今日の言葉(4月)


4月

★4月1日、逃げてもいいんだよ

わたしは御力をたたえて歌をささげ 

朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。

あなたはわたしの砦の塔、

苦難の日の逃れ場。

旧約聖書

詩編 59:17、新共同訳

~※聖書を読んで思ったことです。

苦難のとき、ここにくれば大丈夫だ、と思えたら人はいきてゆけるのではないでしょうか。

暑い日に、水分なしに生活すると熱中症でたおれてしまいます。無理はせず、涼しい日陰などで休むと、また生きる元気がでてきます。

神さまが逃れ場といわれているのは、辛いときは無理をして「にげちゃだめだ」というのではなく、「私に逃げてきていいんだよ。私があなたを守るから」ということではないでしょうか。

朝にはあなたの慈しみを歌う、と聖書に書いています。どんなに過去が失敗だらけでも、イエスさまの十字架によってゆるされ、私たちはやりなおすことはできるのではないでしょうか。慈しみとは、「あなたはゆるされるから、なにがおきても大丈夫だよ。わたしがあなたと共にいるから」という約束だと思います。

今日も「わたしは神さまに愛されている」と確信し、神さまの慈しみを喜びたいです。


 

★4月2日、あなたがた

しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。

あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。

新約聖書

ルカの福音書 6章 27〜28節、新改訳2017

~※聖書を読んで思ったことです。

イエスは、「あなたがた」と言っています。それは、独りで誰かを愛するよりも、仲間と協力して愛するほうがたくさんのことができるかもしれません。

昔は子育てはたくさんの方が支えあいました。しかし、近代になって家族環境がかわり、母(父)が、孤立する場面があります。しかし仲間がいたり、相談できる場所があるとホッとするのではないでしょうか。

人には感情があり、侮辱されたりすると悲しくなります。しかし、他人からいくら評価されようが、神様は「あなたは大切な存在」とよびかけてくださる方。たくさんの情報がありすぎて騒音になったときは、私は静かな場所で「私は神さまに愛されている」と思うと、安心してきます。

今日もイエスは「あなたがた」とよびかけてくださいます。なにもかもひとりで抱えこまず、今日もたすけあってゆけますように。

 

 

★4月3日、苦難は宝へ

あなたがたの中に苦しんで

いる人がいれば、

その人は祈りなさい。

喜んでいる人がいれば、

その人は賛美しなさい。

新約聖書

ヤコブの手紙 5章 13節、新改訳2017

 ~※聖書を読んで思ったことです。

苦しんでいるは、ギリシャ語で原形はカコパセオー(κακοπαθέω)という動詞が使われています。

https://biblehub.com/greek/2553.htm(英語ギリシャ語事典)

このギリシャ語は新約聖書で、3回使われていました。

 

・カコパセオーが使われている箇所

この福音のためにわたしは苦しみを受け、

ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。

新約聖書

テモテへの手紙二 2:9 新共同訳

 

しかしあなたは、

どんな場合にも身を慎み、

苦しみを耐え忍び、

福音宣教者の仕事に励み、

自分の務めを果たしなさい。

新約聖書

テモテへの手紙二 4:5 新共同訳

 

ヤコブ5:13

 

・苦難はパウロにもあった

神さまに用いられたパウロやテモテにも、苦難はあったと思います。しかし、苦難は苦難でおわるのではなく、やがて苦難は宝にかわると思いました。

苦難やストレスをすべてなくそうと思ったら、よけいにストレスになるときいたことがあります。過度なストレスはいやですが、ある程度のストレスは私はうけいれています。

調子がよい日もあるし、悪い日もあります。晴れの日も雨の日もあります。完璧にいつもハッピーにならなければと強迫的になる必要はないと、私は思いました。

 

・祈りとは

聖書には、「苦しんでいる人は祈りなさい」、と書いています。祈りとは、神さまからの助けを求めることであり、なにもかも一人で抱える必要はないことだと思います。

私は「助けて」というのが苦手で、殻にこもってしまいがちです。一人では無理なのに、「大丈夫」と強がってしまいます。しかし、そういう毎日だとさすがに疲れます。弱音をはいたり、助けを求めて祈ることは、私は大切だと思います。

 


★4月4日、失敗さえも宝に

主はみこころのままに、

その向きを変えられる。

旧約聖書

箴言 21章 1節、新改訳2017

~人は自分の人生を思った通りにしようと思います。しまいには、他人にも自分の考えをおしつけ、「こうであるべきだ」と押し付けてしまいます。しかし、押し付けられたほうは悲しい気持ちになってしまうと思います。

聖書には、主はみこころのままに、その向きを変えられる、とあります。聖書協会共同訳では、主は御旨のままにその方向を定める。」と翻訳されています。

御旨(みむね)とは、かみさまの意思や計画です。私たちが失敗だと思っているものも、後になって人生の宝になっているときがあります。

飲み物のコカ・コーラも、実は誤りからうまれたとされます。日本語のwikipediaには、次のように書いています。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%A9_(%E9%A3%B2%E6%96%99)

コカ・コーラは当初、独自のシロップを水で希釈した商品で、炭酸飲料ではなかった。コカ・コーラが炭酸飲料になったのは、提供時に誤って炭酸水で希釈したことが始まりだとされている。

 

また、エジソンは

Never get discouraged if you fail. Learn from it. Keep trying.

失敗したわけではない。

それを誤りだと言ってはいけない。

勉強したのだと言いたまえ。

https://meigen.club/thomas-edison/#i

と、言っています。

理想どおりいきられないときや、思った通りにならないときもあります。体調がわるくなったり、病気になって、ねこむこともあります。しかし、どんなときでも神さまは私たちを大切に思ってくださり、失敗さえも宝物に変えてくださると思うと、なんだか希望がわいてきます。精いっぱいやって、後は神さまの手に委ねて、神さまの御心になるように、祈りたいと思います。



★4月5日、弱くても大切な存在

信仰の弱い人を受け入れなさい。

その考えを批判してはなりません。

新約聖書

ローマの信徒への手紙 14:1 新共同訳

~聖書を読んで思ったことです。

社会では、弱さを否定し、なくそうとします。ところが、聖書では、「信仰の弱いひとを受け入れなさい」とあります。

受け入れるのギリシャ語ではπροσλαμβάνεσθεという動詞が使われています。ローマの手紙を書いたパウロは命令形で書いているので、かなり強めに「信仰の弱い人をうけいれてください!」と書いていると思います。この動詞は新約聖書で12回使用されていました。そのひとつに、

 

島の住民は大変親切にしてくれた。

降る雨と寒さをしのぐために

たき火をたいて、わたしたち一同

をもてなしてくれたのである。

使徒言行録 28:2 新共同訳

 

