今日の言葉(2月)


2月

★2月1日、シンプルに

主はギデオンに言われた。

「あなたの率いる民は多すぎるので、

ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって

心がおごり、自分の手で救いを

勝ち取ったと言うであろう。

旧約聖書

士師記 7:2 新共同訳

~生きていると、「もっと強くならなければ。もっと大きくならなければ」と、求めてしまうときがあります。しかし、神さまは私たちが、どんなに小さくても「あなたでよかった」と喜んでくださる方だと思います。

数をふやしおおきくするより、自分がどんなに小さくても愛されていることを感謝したいです。

なおこの文書は、デイリーブレッドを参考にしました。

https://japanese-odb.org/2023/04/10/%e5%bc%b1%e3%81%95%e3%81%ae%e4%b8%ad%e3%81%ae%e5%bc%b7%e3%81%95/


ギデオンとは(日本語wikipedia)


どんなに高く登っても、幸せにはたどり着けません。上にはさらに上があり、どこまでもきりがないからです。幸せを目指すなら、低いところに下りましょう。自分の弱さを受け入れ、あるがままの自分と和解できたなら、そのとき心は満たされるでしょう。

片柳弘史著『やさしさの贈り物』(教文館刊)より


★2月2日、朝ごとに新たに

主の慈しみは決して絶えない。 

主の憐れみは決して尽きない。 

それは朝ごとに新たになる。 

旧約聖書

哀歌 3:22‭-‬23 新共同訳

私は、自分の過ちで妻を悲しませてしまったことがあります。不安のままその日は、別の部屋でねました。

つぎの日に起きたとき、妻は笑顔で「おはよう」といってくれました。私は嬉しくてたまりませんでした。私はゆるされたのです。

生きていると過ちをおかしてしまうことがあります。しかし、神さまは朝ごとに新しい1日を与えてくださり、ゆるしてくださる方です。

いつまでも、自分の失敗を責めてしまうときが私にはあります。そんなときに、今日の聖書の言葉をよみかえしたいと思いました。聖書には、神さまの憐れみは朝ごとに新しいとあります。憐れみとは、どんなに欠点や弱さがあっても、神さまはあなたをあなたとして愛してくださり、あなたを喜んでくださることだと思います。疲れた日や、笑えない日があります。そういうときは、ゆっくりねて、休みたいと思いました。

立ち止まって休憩していても神さまは、「なんで怠けているんだ」とはいわない方です。一緒に足をとめてくださり、一緒にいて、一緒に泣いて、一緒に喜んでくださる方です。

わたしのうつがひどいときは、遠くからお父さんがきて、一年間一緒に生活してくれました。母は仕事があったので、これませんでした。いっぱい支えてくれました。

ゆっくり休み疲れをとったら、新しい1日を神さまはあたえてくださいます。どんなに大きな失敗をしても、やりなおすことができるって、嬉しいことだと思いました。


ネガティブな考えに陥るのは、

心や体が疲れているしるし。

疲れがとれれば、自然と

前向きな考え方ができるようになります。

無理に頑張ろうとせず、

「こんなときもある」とゆったり構えて

疲れがとれるのを待ちましょう。

片柳弘史著『こころの深呼吸』 (教文館)より



2月3日、牛は牛、ろばはろば

牛とろばとを組にして

耕してはならない。

旧約聖書

申命記(しんめいき) 22:10 新共同訳

~牛とろばは力が違います。ろばはあまり牛よりは力がありません。聖書では、牛とろばを組にして、農作業をしてはならないとあります。ろばはろばのままで大切にし、ろばは無理に牛のようにならなくてもよいということだと思います。命は神さまに大切につくられ、どの命も大切なかけがえのない存在だからだと思います。

わたしは小さい頃から他人と比べ、人並みになろうともがいていました。でも不器用で、ハサミもろくに使えませんでした。障がいも隠して強がっていました。しかし、無理をしていると、毎日がいきづらくなってきました。

