今日の言葉(6月、最新)


◼️更新記録

・9月20日→愛に根をはる

・9月10日→休み


★愛に根をはる

信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 

新約聖書

エフェソの信徒への手紙 3:17 新共同訳

~※聖書を読んで思ったことです。

エフェソの信徒への手紙は、パウロがローマ帝国の皇帝ネロにローマの獄中に監禁されていたときに、この手紙をかきました。エフェソには、パウロは三年この町にとどまって伝道活動をしました。現在のトルコの西部にあった町です。

この手紙の写本には「エフェソ」という名前が空白になっている写本もみつかっています。そのため、エフェソ教会だけで読まれるために書かれたのではなく、多くの教会で共通した価値観をもてるようにパウロが回覧板のように読まれるために書いたと考えられています。

さて、エフェソ3章 17節に、

あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。


とパウロは書いています。

パウロは愛に根差しと書いています。この愛とは、私は神様の愛だと思います。「私はこんなにも愛されている」という神様のあいに根をはることを、パウロはすすめていると思います。パウロは、根をはる(ピゾー、ῥιζόω)という動詞を使っています。英語ギリシャ語辞典

https://biblehub.com/greek/4492.htm


「根をはる」は受動態で書かれています。根をはらせなさい、という表現が直訳になると思います。根をはるのは自分たちの力だけではなく、神さまの支えによってなることを、パウロは伝えていると思います。

自分で必死にがんばって「私は愛の人といわれるように、根をはるために必死にやっていく」というのでは疲れてしまうと思います。必死にがんばる宗教だと、人は自分に厳しくなってしまい、「~であるべき」という物差しから動けなくなってしまうことがあります。パウロは、エフェソの信徒への手紙 2:8-9 で、

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 


と書いています。

つい「これもできて、あれもできてりっぱになったら神さまは用いてくださる」と、自分側の状況によって神さまに認められると思ってしまうことがあります。しかしパウロは、行いではないといいます。神さまはもっと素晴らしい人になったら、あなたを用いてくださるのではありません。どんなに弱さを抱えていても、神さまは「あなたで良かった」と今日のあなたを喜んでくださる方。

人は社会で生活していると、つい「自分はなにができたか、なにを達成できたか」と、自分の行いの部分のみ考えこんでしまうときがあります。しかしパウロは、エフェソの手紙で、「行いではない」といいます。神さまによって作られた命は、なにができたからではなく、あなたがあなたであるだけで大切な存在。神さまに愛されたものとして弱さを支えあい、互いにたすけあってゆけますように。


★休み

主はわたしを青草の原に休ませ 

憩いの水のほとりに伴い

旧約聖書

詩編 23:2 新共同訳

~※聖書を読んで思ったことです。

休む(ラバツ、רָבַץ)は、横たわるや、体を伸ばすといった意味もあります。

英語ヘブライ語辞典

https://biblehub.com/hebrew/7257.htm

また旧約聖書が書かれたへブライ語では、ヒフィル態の動詞になっています。ヒフィル態とは、使役能動といわれ「~させる」という意味があります。神さまは、「あなたを休ませ」というように、しっかりあなたは休みなさいというような、強い意味があります。

しかし、社会では「休んでなんてはいけない、もっとなにかをしなければ」という声があるかもしれません。日本では、みんなが休みのときに休む率が高い国だそうです。お盆休みやお正月などは、みんなが休みだから安心して休めます。しかし、自分個人の休み方などを考えると、考えこんでしまう場合があります。

私は世の光という、インターネットラジオの放送を聞いています。

「あなたは休んでいますか?

45」で

で、豊田信行牧師は次のように言っています。


安息日のヘブル語は「シャバット」は「止める」との意味があります。・・・神様がすべての人に向かって「はい、そこまで。手を止めて。」という号令のようです。その号令には、「あとは私が引き受けるからゆっくり休みなさい。」とのメッセージが込められています。

・・・手を止めなさいとの号令に聴き続けるのは、尽きない心配を神様に預け、心配という労苦で心をすり減らさないように心を休ませるためなのです。・・・。

聖書の創世記には、神様が天地万物を6日間で創造されたことが記されています。神様がその日、その日の創造の働きを終えられたとき、「夕があり、朝があった。」と一日の終わりがつけられています。最初、この聖書の箇所を読んだとき、「朝があり、夕があった。」の間違いではないかと思いました。でも、間違いではないのです。一日の始まりが朝なら、活動から始まります。日没なら、休息から始まります。

普通に考えると活動して疲れたから休むのであって、疲れていなければ、そもそも休む必要がありません。なぜ、疲れてもいないのに休息から始めなければならないのでしょうか。聖書が約束する安息とは、疲れたから休むものではないのです。

「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあります。自分にできることすべてを出し尽くしたら、あとは天命、宿命に身を任せるとの意味です。


少し長くなりましたが、引用させていただきました。

現代はともすれば、「あれもしなければ、これもしなければ」と慌ててしまいがちです。それは、生産性がある人が価値があると評価しがちだからです。

しかし、神さまは「やめよ」といわれました。それは、なにもかもやめても、神さまに作られたあなたがいるだけで大切な存在であることを、神さまは示しているからだと私は思います。

もしなにかをしなければ、と焦ってしまったら神様のよびかけに耳をすましたいと思います。なにかを「する」から価値があるのではなく、あなたが休んだり、体を橫にしていても、あなたがいるだけで神さまはあなたを喜んでくださる方。

ゆっくり深呼吸して、「私は今日もどんなときも愛されている」と神の愛に心をひらいてゆきたいと私は思いました。


6月

★6月1日、座っていても

イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 

‭ヨハネによる福音書 6:10-11 新共同訳‬

~※聖書を読んでの感想です。

座っているだけでは駄目で、イエスに対して「あれもしなければ、これもしなければ」と心配してしまうかもしれません。人は座ってなにもしていないと不安になるときがあります。それは社会が「あなたは特別なことをしたら評価され、報いをうける」と教えがちだからです。

しかしイエスはみんなを座らせました。そして、食べ物をくばりました。イエスは私たちがあなたがいるだけで、喜んでくださることがイエスの行為からわかります。

特別なことができたら愛される、と人は勝手に線引きしてしまうことがあります。なかには失敗したからおしまいだ、と絶望してしまうときがあります。イエスがいくら「あなたは失敗してもゆるされる」とよびかけても、「あなたのことは信じられません。失敗はゆるされないのです」と心を頑なにしてしまうのです。イエスの考え方ではなく、自分の考えを神としてし、自分の考えにしがみついてしまうのです。

もしかして、いま無気力で特別なことができないかもしれません。なにかをしたくても、不安で動けないかもしれません。しかし、イエスはあなたのいる場所にいって、「あなたがいてくれて本当に嬉しい」とあなたを喜んでくださる方です。