とありますが、「もてなしてくれた」の箇所で「受け入れる」と同じ動詞が使われています。新改訳2017では、「迎えてくれた」と翻訳されていました。

ローマの手紙を書いたパウロは、弱さを抱えたひとを排除しようとしませんでした。

私自身も、仕事のなかで失敗の連続で、「あなたは仕事ができない人だ」と批判されました。どんなに時間をかけて努力しても、失敗しました。

しかし、聖書は優しく「弱い人を受け入れなさい」と書いているのをみると、ほっとします。神さまを疑ってしまったり、つい自分の力に頼ってしまったり、道をはずすことが私にはあります。

それでも神さまは、弱さに指さして追い出すのではなく受け入れてくださると思うと安心します。

つい、「弱さはあってはいけない。強くなければならない」と思ってしまいますが、「弱さがあっても、私はあなたを愛している」とイエス様は呼びかけてくださると私は思いました。それは、私たちが「強い」という条件によって愛されるのではなく、たとえ欠点があっても、あなたがあなただから愛されている、ということだと思います。

今日も弱さを抱えた人間同士。一人でなにもかも抱えこまないで、たすけあってゆけますように。

 


★4月6日、まず先に

私たちは愛しています。

神がまず私たちを

愛してくださったからです。

新約聖書

ヨハネの手紙第一 4章 19節、新改訳2017

~聖書を読んで思ったことです。

小さい子供に「~ちゃんは、これもできてすごいね」ということがあります。褒めることは大切ですが、どんなに頑張ってもできないことがある子供がいます。

私も、物事をすぐ忘れてしまって、そのたびに他人の心を傷付けてしまいました。こんな自分の能力のなさに、時々悲しくなるときがあります。

しかし聖書には、私たちが神様を愛する前から、まず神様が私たちを愛してくださると書いています。それを聞くと、「~できなくても、あなたはあなただから素晴らしい。あなたを作ったのは、この私だからね」という、神様の優しい言葉が聞こえてきそうです。

その愛を知ったとき、人は安心して生きてゆくことができると思いました。神さまは、「~できなくても、あなただから嬉しいんだよ」と喜んでくださると思います。

今日も一人でなにもかも抱え込まないで、たすけあってゆこうね。できないことがあっても、弱音をはいて支えあってゆけますように。

 


★4月7日、今日のあなたで良かった

イエスは言われた。

「今日、救いがこの家を訪れた。

この人もアブラハムの子なのだから。

新約聖書

ルカによる福音書 19:9 新共同訳

~聖書を読んで思ったことです。

この人とはザアカイのことです。ザアカイは、他人から税をおおくとり、だましとっていた徴税人という仕事をしていました。しかし、イエスはザアカイの名をよび、今日救いがおとずれたといいます。

神さまの愛は未来や、ある条件に到達したら獲得できるのではないと思います。自分をみると、よいところだけではなく、弱さもみえてしまいます。理想どおり生きられない自分に焦りを感じることがあります。しかし、自分の限界をみとめ、「神様、助けてください」と自分の無力をそのまま神さまにゆだねるとき、そこからは神さまの出番だと思います。神さまは「私にまかせなさい」とよびかけてくださり、羊飼いとなってベストな方向に導いてくださると思います。

自分の考えにこだわると、今日の自分では愛されるには値しないからもう少し成長しないといけないと、今日の自分を否定することがあります。しかし、イエスは今日のあなたに「今日のあなたで十分だよ」と喜んでくださるのではないでしょうか。ザアカイにイエスが呼びかけたように、イエスは「今日のあなた」を愛しておられると思います。

 


★4月8日、別の道

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

新約聖書

マタイによる福音書‬ ‭2:10‭-‬12‬ ‭新共同訳‬‬

~イエスが誕生して、イエスを礼拝した博士たちは、帰りは夢の知らせがあって、ヘロデ王のところへ帰るな、といわれました。そのため博士たちは、自分たちの計画をかえて、別の道を通って帰ったのでしょう。

別の道とは、もしかして最短距離ではなく回り道だったかもしれません。しかし博士たちは、「絶対にこうであるべき」と心を固くしていませんでした。「精いっぱいやったら、あとは結果がどうであれ、神さまに委ねよう」と、柔らかい心で神さまを信頼しました。

この一年をふりかえると、計画どおりのこともあれば、そうでない時が私にはありました。しかし、神さまの導きだと信ずると、「これでよかったんだ」という喜びがわいてきます。

博士たちが、別の道を通って帰ったように、最短にならなくても、効率がわるくても、時間がかかっても、よいと思います。インスタントやスピードを求める傾向がある時代のなかで、神さまにあたえられたスピードがあり、時には立ち止まったり、休んだりしてよいと思います。

今年も、さまざまなことを神さまにあたえられたことを感謝し、これからも一人でなにもかも抱えこまないでたすけあってゆけますように、祈りたいと思います。

 


★4月9日、多様性

そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

新約聖書

コロサイ人への手紙3章 11節、新改訳2017

~聖書を読んで思ったことです。

人は自分たちの民族や文化、宗教こそ「絶対に正しい」と思ってしまいがちです。しかし、イエスはユダヤ人にもサマリア人にも関わり、大切にされました。

聖書は多様性を認めています。しかし、それを忘れてしまうと、「自分たちの宗教こそ絶対だ」と言ってしまいます。コロサイの手紙を書いたパウロは、ギリシア人もユダヤ人もなく、すべての中にイエスが働いていることを書いています。古代教会には、色々な民族の人たちが集まったのでしょう。もしかして、民族の対立があったかもしれません。しかし、初代のクリスチャンたちは、民族の違いや考え方の違いをのりこえ、互いに助け合ったと思います。

イエスは、絶好自分たちが正しいと思いこみ、宗教の掟を守れない人を罪人とする当時の律法学者たちと対峙しました。そして、罪人とよばれる人たちもイエスは愛され、共に食事をしました。私たちが、どんな宗教や民族であろうと、すべての人は神様に愛されて大切につくられた最高傑作です。上から相手を見下すのではなく、他宗教や他の文化を学び、互いに助け合ってゆけますように。

 


★4月10日、いてくれるだけで

神は人を分け隔てなさいません。 

新約聖書 

ローマの信徒への手紙‬ ‭2:11‬ ‭新共同訳‬‬ 

~※聖書を読んで思ったことです。

私は作業所で上手に作業できないとき、「わたしはつまらない。みんなに迷惑だ」と、つい思い込んでしまいます。しかし、そのネガティブな考え方を作りだしているのは自分であって、他人でないときがあります。

そういうときは、一度深呼吸すると本当に大切なことは、自分の考えではなく神さまの考え方であることがわかります。

パウロはローマの手紙で、神は分け隔てしない方といいます。自分の考えを一度疑ってみると、聖書から神さまは「あなたが居てくれて、本当に嬉しい」という呼びかけがきこえてくると思います。