今は主治医に他人とくらべないでよく、わたしの歩幅であゆむ大切さをいわれています。無理にろばが牛にならなくていいと知ると、なんだか嬉しくなりますね。

今日もかみさまは、「あなたはあなたで、大切なんだよ」と言っている気がします。もし辛いことがあれば、相談しながらたすけあってゆきたいとおもいました。あなたのままで、ずっとずっといてください。私と考え方がちがっても、どんなあなたも大切な存在です。


★2月4日、マルタとマリア

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

ルカによる福音書 10:38‭-‬42 新共同訳

~なにか特別なもてなしをイエスにしなければと思い、忙しく動いているマルタがみえてきそうです。一方マリアは静かにイエスのあしもとにいて座っています。

私ももし、自宅にイエスがくると聞いたら、もてなしの準備のために、お店などにいきさまざま

な準備をすると思います。「あれもしなければ、これもしなければ」と心配すると思います。

もちろんマルタの働きも大切だと思います。しかし、マルタは自分の考え方や行動だけを正しいと思ってしまいました。マリアのように、イエスの足元に座っていることをゆるしませんでした。

いまもしかして「なにができるか」「他人のために万能で、どれだけ役立っているか」で他人を評価してしまう傾向にあると思います。そうであれば、イエスは「必要なことはただ一つだけだよ」ときくと、私はとても安心します。なにもかもできなくても、イエスはただ聞いて座っている、マリアの態度も「大切なんだよ。大切なことは一つなんだよ」といわれと思います。

イエスの前で愛されるために、マリアはマルタになる必要はなく、マルタはマリアになる必要はないと、私は思います。「私はなにもできないんだ」とためいきをついてしまいそうになるときは、マリアを思い出したいと思います。役割は違っても、できることはちがっても私たちを喜んでくださるイエスの声に耳を傾け、互いにたすけあってゆきたいと思います。


★2月5日、助け合い

「その後、主(※イエス)はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町やに二人ずつ先に遣わされた。」

新約聖書

ルカによる福音書10章1節

~イエスは、たくさんの弟子たちを必要とされました。72人もイエスから宣教をお願いされていたことがわかります。イエスは、多くの人たちの協力を必要としました。

しかし、よく考えてみますとイエスは神であったので、一人で宣教をすることは可能でした。効率を考えれば一人でやったほうが失敗もなくスムーズにすすんだかもしれません。それでもイエスはあえて、失敗をする可能性のある弟子たちを必要とされ、互いに支えあう道を選ばれました。

また、イエスは弟子を一人で派遣しませんでした。必ず二人ずつ行かせました。それは一人が怪我をしても、二人なら助け合えるからではないでしょうか。

なにもかも1人でする必要はなく、一人でできないなら、二人ではじめてみればよいことをイエスは教えられたと思います。なにも万能で、完璧にならなくてもよいのだと思います。互いに手をとりあって、荷物を軽くして歩んでゆけますように。


★2月6日、花の多様性

なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

マタイによる福音書 6:28 新共同訳

~イエスは花を注意してみなさい、と言われました。神さまは様々な花をつくりました。わたしたちも顔や性格は違いますが、一人ひとりは神さまに大切に造られた存在だと思います。

神さまはタンポポをつくり、コスモスをつくりました。タンポポはタンポポの花を咲かせ、コスモスはコスモスの花を咲かせます。世界がタンポポだけの花になってもよいですが、やはりカラフルなたくさん異なる花があるほうが、花壇をみると楽しくなってくると思います。カタツムリが似合うアジサイや、太陽のようなひまわり、秋のそよ風が似合うコスモス。世界は多様性にあふれています。違うからこそ、ときめきをかんじます。

つい「こうであるべき」と、1つだけの価値観しかみえなくなってしまいますが、「こんな工夫や方法もある」とゆったり構えたら、新しい風が心にはいってくると思います。

忙しさのなかで、つい自分の心を無視し、「もっと他の人みたいにかわらなければ!」と焦ってしまうときがあります。かみさまは、「あなただからいいんだよ。なぜなら、わたしがあなたを大切につくったからね」とよびかけているように感じました。


