今日の言葉(3月)


3月

★3月1日、あなたで十分だよ

あなたがたは賜物に

何一つ欠けるところがなく、

わたしたちの主イエス・キリストの

現れを待ち望んでいます。

新約聖書

コリントの信徒への手紙一 1:7 新共同訳

賜物(たまもの)とは神さまが、一人ひとりに与えてくださったプレゼントです。それが、何一つ欠けていない、とパウロはいいます。ギリシャ語では、賜物は複数形でかかれています。あらゆる側面で、神さまは備えてくださっています。

詳しくいえば、賜物はギリシャ語でカリスマ(χάρισμα)です。英語のギリシャ語辞典には

・恵みのギフト(a gift of grace)

・無料の贈り物(free gift)

https://biblehub.com/greek/5486.htm(英語ギリシャ語辞典)

と説明されていました。

「あれもたりない、これもたりない」と、人はつい心配になります。不足を心配するだけではなく、「もっと強くならなければ」と、自分の能力についても心配してしまいがちです。

しかしパウロは、神さまが全てを備えてくださり、「なにひとつ不足するものがないから、あなたで大丈夫だよ」と伝えたと思います。

パウロの言葉は過去ではなく、神さまに委ねたとき、一人ひとりにも「神さまは全てを備えてくださるから大丈夫だよ」とよびかけていると思います。

大きな失敗をしたときや、なにもかもうまくいかないとき、「自分はなにもできない」と落ち込んでしまうことがあるかもしれません。耳をすまし沈黙して神様の言葉をきくとき、「私はゆるされて、何度でもやりなおせる。私は神さまに愛され、必要とされているんだ」と生きる力がわいてくるのではないでしょうか。



★3月2日、安心できる場所

まことに、

あなたは弱い者の砦 

苦難に遭う貧しい者の砦 

豪雨を逃れる避け所 

暑さを避ける陰となられる。 

旧約聖書

イザヤ書 25:4 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/isa.25.4.新共同訳(ユーバージョン)

~「逃げてはだめで、なにがなんでも耐えなさい」というのも、不思議な言葉です。

聖書には、神さまは避け所とあります。ピンチなときは、ひとりでなにもかも背負わないで、神さまの避難所に逃げてよいのではないでしょうか。

「私は最後まで、一人で家族を介護するから、他の人の助けはいらない」と言っている方がいました。しかし、その方は疲労から倒れてしまいました。

家族を助けることは、たしかに大切なことです。しかし、じぶんの限界を謙虚にみとめ、ケアマネさんやヘルパーさんなどと助け合うとき、さらに豊かな介護ができるのではないでしょうか。

聖書には、神さまは避けどころとあります。神さまは、避難所をいつも備えてくださっている方。旧約聖書のサムエル記にも、

主はわたしの岩、砦、逃れ場

旧約聖書

サムエル記下 22:2 新共同訳


と書かれています。聖書には、あちらこちらに、神さまが逃れの場所であることが書かれています。

「つらいときは、逃れる道があるんだよ」とよびかけてくださる方。疲れたとき神さまに素直に甘えて、避難所でゆっくり休んでよいと私は思います。そうしたら背負っていた重たい荷物も整理されて、荷物は軽くなり、生きる力がわいてくると私は思います。


何もかも、自分の力でやろうと

する必要はありません。

マザー・テレサ

~自分の力だけで、何もかもできるはずがありません。できないことまでして失敗するより、できないことはできないと認め、助けてもらう勇気を持ちましょう。片柳弘史著『日めくりマザー・テレサ』(PHP)



★3月3日、聞く

実に、信仰は聞くことにより、

しかも、キリストの言葉を

聞くことによって始まるのです。

新約聖書

ローマの信徒への手紙 10:17 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/rom.10.17.新共同訳(ユーバージョン)

私は子供のころ、交響曲のコンサートにいったことがあります。私は、じっと座って聞いているだけで、なにもしていません。しかし、聖書には「聞くことから始まる」と、聞くことを大切にしている気がします。

ローマの手紙を書いたパウロは、クリスチャンになる前は、キリスト教徒を迫害していました。パウロは、過去をふりかえって罪悪感に一度は苦しんだかもしれません。しかしパウロは、神さまに赦されて、大切な使命をはたしました。パウロの書いた手紙は、新約聖書におさめられ人々を慰め、教え、励ましました。パウロは、「あなたは過去に失敗したから」とか、「あなたは迫害者だった」など、失敗を他人から指摘されたかもしれません。しかしパウロは、イエスの「どんな過去であろうが、どんな失敗をしようが、あなたは私の十字架によってゆるされている」という、イエスのよびかけを聞いたのではないでしょうか。だからこそ、パウロは自分の強さだけではなく弱さも誇りにしたと、思います。パウロは第二コリントの手紙で次のように描いています。

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

新約聖書

コリント人への手紙第二 12章9節

新改訳2017


私は調子がわるく、1日なにもできないことがあり、自分を責めてしまうときがあります。

しかし、イエスは「あなたがいてくれるだけで嬉しい。あなたがいるだけで、失敗しようが成功しようが、あなた大切な存在」とよびかけてくださる方。そのよびかけを聞くとき、私は生きる力がわいてきます。不安で苦しいですが、心の奥には安心が溢れてくるようなやさしさに包まれます。イエスは、ひとり一人に「あなたは大切な存在」とよびかけてくださる方。それは、ひとり一人は神さまに愛され、大切に作られた最高傑作だからです。今日もイエスの声に耳をすまし、互いに助け合ってゆけますように。


誰もが、世界でたった一人、

自分だけにしかないよさを持った

神さまの最高傑作。

もし「わたしなんかつまらない人間だ」

と思っているなら、それは

自分のよさにまだ気づいていないだけ。

自分が自分であることに、

誇りを持って生きられますように。

片柳弘史著『やさしさの贈り物』(教文館刊)より



★3月4日、違うから、素晴らしい

主は降って来て、人の子らが建てた、

塔のあるこの町を見て、 言われた。 

「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。 我々は降って行って、

直ちに彼らの言葉を混乱させ、

互いの言葉が聞き分けられぬよ

うにしてしまおう。」 

こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を

混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

旧約聖書

創世記 11:5‭-‬7‭, ‬9 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/gen.11.5-9.新共同訳(ユーバージョン)