「あれもしなければ、これもしなければ」と焦っていたらイエスがきてくださるのに、不在になってしまうかもしれません。「なにかしなければ愛されない」という考え方を脇において、「私はいるだけで喜んでくださる方がいる」と分かったら、生きる勇気がわいてくるのではないでしょうか。

疲れたとき、まず座りたいと思います。イエスは、あなたがどこにいようとも、あなたの場所にきて、あなたを喜んでくださいます。今日も「私は愛されている」と信頼して、互いに助けあってゆけますように。


まことに、イスラエルの聖なる方 

わが主なる神は、こう言われた。 

「お前たちは、立ち帰って 

静かにしているならば救われる。 

安らかに信頼していることにこそ

力がある」と。

旧約聖書

イザヤ書 30:15 新共同訳‬



★6月2日、助けを求めて

目を覚まして感謝を込め、

ひたすら祈りなさい。 

新約聖書

コロサイの信徒への手紙 4:2 新共同訳‬

~※聖書を読んで思ったことです。

祈るとは自分の限界を認め、神さまに助けを求めことだと、私は思います。ひたすらはギリシャ語でプロカルテレオー(προσκαρτερέω)です。使徒1・14、2・46、ローマ12・12、13・6などでも使用されています。固執する、専念するなどの意味もあると辞典に書いていました。希望をもって祈りにとどまることを示していると、私は思いました。神さまは私達に頼ってほしくてしょうがないのだと思います。

英語ギリシャ語辞典

https://biblehub.com/greek/4342.htm


しかし私は、「これくらいなら自分ならできる。誰かに助けを求めるなんて、甘えだ」と強がってしまうことがありました。自分の弱さを隠し、本当の自分をみたら悲しむだろうといつもビクビクしていました。「できない」のに「できる」といったりしました。相手からよく評価されたく、断れなかったのだと思います。

しかし最近は、作業所や教会で「それは、私には難しくてできません」と少しずついえるようになってきました。「できない」といっても、それでも私を大切にしてくれる方に出会って安心しているのだと思います。

パウロは、「ひたすら祈りなさい」、と書いています。それは、「いつでも神さまに助けを求めていいんだよ。一人で強がらなくていいんだよ」と呼びかけているように私にはきこえました。

人間には、一人でせおえる荷物には限界があると私は思います。自分の身の丈を認めて、素直に神さまに助けを求め、互いに仲間と支えあってゆきたいと思いました。


「神さまの前に荷物を置き、苦しい気持ちを打ち明けましょう。わたしたちが差し出した苦しさを、神さまはしっかり受け止め、共に担ってくださいます。」

片柳弘史著『始まりのことば』

 (教文館)より



★6月3日、耳をすますと

指導がないことによって民は倒れ、

多くの助言者によって救いを得る。

箴言 11章 14節、新改訳2017

~※聖書を読んで思ったことです。

自分とは違う意見をもっていると、相手に「こうであるべき」と押し付けてしまいそうになる時があります。

しかし聖書には「助言者(יָעַץ、ヤーツ)の大切さが書かれています。

英語ヘブライ語辞典

https://biblehub.com/hebrew/3289.htm


しかも、わざわざ「多くの(רֹב、ロブ)」といいます。助言は自分とは違う考え方かもしれません。しかし、その違う声で人は救われる可能性もあります。

私は自分の考え方にしがみつきがちです。しかし病気で入院したり、休養するなかで、ふと「あなたは神さまに愛されている」という言葉が胸からこみあげてきました。私はそれまで「自分はつまらない」と思っていたので、まったく違う考え方でした。しかし、その異なる声(助言)によって、私は生きる力がわいてきました。

生活していると、いろんな考え方をもった方と出会います。そんなときに、「そういう考え方もできるよね」というゆとりがあれば、その人を変えないで多様性を大切にすることができると、私は思いました。すると、相手をねたんだり、責めたりする時間が少なくなり、優しい時間がふえると思いました。他人の気持ちを傷つけないのであれば、いろんな考え方があっていいと私は思いました。考え方の違う人に「こうであるべき」と支配しようとするのではなく、「あなたで良かった」と違いすらも大切にできたら、私は素敵だと思います。

1日のどこかで、イエスの声に耳をかたむけるとき、新しい希望がわいてくると思いました。イエスの生涯は新約聖書の4つの福音書に記されています。神さまは4人の人物(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を用いてイエスの生涯を記録しました。もし一冊の福音書であれば、正確な記録が残されたかもしれません。しかし神さまはあえて4人を選ばれました。言葉の書き方や表現にも多様性がみられます。そこには、神さまが多様性を愛される姿勢が示されていると私は思いました。

イエスは私たちに今日も「あなたは大切な存在」と呼びかけてくださる方。その声に耳をすまし、今日も助けあってゆけますように。


※助言(ヤーツ)の使われている聖書箇所

出エジプト記18:17-19 新共同訳‬には、

モーセのしゅうとは言った。「あなたのやり方は良くない。 あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。 わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。・・・


の箇所の、「助言をしよう」でヤーツが使用されています。モーセのしゅうとのエトロは、モーセがたくさんの責任を抱えこんでおり、たくさんの仲間と助け合うことをアドバイスしました。モーセは助言をうけいれ、助けあってゆく道を選んだことが、記録されています。



★6月4日、失敗すらも宝へ

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

新約聖書

ローマの信徒への手紙‬ ‭8:28‭、新共同訳‬‬

~※聖書を読んで思ったことです。

益とは、英語ではgoodと翻訳されています。ギリシャ語では、アガソス(ἀγαθός)という用語が使用されています。

英語ギリシャ語辞典

https://biblehub.com/greek/18.htm

ヤコブの手紙‬ 1:17‬ では、 

良い贈り物、完全な賜物はみな、

上から、光の源である御父から

来るのです。 


と書いていますが、「良い贈り物」の「良い」でアガソス(ἀγαθός)が使われています。

ヤコブも、神さまから人へ良い贈り物が与えられると書かれており、パウロも神様の働きで万事を益としてくださるといいます。全ては私たちの能力ではなく、神さまのほうから私たちに対するプレゼントであると、私は思います。

どんなもの(παντα)も益としてくださるとは、良い出来事だけではなく「こんな出来事がおこらなければよかったのに」と思うマイナスのことさえも、神さまは宝物にしてくださると思いました。神様に用いられたパウロもペトロも、過去には大きな過ちを犯していました。しかし神さまは、そんな過去があり弱さを抱えていた人物を用いました。神さまは現在も、私たちがたとえ欠点があろうとも、あなたがあなたであるだけで大切にしてくださる、方だと思います。