自分の考えは確かに大切です。しかし、ときには自分の考えに縛られて、苦しくなってしまうことが私にはありました。「あなたは大切な存在。あなたは愛されている」という神さまのよびかけに耳をすまし、互いに助けあってゆきたいです。

ちなみに、ギリシャ語で「分け隔て」は名詞で、

https://biblehub.com/greek/4382.htm

で説明されています。英語のサイトです。

聖書ではエフェソ6・9、コロサイ3・25、ヤコブ2・1でも使用されています。

      


★4月11日、あなたが居て良かった

神はお造りになった

すべてのものを御覧になった。

見よ、それは極めて良かった。

創世記‬ ‭1:31‬ ‭新共同訳‬‬

~※聖書を読んで思ったことです。

この世界は、神さまによってつくられました。この極めて良かったの、良いはヘブライ語ではトーブ、という言葉が使われています。

最近は、自分がだれなのかわからないので、親や他人からの評価やみとめられることによって、自分とは誰であるのかを、きめがちになる傾向があるように想います。そのために、自分の気持ちは隠して、他人に好かれるためにあわせてしまうことがあります。他人から見捨てられたくないという、恐れがどこかにあるかもしれません。

しかし、私たちは神さまによって大切に作られたと知ったとき、大きなあんしんを感じるのではないでしょうか。ヨブは、

神から幸福をいただいたのだから、

不幸もいただこうではないか。

旧約聖書

ヨブ記 2:10


と言います。幸福という箇所でも、良い(ヘブライ語でトーブ)という、創世記1・31の同じ言葉が使われています。

思ったとおりにならなくても、不幸のようにおもえるときも、神さまは最善の道を準備してくださるんだ、という神への信頼がヨブにはあったのではないでしょうか。

ときには、人生の計画でも思った通りにならないときがあります。計画が中断されてしまうことがあります。しかし、出エジプトでモーセたちは40年という時間をかけて、直線でイスラエルにすすむのではなく、回り道をして荒れ野をすすみました。時間がかかっても、その回り道を大切だったと想います。

人生でおこるひとつひとつは、無駄だと思うものが、実は神様から与えられためぐみであることがあると想います。たとえ、なにもかもおもいどおりにいかなくても、神様が準備してくれた道は一番よい道ではないでしょうか。

また、神さまは私たちを作られたのは、神さまに愛され、必要な存在だったからだと思います。人間は神様ではないので完璧な人はいないと想います。ときには間違いをおかします。しかし、十字架によって私たちはゆるされ、失敗しても終わりではなく、やりなおすことができます。今日も神さまは「あなたがいてくれて、本当に良かった」と喜んでくださる方。愛されるために特別なことは必要なく、ただ心を開いて「私は愛されている」と、神の愛を信頼できますように。



★4月12日、あなたはゆるされる

万物をただ御子によって、

御自分と和解させられました。

新約聖書

コロサイの信徒への手紙‬ ‭1:20‬ ‭新共同訳‬‬

~※聖書を読んで思ったことです。

御子とは、イエスのことです。

パウロは、世界(万物)はイエスによって和解させられた、といいます。イエスによって、わたしたちはゆるされたのです。

人間がどんなに修行し、聖書の知識をつけたとしても、その行いによって救われるのではありません。ただイエスの愛によって、「あなたはゆるされた」と言われるのです。

コロサイ1・20でパウロが使用している

和解は、ἀποκαταλλάσσωが使用されています。

→英語ギリシャ語辞典

https://biblehub.com/greek/604.htm


この動詞は、完全に(ἀπο)と、和解する(καταλλάσσω)という言葉からできています。パウロは和解するを強調して書いているのです。

「あなたは、イエスを信じることによって、過去がどうであれゆるされます!」というパウロの熱意が伝わってきます。パウロが最後に書いたローマの手紙で、


敵であったときでさえ、

御子の死によって神と和解させて

いただいたのであれば、

和解させていただいた今は、

御子の命によって

救われるのはなおさらです。 

新約聖書

ローマの信徒への手紙 5:10


と書いています。

パウロは、敵であったときでさえイエスによって和解させられた、と書いています。

敵とは、神様の目からみたら、神さまに逆らい、好き放題に生きていたことだと想います。しかし、神様はまちがえをおかしたから、それで終わりにしない方。たとえ、どんなに弱くても、私達をゆるしに導いてくださるのです。

しかし、社会の価値観は強く、つい社会の価値観にそまってしまい、

「あなたはなにができるか」

「あなたの行いは十分か」と、

そのような惑わす力があると想います。

そんなローマにすんでいたクリスチャンの共同体にパウロは、

「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」

と、すべてはイエスの恵みによって救われた事実を思い出しなさい、とパウロは伝えたのだと思いました。

もちろん、すべてにおいて間違いをおかさなく、ただしく、完璧な存在であることを人は望むかもしれません。

しかし、パウロ自身も最初はキリスト教徒を迫害とし、ステファノというキリスト教徒の殺害に賛成していました。

しかし、パウロは神にゆるされ、神のゆるしと福音をつたえる使徒として、大切な存在として用いられました。失敗はおわりではなく、イエスによってゆるされ、やりなおすことができるのだと想います。

つい社会の誘惑に翻弄されてしまうことが私にはあります。しかし神様は、わたしたちの業や行いではなく、わたしたちの命をつくられ、極めて良かったと喜んでくださる方。わたしたちがわたしたち「である」ことを喜んでくださる方。この大切につくられた命を喜び助け合ってゆけますように。



★4月13日、今日のあなたで

今日、救いがこの家を訪れた。

この人もアブラハムの子なのだから。

人の子は、失われたものを捜して

救うために来たのである。」

ルカ19章9‭節~10節、共同訳

~※聖書を読んで思ったことです。

ザアカイの過去は、他人から税を集める仕事をしていました。ローマ帝国にイスラエルは支配されていたので、嫌われる仕事はユダヤ人にさせていました。この当時、徴税人は他人から税金を多くだましとり、自分の財産にしていました。ザアカイも、その一人でした。

しかし、イエスはザアカイの名前をよび、「今日救いがおとずれた」といいます。今日はギリシャ語でセメロン(σήμερον)といいます。

→英語ギリシャ語辞典

https://biblehub.com/greek/4594.htm


ルカによる福音書は、今日という言葉は重要な箇所で使われています。

たとえば、イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人の一人に、イエスは言われました。


はっきり言っておくが、

あなたは今日

わたしと一緒に楽園にいる」

と言われた。

ルカ23・43、新共同訳


悔い改め、神にゆだねた心をイエスはしっかり受け止めてくださるのです。

イエスは、今日のわたしたちを喜んでくださる方です。神の愛は未来にあり、ある条件に成長したら獲得できるのではないと、私は思います。

自分をみるとよいところだけではなく、弱さもみえます。理想どおり生きられない自分に、焦りを感じることがあります。

もしかして、なにもかも自分の力でしようとして、「自分で解決できる」と思っているかもしれません。もちろん、自分の力で精いっぱいすることは大切です。しかし、自分の限界を謙虚にみとめ、「神様、助けてください」と自分の無力をそのまま神さまにゆだねるとき、背負っていた荷物は軽くなるのではないでしょうか。

