★5月1日、共にいる方
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
新約聖書
マタイによる福音書 1:23-25 新共同訳
~※聖書を読んで思ったことです。
ヨセフは夢をみて、天使に言われたことを今日読みました。イエスはインマヌエルとよばれる、と書いています。その意味は「神はわたしたちと共におられる」という意味です。
一年をふりかえるとき、計画していないことがおこりました。思った通りにならないこともありました。「なんか、うまくいかないな」と、弱音をもらすことも、私はありました。しかし、どんな道でも神さまが共にいるなら、思った通りにならない道も素敵な道になるのではないか、と思いました。
イエスはインマヌエルとよばれると、天使はいいました。失敗して自信を失っているときも、孤独を感じる日にも、ふと横をみればイエスは共にいる、というのです。私は失敗の連続で眠れない夜は、イエスに語りかけることがあります。1日にあった嬉しいことや、いま困っていること、これからの心配を話していると、いつもイエスは耳を傾けてくださり、「私が一緒にいるよ」とよびかけてくれました。成功しようが失敗しようが、神さまが共にいるならその道はすべて恵みの道だと思っています。いつも一人ではないとしったとき、心の奥底から生きる勇気がわいてきます。そして「思った通りにならなくても精いっぱいやってみて、あとは神さまに委ねよう」と心が軽くなります。
一人では抱えきれないとき、神様に重荷をあずけるのも大切だと思います。また私は、教会の方や、精神科の主治医や障害福祉の相談支援員さんに、いつもサポートをうけています。一人でなにもかも抱えこむ必要はなく、互いにてをとりあって助け合ってゆきたいと、私は思いました。最後に片柳神父の本より引用します。
神は真実な方です。
あなたがたが耐えられないような
試練に遭わせることはなさらず、
試練と共に、それに耐えられるよう、
逃れる道をも備えていてくださいます。
新約聖書
(第一コリント10・13)
~病気はとても苦しいことでしたが、わたしのことを心配してくれる人たちがこんなにもいると気づけたこと、自分は一人ぼっちじゃないんだとわかったことは、とても大きな恵みでした。試練が与えられたからこそ、気づくことができる恵みがあります。試練が与えられるときには、それを乗り越えるための力も必ず与えられるのです。
片柳弘史著『あなたはあなたのままでいい』 (PHP刊)より
★5月2日、祈れないときも
同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。"
ローマ人への手紙 8章 26節、新改訳2017
※御霊は「みたま」と呼びます。聖霊(内部リンク)のことをさしています。
~※聖書を読んで思ったことです。
キリスト教では、祈りがあります。災害や困難のなかにある方をお守りくださいや、もっと身近でいえば、家族をお守りくださいや、今日の1日の歩みをおまもりください、など色々あります。
わたしはこの一年、祈りについて考えることがありました。それは私はどこか完璧主義なところがあり、私が祈らなければならないとプレッシャーを感じてしまったからです。祈れば、あの事もこのことも気になり2時間くらいになることがありました。もちろん、善意から祈りましたが、A さんのことを祈ったならB さんについても祈らなければ不公平だ、と勝手に私がおもいこんでしまい、祈りが終わらなくなってしまうのです。
私は祈ることは、もともと心が安らぐ時間でした。しかしある日、体調が悪く、頭が回らない日がありました。祈りたいことは山ほどありました。しかし体力と心の限界を感じました。
そのときに私は、片柳神父の書いた「何を信じて生きるのか」(PHP)の帯表紙を思い出しました。そこには、「もう無理です。あとはあなたがやってください」と書かれています。あなたとは神さまのことだと思います。私は、「神さま、今日は祈る力がありません。かみさま、今日は祈ってください」と祈りました。すると、なにかホッとして安いだ記憶があります。
今日の聖書の言葉に、霊がとりなしてくださる、とパウロは書いています。霊とは聖霊で、いま現在も働く神さまの働きをいいます。とりなしとは、代わりにしてくださることをいいます。
おそらくパウロも、キリスト教宣教の旅のなかで迫害されたり、人々から誤解されたりするなかで気力が尽きそうな時があったのではないでしょうか。しかし、パウロは、神さまがかわりに祈ってくれる愛の働きを感じたのかもしれません。
人は悲しいとき、言葉がでないときがあります。祈りたくても、祈れないときもあります。しかし祈れないときも、神さまはしっかり受け止めてくださり、代わりに祈ってくださると思います。赤ちゃんはまだ言葉にして祈ることができませんが、ただ生きているだけで尊い存在です。
「あれもしなければ、これも祈らなければ」と焦燥感を感じるときは、ゆっくり深呼吸して、神さまに祈ってもらう時間もあってもよいのではないか、と私は思いました。神さまは、わたしたちが願う前からわたしたちの心を知っていてくださる方(参照、マタイ6・7-8)。今日もこの方に委ねて、互いに助けあってゆけますように。
あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
新約聖書
マタイによる福音書 6:7-8 新共同訳
★5月3日、愛されている
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
新約聖書
エフェソの信徒への手紙 3:18-19 新共同訳
~※聖書を読んで思ったことです。
まず、真っ先にしるのは、難しい聖書の知識や自分のスキルではないと、私は思います。だれもが、
「わたしは今年もさまざまな失敗があった。それでも私は神さまに愛されている」と信じることが、なにより大切なのではないか、と思います。