生活していると、ときには回り道があったり、「なんでこんなことがあるんだろう」と信じられないときがあるかもしれません。しかし、神さまはマイナスからも宝物にかえてくださり、万事をよくしてくださると約束される方だと思いました。

たとえ自分の思いどおりにならなくても、計画どおりにならなくても、神さまはその全てを宝物にかえてくださる方。失敗すらも、「もうおしまいだ」と絶望する必要がなく、成長の肥やしになると思います。

これからも、神様に委ね、仲間と助け合ってゆけますように。


すべてが自分の思った通りになれば、

結局、自分が思っている程度の

人間にしかなれません。

思った通りにならないからこそ、

ときどき思いがけない試練が

やってくるからこそ、

自分の想像をはるかに超えて

成長することができるのです。

片柳弘史著『こころの深呼吸』

 (教文館)より



★6月5日、サポート

「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

新約聖書
ヨハネによる福音書 20:22-23 新共同訳‬

~※聖書を読んで思ったことです。
聖霊とは、日本では普段なかなか使わない言葉だと思います。しかしキリスト教ではよく使う言葉です。聖霊とは、私たちの生活や全てで今も働いてくださる、神さまの働きです。
復活したイエスは弟子たちに、「聖霊を受けなさい」といいました。「受けるより、どんどん自分たちの力で与えるほうが大事なのではないか」と思うことが、私にはあります。しかしイエスは、人間の限界を知っていたと思います。それは、神さまの支えなしではなにもできない、ということだと思います。
弟子たちの心には、「イエスを見捨ててにげてしまった。罪をゆるされるために、努力して自分たちの行いでなんとかしなければ」と、もしかしたら思ったかもしれません。

しかしイエスは逆に、神さまの支えを「受ける」大切さを示されました。イエスは、自分を見捨てた弟子たちをちっとも憎んでいなく、イエスは弟子たちをゆるし大切な使命をたくしました。
ギリシャ語で「受ける」はラムバノー(λαμβάνω)という動詞が使われています。ギリシャ語では命令形になっています。イエスはかなり強めで「受けなさい」と言われたのだと思います。
私は自分の力で「なんとかしなきゃ。神さまや他人の支えをうけるなんて甘えだ」と、過去に思っていた時期がありました。「私は自分で、できる人間なんだ。強いんだ」と思い込んでいたのです。

しかし、体は正直で、体は動かなくなり、生きることにも疲れてきました。社会は自立を教え、「自分のことは自分で」と教える傾向がもしかしたらあるかもしれません。できることは大切ですが、できないことや欠点をなくそうと焦っているかもしれません。
そんな私たちにイエスは、「一人でなにもかも背負うなんて無理なんだよ。聖霊を受けて、神さまの助けを受けていいんだよ」と言っているように、私は思いました。
キリスト教会のはじまりは、新約聖書の使徒2・1~13に、ルカは記録しています。そこには、イエスを信じる人たちが家のなかで座っていたときに、
‭一同は聖霊に満たされ、

“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

新約聖書
使徒言行録 2:4 新共同訳‬


と書いています。この出来事を、聖霊が私たちにくだった日として、聖霊降臨日(ペンテコステ)とよばれています。ペンテコステとはギリシャ語で50という意味で、イエスが復活してから50日後に起きたので、そこからペンテコステともよばれます。

イエスを信じる人たちは、「一同で集まり」、「座って」、「家にいるときに」、聖霊はくだりました。生活していると、「あれもしなければ、これもしなければ」と座ってなんて落ち着かないことが、私にはありましす。いつも、「なにかして認められないと、自分はつまらない」と勘違いしていました。
しかしイエスは、私たちがなにかできるのではなく、私たちがいるだけで喜んでくださる方。座って自宅にいても、聖霊が急におりてきて、神さまは愛で満たしてくださるのです。赤ん坊を大切にだきしめるように、私達が生きているだけで喜んでくださるのです。
わたしはいま、「わたしにはできないことや限界があります。かみさま、支えてください」と祈ることがあります。神さまに作られた等身大の自分でよいんだ、と思うと嬉しくなります。なにもかもできるスーパーマンにならなくてもよいし、だからこそ私たちは支えあってゆけるのだと、私は思います。
イエスは、「聖霊を受けなさい」といわれました。無茶をときどきする私たちを、イエスは放っておかれないのです。疲れたときはゆっくり座りたいと思います。深呼吸して、生活の中心は私達の能力や行いではなく、神様の愛であることを、思い出したいと思います。聖霊をうけなければ教会はうまれなく、なにもはじまらなかったかもしれません。

自分の限界を謙虚に認め、神様の助けを受け、互いに支えあってゆけますように。


誰にも頼らず、一人で生きられる人はいません。「自立する」とは、誰かのお世話にならなければ生きられないことに気づき、感謝できるようになること。誰かに支えられながら、他の誰かを支えられるようになることです。

片柳弘史著『やさしさの贈り物』

 (教文館)より



★6月6日、回り道

神は彼らを、近道であっても、

ペリシテ人の地への道には導かれなかった。

出エジプト記 13章 17節、新改訳2017

~※聖書を読んで思ったことです。

生活していると、本当にこのままの道で大丈夫なのか、と心配することがあります。しかし親やだれかの期待にこたえようと、学校や会社にとどまり、逃げ道を失ってしまう時もあります。

私も「自分ならできる」といい続け、発達障がい検査の受診をのばしたり、一般就労にこだわりました。家族や子供がいて、「自分がしっかりしてないと」という気持ちも確かにあったかもしれません。

しかし人間の体は限界にくると、生きることに疲れてくるものだと思いました。私はとことん疲れはてたとき、神さまに降参しました。「わたしにはできないこともあっていいし、道を変えてもよいんだ」とおもうとほっとしました。

聖書をひらくと、イスラエルの民がエジプトの過酷(奴隷)な生活からモーセに導かれて脱出するときのことが、今日の聖書箇所に書いています。しかし神さまはあえて、近い(カロブ、קָרוֹב)道をいかせませんでした。

英語ヘブライ語辞典

https://biblehub.com/hebrew/7138.htm

その結果、脱出の旅は40年と長いものになりました。

私も生活で、つい効率を求めセカセカして1日が終わってしまうことがあります。しかし神さまの愛を大きく吸うときに、「そうか。効率がわるくたって私のペースでいいんだ」と自分を取り戻し、みだれていた呼吸も安定してゆくのを感じます。

立ち止まってみると、近くに綺麗な花が咲いていることに気づくことがあります。たった一輪の花をみるだけでも、その美しい花の色彩に胸がときめくことがあります。そのためには、立ち止まる必要があります。