神の愛をうたがうと、

「今日の自分では愛されるには値しないから、もう少し成長したら愛される」

と思ってしまいます。今の自分を否定すると、不安が強くなってしまいます。

しかし、イエスは今日のあなたがどんなに欠点があり弱くても、今日のあなたをみて、「あなたがいて本当によかった。今日のあなたで十分だよ」と喜んでくださる方。今日の自分を否定する必要はないのです。「私は愛されている」と神の愛を確信し、互いにたすけあってゆけますように。


参考サイト

ザアカイについて(キートンさんのサイト)

https://keaton511.com/christ-zacchaeus/



★4月14日、耳を傾ける

‭‭ 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。  彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

ルカによる福音書‬ ‭10:38‭-‬42‬ ‭新共同訳‬‬

~※聖書を読んで思ったことです。

マルタはイエスを歓迎しました。マルタは長女で責任感がつよく、最大限のもてなしをしたかったのでしょう。

一方妹のマリア(※イエスの母のマリアとは別人です)は、イエスの足元にすわっていました。ひたすらにイエスから聞いていたと思います。マルタも、おそらく自分もイエスの足元にすわりたかったでしょう。しかし、もてなしで落ち着かず、マリアにも手伝いをしてほしいと願いました。

イエスは、マルタ、マルタ、と優しく声をかけています。

「あなたはいろんなことで、心が乱れているが、必用なものは1つなんだよ」

といわれました。優しいよびかけです。

過剰な接待は、マルタが勝手にはじめたことです。イエスは、一緒にいて聞いてくれるだけで満足でした。

マルタは、自分の接待がよろこばれると、自分の良いもてなしが中心で、イエスは第二の存在でした。それは、自分が正しく、相手がまちがっているという態度でした。その正しさも、社会の価値観や言い伝えによって一度心が乱れれば、ゆとりをなくし他人をおもいやる時間も少なくなると思います。

人は、ときには自分の考え方にしばられてしまうときがあります。神さまにゆるされるのに、「他の人はゆるされるけど、私はゆるされない」と思ったことが、わたしにもありました。自分の考えを優先してしまうと、この社会の価値観に支配され、

「なにかしなければ神さまは喜んでくれない」という、マルタのような考え方にそまってしまうかもしれません。しっかりしなければ、と身構えてしまうと思います。

しかしイエスの愛は、私たちがどんなに弱さを抱えていようとも、私たちを愛してくださるのではないでしょうか。イエスは、私達が「なにができる」かではなく、あなたが居てくれることを、喜んでくださると私は思います。



★4月15日、あなたとして造られた

愛には偽りがあってはなりません。

悪を憎み、善から離れず、 

兄弟愛をもって互いに愛し、

尊敬をもって

互いに相手を優れた者と思いなさい。 

新約聖書

ローマの信徒への手紙‬ ‭12:9‭-‬10‬ ‭新共同訳‬‬

~※聖書を読んでの感想です。

パウロは「愛には偽りがあってはなりません」といいます。偽りがないは、ἀνυπόκριτοςというギリシャ語が使われています。この言葉は、偽り(ὑποκρίνομαι)、という動詞に否定形がついた言葉から出来ています。

→英語ギリシャ語事典

https://biblehub.com/greek/505.htm

偽りは、偽善とも翻訳できます。

ギリシャ語で偽善とは、舞台上で仮面をかぶって役を演ずる、という意味から由来しています。偽りがあってはならないとは「俳優みたいに誰かの役を演ずるのではなく、あなたでいいんだよ」ということだと思います。それは、神さまが一人ひとりを計画して、個性がある多様な存在として大切に造られたからです。タンポポはタンポポで、バラはバラで、あなたはあなたでよいのです。

いま子供たちや社会が、

「いまのあなたではだめだ」

「もっと生産性をもって、勉強しないと」と、たえず変化を求められている空気を私は感じます。そんななかで、生きる勇気をうしなったり、自分はつまらないんだ、と落ち込んでしまうひともいるのではないでしょうか。そんな時代であるからこそ、今目の前にいる相手に「あなたで良かった」と、現在の相手を喜ぶことは、大きな喜びを相手に与えると思います。

私も病気で布団からでられないとき、なにもできない自分に罪悪感を感じました。しかし聖書を読みイエスの愛を知って、私が生きているだけで十分だとしり、生きる勇気をもらいました。

今日も神さまは、私たちひとりひとりを喜んでくださる方。愛されるために誰かほかのひとになったり、偽る必用はないと思います。神につくられた私たちとして、互いに助け合ってゆけますように。


★4月16日、あなたがいるだけで

「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
マルコによる福音書10章13〜16節

~※聖書を読んで思ったことです。
伊勢牧師の聖書のメッセージを
参考にしました。
https://uccj.org/message/47832.html


私は退職してうつで寝たきりのときと、高校時代にいじめられて退学したとき、自分が嫌いでした。なぜなら誰の役にもたっていない自分だったからです。

子供のときから私は不器用でした。大人になっても、なにかをしたくても私は覚えるのが苦手でした。他人から、「あなたは仕事ができない」と言われ続け、すっかり自信をなくしてしまいました。
でも、聖書をひらくと希望があたえられます。イエスは目の前にいる子供を喜びました。まだイスラエルでは、子供は数にも数えられない存在でした。子供はまだ聖書の知識もなく、誰かの支えがなしに生活できません。しかしイエスは一人ひとりを、「あなたはいるだけで、大切な存在じゃないか」と喜んでくださいました。
イエスの生涯が記録されている4つの書籍を福音書とよび新約聖書におさめられています。福音書にはイエスがいかに、目の前にいる一人の存在を大切にしていたかが記録されています。
私は今でも物事を忘れてしまいます。成長したくても、私は変わりたくても、どうにもなりませんでした。発達障がいを抱え、工夫をしたらできることはふえましたが、やはりできないことはそのままです。私は、そんな誰の役にもたっていないと思うと悲しくなります。

しかし、役にたっているかどうかで自分を評価するから、そう思うんですよね。評価を手放し神さまにゆだねたとき、肩の荷が軽くなるのを感じます。そして聞こえてくるのは、「あなたがいるだけで十分じゃないか」という、神さまのぬくもりのことばです。この神様の愛があるから、私は私のままで生きようと思える希望がわいてくるのかもしれません。