このお話しは、バベルの塔として、有名なお話しです(参考サイト、Youtube、https://youtu.be/h9qCkyrVFoY)。

神さまは、ひとつの言葉をバラバラにしました。みんながひとつの考えをもち、同じ音色になることは、私は怖いと思ってしまいます。

イエスの弟子はみんな個性的です。また、みんな弱さを抱えていました。短気な人もいて、雷の子とよばれていた弟子もいました。


ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、す

なわち、「雷の子ら」という名を付けられた。

マルコによる福音書 3:17 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/mrk.3.17.新共同訳


クリスチャンのなかにも、とても厳格的な方もいます。一方、ゆるく、いろんな意見を認める方もいます。私はどっちの性格もステキだと思います。優劣はつけられなく、一人ひとりのできることや、できないことは違うと思います。いろんな性格があり音色があるから、生活は楽しくなると思います。

違いをなくそうと思うのではなく、多様性は神さまのあたえてくれた宝物。クリスチャンらしいあなたではなく、あなたらしいクリスチャンで、ありのままのあなたで輝くことができますように。

神さまは、「あなたがあなたであるように」大切に作られました。あなたであることを、神さまに感謝します。



★3月5日、世界ができる前から、

神様に愛されていた

天地創造の前に、

神はわたしたちを愛して・・・

新約聖書

エフェソの信徒への手紙 1:4 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/eph.1.4.新共同訳

世界がつくられる前に、神さまがしていたことが書かれている聖書の箇所です。

原典には、カタボレー(καταβολή、基礎)

https://biblehub.com/greek/2602.htm(英語ギリシャ語辞典)

が使われ「世界の基礎の前から」が直訳になると思います。イエスも、「天地創造の前からわたしを愛して」(ヨハネ17:24)と言っており、自分は神に愛されていることを知っていました。

神さまは世界がないときから、私たちを愛していたとはうれしですよね。神様は、一人ひとりの目の色や背のたかさ、内向的か外交的かを、緻密に計算し、考えぬかれてつくられました。無理に外交的にならなくても、あなたの性格でよいのではないでしょうか。

(※注→文脈的に、クリスチャンになった人だけを、神さまは選んでいた、とも読めます。しかし、その解釈は選民思想になり、クリスチャンだけは特別なんだ!とおもいあがってしまい、危ない考え方だと私は個人的に思います。聖書全体からみたら、クリスチャンでなくても、だれもが神さまの愛のなかにいて、神様に愛されていると、わたしは思います。私の聖書の読み方は間違えていることもあるので、みなさんから私も教えられたいです。)

心の病気になると、どこかで自分を嫌い、自分であることを否定しがちになります。しかし、「いったい、自分をつまらないと言っているのはだれだろう?」と、私はつらい時思ったりします。それは、誰かの評価であったり、自分の頭がつくりだす声だったりします。しかし、一度たちどまって神さまの声に耳をすますと、「あなたはあなたとして造ったのは私だよ」とよばれているようで、なんだか安心します。タンポポは無理に赤になる必要がないように、神さまは「あなたで十分だよ」と喜んでくださる方。

ブルーハーツのTrain Trainの曲に

世界中にさだめられた

どんな記念日なんかより 

あなたが生きている今日は

どんなにすばらしいだろう

という歌詞があります。私は素敵な歌詞だと思います。あなたが生きている今日を、神さまは喜んでくださる方。愛されるために、どこかの高さに到達する必要はないと思います。イエスのほうが幼子になってくださり、私たちのいるところまで降りてきてくださいました。

失敗だらけでなにもかもうまくいかなくても、この方にゆだねたとき、荷物は軽くなりリフレッシュすると思います。私も背伸びをしがちなので、重たい荷物やプライドはおいて、一休みすることにしたいです。



★3月6日、身の丈

愛は自慢せず、

高ぶらない。

新約聖書

コリントの信徒への手紙一 13:4 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/1co.13.4.新共同訳(ユーバージョン)

高ぶらないとは背伸びしないでもよく、他人を上から見下ろさなくてよい、ということだと、私は思いました。

新約聖書が書かれたギリシャ語では、高ぶるはφυσιόωが使用されています。意味には、「ふくらませる」という意味も、あるみたいです。https://biblehub.com/greek/5448.htm

ふくらませ自分を大きくみせなくても、神様は身の丈の私たちを、大切にしてくださると思いました。

つい、「今の自分じゃだめだから、もっと大きくならないと!」と、今の自分を否定しがちです。しかし、産まれたての赤ちゃんに、「もっと手伝って」という親はいないと思います。いてくれるだけで喜びを感じ、愛しく感じると思います。成長するにつれて、そのことを忘れ「あなたは、あれもしなければ、これもできなければ」と、条件付きの愛になってしまうときがあります。

しかし、愛とは条件がないものだと私は思います。どんなに弱さを抱えていようが、あなたが生きている今日を神様は喜んでくださる方。完璧になれなくても、「あなたがいてくれて、嬉しい」とよびかけてくださる方。欠点のある今日の自分を喜び、仲間と支えあってすごしてゆけますように。


今や、恵みの時、

今こそ、救いの日。

新約聖書

コリントの信徒への手紙二 6:2 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/2co.6.2.新共同訳(ユーバージョン)



★3月7日、いてくれるだけで

「わたしは裸で母の胎を出た。

 裸でそこに帰ろう。 

主は与え、主は奪う。 

主の御名はほめたたえられよ。」

旧約聖書

ヨブ記 1:21 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/job.1.21.新共同訳(ユーバージョン)

~裸とは、なにもない状態だと思います。人は、「あれもできなければ、これもプレゼントできなければ、神さまはがっかりするのではないか」と思ったりします。

しかし神さまは、私たちが裸の状態、それは、私たちの存在自体を喜んでくださる方だとおもいました。神さまは、私たちがなにができるかとか、何を持っているかではなく、「あなたがいてくれるだけで、十分じゃないか」と受けとめてれる方。

生活していると、計画どおり生きられないときがあります。理想どおり生きられないとき、私はは焦ったりします。

しかし、天気を操作できないように、「思い通りならなくてもいいかも?もしかして、神さまの計画はわたしの計画と違うなら、神様にゆだねよう」と想ったとき、心がフッと軽くなるときがあります。