眠れないほど心配なときは、神さまにゆだねて祈るとき、神さまは最善な道に導いてくださいます。先ほどの近い(カロブ、קָרוֹב)というヘブライ語は、詩篇 34篇 18節でも使用され、

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ

霊の砕かれた者を救われる。

新改訳2017


と書いています。「私はなんでもできるから、誰の助けもいらない」と誇るものではなく、「私は神さまやみんなのささえがないと生きてゆけない」と自分の限界を謙虚に認めるものに、神さまは近くにおられると、聖書は語っていると思います。弱音をはいたり、自分の弱さを認めて神さまに助けを求めることはどちらかというと、後回しになってしまうことがわたしにはあります。しかし聖書を読むと自分の無力さをしり、心がくだかれた者の幸いを書いています。それは、強さだけではなく欠点もあってよいということだと、私は思います。

完璧な人はどこにもいなく、誰もが弱さを抱えた人間同士。今日も、互いに支えあってゆけますように。



★6月7日、プレゼント

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 

新約聖書

ヨハネによる福音書 3:3 新共同訳‬

~※聖書を読んでの感想です。

イエスが言われた「新しく生まれる」とは、どういう意味でしょう。ギリシャ語の新しい(アノーセン、ἄνωθεν)には、「最初から」とか「上から」という意味もあります。

英語ギリシャ語辞典

https://biblehub.com/greek/509.htm

ヤコブの手紙 1:17では 

良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。


とありますが、

「上から」という場所で、新しい(アノーセン、ἄνωθεν)がつかわれています。新しく生まれるとは、聖霊(内部リンク)の助けによって生まれることだと思います。自分の力だけに頼るのではなく、神さまに助けを求め心を空っぽにしたとき、私たちは神様の愛をしることができるのではないでしょうか。

新しく生まれるとは、なにか清い自分にならなければならないという意味ではないと、私は思います。逆に自分の業ではなく神さまからの贈り物をうけとり、それによって生きることが新しく生まれるという意味でしょう。

イエスの生きていた時代は、人びとは宗教の教えをまもり、清い生活をしていました。たくさんの宗教の知識もあったでしょう。しかし、自分に厳しいとその基準を相手にも求めてしまいがちです。そのため宗教の掟を守れない人や失敗した人を、罪人と定めていました。イエスは、そんな現実をみて自分の業を誇るなら心の貧しさや無力さを知っている方のほうが、よっぽどしあわせだと想われたとおもいます。

完璧な人間はいなく人間は疑うこともあります。ヨハネ福音書では、イエスの弟子であったトマス(キートンさんの説明)がイエスの復活を疑いました。しかしイエスはそんな疑うトマスによりそい、私の傷にさわってみなさいといわれました。

イエスはたとえたとえ疑っても、弱音をはいても私たちと共にいてくださる方。それは、なにかができるから素晴らしいのではなく、あなたがいるだけで神さまはあなたを喜んでくださっているのだと思います。

今日も「わたしはなにがあっても神さまに愛されているんだ」と信頼し、互いに助けあってゆけますように。



★6月8日、心を開いて

私は彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。

新約聖書 

ローマの信徒への手紙 10:2-3 新共同訳

~※聖書を読んで思ったことです。

ローマの手紙を書いたパウロは、自分の義を求め、自分の力に過信していることを指摘しています。それは、自分の信心深さや生き方よって、神さまに救われようとする考え方です。モーセの律法(宗教の掟)に完全な服従を、他人や自分に要求しました。その戒めは613にも及びました。それを守れない人を罪人として見下していました。

しかし、パウロは信仰の中心は人間ではなく、神さまが示してくださった義であるといいます。義とはなんでしょう。ギリシャ語では、義はディカイオスネー(δικαιοσύνη)という言葉です。正義、公平などの意味もあります。言葉の由来は、司法によって承認されることからきていると、オンラインの辞典で説明されていました。

英語ギリシャ語辞典

https://biblehub.com/greek/1342.htm


神の義とは、イエスもマタイ6・33~34で言及しています。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。


神の義を求めるとは、神さまによって与えられる義を信頼しなさい、という意味だと私は思いました。神様の与えられる義とは難しいものではなく、「神さまはあなたを愛している」という声に、ただ心を開けばよいと思います。自分が自分を受け入れられないときも、神さまは「あなたで本当に良かった」と喜んでくださる方。

もし何か立派なことをして他人に認められないと価値がないと思うならば、「自分の義ばかりに夢中になっていないか」と、私は考えたいと思いました。どんなに悪い評価をされても、神様によって「私は愛されている」という確信があれば、人はそれだけで少しずつ笑顔を取り戻せていけるのではないかと私は思いました。


★6月9日、聞くことから

実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 

新約聖書

ローマの信徒への手紙 10:17 新共同訳‬

~※聖書を読んで思ったことです。

2018年に日本聖書協会からだされた、聖書協会共同訳では

それゆえ、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。」と、翻訳されています。はじまるではなく「起こる」と翻訳され素敵な翻訳だと思いました。

信仰はどちらかというと、教えるほうに重心がおかれがちです。また、聖書を学ぶなど、「学び」も大切にされているかもしれません。

しかしイエスは足をとめられ、人々の話しに耳を傾けました。マタイ20章32節では、

主イエスは立ち止まって、二人を呼び、「何をしてほしいのか」と言った。


と書いています。

イエスは相手に「こうであるべき」と押し付けるのではなく、「私にはなにができますか」と、謙遜に聞かれたのだと思います。ギリシャ語で聞くはアコエー(ἀκοή)です。

英語ギリシャ語辞典

https://biblehub.com/greek/189.htm

ヘブライの手紙で

話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。 

新約聖書

ヘブライ人への手紙 5:11 新共同訳‬


とありますが、「耳」という箇所でアコエー(ἀκοή)が使われています。耳が鈍くなっているとは、耳を自分でふさいでしまい聞けない状態を表していると思います。

私も社会の価値観に影響され、「こうであるべき」と自分や他人にも押し付けてしまうことがあります。たとえば、他人に迷惑がかかるから「弱音をはいてはいけない」など、勝手に思い込んでしまうのです。

しかし聖書をひらきイエスの声に耳を傾けるとほっとします。なぜならイエスは弟子たちを町に派遣するさいに、二人を一組にしていかせたからです。一人で困ったり怪我をしたときも、二人なら助けあえます。イエスの行動から、なにもかも一人で抱えこまなくてよいと知ると、喜びがわいてきます。