今年は社会でさまざまなことがあり、また若者たちの生きづらさを感じました。現実を忘れたいのは、どうしてだろうと思いました。私は一番、現実を忘れたかったのは、仕事ができなく会社から注意され、「あなたは仕事ができないひと」と言われた時かもしれません。殻にこもり、生きる勇気をなくしていました。しかし幸い、私はイエスの愛をしりました
。自分でも思いだしなくない過去や、自分の性格の悪さ。現実の私から逃げたい私を、神さまは「あなただからいいんだよ」とよびかけてくれた気がしました。パウロは、神様の愛がどれほど大きなものであるかを理解するように、と書いています。理解するは、カタラムバノー(καταλαμβάνω)というギリシャ語です。
英語ギリシャ語辞典
→https://biblehub.com/greek/2638.htm
理解するの他に逮捕する、捕まえるなどの意味をもつと説明されています。たとえ誰からも批判されても、「イエスは私を愛してくださる」と確信していれば、いかなる批判もはねかえす力になるのではないかと、私は思います。
幼い子供が、パパやママとよびかけるように、「私は神様にどんなときも愛されている」と信頼してゆけますように。最初は小さな信頼が、いつかは心を満たし生きる希望になっていくと、私は思います。
★5月4日、希望はどこから
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
新約聖書
ローマの信徒への手紙 15:13 新共同訳
~※聖書を読んで思ったことです。
パウロは、神は希望(ギリシャ語はエルピス、ἐλπίς)の源である、と書いています。
英語ギリシャ語辞典
→https://biblehub.com/greek/1680.htm
パウロは、エルピスをローマ5・5、12・12、などでも使用しています。また、1テモテ1・1では、「わたしたちの希望であるキリスト・イエス」と、パウロは書き、イエスは希望であると書いています。
理想どおりに生きられない自分を嫌になったり、抱えている不安で光がみえないときがあります。しかし、どんなに悲惨な状況であっても、神さまは共にいてくださり希望を与え、喜びと平和で満たしてくださいます。
小さな子供が大切にされたら喜ぶように、神さまは「あなたがいてくれて、本当に嬉しい」とよびかけてくださる方。その声をきいたとき、「私は愛されているんだ」と思い、喜びがわいてくるのではないでしょうか。
それでは平和とはなんでしょう。片柳神父は、ブログのバイブルエッセイ(905)で、次のように書いています。
https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/2020/04/17/121928
イエスは、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけました。「あなたがたの罪はゆるされた。わたしはいつもあなたがたと共にいる。何も恐れる必要はない」、そんなイエスの思いがぎゅっと詰まった言葉。それが、「あなたがたに平和があるように」だったのです。
私自身はなにげない言葉で他人を悲しませてしまい、また失敗しないかと、話すことが怖くなったときがあります。今も緊張すると、言葉をだすのが怖くなります。それは、過去に何回も他人を言葉で傷つけてしったからです。しかし、そんな私も生きてゆこうと思える希望となるのは、神さまが与えてくださる平和です。「失敗してもやりなおせるよ。だから、自分をせめるのはそこまでにしていいんだよ」と、イエスはよびかけてくださる方。
私は失敗の連続でも、それでも生きていけるのは「あなたで大丈夫。あなたでいいんだよ」とよびかけてくださるからだと思います。眠れない夜も、朝おきたときも、「私は神様に愛されているんだ」と思うとき、生きる希望がわいてくるのを感じます。
時間はかかっても、小さなことかもしれないけれど、わたしのままで輝いてゆきたいです。それは自分の力で輝くのではなく、月が太陽の光をあびて輝くように、ありのままの私を神さまのほうから照らしてくださいます。そして、一人でなにもかも抱えこまずに、仲間とたすけあって生きてゆきたいです。
★5月5日、疲れたときは
★5月6日、光に照らされて
わたしたちは、競い合うためでなく、
愛し合うために生まれてきたのです。
マザー・テレサ
~周りの人を危険なライバルと思い込み、争い合って生きる人生と、周りの人を大切な仲間と信じ、助け合って生きる人生。いったいどちらが幸せでしょう。・・・。わたしたちはもっと偉大なことのために生まれてきました。わたしたちは、愛し合うために生まれてきたのです。片柳弘史著『日めくりマザー・テレサ』(PHP)
★完璧な人はいなく
しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。・・・
あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。
新約聖書
マタイ5・34、37、新改訳2017
~※聖書を読んで思ったことです。
イエスは「誓ってはならない」、といいます。それは完璧にできる人は誰もいないということでしょう。できることは確かに素晴らしいです。しかしときには上からできない他人を見下してしまう性質が人にはあるかもしれません。イエスはそんな優劣をつけるなら、はじめから自分の限界をしって誓えない人間であるほうがよっぽど素晴らしいと思ったのでしょう。
またイエスは、「はいははい」といいなさいとも言っています。「はい」というギリシャ語はナイ(ναί)という言葉です。
英語ギリシャ語辞典
→https://biblehub.com/greek/3483.htm
安心している子供は、親の顔色をうかがうことはなく、自分の気持ちをいえるかもしれません。しかし、親の期待にそった時のみ愛された子供は、本音を隠す傾向があるかもしれません。見捨てられないために、親の理想にかなった「よい子」になろうとします。ただ、その良い子とはたいがい、自分とは違う誰かを演じるので、精神はとても疲労すると思います。