今日もイエスは、あなたが生きているだけで喜んでくださいます。「私は今日も愛されている」と思い、たがいに助けあってゆけますように。休養中の方は焦らず、ゆっくり休養できますように。


★4月17日、~できなくても、大丈夫だよ

律法はモーセを通して与えられたが、

恵みと真理はイエス・キリストを

通して現れたからである。

新約聖書

ヨハネによる福音書 1:17

~※聖書を読んでの感想です。

律法(りっぽう)とは、宗教の掟のことです。イエスがくる前までは、人は宗教の掟を守る行いによって、神様に救われる必要がありました。律法には613個くらいの、生活や宗教の様々な規則がありました。規則に従って生活する者だけが価値のある人間であり、守られない弱い人も受け入れるイエスの教えは、当時の社会の価値観にはまったく受け入れがたいものでした。

しかしイエスは命を脅かされても、私たちを愛することをやめませんでした。イエスは、恵みが支配する世界をつくられました。この世に必要でない存在は誰もいなく、すべての人は神さまに大切に作られた最高傑作です。

律法の支配する世界は、律法を守れる人は偉く、守られない人は罪人というレッテルをはられました。イエスの生きていた時代のイスラエルの民のこころには、

「私はいつになったら

神様は認めてくださるんだろう」

という不安があったと思います。いつもなにかしなければ神さまに喜ばれないという不安を抱えていたでしょう。これは、現代人の精神状態に似ているかもしれません。

「すごいことをしたり、

優秀でないとだめなんだよ」

と、どこかで言ってしまいそうになります。それは、律法の支配する世界です。

いつも

「なにかしなくちゃ、

じぶんはみとめられない」

と追い詰めてしまうのです。

しかし、パウロは


律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。 

新約聖書

ガラテヤ‭3:10‭-‬11‬ ‭新共同訳


と書いており、人間の行いではなく、神をただ信じる信仰によって救われることを書いています。

イエスは今日も、私たちが生きているだけで喜んでくださる方。「~できなければ愛されない」と不安がる必要はないとおもいます。あなたがあなただから神さまは喜んでくださいます。なぜなら、神さまがあなたを大切に造られたからです。自分をおいつめ、裁く必要はもうないのです。


参考サイト

真理はギリシャ語で、ἀλήθεια

で、真実という意味もあります。

英語ギリシャ語事典

https://biblehub.com/greek/225.htm



★4月18日、恵みを受けて

‭だから、憐れみを受け、

恵みにあずかって、

時宜にかなった助けをいただくために、

大胆に恵みの座に

近づこうではありませんか。

新約聖書

ヘブライ人への手紙‬ ‭4:16‬ ‭新共同訳‬

~※聖書を読んで思ったことです。

現代はさまざまな情報があります。流れははやく、たえずアップデートされます。そのなかで人も時には過労で倒れたり、子供たちも宿題におわれ休むひまもありません。

そんな時代にあって、聖書を読むと面白いことがあります。

ひとつは憐れみを受ける、ということです。それは、「あなた自身も愛される時間は大切なんですよ」ということに、私は聞こえました。いつも働き生産的でなければ人間としての能力が評価されないのは、私は疑問に感じます。神様の憐れみをうけ愛されて、生きているだけで人は大切な存在ではないでしょうか。与えることはもちろん大切です。しかし同じように謙虚に他人の優しさを「受ける」ことも大切な気が私にはします。


聖書の面白い二つ目は、大胆に恵みの座に近づくということです。座はギリシャ語では、スロノス(θρόνος)です。

英語ギリシャ語辞典

https://biblehub.com/greek/2362.htm

座とは、王が座る王座をあらわしますが、力、支配などの意味もあると、説明されています。イエスの座っている場所とは、恵みの座であり、シンプルにいえば恵みが支配しているということだと思います。

大胆には、ギリシャ語でパッレィシア(παρρησία)です。

英語ギリシャ語辞典

https://biblehub.com/greek/3954.htm

大胆には、自信や、確信をもってなどの意味があると説明されています。


ある方は

「クリスチャンなんだから、いつも愛のある人になって、愛を与える人になりなさい」といわれるかもしれません。

しかし私は何度もやってみましたが、自分の弱さの限界にきがつきました。なにかを与え行動しましたが、かえって私の不器用さから相手を傷つけてしまいました。一度ではなく、数人です。私は他人の気持ちを察するのが、どうやら苦手なようです。

そんな自分に、「私みたいなクリスチャンがいたら、みんなキリスト教に幻滅するだろうな」と考えたこともあります(T_T)。

しかし聖書に静まって読むと、神様の恵みに近づくのであって、自分を誇り自分の才能によって神さまに近づくのではないですよ、ときこえました。そうなら、私は私のままで弱さを抱えていても、安心して神様の恵みに行くことができます。大胆に神様の恵みに支配されるとは、あなたのまるごとを神様の愛が包んでくださるんですよ、と私にはきこえました。あなたはあなたでいいんだよ、と言われると勇気がわいてきます。スーパーマンのように完璧にならなくてもよいと思いました。

イエスは、弟子たちに「しばらく休みなさい」という箇所があります。


イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。

新約聖書

‭‭マルコによる福音書‬ ‭6:31‬ ‭新共同訳‬‬


今日もイエスは私たちをみて、「ちゃんと休んでるかい」と言ってくださると思います。一人でなにもかも抱えこんだら重荷でつぶれてしまいます。余計なプライドや見栄を少しおろしてみるだけで、ちょっと気持ちが楽になるときがあります。

特別なことができなくても、あなたが生きているだけで十分です。いてくれてありがとう。あなたがいて私は嬉しいです。


★4月19日、恵みは弱さの中に

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 

新約聖書

コリントの信徒への手紙二‬ ‭12:9‬ ‭新共同訳‬‬ 

~※聖書を読んで思ったことです。

なんとなく、今の自分では物足りない、と思ったときがあります。「もっと強くなければ」とか、「もっと稼ぎなきゃ」と、自分を追い詰めてしまうのです。

その根底には「弱いままではだめだよ」という考え方が、どこがにあると私は思いました。

聖書をひらいてみると、コリントの手紙を書いたパウロは、なんらかの病気を抱えていたと考えられています。必死にパウロは、病気をなくし健康な体を求めたのかもしれません。体力があれば、もっとイエスのことを伝えられるかもしれません。しかし神さまは、弱さや欠点を抱えた今日のパウロのままで、「弱さをかかえていても、あなたで十分じゃないか」と言われたと思います。