神さまがあたえ神さまが奪うとは、私たちを苦しめるためではなく、私たちに必要なものを一番知っていてくださる方。余計は荷物をおろして、軽くしてくださり、シンプルにしてくださる方。思い通りならないときは、もしかしてチャンスの時かもしれません。自分のできることは精いっぱいしてみて、あとは神様に委ね、お互いに助けえますように。


「神さまが与えて下さるものは、何でも笑顔で受け取り、取り去られるものは、何でも笑顔で差し出しなさい。」

マザー・テレサ

人生が自分の思った通りにならないからといって、がっかりする必要はありません。すべてが自分の思った通りになったとすれば、結局、自分が思っている程度の人間しかなれないからです。思った通りにならないからこそ、時々、思いかげない試練がやってくるからこそ、わたしたちは自分の想像をはるかに超えて成長することができるのです。

 欲しくないものを与えられたり、とっておきたいものを奪われたりするのは、神さまがわたしたちを成長させたい、もっと幸せにしたいと願っているから。与えられるものを喜んで受け取り、取り去られるものを手放す勇気を持ちたいと思います。

片柳弘史著『ほんとうの自分になるために』 (PHP刊)より



★3月8日、リラックス

「力を捨てよ、知れ 

わたしは神。 

国々にあがめられ、

この地であがめられる。」

旧約聖書

詩編 46:11 新共同訳

~「もっとはやく、もっと力強く」とは聞いたことはありますが、「力をぬいていいよ」とは、なかなか私は聞いたことはありませんでした。

競争社会の原理では、他人より強く、早く、スピードが求められる気がします。努力は大切ですが、自分の限界を忘れてしまうと、たえず「もっと強くなければ!黙ってなんていられない」と、【いま】を否定しがちになってしまうと思います。

しかし聖書には、「力をすてよ」とあります(※新改訳2017では、「やめよ。知れ」と翻訳されています)。

私には、「あなたの荷物を軽くしていいんだよ。私に甘えていいんだよ」と、なんだか聞こえてきました。

神様は理想のあなたではなく、今日の私を愛してくださる方。たくさんの欠点や弱さがある今日であろうが、「あなたがあなたである」ことを喜んでくださる方。

力をぬいて、荷物を神様に預けてみたら、荷物は軽くなると思います。なにもかもひとりで背負うと重たくてくたびれてしまいます。余計なプライドや見栄などはおろして、今日もたすけあってゆけますように。

→参考サイト

ヘブライ語の委ねるの説明

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E7%A4%BC%E6%8B%9D%E7%94%A8%E8%AA%9EPs31


ヘブライ語の(重荷を)担うの説明

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs68



★3月9日、荷物を軽くして

あなたは、

「自分の力と手の働きで、

この富を築いた」などと考えてはならない。

旧約聖書

申命記(しんめいき) 8:17 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/deu.8.17.新共同訳(ユーバージョン)

~人は自分の力に頼ってしまうことがあります。今日の旧約聖書に書かれていたように、「自分の力と手の働きで私は生きている」と思いこんでしまう性質が人にはあるかもしれません。

現代社会では、ほかの神などに頼っていないと思いますが、社会の価値観が神のような権威をもち、隠れた神様になっているかもしれない、と思いました。

私自身も一般就労していたときは、「なんでも1人で仕事をこなせなければ見捨てられる」と誤解していました。他人とたすけあえばよいのに、勝手に仲間をライバルだとおもい生活していました。すっかり、社会の価値観にそめられていました。

聖書には、

自分の力と手の働きで、

この富を築いたなどと考えてはならない

と書いてあります。

旧約聖書は、律法(宗教の掟やルール)が中心で、掟を守り、良い行いが中心とされていました。しかし旧約聖書全体をみますと、何度も過ちをおかすイスラエルの民をゆるし、慈しみをあたえてくださる神さまの愛をみることができます。自分の力と手の働きで、もっと神さまにつくしなさい、というのではなく、原点は神さまのしてくださった愛を思いおこすことにあると、私は思いました。

詩編46編11節には

「力を捨てよ、知れ 

わたしは神。 」

https://biblehub.com/hebrew/7503.htm(ユーバージョン)

と書いてあります。

聖書協会共同訳では静まれ」、

文語訳聖書でも

なんじら、しづまりて」と

翻訳されています。

あなたは何ができるか、という能力や力が評価される傾向にあるなかで、力をすて、静まるという聖書のみ言葉は、たとえ弱く小さくても、イエスに愛されているということだと思います。

イエスは今日も「あなたで十分。あなたが居てくれて本当に嬉しい」とよびかけてくださる方。「私は愛されている」と信じて、今日も助け合ってゆけますように。


以下は、渡辺和子著『愛と祈りで子どもは育つ』(PHP刊)より引用します。

私も、無条件に、ありのままの私を愛してくださった一人の方との出会いのおかげで、他人と違った自分でいいのだという「安定性」を身につけることができたのです。 他の人がみんな輝いて見える時でも、そうはなれない自分を嫌わず、いじめないで、私は私らしく咲いていればいいんだと思うこと、他人と比べないことが「安定性」を育むためにとても大事なことなのです。 

バラのように、花屋の店先で高い値段で売られることを羨ましがる必要はありません。 確かにタンポポはバラになれませんが、バラもタンポポにはなれないのだという真理をしっかりと心に留めておきましょう。これが「醒めた目と温かい心」を持って生きるということなのです。 人間にとって大切なのは、自分しか咲かせることのできない花を、置かれたところで咲かせることだと思います。 



★3月10日、弱さも宝物

もし全体がただ一つの部分だとしたら、

からだはどこにあるのでしょうか。

しかし実際、部分は多くあり、

からだは一つなのです。

目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。

新約聖書

コリント人への手紙第一 12章 19〜22節

新改訳2017翻訳

~なにかできるときだけ満足するとき、なにかうまくいかないときに、焦ってしまうことがあります。なにもできなくても、調子がわるくて横になるときでも、「今はゆっくり休もう」と構えられるとき、心に新しい空気がはいって休まるときがあります。

スマホをずっと使っていると、あつくなって機能が停止する機種があります。人も、調子がわるいときは、体のさまざまなサインがあらわれるときがあります。そういうとき、無理をせず、ゆっくり一休みするサインだと思います。