タンポポがバラを咲かそうとしても、それは限界があります。イエスの「はいははい」といいなさいとは、イエスはあなたの気持ちをかたってもいいんだよ、ということだと私は思います。弱音をはいてもいいし、不安なときは不安であることをいってもいいのです。
イエスが言う「それ以上のことは悪いものからでる」とは、背伸びして自分の思っていないキモチをいう必要はないということだと思います。神さまは、あなたをあなたとしてつくられました。あなたのままの輝きが、一番です。
自分の気持ちが混乱してわからないときは、私はイエスの声に耳を傾けることにしています。聖書をひらき耳をすますときイエスは「あなたがいてくれて本当に嬉しい」と、わたしたちの存在を喜んでくれる声がきこえてきます。愛されている自分をしったとき、少しずつ自分の気持ちも整理されてきます。今日も「私は愛されている」と神の愛を信じ、仲間と助けあってゆけますように。
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
新約聖書
マタイによる福音書 6:6 新共同訳
~※聖書を読んでの感想です。
宗教はときには、良い行いをしなければとか、見本となるような立派な人間にならなければ、と圧力をかけてくるかもしれません。イエスのいきていた時代も、他人に良く評価されるために長い祈りをしている方がいました。イエスはそれをみて、誰もみていない静かな場所で神さまに祈ることの大切さを語りました。
社会の価値観は、優秀なものだけを評価したがる傾向があるかもしれません。その優秀さも時代によってかわります。優秀さだけを求める価値観に支配されると、「もっと強くならなければ自分には価値がない」と勘違いしてしまいます。それが体にしみこむと、生産的な人になろうとして休めなくなります。休んでいても疲れがなかなかとれなくなってしまいます。
イエスは、静かな場所で語りかけてくれます。静かな場所とは、あなたがただいるだけで神さまがあなたを喜んでくださる場所だと思います。今のあなたを喜んでくださる場所です。
他人から誤解されも、神さまの「あなたは大切な存在」という声を優先するとき、他人の評価に振り回されるのが少なくなると私は思います。
ときには、静かな場所でイエスと向き合う時間を私はもちたいと思います。その時間はたった5分であっても、その後の時間を宝へかえていく貴重な5分になると思います。他人の評価はかわります。しかし、神さまの愛は変わることはありません。最後に、ヘンリ・ナウエンの書いた『静まりからうまれるもの』(太田和攻訳、あめんどう刊)より引用したいと思います。
朝早くまだ暗いうちに、
イエスは起きて、
人里離れた所へ出て行き、
そこで祈っておられた。
新約聖書
マルコによる福音書 1:35 新共同訳
~静まりの中でこそ、何を持っているかより、生きている自分の存在自体が大切であること、また、努力した結果より、わたしたち自身のほうがはるかに尊いことが分かってくるのです。・・・。独り静まると、自分の価値とは、どれほど人の役に立つかではないと気づくようになります。・・・。
もしあなたが、さまざまな活動やかかわりのまっただ中に、独りになる所を作り出すことができるなら、しだいに成功や失敗にこだわらなくなることでしょう。・・・。
わたしたちは、日々の生活を精いっぱい生きると同時に、ときには朝早くまだ暗いうちに起きて家をあとにし、独りきりになれる所に出て行くことを忘れないようにしようではありませんか。
だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
新約聖書
マタイによる福音書 6:9 新共同訳
~※聖書を読んで思ったことです。
今日の聖書箇所は、イエスがこう祈りなさいと書かれている箇所です。
崇(あが)められるは、聖書協会共同訳では「御名(みな)が聖とされますように。」と翻訳されています。「聖とされる」はギリシャ語では、ハギアゾー(ἁγιάζω)の受動態が使用されています。聖とは本来の意味として、分離する、という意味があるみたいです。神様の考えと私の考えを、時には分けて考えてみると自由になれる気がします。
英語ギリシャ語辞典
→https://biblehub.com/greek/37.htm
人は自分の考え方を絶対的にしたり、親や他人の評価によってしばられてしまうことがあります。そのとき、「神さまはどう思っているか」は忘れられてしまいます。
神さまの考えは、イエスの生涯によって示されました。イエスの生涯は4人の著者により書かれており、福音書(ふくいんしょ)とよばれます(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)。
イエスは最も大切な掟として、あなたの神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい、と言われました。隣人を愛すること大切ですが、イエスは「自分のように」といわれました。それは、あなたも大切な存在なのですよ、とイエスは言われたのだと思います。
私は失敗だらけで、つい「私はつまらない」と思い込んでしまいます。しかし、それは私の個人的な思い込みであり、神さまの視点からみたら違うかもしれないとおもうと安心します。自分の考えと神様の考えは、分離して考えてみると安心します。神さまからみれば、私がどんなに不器用で弱さを抱えていても、「あなたは大切な存在」とよびかけてくださる方だからです。その声があるから、生きる勇気がわいてくると思います。
不安や罪悪感でつらくなるときは、私は自分の考え方にしばられることがあります。そんなときは、静まってイエスのよびかけに耳をすますことにしています。イエスの声とは愛の声。「あなたがいてくれて、本当に嬉しい」とよびかけてくださっています。その声を喜んできいて、今日もたすけあってゆけますように。
★5月18日、イエスの教えた祈り(2)
だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
マタイによる福音書 6:9、新共同訳
~※聖書を読んで思ったことです。
聖書箇所は前回と同じ場所です。
イエスは神さまに対して、「父よ」と親しみやすい言葉で祈ることを弟子たちに教えました。