現代の社会は、もっと消費したら幸せになれるとか、もっと凄い能力があったらみんなから注目されるなど、今のあなたでは不十分だ、と評価しがちかもしれません。そんな中で、「今の私ではなんとなくいけない」と、否定的な思いで自分をみてしまいがちです。

自分を嫌いになると、不安や焦りがうまれます。その焦りが強まると他人にも、イライラしがちになります。そして、相手を自分の理想に変えようとしたり、批判しがちになります。

しかし、聖書の言葉を読むとき、ゆとりを取り戻せるのではないでしょうか。パウロが弱さを誇ったように、今日の自分が神さまにすでに愛されていることに気付き、互いに助けあってゆけますように。


★4月20日、今のあなたで十分です

命のある限り 

恵みと慈しみは

いつもわたしを追う。

旧約聖書

詩編‬ ‭23:6‬ ‭新共同訳‬

~※聖書を読んで思ったことです。

私たちが修行したり、知識をつんだら神さまに愛されるのではなく、神様の恵みが私たちを追ってくださると書いています。

恵みとは、無条件の愛であり、あなたがあなただから大切だよ、という神さまからの呼びかけだと思います。厳密にヘブライ語で旧約聖書は書かれましたが、「恵み」の箇所はトーブ(טוֹב)という単語が使われています。この言葉は創世記1・31で、神さまはつくられたものをみて「きわめて良かった」と思われる箇所でも使われています。神さまに失敗はなく、障がいの有無にかかわらず、すべての人は大切な存在であり最高傑作です。

現代は、いまの自分を否定的にとらえてしまいがちです。そのため、誰かに認められるために違った自分なろうとします。しかし、神さまはあなたがあなたとしてつくられたのでありちがった誰かになろうとすると、無理がくると私は思います。

神さまは、あなたはあなたでいいんだよ、と後ろからエールをおくってくださる方。今日も恵みと慈しみは、どこか遠くにあるのではなく、弱く欠点がある私たちでも、追いかけてくださいます。追いかけてくださるから、安心して「今の私で愛されているんだ」と確信し、互いに助けあってゆけますように。

タンポポはタンポポのままで、バラはバラのままで、あなたは今のあなたで十分素敵だと私は思います。


★4月21日、優しい光

初めに、神は天地を創造された。 

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 

神は言われた。 

「光あれ。」 こうして、光があった。 

旧約聖書

‭‭創世記‬ ‭1:1‭-‬3‬ ‭新共同訳‬‬


https://www.seishobridge.com/content/detail/id=5102を参照にしました。

~※聖書を読んで思ったことです。

神さまが世界をつくられたとき、まだ地は混沌としていました。混沌とは、秩序がなく、混乱していることだと私は思いました。停電になったとき、真っ暗になり、自分と他人の境がわからなくなったときに、私は怖かったのを覚えています。また、法律がなければ、何が正しく間違っているのかも混乱してしまいます。

しかし、まだ混沌としていたとき神の霊が、水の面(おもて)をうごいていました。神さまは愛であると聖書に書かれているので、神様の愛が世界を覆っていたと聖書を読んだ方もいるとしりました。私は「素敵!」と思いました。

どんなに人生が混乱し先がみえないときも、大きな失敗をして罪悪感におぼえるときも、神さまはやりなおす力を与えてくださると思います。神様は「光あれ」といわれ世界を照らしました。日溜りのような、ぬくもりのある愛がつまった光だったと思います。

神様は今日も、私たちの道を照らしてくださる方。先がみえないとき、聖書をひらいてみると私は安心します。神さまがいつも共にいて、道のりを照らしてくださるからです。互いに助けあって、共に歩んでゆけますように。


あなたの御言葉は、

わたしの道の光 

わたしの歩みを照らす灯。

旧約聖書

詩編‬ ‭119:105‬ ‭新共同訳‬‬



★4月22日、違うって素晴らしい

ゲルションの子らの臨在の幕屋における務めは、幕屋と、天幕とその覆い、臨在の幕屋の入り口の幕、 幕屋と祭壇を囲む庭の周りの幕とその入り口の幕、綱、およびそれにかかわる仕事をすることである。

旧約聖書

‭‭民数記‬ ‭3:25‭-‬26‬ ‭新共同訳‬‬


https://japanese-odb.org/2023/11/27/%e7%a5%9e%e3%81%ab%e4%bb%95%e3%81%88%e3%82%8b/

から転載いたします。

祭司職とは異なり、ゲルション族、ケハテ族、メラリ族に割り当てられた仕事は、聖所の用具、燭台(しょくだい)、幕、柱、杭、ひもの掃除など、雑用に思える内容でした(民3:25-26、28、36-37)。しかしそれは、神が名指しで彼らに割り当てられた仕事で、「幕屋の奉仕」(8節)であり、後世のために聖書に記録されたのです。


~※聖書や文章を読んで思ったことです。

マザー・テレサは、「できないのではありません。できることは違うだけです」といっています。なにもかも完璧にする必要はないと思うと安心します。外交的なかたも、内向的なかたも、比較できなく、すべての人は神ささまの最高傑作。

病気や調子がわるくて、教会にいきたくても行けない方もいます。しかし神様はその場所で会ってくださり、耳を傾けてくださる方。精神科の病院で入院してたとき、私は神さまにいのり、悩みをはなしました。退院しても、なにもできない自分に悲しくなるときがあります。それは、私は対人場面で極度に緊張してしまい、苦しくなるからです。強くなりたい、なおしたいと思いましたが、治りませんでした。しかし、草取りや清掃などは、楽しくできました。私はそれで今は満足しています。

今日も神様は、あなたを必要としてくださる方。なにも特別なことはできなくても、あなたが「いる」ことを喜んでくださる方。「私は愛されている」と信頼し、助けあってゆけますように。



★4月23日、あなたで良かった

主の言葉がわたしに臨んだ。 

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。 母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」 わたしは言った。 

「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。 わたしは若者にすぎませんから。」 しかし、主はわたしに言われた。 「若者にすぎないと言ってはならない。 わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。 彼らを恐れるな。 わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」と主は言われた。

旧約聖書

エレミヤ書 1:4‭-‬8、新共同訳

~※聖書を読んで思ったことです。

エレミヤ(キートンさんの外部サイト)は、自分は若者にすぎないと言っています。旧約聖書が書かれたヘブライ語では、若者はナア-ル(נַעַר)という言葉が使われていますが、12~17歳の少年をさすそうです。

神さまは、まだ若いエレミヤを用いられました。それは、人間の能力ではなく、すべては神さまがどんなに小さくても私達を喜んでくださり、用いてくださることをエレミヤを通して伝えていると思いました。

「もっとふさわしい人間になったら、そのときに神さまは用いてくださる」と、思う時があります。しかし、エレミヤが預言者として用いられたときの話を読むと、なんだか希望が与えられます。

