくりマザー・テレサ』(PHP)より
愛されるためには、
心を開くだけでいいのです。
マザー・テレサ
~愛されるために、何か特別なことをする必要はありません。真実の愛は、何もできなかったとしても、あなたがあなたというだけで、あなたを受け入れてくれるからです。愛されるために必要なのは、「自分は愛される価値がない」という思い込みを捨てること。愛は、力ずくで勝ち取るものではなく、心を開いて受け入れるものだからです。
「あなたは、あなたのままでいいんだ。誰の真似をしなくてもいいから、あなたらしく自由に生きなさい。ただし、あなたにしかできない成長を忘れてはいけない」 私らしくていいのだ、いや、むしろ、私らしくなることがたいせつなのだ。そして、それは、勝手気ままに生きることではなくて、無理はしないが、努力は惜しまず、自分の中にある本来の姿、可能性の自己実現に、たゆまず向かってゆくことなのだ、ということが、少しずつわかって来た時、私は自由になった。
渡辺和子著『愛をつかむ』(PHP )より
自分をありのままに受け入れてもらった時、
人は自分が生きていく意味を見出すことができ、生きる勇気を与えられます。
・・・。
大事なことは、ひたすらに自分として育っていく”ということなの です。
私たちは、子どもたちがひたすらに自分として育っていくようにと 願っているでしょうか。親の期待に添う子どもになることのみを願ってはいないでしょうか。・・・
自分の花を咲かせることが一番大事なのです。
渡辺和子著『愛と祈りで子どもは育つ』(PHP刊)より