赤ちゃんはよく泣きます。困ったときな面倒をみてくれる人がいることをしっているからだと思います。しかし、デイリーブレッドに次のように書いてありました。
ラッセル・ムーア博士は、養子を迎えるため家族で養護施設を訪ねた時、赤ん坊が保育されている部屋は驚くほど静かだったと記しています。ベビーベッドの赤ちゃんは全く泣きません。それは要求が無いからではなく、泣いてもケアしてくれる人は無いと悟っていたからです。
それを読んで胸が痛みました。まだ子どもが小さかった頃、ぐっすり眠っていると、「パパ、助けて!」「ママ、怖いよ!」という突然の泣き声に飛び起きたことが何度もありました。夫婦のどちらかが子ども部屋に飛んでいき、一生懸命なだめました。両親の愛は、子どもたちが助けを求める根拠です。
https://japanese-odb.org/2024/01/20/%e7%a5%9e%e3%81%ab%e5%8f%ab%e3%81%b3%e6%b1%82%e3%82%81%e3%82%8b/
イエスは、「父よといつでもよびかけていいんだよ」と言ったのだとおもいます。「困ったり不安になったら、いつでもパパをよんで」と言っているのです。
私は、「相手の負担になるから黙っていよう」と思っていたことがあります。親の心配になるから学校でいじめられていることを黙っていました。しかし、体が動かなくなったとき、はじめて親に伝えました。
お父さんは学校にいかない私に、「生きてるだけで十分」と言ってくれました。たくさんの人の優しさにふれて、私はゆっくりまた歩きはじめ、夢ができました。
また、入院しているときに「何かあったらナースコールをおしてね」と看護師さんがいってくれました。困ったらいつでもきてくれる、という安心感につつまれました。今日も、イエスはわたしたちに、「いつでもパパとよびかけて祈っていいんだよ」とわたしたちによびかけていると、私は思います。夜中に不安になっても、24時間どこでもお父さんに祈れます。疲れたとき、これからの先がみつからないとき、どんなときも、「天の父よ」と今日も祈れることを感謝します。
★5月19日、イエスの教えた祈り(3)
御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
新約聖書
マタイによる福音書6・10、新共同訳
~※聖書を読んで思ったことです。
御国(みくに)とはギリシャ語ではバシレイア(βασιλεία)という名詞です。
英語ギリシャ語辞典
→https://biblehub.com/greek/932.htm
御国とは主権という意味があります。神様の心があふれる世界になりますように、ということだと思います。神さまは愛であるので、神様の心があふれる国とは、一人ひとりがかけがえのない存在として、大切にされる世界でしょう。
人間の思いが優先されると、「自分たちこそ正しいんだ」と思い込み、争いがはじまってしまいます。また人生が自分の思い通りにならないと、イライラしたりします。そんなときに、思い通りにならなくても、時には失敗しても神さまはベストな方向に導いてくださると知ると、ホッとします。
また自分の思いを優先すると、かみさまは「あなたの過ちはゆるされるよ」とよびかけても、「そんなのは信じられません。もっと成長して誰かの期待にこたえられないと、ゆるされないのです」と、自分の力に頼ってしまうことがあります。自分の考えは大切ですが、イエスは「神のみこころ」がなるようにいわれました。イエスはどんなに過去に過ちがあっても、「あなたはゆるされる」とよびかけてくださる方。イエスにゆるせない過ちはないのです。
私も理想どおり生きたくても失敗し、できることが少ない自分に対して「なんで私はできないんだ」と、ためいきをついてしまうときがあります。しかし、自分の思い込みを捨て「あなたはゆるされる」というイエスのよびかけに耳をすますとき、生きる力がわいてきます。
キリスト教では、わたしたちの罪はイエスの十字架によってゆるされる、と考えられています。聖書の知識があるからとか、自分の行いや能力ではなく、ただ神の恵みによってゆるされるのです。私は自分の力に頼りがちですが、そんなときはイエスの教えてくれた祈りを思いだしたいです。私の思いではなく、神様のみこころがなりますように。
★5月20日、イエスの教えた祈り(4)
わたしたちに
必要な糧を今日与えてください。
新約聖書
マタイによる福音書6・11、新共同訳
~※聖書を読んで思ったことです。
糧(かて)とは、ギリシャ語ではアルトス(ἄρτος)です。意味は、パンなどの意味もあるみたいです。
英語ギリシャ語辞典
→https://biblehub.com/greek/strongs_740.htm
イエスは、今日の食べ物を与えてくれるようにいいました。イエスはなぜ今日といったのでしょうか。それは、人は未来を考えるあまりに不安になるからだと思います。明日のことは人間の知恵では限界があり、わからないことがたくさんあります。
文明はスピードを求め、最新の情報や広告をみせてきます。そんな中で、「今のままじゃだめだ」と慌ててしまいます。もちろん理想は大切かもしれませんが、イエスは「あなたがいる今日が大切だよ」と言っている気がしました。
今日がどんなに弱くても、なにもできなくても、かみさまはわたしたちを養ってくださる方。精神的につらくてなにもできなくても、神さまは必要なものを与えてくださいます。それは、今日のあなたを神さまは喜んでくださる方だからです。
私は未来が不安なときは、どっちに転んでもなんとかなる、と思うことにしています。たとえ失敗しようが、災いが転じて福となることを経験したことがあります。私は学校でいじめられて学校にいけなくなったり、高校を退学した経験があります。その経験のゆえに子供が学校にいけない時の気持ちを感じることができました。もし体験しなかったら、「学校にいくべき」と押し付けていたかもしれません。
もちろん失敗は悲しいですが、失敗すらも宝物になり、宝となるときがくると思います。明日のことは神様にゆだねて、今日を助け合ってゆけますように。