それは、人間側がある知識を獲得したからとかの条件によって用いられるのではなく、神さまはどんなに弱く欠点をかかえていても、「あなたが必要だ。あなたで良かった」とよびかけてくださるからです。

現在の教会制度では、中学や高校生くらいの年代の方が、「いまから、神さまにあずかった言葉を語る」といいだしたら、周りの人たちはびっくりするかもしれません。「あなたは、学びが少ないのではないか」とか、「ちゃんと高校を卒業してまなんでからでも遅くはない」と、いろんな事がいわれるかもしれません。しかし神さまは、大切な指名をエレミヤにたくしました。

エレミヤ書では、

わたしはあなたを

母の胎内に造る前から 

あなたを知っていた


と書いてあります。命が産まれる前からすでに神さまはエレミヤを愛していました。これはエレミヤの言葉ですが、その語っていることは、私たちひとりひとりも含まれると思います。神様は私たちの誕生を喜ばれました。そして、大切に作られました。自分の弱さを責めていじめるのではなく、弱さすらも愛されていることを、神さまに感謝したいと私は思いました。



★4月24日、あなたは大切な存在

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 

新約聖書

マタイによる福音書‬ ‭6:26‬ ‭新共同訳‬‬


~※聖書を読んでの感想です。

イエスは、あなたがたは価値あるではないか、といいます。価値があるはディアフェロ(διαφέρω)というギリシャ語の動詞が使われています。複数形なので、誰か1人だけが大切なのではなく、あなたがたは価値がある、とすべての人に向けられた言葉だと思います。

→英語ギリシャ語辞典

https://biblehub.com/greek/1308.htm


マタイは、

‭‭あなたがたの髪の毛までも一本残らずえられている。 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

新約聖書

マタイによる福音書‬ ‭10:30‭-‬31‬ ‭新共同訳‬‬


の箇所の、「まさっている」の箇所で同じギリシャ語を使っています。

しかし私は、自分の過去の失敗から、「あなたがたには価値がある」と神様にいわれても疑ってしまったことがあります。あまりにも、失敗をしすぎてしまい、劣等感に支配されてしまったのです。

しかし、あるとき自分の思い込みを手放したとき、イエスがたしかに「あなたは神さまの手に作られた、価値ある存在だよ」というよびかけが心にはいってきました。特別なことはできなくても、神様は私たちがそこにいるだけで喜んでくださる方だと思いました。

「じぶんには価値がない」という思考に支配されると、ますます息苦しくなるきがします。しかし心をひらいたとき、新しい空気がはいってきて生きる希望がわいてくるのではないでしょうか。

もちろん、自分の生きてきた経験や考え方は大切です。しかし、同時に自分の考え方にも、人であるかぎり限界があると思いました。「あなたは価値ある大切な存在」という神さまのよびかけを信頼して、たすけあってゆきたいと思いました。



★4月25日、信仰と愛

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

新約聖書

コリントの信徒への手紙一‬ ‭13:13‬ ‭新共同訳‬

~※聖書を読んで思ったことです。

コロナのときに、教会に集まれない時期がありました。しかし工夫しながら、オンラインや、手紙やさまざまな方法がなされ、互いに助けあいました。信仰も大切ですが、それよりも大切なのは、愛だとパウロは書いています。

ひとつは神の愛でしょう。神さまを疑ったり、間違いを犯してしまっても、やりなおす力を与えてくださる方。なにがあってもあなたのそばにいるから、とよびかけてくださる方。それは、私たち側の信仰よりも神さまの愛のほうが、はるかに大切だということだと思います。

二つめは、隣人に対する愛だと思います。「日曜日は絶対に教会にいかなければならない」と、もし言っていたら、行きたくても行けない方もいるでしょう。私も入院生活を送っていたときにいけませんでした。また、外出するのが不安なかたもいます。自宅からでたくても、様々な不安ででられないのです。隣人愛とは、互いにあいての状況をおもいやり「そうだよね」と相手を肯定することだと、私は思います。

教会は完璧なひとの集まりではないと思います。イエスの弟子たちも、完璧な人はいなく、ときには疑い、逃げたり、弱さを抱えていました。あいての弱さに指をさすのではなく、互いに助けあってゆきたいと思いました。



★4月26日、いまの場所で

呼びかける声がある。 

主のために、荒れ野に道を備え 

わたしたちの神のために、

荒れ地に広い道を通せ。

旧約聖書

イザヤ書‬ ‭40:3‬ ‭新共同訳‬

~※聖書を読んでの感想です。

荒れ野とは立派な聖堂もなく、なにもなかったでしょう。しかし、私たちが何か特別なものをもったり、特別な場所にいかなくても、神様は私たちに「あなたは大切な存在」とよびかけてくださる方だと思いました。

イエスがくるまえに準備をした人物に洗礼者ヨハネ、という人物がいます。彼も荒れ野を拠点として大切な役割をはたしました。荒れ野はおそらく平凡な場所で、なにもなかったかもしれません。

自分をみつめれば、失敗ばかりして、私はつい自己嫌悪に陥ります。しかし、神様は欠点を抱えていても、私たちによびかけてくださる方だと思うと元気がでてきます。なにもない私たちでも神様は「あなたがいるだけで十分だよ」とよびかけてくださると思います。

しかし、神様は私たちを愛してくださるのに、隣人や自分には高い理想を求めてしまうときが、わたしにはあります。そして、「もっとこうなってほしい」と変化を求めてしまいます。しかし、神さまが今の私たちを喜んでくださるように、いまの自分や家族に「いまのあなたが大好き」と喜びあいたいと思うようになりました。

特別な場所にでかけなくても、自分の部屋でも神様は共にいてくださる方。心配なことや、これからのことも話を聞いてくださる方。耳をすましたらイエスはたしかに「わたしはあなたと共にいるから、なにがあっても大丈夫。あなたは大切な存在」と、今日もよびかけてくださっていると思います。ひとりでなにもかも抱えこまないで、互いにたすけあってゆけますように。



★4月27日、心に喜びを

主の命令はまっすぐで、

心に喜びを与え 

主の戒めは清らかで、

目に光を与える。

旧約聖書

‭‭詩編‬ ‭19:9‬ ‭新共同訳‬‬

~※聖書を読んでの感想です。

主(しゅ)とは神様のことです。キリスト教では神さまは、イエスをさします。イエスの教えは心に喜びを与える、と聖書はいいます。なぜなら、自分を嫌いなときにもイエスだけは「あなたは愛されている、大切な存在」といってくれるからです。

私は、入院していた時に朝から晩まで、「あなたはつまらない存在」ときこえてきました。しかし、その苦痛から救ってくれたのはイエスの言葉でした。一番怖いのは他人の言葉よりも自分の考えや、固定観念だと私は思いました。なぜなら、24時間いちばん近くにいて考えるのは、他人ではなく自分自身だからです。