★2月7日、ゆっくりと

わたしは、ここにいる家畜や子供たちの歩みに合わせてゆっくり進み、セイルの御主人様のもとへ参りましょう。」 ヤコブがこう答えたので・・・

創世記 33:14 新共同訳

~花は種をまいても、すぐに花をさかせません。時間をかけてゆっくり育ちます。

チューリップは、冬の寒さをたえて春に美しい花を咲かせます。チューリップの球根に「急いで花をさかせてください」と言っても、咲かせることはありません。

また、チューリップの花が枯れてからが、球根を成長させるチャンスのとき。花が終わったから葉は邪魔だと思ってしまいますが、葉っぱが枯れるまで肥料をあげると球根は成長し、来年もさかせてくれます。

なにごとも慌てる必要はなく、「自分にできることは精いっぱいして、あとは神さまの手にに委ねよう」と思ってよいのではないでしょうか。

私は他人に負けるのがいやでした。「休んでいたら怠け者とみられる。弱音をはいてられない」と思っていました。しかし、毎日めまいがして歩けなくなりました。めまいを治すためには、医師からこころの休養をすすめられました。

布団のなかで雨の音や、病院の花壇にさいている花の美しさに感動しました。前へ進むだけではなく、後ろにさがったり、立ち止まってもよいことにきがつきました。

疲れたときはゆっく休み、自分のペースを確認できますように。私は亀さんのように、ゆっくり過ごしていきます。


★2月8日、待つ

主はモーセに言われた。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。 明日の朝までにそれを用意し、朝、シナイ山に登り、山の頂でわたしの前に立ちなさい。

・・・

 モーセは主と共に四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した。

 旧約聖書

出エジプト記 34:1‭-‬2‭, ‬28 新共同訳

~モーセはシナイ山に昇り、十戒の石版を授与されるために40日間の期間が必要でした。

モーセが戻ってこなく不安を感じた民たちは、モーセの兄のアロンに

さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。」と頼んだことが、出エジプト記32章に書かれています。

アロンは民たちの頼みに負けてしまい、

あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」と民たちにいいます。アロンはそれで、金の子牛像を作ります。

アロンたちは神様に背いてしまいました。民は、待つということができなかったのでしょう。

荒れ野の道ですから、民たちは早く目的地につきたかったのかもしれません。同じ場所に何日もいたら、「この先どうなってしまうんだろう」と不安になってきますよね。しかし、神さまは前へ進むばかりではなく、立ち止まる時も与えてくださる方だと思いました。

モーセが山からおり、金の子牛像をみて、手に持っていた十戒の記された板を投げつけてしまいした。モーセは、神様に赦しを願いシナイ山に山に登ります。再び40日という待つ期間が必要でした。神は先に急ごうとする私たちに、待つ、という備えの時を与えてくださいます。

神様は、それでもイスラエルの民を導きます。弱く不完全な私たちも、一人一人はそれぞれ異なる歩みをなしています。しかし神様にとっては、一人一人はなんど失敗しても、「あなたは宝物」だとよんでくださいます。

私も生活していて、なんども失敗をし、なんどもイエスに文句をいいました。それでもイエスは、わたしとずっと一緒にいてくれました。嬉しいです。だから私はみなさんとたすけあって、いきてゆけます。


★2月9日、サポートの大切さ

モーセが80歳くらいのとき、イスラエルの民たちをエジプトから故郷のイスラエルに導きなさいと、神さまから指名があたえられます。

しかし、出エジプト記4章10節には、

モーセは主に

わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、

舌の重い者なのです。

と言ったことが書かれています。

どこか自信はなく、過去の自分の犯した罪が、罪責感として苦しめていたかもしれません。また口下手でした。モーセは、

「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」と逃げようとします。

そんな彼に、神様は

あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。

と、兄であるアロンをサポート役として与えます。神様は1人で頑張ってやりなさい、とは言わない方。いつも、苦手な箇所をサポートしてくれる仲間を与えてくださるのです。

神様はモーセが弱音をはいてもを受け止めたことには驚きです。

普通なら、神様の前で変わらないといけないと誤解してしまうときがあります。しかし愛されるために他の人になる必要はありません。神様のほうが譲歩してくださったのです。神様は私たちが困らないために、様々な道を備えてくださいます。1人でできなくても、手をとりあい力をあわせれば道は広がるのではないでしょうか。