★5月21日、イエス教えた祈り(5)
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
新約聖書
マタイによる福音書6・12、新共同訳
~※聖書を読んで思ったことです。
負い目はギリシャ語で、オフェイレーマ
(ὀφείλημα)の複数形です。借金、罪などの意味があるみたいです。ひとつの過ちではなく、様々な過ちをさすと思います。
英語ギリシャ語辞典
→https://biblehub.com/greek/3783.htm
私は、自分をゆるせない時がありました。しかし、無理に自分の力に頼らなくても、神さまに赦してもらえばよいと思うと、気持ちが楽になりました。神さまにはゆるす力があります。イエスは神さまに「ゆるしてください」と祈って、神さまに頼っていいことを弟子たちに伝えたと、私は思いました。
人間の力では限界があります。しかし、気持ちを沈めてイエスに耳を傾けるとき、「あなたはゆるされる」という、イエスの愛の声が心の奥からわいてくると思います。私は他人の期待にこたえたくても不器用でこたえられなく、嫌いでしょうがないときがあります。でもそんなときも、「あなたを作ったのは私だから、あなたはあなたで生きていいんだよ」という神さまのよびかけを聞く時、喜びがわいてきます。
人であるかぎり失敗はさけられないと思います。しかし繰り返し繰り返し間違えても、それでも赦してくださる方がいるから、人は安心して生きてゆけるのではないでしょうか。
失敗しても、
また始めればいいのです。
マザー・テレサ
『日めくり、マザー・テレサ』(PHP)より
~文章を読んで思ったことです。
人間であるかぎり過ちはさけられません。しかし、神さまは失敗してもやり直す力を与えてくださる方。繰り返しゆるしてくださる方がいるから、希望をもってやりなおすことができますように。
・参考サイト
片柳神父のブログより
祈りの小箱(163)
『自分をゆるしてあげましょう』
https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20140712/1405169065
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。
新約聖書
マタイによる福音書6・13、新共同訳
~※聖書を読んで思ったことです。
誘惑はペイラスモス(πειρασμός)という名詞です。試みや試練という意味もあります。
英語ギリシャ語辞典
→https://biblehub.com/greek/3986.htm
パウロは、一コリント10:13で、
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
と書いていますが、この試練の箇所でペイラスモス(πειρασμός)を使用しています。
試練や誘惑はだれもが生活のなかで経験することだと思います。
「試み(誘惑)にあわせないで」とは、自分の限界を知っていたらいいよ、ということだと私は思います。なぜならイエスはそれを語ったのち、「悪よりお救いください」と言っているからです。
私は「自分には力があるから、自分で解決できる」と威張っていた時がありました。うまくいかないときは他人のせいにしたり、イライラしていました。私は自分の現実を認めたくなかったのです。
しかし病などを経験し、働けない私でも受け入れてくれる家族や、教会の方や、作業所の方がいました。生きているだけで私の存在を喜んでくれる人がいるんだと思ったとき、私は以前よりは弱音を話すようになりました。
イエスは、私たちの弱さをしったうえで、受け入れてくださる方。だからこそ神さまに「悪からすくってください」と、神に助けを求めていいことを、弟子たちに伝えたのだと私は思います。
悪とは愛の反対だと思います。愛にはゆるしがあるのに対し、悪は「あなたはゆるされないんだよ」と誘惑してきます。神さまに耳をすますとき、「あなたはゆるされている」という呼びかけがきこえてきます。最大の誘惑とは、徐々に神さまから目を背け、自分自身を神としてしまうことかもしれません。自分の考え方を絶対にすると「こうでなければ」という殻にとじこもり、息苦しくなると思います。ゆるされない罪はなく、イエスの十字架にゆってゆるされ、失敗してもやりなおすことができます。イエスは失敗さえも、宝とかえてくださいます。
イエスは、「助けてくださいと頼っていいんだよ」とわたしたちに呼びかけてくださる方。今日も困ったらいつでも、「いま困っています。助けてください」と神さまに祈ることができます。
なかなか物事が進展しなかったり、回り道をしたりすることもあるかもしれません。しかし、これも神さまが与えてくれた道だと思うとき、決して無駄な時間ではないことを感じていくのではないでしょうか。神さまはベストなタイミングでわたしたちをかならず導いてくださいます。ゆったり構えていたら、焦る気持ちは静まってきます。背負っている荷物を少しおろし、神さまに委ねてゆけますように。
主を避けどころとする人は
罪に定められることがない。
旧約聖書
詩編 34:23 新共同訳
※主(しゅ)とは神さまのことです。
~※聖書を読んでの感想です。
ある本には、小さい頃からいつもがんばれといわれ、生まれて誰からも「あなたで良かった」と、今の自分をうけいれられなかった悲しい学生の気持ちがかかれていました。家庭でもがんばれといわれ、学校では「もっとがんばれ」といわれます。がんばることは、もちろん大切なことです。
しかし、いまの命を大切にされることが、人にはもっと大切だと思います。イエスは、いまある命を大切にされました。幼子をだきあげ祝福されました。社会から罪人だとされていた方と食事をし、大切にされました。宗教の教えを上手に守られない人も、イエスは決して見捨てませんでした。私たちが完璧ではなくても、イエスは私たちひとりひとりを喜んでくださる方。
自分の力を過信して、「私にはだれの助けもいらない」と、私は強がってしまいます。しかしそういうときこそ、不安や焦りが強くなりました。自分の限界を認め、できないことを謙虚に認めたとき、心が楽になる気がしました。