聖書には、他より弱くみえる部分が必要だ、といいます。弱さをなくしたりする必要はないと思いました。かえって、弱さがあるから人間らしく、ゆったりと優しい時間を取り戻せるのかもしれません。

弱さもふくめて、神さまはひとりひとりを愛してくださる方。タンポポはタンポポとして咲き、バラはバラのようにさくように、神さまに大切につくられたあなたはあなたであるだけで、喜んでくださる方。弱さを抱えた人間同士。互いに助け合ってすごしてゆけますように。


ギリシャ語メモ

弱さはギリシャ語で、ἀσθενήςの複数形の比較級がつかわれています。

https://biblehub.com/greek/772.htm(英語ギリシャ語辞典)

1つの弱さだけではなく、抱えているあらゆる弱さを、パウロは伝えているのかもしれません。またこの名詞はパウロの手紙で、とても重要な部分でつかわれています。

神は無力なものを選び(1コリント1・27)、

弱い人には弱い人のようになり(1コリント9・22)、

イエスはわたしたちが

弱いときに死んでくださり(ローマ5・7)、

弱い人を助けなさい(1テサロニケ5・14)と、

パウロはいいます。

病気と翻訳されている箇所もあらます。

しかし、パウロは弱さを排除するのではなく、

弱さすらも必用なものとみています

(1コリ12・22)。



★3月11日、ゆだねて

神のなさることは、

すべて時にかなって美しい。

神はまた、人の心に永遠を与えられた

しかし人は、神が行うみわざの

始まりから終わりまでを

極めることができない。

旧約聖書

伝道者の書 3章 11節、新改訳2017

~共同訳では、コヘレトの言葉とよばれています。

神のなさることは、すべて美しいとあります。

私は試験で不合格になったり、面接でおちたりしたことがあります。

しかし振り返ってみると、失敗したり、自分の想った通りにならなくてよかったと思います。

一番は子育てです。子供を想った通りにしないので、ゆったりと構えることができます。もし、自分の子供に「こうでなければ!」と押し付けると、子供は不安でいっぱいだと思います。また、妻に対しても、「妻とはこうでなければ」と想わなくなりました。

人生は、自分の想った通りにするのは、たしかに気分がよいかもしれません。しかし、もっとよいのは、聖書は、神さまの導きです。できることはやって、あとは神さまに委ねたら、結果がどうであれ、十分だと思います。

聖書はまた、「見極めることができない。」と書いています。人間の限界を直視し、すべてをしっている方はいないと思います。だから、私たちは、他人から学び、耳を傾けることができます。花からも、鳥からも、じっくりミミをすましてみると、たくさんの生きる勇気を教えられます。

成功や、自分の思いどおりを願うのではなく、神に委ね、互いに助けあってゆけますように。


のことが不安で夜も眠れない。

そんなことでは体力が落ち、

判断力も鈍って、

ますます状況を悪化させてしまいます。

どうにもならないことは

神さまの手にゆだね、

自分が今できることを精いっぱいやる。

どんな場合も、それが一番の対応策です。

片柳弘史著『やさしさの贈り物』(教文館刊)より


参考サイト

心のともしび、片柳神父「おおらかに」

https://tomoshibi.or.jp/radio/2016/10/22.html



★3月12日、やり方を変える

主は彼を助け、

逃れさせてくださる 

主に逆らう者から逃れさせてくださる。 

主を避けどころとする人を、

主は救ってくださる。

旧約聖書

詩編 37:40 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/psa.37.40.新共同訳

主とは、「しゅ」(内部リンク)と読み神さまをあらわします。十戒によってユダヤ人は神さまの名をいうことは避けて、主と読んでいました。

さて聖書には、神さまが逃れさせてくださる、と書いてあります。親の期待にこたえたく、我慢したり、逃げられない時が私にはありました。

また、身の丈の自分がいやで、「私はつよいんだ!まだできるんだ!」と思っていた時がありました。そんな無理をしていたら、生活がなりたたなくなり、めまいで歩けなくなり、心臓の手術になりました。私はそれから、身の丈の自分でよく、できないこともあってもよいことをしりました。

重たい荷物を抱えていたら、せっかくの旅も苦痛になってしまいます。コインロッカーや宿泊する場所に荷物をあずけたら、旅も楽しくなります。片手にカメラやスマホをもって写真をとるゆとりがうまれます。

逃げるという言葉がいやなら、方法を変えるという言い方があります。「学校は絶対いかなけばならない。いじめられても、いかなければ」と、学生時代わたしは思っていました。しかし、親は理解してくれて、学校にいくのはやめて、ゆっくりやすむ時間をつくってくれました。わたしはあのままガマンしていたら、危険だったと思います。

聖書には、神さまは逃れさせてくださる、とあります。ひとりでなにもかも背負う必要はなく、つらいときはゆっくりやすみ、逃げ、やり方を工夫できたら、安心できる場所がみえてくるのではないでしょうか。



★3月13日、寂しい道

さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。 フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、 宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。

新約聖書

使徒言行録 8:26‭-‬27‭, ‬31‭, ‬35 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/act.8.26-35.新共同訳(ユーバージョン)

使徒言行録(使徒の働き)は、医師のルカが書きました。

今日の聖書の箇所では、フィリポ(新改訳2017ではピリポ)というイエスの弟子が、天使からガザ(町の名前)に下る場所に行きなさい、といわれました。そこは、『寂しい道』(新改訳2017では、荒れ野)であったと、ルカは書いています。

人は寂しい場所をとおざけ、いつも誰かと群れていたい時があります。その場所はときに、いつも誰かに認められるために無理をしたり、いつも誰かから評価されないと安心できなくなりがちです。

しかし、フィリポのあったエジプト人は「手引きしている人がいなければ」と、自分の限界を謙虚に認めていました。神さまは、ときに失敗したひとや、欠点をかかえている人、まだわからない人を用いて、神さまの使命をはたすことがあります。

「私はなんでも知ってるんだ」と、わたしは強がるときがあり、他人のサポートを拒否したことがありました。しかし、体の疲れはたまり、生活がなりたたなくなりました。

神さまは寂しいところや、目立たないところでも働いてくださる方。また、弱さを通しても働いてくださる方。「わたしはなんて弱いんだ」となげくときはむしろ、チャンスの時かもしれません。