パウロは、信仰はキリストの言葉を聞くことによってはじまると書いています。キリストの言葉とはなんでしょう。新約聖書のヨハネ3・16では、

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。


と書いています。

ヨハネは、シンプルに神さまはこの世界を愛されたと伝えています。この言葉こそがキリストの言葉だと、私は思います。

キリストの言葉のあいだには、社会の価値観が壁となることがあります。「素晴らしいことができないと愛されないよ」とか、「失敗したらゆるされないよ」など、さまざまな声がきこえてきます。そのため子供のころから他者や親に認められて、はじめて自分の価値を感じる方もいるかもしれません。

しかし、様々なものを付け加えたら、信仰は複雑になってしまうと私は思います。ヨハネのようにシンプルに「神はこの世界を愛された」と聞いて、神様の愛に心を開いて受け入れるだけでいいのだと、私は思います。信仰は自分の力で獲得するものではなく、聞くことからはじまると聞いたら、なんだかほっとします。

一度立ち止まり、キリストの言葉に耳をすますとき人は失敗してもゆるされ、いくら転んだとしてもやり直しができることに気づかされます。今日も「私は愛されている」と神さまの愛を信頼して、互いに助けあってゆけますように。



★6月10日、人のはじまり

神である主は、土の塵で人を形づくり、

その鼻に命の息を吹き込まれた。

人はこうして生きる者となった。 

旧約聖書

創世記 2:7 聖書協会共同訳

~※聖書を読んで思ったことです。

聖書ブリッジのメッセージ参考にしました。

もし神さまがダイヤモンドから人をつくったら、キラキラして綺麗だったかもしれません。しかし固すぎて相手をはねかえし、どこかひんやりとしていたかもしれません。

しかし神さまはあえて土の塵(ちり)で人をつくられ、鼻に命の息をふきいれられました。神さまは土の塵で作ったのは、スーパーマンのように「完璧にならなくてもいいんだよ」、ということだと思います。完璧な先生や、完璧なこども、完璧な親、完璧な人はいないとおもいます。スーパーマンになろうとして背伸びすると、自分が人間であることを忘れてしまうかもしれません。

‭‭旧約聖書の詩編8:5-6には、

そのあなたが御心に留めてくださるとは 

人間は何ものなのでしょう。 ・・・ 

あなたが顧みてくださるとは。

 神に僅かに劣るものとして人を造り・・・


と書いてあります。「人間」の箇所はヘブライ語でエノシュ(אֱנוֹשׁ)が使われています。エノシュの語源は、動詞の「アーナシュ」(אָנַשׁ)からきています。意味は、弱い、壊れやすい、という意味があります。

英語ヘブライ語辞典

https://biblehub.com/hebrew/605.htm


しかし、神さまはあえて弱さをもった存在として人をつくられました。外交的なかたも内向的なかたも、神さまはひとりひとりをベストな存在としてつくられ決められました。無理に神さまにつくられた自分を変える必要はないと私は思います。カラスが今日から「スズメになります」という必要はないと思います。内向的でも外交的でも、趣味は違ってもみんな素敵だと私は思います。

私たちは、物事がすべてうまくいっているときだけ、「良かった」と考えがちです。しかし神様は、私たちが思った通りにならなくても、一番よい方向に導いてくださる方ではないでしょうか。就活や受験に失敗したことにより、その失敗がもとに本当にやりがいのある方向に導かれた方もいます。

神さまは人を、ダイヤモンドではなくあえて「土の塵」から創造された方です。それは、弱さを自分からすべて排除する必要はないということだと、私は思います。はじめに弱さがあったこと。弱さがあるからこそ、互いに助けあって美しいものをつくりあげてゆくことができると思いました。



★6月11日、やさしさ

すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 

新約聖書

マルコによる福音書 1:29-31 新共同訳

~※聖書を読んでの感想です。

聖書ブリッジを参照にしました。


カファルナウム(wikipedia)という町の出来事です。町はガリラヤ湖北西にあります。イエスのガリラヤ伝道の拠点の町でした。マタイ福音書を書いたマタイも、この町でイエスと出会いました。シモンとはペトロのことです。アンデレはペトロの弟です。(生まれは、ベトサイダという町、ヨハネ1・44)。

さて、ペトロのしゅうとめは熱がありましたが、ペトロは「イエス様を心配させたくないから黙っていよう」と思ったのかもしれません。しかし、人々は彼女を心配してイエスに話しました。イエスは彼女が病の中にいるときくと、そばにいき手をとり、いやされました。

ペトロはイエスの一番弟子でした。強く、自分の困ったことははっきり主張し、どこか遠い存在のような受け止め方をするかもしれません。しかし現実は遠慮をしたり、さまざまな弱さを抱えていました。ペトロは周りの人たちの優しさを、このときに痛感したのではないでしょうか。

困ったときには助けを求める大切さをききます。しかし、そもそも助けを求めることに抵抗を感じる方もいると、ニュースで報道されていました。たとえば虐待をうけた子供や人間不信になった人は、誰かに相談すること自体に高いハードルがあるみたです。無視をされ続けると、SOSをだしたくても「迷惑をかけたくないから」とブロックをかけてしまうのです。

しかし、もし仲間がいて気持ちをかわりに伝えてくれたり、寄りそってくれる仲間がいたら、どんなに心づよいでしょうか。

このカファルナウムの町の出来事は、互いに支えあう人々の優しさを思いおこさせます。今日も私はあなたのために祈っています。また、私のためにもよかったら祈ってほしいです。一人でなにもかも抱えこまないで、互いに助けあってゆけますように。



★6月12日、優しいまなざし

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた

。彼は立ち上がってイエスに従った。

新約聖書

マタイによる福音書 9:9-13 新共同訳‬

~※聖書を読んで思ったことです。

女子パウロ会のHPには徴税人について、次のように説明されています。https://www.pauline.or.jp/yamamoto/yamamoto_08.php

徴税人は、当時ユダヤを支配していたローマのために、税金の取り立てを請け負ったユダヤ人である。異邦人支配者のために、同胞から税を取り立てること、定められた額より多く取り立てるという理由で、ユダヤ人から憎まれ、「罪人」として排斥されていた。


マタイの職業は徴税人(外部サイト)でした。しかしイエスはマタイが立派になってから声をかけたのではありません。なぜなら、マタイは職場でもある収税所に座っていたからです。

社会では「もっと成長したら、社会で活躍できる」と理想を求められるかもしれません。それは、「いまのあなたでは不十分だから、もっとふさわしくなったら価値がある」と考えてしまうからだと思います。「もっと強く」「もっと効率的に」と、とどまることがありません。悲しいことに、「もっと~してほしい」は自分だけではなく、家族や友だちにも要求してしまうときがあります。

しかし神さまの愛は、人間や社会のつくりあげた価値観ではないことが、このマタイへのイエスの声かけからみえてくる気がします。イエスは、今がどんなにマタイが弱くても、声をかけられました。マタイはおそらくみんなから、軽蔑的なまなざしを毎日うけていたのではないでしょうか。しかし、イエスのまなざしには暖かいぬくもりを感じたのではないでしょうか。