生きていると失敗することもあります。色々なざせつがあります。しかしイエスにゆるされて、何度でもやりなおすことができると思います。イエスは今日も「あなたを罪に定めない」とよびかけてくださり、あなたを生きることを喜んでくださる方。
神さまを避けどころとするとは、神様を避難所にして助けてもらえばよい、ということだと思います。そこでゆっくり休む時間は大切だと思います。神様の避難所には、どんな失敗も終わりではなく、新しくやりなおす希望が与えられます。神様のゆるしを信じて生活してゆけますように。
★5月24日、恵み
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
新約聖書
ヨハネによる福音書 2:13-16 新共同訳
~※聖書を読んでの感想です。
イエスは縄で鞭をつくり、エルサレム神殿(wikipedia)の境内で商売としていた羊や牛をおいだし、両替人の金をまきちらしました。このような憤ったイエスが書かれているのは、福音書のなかではめずらしいと思います。はじめて読んだときは、私はびっくりしました。富によって信仰の高さをはかろうとする姿に、イエスは憤りを感じられたのでしょう。
エルサレム神殿では、いけにえとしてささげる動物が売られていました。神殿では、シェケルという貨幣しか認められていなかったので(出エジプト30章11~16節参照)、普段使用している貨幣をシェケルに両替する必要がありました。そのための両替商人たちがいました。
貧しいものは、いけにえの動物もかえなく、「あなたは信仰がたりない」と軽んじられていたのでしょう。競争の価値観に支配されると、誰もが他人より優れていることを生きがいとしてしまいます。しかしそこにあるのは神への祈りではなく、自分の行いへの誇りです。自分の行いを誇り自分によっていると、神さまの恵みは後まわしになります。
イエスが願われたのは、「商売の家」ではありませんでした。商売の反対は、お金のかからない無料だと、私は思います。神様の恵みも、だれもが太陽のあたたかさをあびているように無料です。
現代はともすれば、なにかできることで評価されます。しかしイエスは、私たちが「できる」ことよりも、一人の人が「いる」だけで大切にされました。「私が私であるだけで大切なんだ」と思えるとき、人は安心して生活してゆけるのではないでしょうか。スーパーマンになる必要はなく、弱ささえも宝として、助けあってゆけますように。
★5月25日、安全な場所
主の名は堅固なやぐら。
正しい人はその中に駆け込み、
保護される。
旧約聖書
箴言(しんげん) 18章10節、新改訳2017
~※聖書を読んでの感想です。
やぐらの中は安全な場所です。主の名と書かれていますが、名前は全体をあらわすので、神さまと考えたらよいと思います。
駆け込みは、ルーツ(רוּץ)というヘブライ語が使われています。
→英語ヘブライ語辞典
https://biblehub.com/hebrew/7323.htm
詩編 119:32でもルーツが使用されていて、
「あなたによって心は広くされ
わたしは戒めに従う道を走ります」
と翻訳されています。詩編では、駆け込みではなく、「走る」と翻訳されています。
現代は逃げるよりも、自立しなんでもできる強さを目指しているように感じます。子供のときから、「~できたらあなたは素晴らしい」と言われ、他人と比較されます。親や先生から認められるために、必死に期待にこたえようとします。しかし、期待にこたえられなくても、愛される体験こそが、人には必要だと私は思いました。
聖書では、神様の場所にかけこむことが神の前の正しい人とよばれます。日々の生活のなかで失敗するたびに、自分を肯定できないときもあるかもしれません。そんなときは、安全な避難場所である神さまに、駆け込んだらよいと私は思います。「どんなに失敗してもあなたは大切な存在」と、イエスはよびかけてくださる方。あなたがあなたであるだけで喜んでくださる方。自分で自分をせめてしまうときも、「こんな私でも、神さまはゆるしてくださる」と思うと希望がわいてくるのではないでしょうか。もし疲れたらゆっくりそこで休み、ゆっくり深呼吸できますように。
※参考サイト
(外部サイト)
★5月26日、弱音をはいてもいいんだよ
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
ヨハネによる福音書 12:27 新共同訳
~※聖書を読んで思ったことです。
イエスは「心が騒ぐ」といいました。騒ぐはギリシャ語でタラッソー(ταράσσω」という動詞が使用されています。
→英語ギリシャ語語辞典
https://biblehub.com/greek/5015.htm
この動詞は、
ヨハネによる福音書 13:21 では、
イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
と、裏切ったユダについて語るとき、イエスの心が騒ぎました。
またマルコ6・50では、弟子たちはイエスが湖のうえを歩くイエスを幽霊だと勘違いして
「皆はイエスを見ておびえたのである。」の「おびえた」で、騒ぐと同じ動詞が使われています。
イエスなら感情などださず、冷静になって対処していたと思いがちです。しかし、ヨハネ福音書はイエスがラザロの死を前に「涙をながした」とヨハネ11章35節にかかれています。また、エルサレム神殿で商売をしている人々をみて、「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し」とヨハネ2章15節にかかれています。
ヨハネ4章6節では、イエスはサマリアの女性とあいますが、「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである」と書いてあります。他の福音書でもイエスの感情の動きは書かれていますが、ヨハネ福音書は特にイエスの感情を正直に書いていると、私は思いました。