今日も「私はどんなときも愛されている」と神さまにゆだね、互いに助けあってゆけますように。


参考箇所、フィリポについて

一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。

使徒言行録 6:5‭-‬6 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/act.6.5-6.新共同訳(ユーバージョン)


・関連サイト

一人の為に(聖書ブリッジ)

https://www.seishobridge.com/content/detail/id=689



★3月14日、困難さえも

現在の苦しみは、

将来わたしたちに現されるはずの

栄光に比べると、

取るに足りないとわたしは思います。

新約聖書

ローマの信徒への手紙 8:18 新共同訳

~聖書を読んで思ったことです。

困難さえもチャンスのときかもしれません。わたしは「自分はなんでもできるんだ!」と思い、自分の限界を認められませんでした。しかし困難をとおして、「神さま、助けてください。私にはできないことがあります」と自分の限界をおもいしり、神さまに甘えられるように、なってきました、


失敗や困難はたしかにつらかったですが、神さまは不思議にうまくいかないことを通して、大切なことを教えてくれた感じがします。思いどおりにいかないときや、理想どおりいきられない自分がいます。しかし、その身の丈を神さまに委ね、荷物を神さまにあずけてリフレッシュしたいです。今日も困ったときはお互い様。互いにたすけあってゆけますように。


困難なことは、問題とは呼びません。

むしろ、チャンスと呼びます。

マザー・テレサ

片柳弘史編『日めくり超訳マザー・テレサ』(PHP)

~文章を読んでの感想です。

困難は自分の無力さを感じます。しかし、背伸びして無理をしていた自分から、等身大の自分に戻るチャンスのときではないでしょうか。自分のサイズを知ったら、無駄な荷物もへりシンプルになります。困難さえも、チャンスの時にできますように。



★3月15日、甘えてもいいんだよ

わたしたちに必要な糧を

今日与えてください。

新約聖書

マタイによる福音書 6:11 新共同訳

~自分でなにもかもできる、スーパーマンはいないと思います。素直に神さまに甘えて、

神さまからいただくパンをいただくと、

生きる力がわいてくるように思います。

「あれもしなければ、

これもしなければ」

とパニックになったならば、一人でかかえこんでいるサインかも。私も、心配症で不安なときは、「自分のできることはやったら、あとは神さまがなんとかしてくれる。神さまにまかせました」と想うように

しています。今日も、イエスが与えてくださるパンを一緒にいただけたらいいですね。



★3月16日、神さまはサポーター

神は唯一であり、

神と人との間の仲介者も、

人であるキリスト・イエス

ただおひとりなのです。

新約聖書

テモテへの手紙一 2:5 新共同訳

私は個人的に、ケースバイケースという言葉が好きです。

イエスは、私たちひとりひとりに、それぞれの多様な向き合い方をしてくださると思います。ケースバイケースだからこそ、イエスは仲介者として、私たちのはなしを聞いてくださいます。イエスの生涯が書かれている福音書をみますと、イエスはよく聞いています。


何をしてほしいのか」と言われた。

マルコによる福音書 10:51 新共同訳


と一方的に語るのではなく、イエスは本人の気持ちを聞いていることが、記録されています。

優れた医者は患者の困ったことに丁寧にききます。イエスには、本音を隠したり強がる必要はないと思います。


「足がよろめく」と

わたしが言ったとき 

主よ、

あなたの慈しみが支えてくれました。

詩編 94:18 新共同訳


また、仲介者とは私にはサポーターにも、みえました。あらゆる生活の側面で、イエスは生活を支えていてくださると思うと、生きる力がわいてきます。

育児も介護も、仕事も生活もなにもかも一人ではなく、イエスがついています。これって、大きな安心だと思います。今日も互いに手をとりあってたすけあってゆけますように。



★3月17日、執着を手放す

もしわたしの名をもって

呼ばれているわたしの民が、

ひざまずいて祈り、

わたしの顔を求め、

悪の道を捨てて立ち帰るなら、

わたしは天から耳を傾け、

罪を赦し、

彼らの大地をいやす。

旧約聖書

歴代誌下 7:14 新共同訳

私はなにもかもうまくいかない時、神様はいくら「あなたを愛している」と呼びかけてくれても、「そんなのは信じられません」といっていました。

自分の執着や価値観にこだわり、神さまにたち帰ることはしませんでした。しかし、それでもイエスは、「あなたは大切な存在」とよびかけてくださり、少しずつ「私はどんなときも愛されているかも?」と思いはじめました。私は、自分の力だけで解決できないと自分の限界を謙虚にみとめ、神さまの恵みにゆだねることにしました。背負っていた荷物は整理されて、軽くなりました。

イエスは、私が私であるだけで愛してくださり、失敗してもやりなおす力を与えてくださることをしりました。病気で体がうごかないときも布団で「私は神さまに愛されている」と思うだけで、心はあたたかくなりました。

だれもが弱さを抱えた人間同士。また、だれもが失敗することがあります。しかし失敗をゆるしあい、失敗さえも、宝物にしてくださるイエスに感謝いたします。



★3月18日、信頼する

どこまでも主に信頼せよ、

主こそはとこしえの岩。

旧約聖書

イザヤ書 26:4 新共同訳

「信頼する」のヘブライ語は、バータハ(בָּטח)です。がんばりや律法ではなく、人の救いは神さまの恵みにあると思います。

イエスの生きていた時代は、みんな断食や宗教の行いを誠実に守り、清い生活をしていました。しかしイエスは、自分たちの正しさにこだわり、自分の力に頼っている彼らを批判しました。それは、律法を守られない方や、間違えを犯した方を社会の片隅においやっていたからだと思います。

詩編では、

私は世々限りなく

神の恵みに拠り頼む。

旧約聖書

詩篇 52篇 8節、新改訳2017


とあります。

この拠り頼むの動詞の原形も、先ほどのバータハ(בָּטח)が使用されています。

私たちが弱く欠点があったとしても、神の恵みは私たちをつつみ、ゆるしてくださり、失敗してもやりなおす力を与えてくださると思います。信頼するのは、自分の行いではなく神さまの恵みだと思います。