モーセは口下手なことに、自分の弱さを感じていたのでしょう。ともすれば、神様の前で強い者のみが用いられると誤解しがちです。しかし、神様は臆病であり、過ちを過去に犯してしまったモーセさえ、神様の使命のために用いてくださるのです。

もうどうにもならないときは、自分で「こうであるべき」と勝手に決めてしまっている時があります。「こうであるべき」という理想を捨て、神様に委ねるとき、神様は道をいくらでも開いてくださいます。

過去がどうであれ、どんな過去であれ私たちを赦し、モーセのように新しくやりなおす事ができるのです。神様の愛に信頼するとき、自分も神様の使命を果たすことができる、自信がわいてくるのではないでしょうか。

神さまは、「あなたで大丈夫だよ」とよびかけてくださる方。私も周りのたくさんのサポートをかりて生活しています。私も、教会の草取りなど、できることを無理しないで、自分の意思で楽しくやっています。


★2月10日

「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

新約聖書

‭‭テサロニケの信徒への手紙一‬ 

‭5:18‬ ‭新共同訳‬‬

~1日が終わったとき、「あれもできなかった、これもできなかった」と不満で1日を終えてしまうことが私にはあります。自分の理想に追いつかなく、イライラしてしまうことがあります。「疲れたな~」と、ためいきをついてしまいます。

しかし「できた」ことだけが、全ててはないと思うと、少しホッとします。

しんどくて布団でねたきりのときも、小鳥のさえずりが聴こえてくるかもしれません。雨の音をきくと自然のささやきがきこえます。私は外出できなかったときは、窓から夜空の星をみるのが楽しみでした。

聖書をとおしてイエスは、たとえ何もできなかった日であっても、「あなたは大切な存在。あなたがいてくれて、ほんとうに嬉しい」とよびかけてくださる方。

理想どおりいかなくもがいていても、神さまは全てを受けとめてくださることを知ったとき、「今日も愛されている」という喜びがうまれるのではないでしょうか。

「なにかしなきゃ」と疲れたときは力をぬいて、神さまの言葉をきき、甘えて、ゆっくり休むと力がわいてくることがあります。

聖書には、どんなことにも感謝しなさい、と書かれています。「愛されていることを信じられない」ときもあります。感謝できないときもあります。それでもイエスはわたしたちに微笑んでくださり、受けとめてくださる。

小さなことでも神さまに守られたことを感謝しつつ、互いにたすけあってゆけますように。

★2月11日、道はひらかれる

「人間の心は自分の道を計画する。

主(しゅ)が一歩一歩を備えてくださる。」

旧約聖書

‭‭箴言‬ ‭16:9‬ ‭新共同訳‬‬

モーセによって、エジプトから故郷のイスラエルへ向けて危機のときに、導かれたイスラエルの民たちは、海の中にできあがった道を通ることができました(旧約聖書の、出エジプト記にかかれています)。

人間の努力や功績をつんでも、海を分けることは不可能です。しかし、どんなに無理なことでも、神さまの手にゆだねるときに、そこに道は開かれると思います。

人は、自分の人生計画を自分の思った通りにならないとイライラしがちです。しかし考えてみますと、神さまは一人一人に一番よい道を準備してくださっていることに気づかされます。

人生の壁、試練、病気、さまざまな状況によって、神さまは違う方向に人を導かれることがあります。しかし、その道はけっして無駄な道ではないと思います。

私は病気になりましたが、確かに辛いことは山のようにあります。

しかし病気になったからこそTwitterで障がいの有無にかかわらず、たくさんの方にであえました。順調にいってたらこんな素敵な方たちと出会わずに、一生をおえていたかもしれません。

また、病気で教会にいけない時期もありましたが、神さまは「教会にいくからあなたを愛する」と条件をつける方ではないと思いました。病床にねたきりの患者さんや、疲れて教会にむかえない人もいます。しかし、どんな形であれイエスは「あなたは大切な存在」とよびかけてくださると思います。