イエスは心が騒ぐといったのは、神の子ならそんな弱音をはかなくてもよいのではないか、と思いがちです。しかし、イエスは自分の気持ちを包み隠さず話しました。弱音をはけるのは、この人は、わたしの弱さをみせてもそれでも一緒にいてくれると思えたとき、人は安心して弱音をはけると思いました。
人であるかぎり心が騒いだり、悲しくなったりするときがあります。
「弱さをみせてはいけない」とか、
「クリスチャンだから強く、いつも明るくなければならない」という考え方に束縛されていたならば、人は疲れはててしまうと思います。
「寂しいです」
「悲しいです」
「疲れました」など、
弱音すらもイエスに打ち明けても、イエスは聞いてくださる方だと私は思います。疲れたときは「いま私は疲れています」と自分の限界を謙虚に認め、ゆっくり休むことができますように。
★5月27日、シンプルに
あなたがたは、キリストにおいて
満たされているのです。
キリストはすべての
支配や権威の頭です。
新約聖書
コロサイの信徒への手紙 2:10 新共同訳
~※聖書を読んでの感想です。
様々なことをつけ加えたりする必要はなく、すでにイエスにおいて全てが満たされ、救いは十分であることをパウロは書いていると思います。
しかし現代は情報は毎日のようにながれてきます。そんな時代に生きていると、「私にはなにか足りないのではないか」と不安になってくると思います。
しかし、イエスの十字架によってすべてはゆるされ、それ以上のものは必要ないということだと思います。
パウロは
コロサイの信徒への手紙2:21-23 で
「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。 これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。
と書いてます。
いつのまにか信仰の中心が自分になってしまい、自分の行いに酔っていることをパウロは「独り善がりの礼拝」といいます。神さまの恵みは後まわしになっていないか、とパウロは心配しているのだと、私は思いました。
イエスを知るだけでは不十分で、救われるためには自分たちの行いもなければならないと、コロサイ(現在のトルコにあった町のひとつ)の教会は混乱していたのでしょう。もしそうなれば信仰の土台が崩れさってしまうと思います。
パウロは、福音の原点にたちかえるように、キリストが全てであると書きました。イエスはわたしたちをすべてしったうえで十字架への道をあゆまれ、その救いがすべてであり、全てにおいて満たされるといいます。
昨日の私でもなく未来の私でもなく、今日の私たちがどんな状態であろうとも、イエスは「あなたでよかった」と喜んでくださる方。内向的でも外交的な性格でも、イエスはひとりひとりを大切にされる方。「私は今日も神さまに愛されている」とシンプルになって、神の愛を信頼していけますように。
★5月28日、朝に
朝にはどうか、聞かせてください
あなたの慈しみについて。
あなたにわたしは依り頼みます。
行くべき道を教えてください
旧約聖書
詩編 143:8 新共同訳
~※聖書を読んで思ったことです。
仕事や生活で失敗しとき、自分に否定的になって「自分はつまらない存在だ。私はだれからもゆるされないんだ」と決めてしまうことがあります。私はストレスがたまると、自分の考え方に固執しがちになります。今は落ち着きましたが、思い通りにすすまないと朝から晩まで、「私はゆるされない迷惑な存在だ」と思い込んでいました。その考え方を忘れたくても、追いかけてきました。
しかし遊んだり、ねたり、薬をのんでゆったり休んだとき、私は朝に「わたしはどんな時も神さまに愛されている」と思うゆとりができてきました。
聖書には、朝にあなたの慈しみにを聞かせてください、と書いています。慈しみとはどんなに失敗しようが、「あなたは私の大切な存在」とよびかけてくださる神様の愛だと、私は思いました。
失敗しようが成功しようが、思いどおりにいかなくても、神さまはすべてを宝物にかえてくださる方。今日も「あなたは愛されている大切な存在」という神様のよびかけに耳をすまして、1日をはじめてゆきたいと思います。
★5月29日、完璧でなくてもいいんだよ
主よ彼らに恐れを起こさせ
国々に思い知らせてください。
自らが人間にすぎないことを。
旧約聖書
詩篇9篇20節、新改訳2017
~※聖書を読んで思ったことです。
スーパーマンのように完璧主義になることには限界があると思います。しかし現在は人に、どれだけ人々に影響を与えたか、どれほど効率的な働きができたのかで評価し、必死になってそれを求めているように思います。私も社会の価値観に一時そまってしまいましたが、とても疲れたのを覚えています。
ちなみにヘブライ語では、人間はエノーシュ(אֱנוֹשׁ)という名詞が使われています。このサイトには、
「エノーシュ」(אֱנוֹשׁ)の語源は動詞の「アーナシュ」ׁ(אָנַשׁ)で、「壊れやすい、なおらない、癒えない」といった宿命的な弱さを表わすことばです。
と説明されています。
聖書には「自らが人間にすぎないことを」思い知らせてくださいとあります。人間であるとは、人は完璧な神ではなく、ときには失敗する限界を抱えた存在であることだと思います。
親や先生、上司や誰かの期待にすべて応えようとしたら、背伸びしてしまうのでしらないうちに疲労が蓄積されていくと思います。しかし真実の愛とは、相手の理想の人間になったら喜ばれるのではなく、あなたがあなたであることを喜んでくれるものだと、私は思います。
イエスは性格の異なる12人の弟子たちがいました。しかしイエスはそれぞれの弟子たちを大切にされました。過去に税金をおおくとった徴税人のマタイもいましたが、イエスはゆるされて大切にされました。
もし「最近なんだか疲れるな」と思ったら、自分は人間であることを思い出したいと思います。神さまにつくられた等身大の自分になるとき人は安心を覚えると思います。チューリップの花はバラになる必要はなく、あなたはあなたですでに素敵な存在だと私は思います。
★5月30日、信じられない弟子たちさえ
彼らは、イエスが生きていて彼女にご自分を現された、と聞いても信じなかった。