今日も『私はどんなときも愛されている』と信じ、互いに助け合ってゆけますように。


※参考サイト

ヘブライ語のバータハについて

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E7%A4%BC%E6%8B%9D%E7%94%A8%E8%AA%9EPs52



★3月19日、賛美

日の昇るところから

日の沈むところまで 

主の御名が賛美されるように。

旧約聖書

詩編 113:3 新共同訳

賛美とは、ハーラル(הָלַל)というヘブライ語の動詞です。輝くという意味もあります。賛美とは、心からわきだすような喜びをもって、神さまの恵みに感謝することだと思います。

詩編には、楽器や躍りをもって、神さまを賛美することも書かれています。

楽器には様々な種類があります。オーケストラも、バイオリンや、ビオラ、フルートなど、さまざまな、違う楽器の音色があわさるときに、綺麗な音色がうまれます。

神さまは、あなたにはあなたにしかない、大切な音色をあたえられました。神様は、あなたを緻密な計算によって大切につくられました。誰からも評価されなくても、神さまは「あなたは大切な存在」とよびかけてくださる方。「あなたをつくって本当によかった」とよびかけてくださる方。あなたには、あなたにしかないよさをもって、賛美できると思います。

感謝できないような、つらい日もあります。私も精神科の病院にいたとき、支えてくれたのは、「私はどんなときもイエスに愛されている」と思うことでした。

なにもできない日もあります。でも、支えてくれる仲間がいます。私はLyre(リラ)の作った賛美を、よくYouTubeできいたり、歌っています。


あなたこそ、

私の賛美だからです。

旧約聖書

エレミヤ17章14節、新改訳2017



★3月20日、ゆるされて

御父は、わたしたちを闇の力から

救い出して、その愛する御子

の支配下に移してくださいました。 

わたしたちは、この御子によって、

贖い、すなわち罪の赦しを

得ているのです。

新約聖書

コロサイの信徒への手紙 1:13‭-‬14 新共同訳

~生きていて空虚な気持ちが消えないと、いっていた方がいます。自分がどんなときも神様に愛され、ゆるされていると知るときに、虚しいキモチはいやされてゆくと思いました。

ゆるしはギリシャ語で、アフェシス(ἄφεσις)という名詞です。

https://biblehub.com/greek/859.htm(英語ギリシャ語事典)

ゆるしは、素晴らしい何かを達成するのではなく、イエスの十字架によって与えらるものとなりました。良い行いや、素晴らしい人格によってゆるされるのではなく、イエスにゆってゆるされている、とパウロは語りますイエスは、私たちが重たすぎる荷物をもっている場合は、荷物を軽くしてくださり、身の丈の自分にしてくださると思います。


 捕らわれている人に解放を、 

ルカによる福音書 4:18 新共同訳


と、イエスの使命が書かれています。この「解放」もアフェシス(ゆるし)が使用さるています。

競争社会のなかで、つい信仰生活も、「もっとがんばらなければ、奉仕をしなければと無理をしてしまうことがあります。そのため、ただイエスと一緒にいて愛され、ゆるされていることを私自信も忘れてしまうことがあります。私は、「あれもしなければ、これもしなければ」と焦ってしまうことがあります。しかし「イエスによってゆるしを得ている」と聞いて、とてもリフレッシュしたキモチになりました。少し背負っているカバンの荷物を整理して、自分が背負えるだけの荷物にしたいです。

今日も「イエスによって愛されている」と信じて、互いにささえあってゆけますように。


※アフェシスについて

https://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E1%BC%84%CF%86%CE%B5%CF%83%CE%B9%CF%82(外部サイト)



★3月21日、善とは

だれも、悪をもって悪に

報いることのないように

気をつけなさい。お互いの間でも、

すべての人に対しても、

いつも善を行うよう努めなさい。

新約聖書

テサロニケの信徒への手紙一 5:15 新共同訳

~wikipediaには、この手紙は50~52年くらいにコリントで書かれたと説明されていました。

悪をもって悪に報いることはないように、とはイエスの「敵を愛しなさい」の教えとつながっている気がしました。イエスは、私たちがどんなに弱く、欠点があったとしても愛してくださる方。その喜びが、他人の悪に悪で返すのではなく、優しさや善で返すことができるのではないでしょうか。

すべての人にいつも善を、とパウロは書いています。善はギリシャ語でアガトス(ἀγαθός)です。新約聖書で101回も使用されています。パウロが一番最後に書かれたローマの手紙には、

わたしは自分の望む善は行わず、

望まない悪を行っている。

新約聖書

ローマの信徒への手紙 7:19 新共同訳


とパウロは気づきます。

パウロがたどりついた境地は、現実の自分でした。私自身も、どんなに善(ἀγαθόν)をしたくても、結局は自分の正しさをおしつけたり、相手をコントロールしたりする自分にきづいたことがあります。

ローマの手紙を書いた晩年のパウロは、どんなに正しく誠実にいきたくても、じぶんの限界に気づいたのかもしれません。しかし、パウロは、そんな弱い自分であったとしても、神様の恵みは十分であり、弱さを誇りました。

善はもちろんよいことです。しかし善も「自分は正しいのだから」という、態度にもなってしまうときがあります。イエスの時代の宗教学者たちも、みんな律法を誠実にまもり、善を行っていました。しかし、弱い人をさばく人たちにイエスは悲しみをおぼえました。今日も、自分の限界は謙虚に認め、互いにたすけあってゆけますように。


私はあなたができないことを

することができます、

あなたは私ができないことを

することができます。

一緒に私たちは

素晴らしいことをすることができます。

マザー・テレサ



★3月22日、自分らしさ

孤立するのを恐れ、周りに合わせるばかりでは、自分らしさを失ってしまいます。「たとえ孤立しても、受け入れてくれる人は他に必ずいる。何があっても自分は一人ではない」その確信の上に、健全な人間関係を築けますように。片柳弘史著『やさしさの贈り物』 (教文館)

~※本を読んで思ったことです。

相手に愛されるために、相手の好みにかわろうとするときがあります。しかし、逆に期待にこたえられなくなったら見捨ててしまうのは、私は不思議に想います。

あなたがあなたであるだけで大好き!といってくれるのが、いちばん安心すると私は想いますっ!相手にあわせてばかりではなく、ときには私の色を大切にしたいです。



★3月23日、あなたはあなた

私は私、人は人という「独自性」。私はこの世の中にたった一人の、名前を持った、かけがえのない、世界にただ1つの花なのだから、ほかの人の真似をしなくてもいい。・・・。あなたはあなたのままでいいのです。ほかの人になる必要はありません。