神さまが与えてくださった道は、一番いい道。失敗も成功もすべては宝物。その道をのんびり楽しく、たすけあってすごしてゆけますように。


★2月12日、光に照らされて

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。

腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、

教えられた。 

・・・あなたがたは世の光である。

山の上にある町は、隠れることができない。

マタイによる福音書 5:1‭-‬2‭, ‬14 新共同訳

ヨハネ福音書8章12節によれば、イエスは「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」と言われました。

わたしたちが光となるためには、神さまの愛の光を、まず受ける必要があると思います。自分は神さまに愛されている「かけがえのない大切な存在なんだ。神さまの子どもなんだ」と確信してよいのです。人間は、神さまの愛の光をたっぷりあびて、はじめて安心することができます。

イエスは、「あなたがたは世の光である」といいました。これを聞いていたのは、弟子たちの周りに群衆がいたと聖書に書かれています。

もしかすると、子どももいたかもしれません。ご高齢の方もいたかもしれません。病気を抱えていた人もいたでしょう。群衆ですから、多種多様な人の集まりであったことでしょう。そんなみんなに、イエスは世の光と呼んでくださいました。

それは、どんな人にも神さまから与えられた使命があり、どんな人も神さまは必要としておられるということではないでしょうか。

「自分なんてつまらない人間なんだ。生きる意味はないんだ」と言う人に、「あなたがたには希望がある。あなたは必要とされている、大切な存在」と、イエスはよびかけたのです。

「イエスよ、私は世の光ではないですよ。ほら、全然光っていないですよ。

不器用で、毎日は失敗だらけです」と、私はふとイエスに反論してしまいました。

しかし、イエスはわたしたちの弱さを知ったうえで、「あなたがたは世の光だ」といってくださいます。

私たちが輝くことができるのは、自分を実際より、よくみせようと思ったり、自分以上の自分を演じる必要はないと思います。

月が太陽の光をうけて輝くように、一人だけの力でがんばるのではなく、互いに助けあえばよいと思います。なぜなら、イエスは「あなたの光」といっていません。「あなたがた」といっています。もし自分の光が消えそうなときは、光が弱ってしまう時があります。そんなときは、サポートしてくれる人がいるのではないでしょうか。

「私は強いからひとりで生きていける」と強がる必要はないと思います。ときには、相手の優しさを信頼して、光で照らしてもらいましょう。いつか元気がでてきたら、小さな光でもよいから、困っている方に寄り添い照らしてあげられたらいいですね。いつも、互いにたすけあってゆけますように。

→参考サイト、片柳神父のブログ

祈りの小箱(223)『ありのままの輝き』


★2月13日、疲れたとき

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

マタイによる福音書 11:28 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/mat.11.28.新共同訳(ユーバージョンアプリです)

イエス様は、疲れたものや、重荷をおうものにもっとしっかりしなさい、とは言われませんでした。イエスは休ませてあげようと言われました。イエスは、わたしたちが心配ごとや、疲れをかかえているとき、休ませてあげよう、と呼びかけてくださる方です。それは一人でかかえこまなくてもよいということだと思います。耳をとざしていると、イエスの「休ませてあげよう」というよびかけにも心を閉ざしてしまいます。

「完璧でないと神さまから愛されない」という思いこみも、それは自分の作りだした人間の思いであって、神様の思いでないと気づきます。

疲れたときは無理をしないで、普段着をきてイエスに「疲れましたので、ゆっくりやすみます」といってよいのではないでしょうか。実家に帰ったように、ゆっくりイエスの前ではくつろぎ、弱音をはいてよいと、ワタシは思います。

空の鳥は、種もまかず、刈り入れもせず、倉も持ちません。しかし、神さまはそんな小さな鳥たちを養ってくださいます。

この鳥は、具体的にはカラスをさしています。カラスは雀のように値段もつかず、レビ記11:15、申命記14:14では、汚れた鳥として規定されていました。

しかし、食べてならないのは次のものである。・・・烏(カラス)の類すべて、

旧約聖書

申命記 14章12、 14節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


しかし、イエスはそんなカラスにも神様の愛のなかにあり、忘れられていなく、養われて生かされている価値ある存在であることを伝えています。

人も、空の鳥のように神様の愛のなかにおり、神さまは「あなたで良かった」と喜んでくださり、今日も「あなたには価値があるではないか」とよびかけてくださっていると、私は思います。