私は自分の考え方をわきにおいて、イエスが語っている「あなたは大切な存在。あなたは愛されている」という言葉を、そのままこころに受け入れたときに、心に安心がひろがり、退院につながりました。もちろん、精神薬が自分に合ってきたのもそうですが、イエスの言葉もとても大きな慰めを与えてくれました。

イエスの命令とは、愛の教えで自分でじぶんを否定してしまうときにも、イエスは「あなたは大切な存在」とよびかけてくれるもの。「じぶんはつまらない」と思うときはイエスの教えに耳を傾けたとき、心に喜びがわいてくると思います。今日もどんなときも、イエスはあなたがあなたであるだけで、喜んでくださる方。その愛を信じて、助け合ってゆけますように。



★4月28日、愛の掟

主の御名を賛美せよ。 

主は命じられ、

すべてのものは創造された。 

主はそれらを世々限りなく立て 

越ええない掟を与えられた。

旧約聖書

詩編‬ ‭148:5‭-‬6‬ ‭新共同訳‬‬

~※聖書を読んで思ったことです。

私は過去に、毎日仕事で失敗し上司から注意され、すっかり自信をなくしました。一般雇用は退職し、障害者雇用になりました。それでも仕事がおぼえられず退職した経験があります。私はそのとき、自分であることを嫌いになっていました。

しかし、聖書や片柳神父の本を通して、「自分はつまらない」といっているのは、自分だときづきました。私は神につくられ、イエスに愛されていることを知りました。「私はこれほどまで愛されているのか」を知ると、暗かった朝がどこか楽しい1日のはじまりになっていました。

できないことは相変わらずあり、他人とコミュニケーションをすると緊張して言葉がでなくなりなにも変わっていません。しかし、この弱いままの自分でも大丈夫なんだと思うと、自分が自分であることに喜びをかんじます。そして、こんな私を愛し支えてくれた、教会の仲間たちや、作業所の方たちがいました。

神さまは越えられない掟を与えた、と聖書に書いています。それは、人間がどんなに自分を否定しようとも、神さまは「あなたは、生きているだけで大切な存在」とよんでくださる愛の掟ではないでしょうか。

自分でどんなに考え、悩んでも、神さまの愛の掟におてあげです。「こんなに欠点があるのにいいんですね。神さま、私を愛してくれてありがとう」と感謝し、安心して神様の愛につつまれて、今日も自分が自分であることを喜びたいです。愛されるために、他の人になる必要はなく、あなたがあなたであるだけで十分だと思います。最後にマザーの言葉を紹介します。


他人に受け入れられないとき、時には自分自身でさえ(自分を)受け入れられないときも、彼はいつもあなたを受け入れてくれます。私の子供たちよ、イエスがあなたを愛されるために、あなたが違う人になる必要はありません。マザー・テレサ



★4月29日、等身大

だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。

新約聖書

ヨハネの手紙二‬ ‭1:9 ‭新共同訳‬‬ 

~※聖書を読んでの感想です。

「キリストの教えを越えて」の越える(プロアゴー、προάγω)

→英語ギリシャ語サイト

https://biblehub.com/greek/4254.htm

は、自分の教えをイエスの教えよりも優先してしまうことだとおもいます。

私がよくなりやすいのは、いまの私には価値がないという考え方です。キリストの教えにもどるとき、他人と比べる必要はなく、神さまは一人ひとりを大切につくられたことがみえてきます。タンポポはタンポポの花を咲かせ、バラはバラの花を咲かせます。一人ひとりには、異なる才能が神様に与えられています。たとえ違っていても、神さまは一人ひとりを愛してくださり、生きているだけで尊いのです。

また、キリストの教えを越えるとき、自分の行いで救われようとします。なにかしなければと不安にさせてしまうのです。それは、「いまのあなたでは物足りないよ」と誘惑してくる生産史上主義の価値観かもしれません。あなたが何をしたのか、という結果にこだわってしまうのです。弱さを克服して強くなったら神さまに大切にされる、と教えてくるかもしれません。

しかし、聖書は弱さを抱えたままで、一人ひとりはたいせつな存在であることを伝えていると思います。私たちが背伸びしなくても、等身大な私たちを愛してくださる方。愛されるために誰か違った人になる必要はなく、あなただからよいと思います。キリストの教えに戻り、いま愛されていることを信じて、互いにたすけあってゆけますように。



★4月30日、羊飼いたち

‭‭天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 

ルカによる福音書‬ ‭2:15‭-‬17‬ ‭新共同訳‬‬

~※聖書を読んで思ったことです。

今では羊飼いは良いイメージですが、イエスが誕生したころのイスラエルでは、羊飼いたちは住民登録の対象外でした。一人の人間として認められていなかったのです。

しかし、そんな羊飼いにまっさきにイエスの誕生がしらされました。羊飼いたちは、「その光景を見た」とあります。イエスは赤ちゃんでなにもできないですが、羊飼いたちは見ただけで幸せだったのでしょう。なにもできなくても、「あなたがいるだけで幸せ」といわれたら、人は深い安心を覚えると思います。

赤ちゃんのイエスと羊飼いの間には、この深い愛があったのではないでしょうか。それは、「あなたがいるだけで、私は十分幸せだよ」という喜びです。羊飼いたちは、イエスにさしあげるプレゼントはなかったと思います。しかし赤ちゃんのイエスは、羊飼いたちにきっと「あなたがいてくれて本当にうれしい。あなたが産まれてきてくれて本当に良かった」と、無言のうちに伝えたのではないでしょうか。

いま若者から大人まで、不安が支配されつつ社会になってきているようにかんじます。現実を忘れたいがために、様々なこういをして、現実をみないようにするのは、私にもあります。現実を安心にかえるには、なにが必要なのでしょうか。

それは、どんなに欠点があり他人から低い評価をされたとしても、神さまは「あなたがいてくれて、本当に嬉しい」というよびかけを、心を開いて信じることだと私は思うと。完璧な人間はいなく、失敗はさけられません。しかし、神さまはどんな過去や現実であろうとも羊飼いたちを招いたように、「あなたが弱さがあっても、あなたがいて幸せだよ」とよびかけてくださると思います。

生産性が評価され、効率さが高い評価をされますが、社会の評価は時代によってかわります。私は1日にすることがおおいと、頭の中でパニックになってしまいます。私は一つずつなら時間がかかりますが、ゆったりすることならできます。

私はイエスの愛を信じています。

イエスはわたしたちに「わたしはあなたをしってるよ、あなたはあなたで十分だよ」とよびかけてくださる方。今日も、「私は愛されている」と神の愛を信頼して、助け合ってゆけますように。


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