イエスはマタイだけではなく、今日の私たちも喜んでくださる方。様々な要求ではなく、「いまのあなたでよかった」といわれるとき人は焦りから解放されて、ゆっくり深呼吸できるのではないでしょうか。

マタイはイエスに従いました。従うはギリシャ語ではアコロウセオー(ἀκολουθέω)といいます。英語では、フォローと翻訳されます。

英語ギリシャ語辞典

https://biblehub.com/greek/190.htm


従うとはなにか難しく思いがちです。しかし聖書を読むと、群衆の人たちもイエスに従った(アコロウセオー)と書かれています。たとえば、マタイによる福音書 4:25には、

こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。


と書いてます。

2018年に日本聖書協会から出版された聖書協会共同訳では「大勢の群衆が来てイエスに付いて行った。」と、マタイ4・25を翻訳しています。付いていったとは、とても素敵な翻訳だと思います。

イエスは私たちがどんな状況にいようとも、「あなたは必要な存在」「なくてはならない貴重な存在」とよびかけてくださいます。

耳をすまし「あなたでよかった」とよびかけてくださるイエスの声に耳をすましたとき、人は希望をもってたちあがり、生きる喜びがわいてくるのではないでしょうか。

特別なことはなにもできないかもしれないけれど、イエスはあなたがあなたであるだけで喜んでくださる方。今日も神さまの愛を信頼して、互いにたすけあってゆけますように。

※参考サイト

聖書ブリッジにある

マタイについての聖書メッセージ


★6月13日、神学とは

自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。
新約聖書
コリントの信徒への手紙一 8:2 新共同訳

~※聖書を読んで思ったことです。
神学という学問分野は、日本ではなじみがないと思います。英語では、Theologyといいます。wikipediaでは、
Theologyの語源はギリシア語のθεολογια。θεος (神)および λογος(言葉)の合成語。「神についての議論(学問)」という意味。

と説明されていました。

神父や牧師、クリスチャンやクリスチャン以外でも、だれでも神学を学ぶことはできます。神学とは、聖書を学ぶ学問ですが、聖書の書かれたギリシャ語やヘブライ語を学ぶのも、1つの神学だと思います。また、信仰とはそもそもなに?とか、教会とはいったいなに?なども、神学の1つだと思います。また教会の歴史を学ぶことも神学です。

アメリカの大学も、1636年に聖職者を養成するために創立したハーバード大学から始まりました。
キリスト教とは、一方的に正しさを押し付けるものではなく、「わたしには分かっていないことがある」と、共に学ぶものだと思います。したがって、教会には神学という学びを大切にしてきた歴史があると思います。
逆にカルトとは、答えは1つで絶対的な教えがあります。それは指導者だったり、組織だったりします。その組織に反対の意見をいえば、「あなたには悪魔がついている」と、脅されるときがあるでしょう。また答えはいつもひとつです。自分たちは真理を握っていて、他は間違っているといえば、そもそも神学という学びは必要ないと思います。
パウロはギリシャにあるコリントの町にすむクリスチャンたちに
「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」
といいます。パウロは謙虚に、自分の限界を知っていたのではないでしょうか。そのためパウロには、たくさんの協力してくれる仲間がいました。イエスも弟子たちを派遣するときは、二人を1組にしました。それは強い指導者ではなく、支えあう指導者でした。
学びはいつも、「私にはまだわからないことがある」という態度からはじまると思います。自分は正しく相手は間違っているという態度ではなく、多宗教や隣人に教えられてゆきたいと私は思いました。
しかし神学には限界もあると思います。人間の知識には限界があるからです。神学を学ばなくても、神さまに愛されていると信頼できることは、とても素敵だと思います。神学が目指すのも、神への信頼であると思います。神学には限界があることをしりつつ、しかし柔らかい視点で聖書を共に学びあうなら、素敵な発見があると私は思いました。


参考サイト
神学(英語のwikipedia)

ゼネラル・スタディウム(英語のwikipedia)
~Studium generaleは中世ヨーロッパの 大学の古い名称。13 世紀に 一般的にstudia generaliaと考えられていた大学は以下のとおりです。

ボローニャ大学(1088年創立)
オックスフォード大学(1167年創立)
ケンブリッジ大学(1209年創立)
パレンシア大学(1212年創立)
パリ大学(1215年創立)
など。



★6月14日、形式より大切なもの

誓いの言葉を携え 

主に立ち帰って言え。 「すべての悪を取り去り 恵みをお与えください。 この唇をもって誓ったことを果たします。

旧約聖書

ホセア書 14:3 新共同訳

~※聖書を読んでの感想です。

イスラエルの歴史を書かせていただきます。紀元前922年に、サウロ王、ダビデ王、ソロモン王と続いたイスラエルは、北イスラエル(首都はサマリア)と南ユダ(首都はエルサレム)に分裂しました。

ホセアは北イスラエルのほうで活動しました。922年にイスラエルが北と南に分裂してから、170年くらいたった紀元前750年くらいから、アッシリアによって北イスラエルが滅ぼされた722年くらいまでホセアは活動しました。同時代に活動した人物は、南ユダではイザヤがいました。

北イスラエルの宗教は祭儀が中心でした。それはいけにえの動物をささげたり、形式的な礼拝が大切にされていました。その祭儀も、イスラエルの民が出エジプトでやってくるまえに住んでいたカナン人の宗教の影響をうけました。カナン人は、バアル神(wikipedia)の像をつくり、偶像礼拝(神さまを人間の手によって像として造り、それを礼拝すること)をしていました。なぜこうなったかは、エジプトから避難してきた移動生活から定住生活になり、食べ物を生産することで獲得できるようになったからだといわれています。そのため、どのようにすればより多くの生産をもたらすことができるか、カナン人たちに方法を習ったのです。

そんな時代にホセアは、3節でかかれているように、「誓いの言葉」を求めました。それは儀式的な形式ではなく、人の内面からでてくる言葉と神さまとのつながりです。言葉とはその人の内面からでてきます。祭儀的な礼拝とは、形だけを守っていけにえをささげればゆるされました。たとえば、「あなたは、たくさん捧げ物をしたら神様にゆるされるよ」などです。ホセアはそうではなく、人の内面からくるくだかれた心を求めました。‭‭