疲れたときは、イエスのそばにいき、ゆっくり休むことができますように。一人で抱えこんでいたら、周りの方たちと協力してたすけあってゆけますように。


★2月14日、ゆっくりと

何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

コヘレトの言葉 3:1‭, ‬11 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/ecc.3.1-11.新共同訳

~花や野菜はゆっくり育ちます。チューリップの球根に「急いで花をさかせてください」と言っても、咲かせることはありません。

神さまが与えられた時間のなかで、花はそれぞれの時間でゆっくり育ち、時期がきたら咲きます。なにごとにも時期があり、待つときがあることを花たちから私は教えられました。「自分にできることは精一杯して、あとは神様に委ねていよう」とゆったりと構えていれば、神さまは全てを備えてくださると思います。

私ですが、一般就労しているときに仕事が覚えれなく、焦っている時期がありました。成長するのではなく逆に回りに迷惑をかけたり、失敗して、「私ってなんなの?」と思っていました。

同期で入った同僚は昇給してゆき責任がまかせられてゆきました。しかし私は、能力的には無理でした。

心の病気を経験して治療するなかで、背伸びしたり、慌てる必要がないことを知りました。私は認められるために、私以外の自分になろうとしていたのですが、病気を通して神さまは「あなただからいいんだよ。」とよびかけている気がしました。

2023年の春にアスパラガスの種をまきました。なかなか芽がでずに、なるべく日だまりにあたるように毎日心配していましたが、ある朝小さな芽がひょっこり顔をだしていました。

たくさん収穫できるには、三年くらいかかるみたいです。私もアスパラガスのように、ゆったりと仲間とたすけあっていきてゆきたいです。


★2月15日、旅は身軽に

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

・・・。 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 

・・・だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

新約聖書

マタイによる福音書 6:26‭, ‬28‭, ‬34 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/mat.6.26-34.新共同訳(ユーバージョン)

~野に咲く花たちは、とてもシンプルで、神様に造られた色をもち、その色で生きています。タンポポの綿毛も余分なものがなく、軽いので、風にとばされて繁殖することができます。

神さまに信頼するとき、たとえ自分の思いどおりにならなくても、ゆったりできるのではないでしょうか。人生の中心に自分がいると、思いどおりにいかないと焦ります。しかし、神にゆだねるとき重荷が軽くなるのではないでしょうか。

立ち止まると、一人でなにもかも背負う必要はないことがわかります。人は重たすぎたらくたびれてしまいます。しかし、互いに荷物を抱えたら軽くなります。

しかし社会の価値観は、「もっと強くなったり、豪華になったらあなたは神様に愛される。今では足りないから色々なかおう」と誘惑してくるかもしれません。すると、だんだん「今の私にはたりないものがある」と心配になってきます。広告にも教えられますが、様々な広告をみすぎると、なんだか私は少し疲れてしまいます。

しかし花をみるとき、「いま」を大切に生きている命に感動します。花たちは、「いまのあなたで十分だよ。神さまがすべてを備えてくださるから」と、わたしたちを励ましてくれているような気が私にはします。

イエスは「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と言われました。

この価値(ギリシャ語でδιαφέρω)は、

※英語ギリシャ語辞典https://biblehub.com/greek/1308.htm


使徒パウロが獄中で書き、新約聖書におさめられているフィリピ書1章10節で、

本当に重要なことを見分けられるように。

https://bible.com/ja/bible/1819/php.1.10.新共同訳

という、「重要なこと」という箇所で、おなじギリシャ語が使われています。様々な情報があふれるなかで、イエスの声に耳をすますとき、本当に重要なことを見分けられるように、神は助けてくださると私は思います。なにもなくても、「私は神さまに愛されている。それだけで、私は十分だ。神に感謝」と思えたら、旅は身軽になってゆくと思います。