それから、彼らのうちの二人が徒歩で田舎に向かっていたとき、イエスは別の姿でご自分を現された。
その二人も、ほかの人たちのところへ行って知らせたが、彼らはその話も信じなかった。
その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。
それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
マルコ16章 11〜15節、新改訳2017
~※聖書を読んで思ったことです。
イエスが復活したことを告げた女性の話を、弟子たちは信じかなかったと、マルコは書いてあります。イエスは、弟子たちの前に現れたとき、「彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった」とあります。イエスが十字架にかかると逃げ出しただけではなく、復活してからも弟子たちは信じなかったのです。
信じなかったはギリシャ語でアピステオー(ἀπιστέω)の複数形が使われています。一人の弟子だけではなく、複数の弟子たちが信じかなったのでしょう。
英語ギリシャ語辞典
→https://biblehub.com/greek/569.htm
マルコによる福音書だけではなく、ルカによる福音書でも
それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
ルカ 24章 10〜11節、新改訳2017
と、マルコが使った同じ動詞(アピステオー)が使われています。しかし、そんな弱さも抱えた弟子たちでさえイエスは愛し、福音宣教の大切な役割をたくしました。
「あなたは信じられないから役割がない」というのではありませんでした。たとえ欠点を抱えていても、イエスは「あなたは神様に必要とされている大切な存在だよ」とよびかけてくださるのです。
社会の価値観では、疑わない強い信念がある人や、まっすぐな信仰がある強い人が神様に用いられる、という考え方があるかもしれません。そのため、神さまに愛されるために「あれもしなければ、これもしなければ」と焦ってしまうと思いました。また、過去の経歴や能力によって、なにができるか、何をしてきたかで社会は評価しがちです。
しかしイエスは、自分の復活を疑っていた弟子でさえゆるされ、「それでもあなたは大切な存在」とよびかけたのだと思います。
立派な人間になったから愛されるのではなく、神様はあなたがあなたであるだけで愛してくださる方。あいされるために違った自分になる必要はないと思います。
福音宣教を託された弟子たちは、弱さもかかえていました。「実は私も、信じられないときがあったんだよ」「それでも、イエスは私を愛してくれたんだよ」など、弟子たちは赦された喜びを、伝えていったのではないでしょうか。もちろん、疑うよりは信じるほうが、よいかもしれません。しかし失敗したらそれで最後ではないことを、イエスは伝えたかったのではないでしょうか。
復活したイエスは、信じられない弟子たちを用いました。今日もイエスは「あなたで大丈夫だよ」と、あなたを喜んでいると私は思います。違った誰かになる必要はなく、神様につくられたあなただからよいのだと、私は思います。
互いに相手の弱さを探し指さすのではなく、弱さを抱えた人間同士。互いにゆるしあって、助け合ってゆけますように。
★5月31日、愛し、愛されて
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
新約聖書
ヨハネによる福音書 21:17 新共同訳
~聖書を読んでの感想です。
イエスは、弟子であるペトロ(※シモンとはペトロの本名でヘブライ語読み)に「あなたは私を愛するか」と問われました。私はイエスが一方的に愛するだけが大切ではないかと思っていました。しかしよく考えてみると、生きていく上で力になるのは、愛するだけではなく愛されることも大切だと思いました。ヘンリ・ナウエンは次のように書いています。
私たち自身は、癒す者でも、和解をもたらす者でも、いのちを与える者でもありません。私たちは自分が世話をする人々と同じく、世話をされることを必要とする罪深い、破綻した、傷つきやすい人間です。
『イエスの御名で』あめんどう刊、64頁
人は指導したり、教えたりすることを好みます。しかし、イエスは教えるだけではなく、人々の前に立ち止まり、耳を傾けました。みんなが素通りするであろう宗教の掟をまもられない人や、職業によって差別されていた人もイエスは大切にされました。
イエスとペトロの会話をとおして、イエスすら「愛される大切」さも、私達に示しているように思います。もちろん、愛することは大切です。イエスの生涯は他人に仕え、愛する人生でした。
しかし私達は人間です。ときには、困ったときは助けを求め、支えられる時間も必要だと私は思います。「介護するのは私の責任」といって献身的に相手の支えになっている方もいます。しかし、その裏でニュースでは、介護疲れかるくる悩みで、最悪の結果になってしまったニュースもききます。自分の限界を認め互いに支えあえば、もっと素敵な介護やサービスを提供できたかもしれません。
育児も仕事もまた生活も、人間にはひとりの限界があります。イエスがペトロに「私を愛するか」と三度確認したように、人は愛し愛される時間が大切だと、私は思いました。
私は「自分ならまだできる」と強がってしまい、他人の助けを受けることを拒否していたことがあります。毎日は不安と焦りで、「自分の弱さがばれたら、どうしよう」とびくびくしていました。しかし今は、福祉サービスをうけ、教会のみなさんや福祉作業所の助け、家族の理解を受けて支えあって生活をしています。
今日も弱さを抱えた人間同士。一人でなにもかも抱えず、互いに支えあってゆけますように。
与えるだけの愛も、受け取るだけの愛も不完全です。真実の愛は、愛し、愛される交わりの中にこそあるのです。愛することに忙しい人は、愛されるための時間をとりましょう。愛されるばかりの人は、愛するための時間をとりましょう。
片柳弘史著『こころの深呼吸』
(教文館刊)より