ホセア書 6:6 には、 

わたしが喜ぶのは 

愛であっていけにえではなく 

神を知ることであって 

焼き尽くす献げ物ではない。 


とホセアが書いています。

神が求めたのは形式的な祭儀ではなく、神を知ることでした。神を知るとは、単に知識として知るだけではなく、神さまと自分との関わりであると私は思います。

もし「~できないと、クリスチャンらしくない」と落ち込んでいたら、それは儀式が神様になっていると思います。なぜならイエスはその当時、宗教の掟を守れなかった罪人とされていた人も大切にしました。イエスは「~できたらあなたは素晴らしい」のではなく、神様に作られた一人ひとりの命が「ある」だけで大切にされた方でした。

「クリスチャンなら、~すべき」というプレッシャーがもしあるなら、ホセアのよびかけに帰りたいと私は思いました。「私は私として神さまに愛されているんだ」と、神の愛を信頼し、互いにたすけあってゆけますように(2024年7月27日記載)。



★6月15日、互いに支えあって

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエス様が三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

新約聖書

ヨハネによる福音書21:17、新共同訳

~※聖書を読んでの感想です。

復活したイエスはシモン(ペトロ)に、「わたしを愛しているか」といわれました。私はイエスが一方的に愛するだけを、大切にする方だと思っていました。

しかしよく考えてみると、生きていく上で力になるのは、愛するだけではなく愛されることも大切だと思いました。

イエスとペトロの会話をとおして、イエスは「愛される大切」さも、私達に示しているように思います。もちろん、愛することは大切です。イエスの生涯は他人に仕え、愛する人生でした。

「介護するのは私の責任」といって献身的に相手の支えになっている方もいます。しかし、その裏でニュースでは介護疲れかるくる疲労が限界にきて、最悪の結果になってしまったニュースもききます。自分の限界を認め互いに支えあえば、もっと素敵な介護やサービスを提供できたかもしれません。介護だけではなく、育児も仕事もまた生活も、人間にはひとりの限界があります。イエスがペトロに「私を愛するか」と三度確認したように、人は愛し愛される時間が大切だと、私は思いました。

私は「自分ならまだできる」と強がっていたときがあります。自分のプライドで、自分の限界を認められなかったのです。毎日は不安で、「自分の弱さがばれたら、どうしよう」と、いつもびくびくしていました。

イエスは、ヨハネによる福音書 15:12で

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 」と言われました。互いにはギリシャ語でアレーローン(ἀλλήλων)です。新約聖書では、100回も使用されている単語です。

英語ギリシャ語辞典

https://biblehub.com/greek/240.htm


イエスは、互いに足を洗いなさい(ヨハネ13・14)といい、互いに支えあう大切さを示されました。人間は神にはなれなく、だれもが弱さを抱えています。しかし神さまは、その弱さを宝物にかえてくださる方。今日も互いに助け合ってゆけますように(2024年8月14日記載)。



★6月16日、沈黙の大切さ

沈黙してあなたに向かい、

賛美をささげます。 

旧約聖書

詩編 65:2 新共同訳

~※聖書を読んでの感想です。

沈黙してあなたに向かいから、詩編65編ははじまります。沈黙がなかなかできない時代です。様々な情報がはいり、生産的な生活を求められ、効率が求められるときがあります。黙って沈黙したりする時間より、なにかをなすことを期待されます。

最近、タイパがよいということばがあるそうです。タイムパフォーマンスの略で、短い時間で高い効果を得られることをいいます。人材不足のなかで様々な情報をつかい、いままでの残業とかで使っていた時間などを効率をよくし、最適化することはたしかに必要な時代かもしれません。しかし以外に、効率化とは逆のことに大切なことがあることもあります。

イスラエルの民たちはモーセに導かれて近道をせずに、40年をかけてエジプトを脱出しました。それがあったからこそシナイ山でモーセは十戒がさずけられ、神の恵みを体験する時間をもてたと思います。

イエスの生涯も、30歳までは福音書には少しのことしかふれられていません。また、イエスも40日の荒野で悪魔の誘惑をうけました。そんな時間があったらすぐに町にいって伝道したほうが、福音を伝えるためには効率だったかもしれません。しかし一見、自分では思ってもいなかったことが逆に宝物になるときがあります。

沈黙が大切なのは、自分の力ではなく神様の恵みにより頼むことに力点があるからだと思います。信頼できる人のまえでは、特別なことをしなくて自然体でも、相手は私を大切に思ってくれていると安心してすごせます。「こうでならなければならない」という焦りがきえ、「こうであっても、ああであっても精一杯したら後は神さまが一番よくしてくださるから大丈夫」とまかせられるのではないでしょうか。詩編65・2で使用さている沈黙「ドゥーミッヤー」(דּוּמִיָּה)には、沈黙の他に休息という意味もあるみたいです。英語ヘブライ語辞典

https://biblehub.com/hebrew/1747.htm

「ドゥーミッヤー」は詩編 62:2 でも

わたしの魂は沈黙して、

ただ神に向かう。 

神にわたしの救いはある。


で使われています。

新約聖書には、洗礼者ヨハネの父であるザカリアは、口がきけなくなることを体験します。しかし、その話せなくなるとは自分が「あれもしなければ、これもしなければ」と自分の力にたよるのではなく、神さまによりたのむことをザカリアは経験したのではないでしょうか。

人は自分の経験や社会の影響をうけて、その視点だけにしばられて考えてしまうことがあります。ザカリアにとっては、年をとっているからもう子供は手後れだ、という考えからぬけだせないでいました。自分の判断こそ正しいという誇りもあったかもしれません。

神さまはザカリアに話せなくなる沈黙をあたえられました。それは、自分の業や力によりたのむのではなく、神の声に耳をすまして生活する大切さを示されたのだと思います。時には神の前に沈黙して、「あなたは大切な存在」とよびかけてくださる声に心をひらき、互いにたすけあってゆけますように(2024年8月31日記載)。



★6月17日、羊飼い

主は羊飼い、

わたしには何も欠けることがない。

旧約聖書

詩編 23:1 新共同訳

~※聖書を読んでの感想です。

ダビデは、神さまを羊飼いとよんだあと、「私には乏しい(ハッセル、חָסֵר)ことはない」といいます。「ハッセル」には、乏しいのほかに、弱い、欠けている、不足している、などの意味もあります。

英語ヘブライ語辞典

https://biblehub.com/hebrew/2637.htm


人は、つい自分でなんとかせねば、と自分を飾ってみたりします。しかし飾りすぎると、自分が一体誰なのかわからなくなってしまいます。

また、誰かから「あなたには、これが欠けているね」といわれたら、悲しい気分になるのではないでしょうか。そのために、その欠けをなくすために必死になったり、違った自分を演じてみたりします。。しかし疲れたときは飾った自分ではなく、神さまに作られた自分に戻るとき、ほっとするのではないでしょうか。