明日が心配なときがあります。心配するなといわれても、私は心配してしまうときがあります。しかし、心配のなかにあっても、ふと立ち止まって、道端で小さくても精いっぱい咲いている野の花や、懸命に生きる鳥たちをみつめると生きる力がわいてきます。その花のうしろから、神さまは「この花のように、いまのあなたで十分だよ。私はいつもあなたと一緒だよ」とよびかけているように私は思います。


シンプルに生きましょう。

幸せはいつもシンプルだからです。

マザー・テレサ

片柳弘史著『日めくり、超訳マザー・テレサ』(PHP)より


★2月16日、笑い

サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」

創世記 21章 6節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

~2023年4月28日のデイリーブレッドは、笑いがテーマでした。

https://japanese-odb.org/2023/04/28/%E7%AC%91%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E9%A0%82%E3%81%8D%E7%89%A9/

それを参考にしています。アブラハムは息子に、イサク(笑い)と名付けました。アブラハムについては、旧約聖書の創世記12章~25章にかかれています。アブラハムは、日本語wikipediaに詳細にかかれています。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%A0

人は悩んだり、ときには失敗します。しかし、「失敗を笑えるようになったら、回復ははじまっている」と思います。

また、失敗を話してくれた相手には、どこか「私にもそのような経験がある」と共感するのを感じます。むしろ、成功体験や強さだけをはなされると、「私とは次元が違う。あの方は強すぎる」と感じてしまいます。

そう考えると、弱さは自分の心だけに隠すものではないと、私は思います。失敗をわかちあうことは相手にも希望をあたえ、「弱さがあっても互いに助け合ってゆけばよい」と、生きる希望につながっていくと思います。

クリスチャンだからといって、旅行を控えたり、楽しいことをやめたりする必要はないと私は思います。神さまは趣味を与え、喜びをあたえられる方です。

神さまは、私たちが何かできるのではなく、私たちの存在を愛してくださる方。

「私はクリスチャンとしては失格だ」と、私は過去に勘違いしていました。私は自分の力に頼り、自分を神の立場においていたのです。イエスに弱さや失敗をはなしてみたら、気持ちが楽になるかもしれません。


★2月17日、やりなおせるんだよ

(少し聖書引用が長くなります)

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

ルカによる福音書 15:11‭-‬24 新共同訳

~聖書の引用が長くなりましたが、この箇所は「放蕩息子のたとえ」として、とても有名な聖書箇所です。間違いをおかし親の財産をつかい果たして帰ってきた息子に父親は、


『急いでいちばん良い服を持って来て、

この子に着せ、手に指輪をはめてやり、

足に履物を履かせなさい。

ルカによる福音書 15:22 

と父親は言われました。

自分の子どもが間違えたからといって、「今日からあなたは私の子ではない」といいませんでした。ときには間違い、まえへすすむだけではなく後ろにさがっても、父親は帰ってきた息子をゆるしました。

なにか失敗しても、おやは「ごはんを一緒にたべよう。大丈夫」といってくれるでしょう。放蕩息子のたとえでは、よくみますと、息子が謝罪する言葉のまえに父親がさきにはしりよってきて、ルカは次のように書いています。


彼はそこをたち、父親のもとに行った。

ところが、まだ遠く離れていたのに、

父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

ルカによる福音書 15:20 

息子が悔い改めの言葉を、このあとに父親にいいますが、その言葉をいうまえにまずさきにあったのが、息子にそそがれる愛でした。

わたしたちが「ごめんなさい」という前に、まず神さまのほうが近寄ってくださり、大切に抱きしめてくださるのです。

この父親は神様をあらわすといわれていますが、神さまは私たちがなにか特別なことをしたら受け止めるのではなく、私たちがどんなに失敗があっても、それがおわりではなく、新しい道をひらきゆるしてくださるのです。

「こんなわたしは愛される資格はない」というあきらめにのみこまれそうなとき、聖書の記事は決して失敗がおわりではないことを示しています。どんなに大きな過ちや、失敗をおかしても、人は新しく繰り返しやりなおす希望があたえられているのです。神さまにゆるされたものとして、他人の弱さを笑うのではなく、互いに支えあってゆけますように。


★2月18日、悲しみもあるよね

悲しみ、嘆き、泣きなさい。

笑いを悲しみに変え、

喜びを愁いに変えなさい。

ヤコブの手紙 4:9 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/jas.4.9.新共同訳(ユーバージョン)