渡辺和子『面倒だから、しよう』より

~※本を読んで思ったことです。

たまに、子供の障がいを認めたくない親にあいます。一般の学校にいかせたく、背伸びします。しかし、特別支援学校(養護学校)は手厚いフォローがあるので、その後の人生の生活で安定すると、報道されていました。

私も大人になってから発達障がいと診断され、私は生活のスキルや病気の理解がなく、めちゃくちゃ困りました。

小さいときに、無理をしないで障がいと向き合うのは勇気がいりますが、子供の幸せのためなら親の「一般の」こだわりや執着を手放す必要があると、私は思います。身の丈の子供に、あなたはあなたで十分すてきって、いってあげたいです。



★3月24日、最高傑作

誰もが、世界でたった一人、自分だけにしかないよさを持った神さまの最高傑作。もし「わたしなんかつまらない人間だ」と思っているなら、それは自分のよさにまだ気づいていないだけ。自分が自分であることに、誇りを持って生きられますように。片柳弘史著『やさしさの贈り物』 (教文館)より

~※本を読んでの感想です。

他人と比較して、私は自分の無力さを感じてしまうことがよくあります。しかし、自分が自分であるだけで良いといわれると安心します。私は私らしく、ゆったりと助け合って歩んでゆきたいです。



★3月25日、私の道の光

あなたのみことばは

私の足のともしび

私の道の光です。

旧約聖書

詩篇 119篇 105節、新改訳2017

~※聖書を読んで思ったことです。

生きる「虚しさ」「空虚感」を感じるつぶやきが、SNS でたまにみかけます。生きているのが虚しいというおくには、娯楽やこの世界の誰にも満たすことができないものがあると想いました。

しかし、イエスの十字架にあらわされた愛をしるとき、私は学生時代に、生きる希望をみた気がします。神さまにあいされて、ゆるされていること。イエスの愛はかわらず、どんなに弱くても愛されること。私は聖書を通して生きる希望がわいてきました。

渡辺和子さんは、


生きる自信を失っている人がいっぱいいます。利用価値の世の中で認められない人たち、激しい競争社会からの落ちこぼれ、自動化、機械化の波を受けて「不要」となった人たち、そんな人たちに、あなたたち一人ひとりは、たいせつな人なのですよと伝えてゆくことこそが、現代の福音ではないでしょうか。

渡辺和子著『愛をつかむ』(PHP)


と書いています。

イエスが、ひとりひとりを愛されたように、「あなたは神さまに愛された、大切な存在」と伝えることも、ひとつの大切なことだと想いました。また自分自身にも、「私はどんなときも、神さまににあいされているんだよ」と確信するのも、素敵なことだと想います。今日も互いにたすけあって、ゆきたいです。



★3月26日、慰めを受ける

かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。

新約聖書

ローマの信徒への手紙 15:4、新共同訳

~慰めは、パラクレーシィス(παράκλησις)という名詞です。励まし、という意味もあります。新約聖書で29回使用されていました。パウロはこのギリシャ語を、

「慰めを豊かにくださる神」(2コリント1:3 )でも、使用しています。また、「わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神」(2テサロニケ 2:16 )の箇所でも、使用されています。

福音書では、ルカによる福音書のみで使われています(ルカ2・25、6・24)。


・慰めを受ける

また、ルカの書いた使徒言行録(使徒の働き)では、

こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

使徒言行録 9:31 新共同訳

と書いています。慰めをくださるのは、私たちの能力や力で必死にするのではなく、神様が無料で働いてくださり、私たちを支えてくださり、愛してくださると想います。


・神を頼りにする

自分を頼りにすることなく、

死者を復活させてくださる

神を頼りにするようになりました。

新約聖書

コリントの信徒への手紙二 1:9 新共同訳

パウロは、自分の行いや力ではなく、神様の助けを信頼しています。律法主義は行いを強調し、パウロの過去は、行いを中心に生きていたと想います。しかし、今は自分の限界を謙虚に認め、仲間とたすけあい、神さまに委ねています。

私自身も、なかなか思ったとおりにすすまない時があります。しかし、思った通りにならなくても神様はちゃんと導いてくださると信頼したときに、なんだか慰めをうけます。

「あれもしなければ、これもしなければ」と心がちらつくときは荷物を少し減らして、仲間とたすけあい、神さまに委ねてゆきたいと思いました。片柳弘史著『何を信じて生きるのか』 (PHP刊)には、

素直にじぶんの限界を認め、自分にできないことはできないと認める。そして、自分にできないことは神にすっかり委ね、自分にできることに集中する。そうすると、余分な力みが消え、自分の思っていた以上のことができるようになります。


と書いています。なにもかも完璧でなくてもよく、身の丈の自分ですごしてゆきたいです。



★3月27日、神様の価値観

言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。

新約聖書

ヤコブの手紙 1:22‭-‬24 新共同訳

~みことばを行うとは、神様(聖書)の価値観を第一にする、ということだと想います。また、ヤコブの手紙を全体からみると、「言葉だけではなく、隣人を自分のようにあいしあおう」ということだと、私は想いました。


聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。

ヤコブの手紙 2:8‭-‬9 新共同訳


「行う」はギリシャ語で、ποιηται(ポイエィタイ)です。私は動詞かとおもいましたが、名詞でした。また単数ではなく複数形でした。それは、一人で無理をしてするのではなく、互いにたすけあってすることだと思いました。


・失敗もたからもの

私は失敗したら全ては終わり、と思っていたときがあります。しかし、聖書をよむなかで、私はイエス様の十字架によってゆるされ、何度でもやりなおすことかできることを知ったとき、胸があたたかくなりました。

聖書をじっくり読み神様の考えをしるとき、神様はどんなときも見放さず、ずっと一緒にいてくださる方だとしることができました。

どんなに不甲斐なく、思った生きられなくてもイエスは「あなたを作って本当によかった。あなたがいて、本当に嬉しい」とよびかけてくださる方。神様の愛を疑うのではなく信頼するのは、ひとつの大切な「みことばを行う」ことに、つながっているのではないでしょうか。