山奥にひっそり誰にもみられないで咲くタンポポも、きっと神さまからみたら「なんて美しいんだ」と喜んでくださるのではないでしょうか。道端に咲いていたら人からたくさんみられて、「綺麗だね」といわれるかもしれません。タンポポだけではなく私たちひとりひとりも神さまがつくられ「あなたで本当によかった。」と喜んでくださると思います。それは、私たちが「~できる」から評価されるのではなく、あなたであるだけで十分だと思います。

ダビデは神さまが羊飼いだから、私にはなにも乏しいことはない、といいます。もちろん、自分の弱さや過去の失敗も感じていたでしょう。聖書にはダビデの失敗もかかれています。しかしすべて含め、弱さを抱えていても、「私には乏しいことはないんだ」と、神の愛を信頼していたのではないでしょうか。

私もできないことが多いです。「私は仕事ができなく、欠けている人間だ」と劣等感を感じるときがあります。しかし神さまが「あなたを作ったのはは私だから、あなたで大丈夫だよ」とよびかけてくださるとき、生きる勇気がわいてきます。

たとえ思った通りに進まなくても神さまはベストな道を備えてくださる羊飼い。この方に信頼して、互いに助け合ってゆけますように(2024年9月9日記載)。



★6月18日、休み

主はわたしを青草の原に休ませ 

憩いの水のほとりに伴い

旧約聖書

詩編 23:2 新共同訳

~※聖書を読んで思ったことです。

休む(ラバツ、רָבַץ)は、横たわるや、体を伸ばすといった意味もあります。

英語ヘブライ語辞典

https://biblehub.com/hebrew/7257.htm

また旧約聖書が書かれたへブライ語では、ヒフィル態の動詞になっています。ヒフィル態とは、使役能動といわれ「~させる」という意味があります。神さまは、「あなたを休ませ」というように、しっかりあなたは休みなさいというような、強い意味があります。

しかし、社会では「休んでなんてはいけない、もっとなにかをしなければ」という声があるかもしれません。日本では、みんなが休みのときに休む率が高い国だそうです。お盆休みやお正月などは、みんなが休みだから安心して休めます。しかし、自分個人の休み方などを考えると、考えこんでしまう場合があります。

私は世の光という、インターネットラジオの放送を聞いています。

「あなたは休んでいますか?

45」で

で、豊田信行牧師は次のように言っています。


安息日のヘブル語は「シャバット」は「止める」との意味があります。・・・神様がすべての人に向かって「はい、そこまで。手を止めて。」という号令のようです。その号令には、「あとは私が引き受けるからゆっくり休みなさい。」とのメッセージが込められています。

・・・手を止めなさいとの号令に聴き続けるのは、尽きない心配を神様に預け、心配という労苦で心をすり減らさないように心を休ませるためなのです。・・・。

聖書の創世記には、神様が天地万物を6日間で創造されたことが記されています。神様がその日、その日の創造の働きを終えられたとき、「夕があり、朝があった。」と一日の終わりがつけられています。最初、この聖書の箇所を読んだとき、「朝があり、夕があった。」の間違いではないかと思いました。でも、間違いではないのです。一日の始まりが朝なら、活動から始まります。日没なら、休息から始まります。

普通に考えると活動して疲れたから休むのであって、疲れていなければ、そもそも休む必要がありません。なぜ、疲れてもいないのに休息から始めなければならないのでしょうか。聖書が約束する安息とは、疲れたから休むものではないのです。

「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあります。自分にできることすべてを出し尽くしたら、あとは天命、宿命に身を任せるとの意味です。


少し長くなりましたが、引用させていただきました。

現代はともすれば、「あれもしなければ、これもしなければ」と慌ててしまいがちです。それは、生産性がある人が価値があると評価しがちだからです。

しかし、神さまは「やめよ」といわれました。それは、なにもかもやめても、神さまに作られたあなたがいるだけで大切な存在であることを、神さまは示しているからだと私は思います。

もしなにかをしなければ、と焦ってしまったら神様のよびかけに耳をすましたいと思います。なにかを「する」から価値があるのではなく、あなたが休んだり、体を橫にしていても、あなたがいるだけで神さまはあなたを喜んでくださる方。

ゆっくり深呼吸して、「私は今日もどんなときも愛されている」と神の愛に心をひらいてゆけますように(2024年9月10日記載)。



★6月19日、愛に根をはる

信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 

新約聖書

エフェソの信徒への手紙 3:17 新共同訳

~※聖書を読んで思ったことです。

エフェソの信徒への手紙は、パウロがローマ帝国の皇帝ネロにローマの獄中に監禁されていたときに、この手紙をかきました。エフェソには、パウロは三年この町にとどまって伝道活動をしたことがあります。現在のトルコの西部にあった町です。

この手紙の写本には「エフェソ」という名前が空白になっている写本もみつかっています。そのため、エフェソ教会だけで読まれるために書かれたのではなく、多くの教会で共通した価値観をもてるようにパウロが回覧板のように読まれるために書いたと考えられています。

さて、エフェソ3章 17節に、

あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。


とパウロは書いています。

パウロは愛に根差しと書いています。この愛とは、私は神様の愛だと思います。「私はこんなにも愛されている」という神様のあいに根をはることを、パウロはすすめていると思います。パウロは、根をはる(ピゾー、ῥιζόω)という動詞を使っています。英語ギリシャ語辞典

https://biblehub.com/greek/4492.htm


「根をはる」は受動態で書かれています。根をはらせなさい、という表現が直訳になると思います。根をはるのは自分たちの力だけではなく、神さまの支えによってなることを、パウロは伝えていると思いまし。

自分で必死にがんばって「私は愛の人といわれるように、根をはるために必死にやっていく」というのでは疲れてしまうと思います。必死にがんばる宗教だと、人は自分に厳しくなってしまい、「~であるべき」という物差しから動けなくなってしまうことがあります。パウロは、エフェソの信徒への手紙 2:8-9 で、

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 


と書いています。

つい「これもできて、あれもできてりっぱになったら神さまは用いてくださる」と、自分側の状況によって神さまに認められると思ってしまうことがあります。しかしパウロは、行いではないといいます。神さまはもっと素晴らしい人になったら、あなたを用いてくださるのではありません。どんなに弱さを抱えていても、神さまは「あなたで良かった」と今日のあなたを喜んでくださる方。

人は社会で生活していると、つい「自分はなにができたか、なにを達成できたか」と、自分の行いの部分のみ考えこんでしまうときがあります。しかしパウロは、エフェソの手紙で、「行いではない」といいます。神さまによって作られた命は、なにができたからではなく、あなたがあなたであるだけで大切な存在。神さまに愛されたものとして弱さを支えあい、互いにたすけあってゆけますように(2024年9月20日掲載)。



★6月20日、


★6月21日、


★6月22日、


★6月23日、



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