・自分の考え

しかし、自分の考えにとらわれ、「こうであるべき」と自分の価値観から縛られてしまうと想います。

すると、「良い子でないと愛されない」とか、「人間の評価で自分の価値はきまる」など、息苦しくなりそうな考え方をみにつけてしまう場合があります。

しかし、みことばを読んでそれを知ったとき、命は神さまが作ってくださり、だれもがいきているだけで大切なことを知るのではないでしょうか。



★3月28日、すべてを支えてくださる

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、

教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

新約聖書

エペソ人への手紙 3章 20〜21節

新改訳2017

神様が教会をあたえられたのは、なにもかも一人でせず、助け合う仲間を与えられたからだと想います。

イエス様は神様で、ほんらい弟子などを必要しませんでしたが、12弟子をえらびました。職業も経歴もバラバラでした。しかしイエス様は、ひとりで完璧にこなす共同体ではなく、互いにゆるしあい、助け合う共同体(教会)を願われたのではないでしょうか。

パウロは、「私たちのうちに働く御力によって」といいます。パウロは、ギリシャ語でエネルグーメネィン

(ἐνεργουμένην、働く)の動詞を使っています。パウロは他の手紙でも、

あなたがたの内に働いて、

御心のままに望ませ、

行わせておられるのは

神であるからです。

フィリピの信徒への手紙 2:13 新共同訳


の箇所でも使っています。

神さまは私たちのすべてを支えてくださいます。それは自分の能力や力ではなく、すべてはイエス様の恵みだと想います。

先日風邪をひいて、布団でねこんだときに、家族にはたすけられました。同じように、聖霊はいまもわたしたちのために働いてくだはり、いつも一緒にいてくださり、守ってくださる存在だと想います。

イエスが沢山の欠点を抱える弟子たちを愛されたように、なにもかもひとりで抱えこまないで、私たちもたすけあってゆけたらいいですね。



★3月29日、いつもいてくださる方

わたしを尋ね求めるならば見いだし、

心を尽くしてわたしを求めるなら、

旧約聖書

エレミヤ書 29:13 新共同訳

~子供は親からだきしめられ、安心すると、遊びにむかっていきます。また寂しくなったら、親の場所にきます。

神様も、いつでも私たちを待っていてくださる方。寂しくなったら、いつでもいてくれる方。パウロは、

御子は、見えない神の姿であり、

すべてのものが造られる前に生まれた方です。コロサイの信徒への手紙 1:15 新共同訳


と書いています。

神様はイエスとなって、わたしたちの前にあらわれてくださいました。イエスは飼い葉桶でうまれました。服装をととのえなくても、羊飼いたちは家畜の匂いがする服装のまま、イエスにあいにゆきました。羊飼いは着替える必要はありませんでした。


マザー・テレサは、

他人に受け入れられないとき、時には自分自身でさえ(自分を)受け入れられないときも、彼はいつもあなたを受け入れてくれます。私の子供たちよ、イエスがあなたを愛されるために、あなたが違う人になる必要はありません。

ただ信じてください—あなたは彼にとって大切です。苦みのすべてを彼の足元に持ってきてください—あなたが彼に愛されるために、あなたの心を開いてください。 残りは彼がしてくれるでしょう。」

といいました。

愛されるために違う人になる必要はない、という言葉が心に響きます。

神様はタンポポはタンポポに、ひまわりはひまわりに、あなたをあなたとして作られました。あなたであるだけで十分だと想います。これからも、イエスはいつでも一緒にいてくださいます。困ったときも、どんなときもイエスさまがいてくださり、祈りをもって相談できるなんて嬉しいですね。



★3月30日、あなたである

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。

新約聖書

ローマの信徒への手紙 12:9‭-‬10 新共同訳

~パウロは「愛には偽りがあってはなりません」といいます。

偽りのない(アヌポクリトス、ἀνυπόκριτος)は、

https://biblehub.com/greek/505.htm

ὑποκρίνομαιから、派生した言葉だとオンライン辞典で説明されていました。

https://biblehub.com/greek/5271.htm

ギリシャ語で偽善とは、

「舞台上で役を演ずる」

という言葉に意味もあります。偽りがあってはならないとは、神さまにつくられたあなたであれ、ということではないでしょうか。

「私は神に、どんなときも愛されている」という喜びから、私たちはなにもかもはできなくても、仲間をおもい、互いに助け合ってゆけるのではないでしょうか。

しかしいまは、「いまのあなたではだめだ」「もっと働き、努力しないと」と、たえず成長を求められている空気を私は感じます。

そんななかで、子供から大人まで、たくさんの期待におしつぶされてしまっていないか心配です。誰かの期待にこたえれなく生きる勇気をうしなったり、自分はつまらないんだと落ち込んでしまうひともいるのではないでしょうか。

しかし、本物であるとは、神さまがつくられたあなたで本当によかった、という響きをもつものだと思います。今日も神さまは、私たちひとりひとりを喜んでくださる方。生きているだけで十分ではないでしょうか。

愛されるために、誰かほかのひとになったり、偽る必用はないと思います。神につくられた私たちとして、お互いに助け合ってゆけますように。



★3月31日、かみさまの導き

人の心には多くの思いがある。

しかし、主の計画こそが実現する。

旧約聖書

箴言 19章 21節、新改訳2017

~人間関係でも、また自分の生き方においても、自分の思いどおりにしたい願望が人にはあるかもしれません。思った通りにならないとイライラします。しまいには、相手を責めたり、理想どおりいきられない自分自身に、罪悪感をおぼえるかもしれません。

しかし、1日そのように生活していると、お互いに疲れはててしまうと思います。

しかし、たとえ精一杯やったとしても、失敗したり、不合格になったり、おもいどおりにならなくても、「これも神様の導きかもしれない」と思うと希望がわいてきます。

私も病気になり働けなくなり、焦りました。毎日そんな、情けない自分をせめていました。しかし、イエスさまはいつもどんなときも羊飼いとなって導いてくださり、愛してくださる方だとしりました。この方に委ねてゆけば、私はなんとかなる、と思いました。


困難なことは、

問題とは呼びません。

むしろ、チャンスと呼びます。

マザー・テレサ

片柳弘史編

『日めくり超訳マザー・テレサ』(PHP)



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