~いつも悲しみなさいではなく、「悲しいときもあるよね」とヤコブはきもちに寄り添ってくれているように、私は感じました。

大切な人をなくしたとき、「悲しむな」といわれても涙はこぼれます。

パウロも、

喜ぶ人と共に喜び、

泣く人と共に泣きなさい。」

ローマ12:15

とかいています。

悲しみを否定しなくても、悲しみは悲しみとして受け入れ、悲しむ時があってよいのではないでしょうか。

たしかに、いつも明るく振る舞えたらよいことかもしれません。しかし無理に自分の気持ちをごまかしていたら、くたびれてしまいます。悲しみをきちんと悲しめることで、人は気持ちがリフレッシュされ、新しく生きる力がわいてくるのではないでしょうか。神さまは、「辛かったね」とよびかけて、ずっと一緒にいてくださる方。

ヤコブは悲しみなさいのあとに、

「主の御前でへりくだりなさい。」

ヤコブの手紙4章 10節、新改訳2017

と書いています。へりくだるとは、自分の力をすて、神さまにおまかせすることだと思います。悲しみはもちろん辛いことですが、神さまにおまかせして、神さまに甘えるチャンスのときかもしれません。神さまは、「私にまかせなさい。」といってくれて、羊飼いとなってわたしたちを守り、養ってくださる方。イエスにありのままの気持ちをうちあけ、一人でなにもかも抱えこまずに、互いに助けあってゆけますように。


悲しむ人々は、幸いである、

その人たちは慰められる。

新約聖書

マタイによる福音書 5:4 新共同訳


★2月19日、あなたのペースでいいんだよ

兄弟たち、

主が来られるときまで忍耐しなさい。

農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで

忍耐しながら、

大地の尊い実りを待つのです。

ヤコブの手紙 5:7 新共同訳

~花や野菜も種をまいて、ゆっくり成長します。神様も、わたしたちが成功しようが失敗しようが、温かく待ってくださるかたです。

私は作業所を利用していますが、草取りをするとき、自分が一時間くらいでできる範囲を決めます。

いっぺんにはできなくても、コツコツやればきれいになっていきます。1ヶ月かかるかもしれませんし、3ヶ月かかるかもしれません。もしかして、半年かかるかもしれません。

しかし、少しずつやっていますし、それで満足しています。調子が悪くすすめないときも、「今日はゆっくり休もう」と思います。

時にいっぺんに重荷を抱えてしまったり、慌ててしまうことがあります。

しかし、自然界をみると神様の時のなかで命はいかされ、待つときも必要であると感じます。

すぐに結果がでなくても、失敗や成功を繰り返しながら、人もゆっくり成長していいのではないでしょうか。

なかなか花をつけない植物があります。これは、花を咲かさないから抜いてしまおう、と思いがちです。しかし、神様は花を咲かせるまでずっと待っていてくださり、愛を注いでくださる方だと思います

また、花をさかせられないときもあってよいのではないでしょうか。神さまは私たちが、何ができるかではなく、あなたがいるだけで喜んでくださる方。

「人間は、まあこんなものだろう」とゆったりと構え、おだがいに助けあってゆけますように。


★2月20日、あなたはあなた

そこで、彼は我に返って言った。

『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、

わたしはここで飢え死にしそうだ。

新約聖書

ルカによる福音書 15:17 新共同訳

~我に返るは、ギリシャ語で

「自分自身に(ἑαυτοῦ)、

来る(原形はἔρχομαι)」となっています。

https://biblehub.com/text/luke/15-17.htm(英語ギリシャ語サイト)

直訳すれば、「自分自身に来る」なので、本当の自分を取り戻す、という意味だと私は個人的に想いました。

旧約聖書にも、

彼らが捕虜になっている地で自らを省み、

その捕らわれの地で

あなたに立ち帰って憐れみを乞い・・・

旧約聖書

歴代誌下 6:37 新共同訳


と書かれていて「あなたに立ち帰って」という表現があります。

あなたに立ち帰るとは背伸びしたり、無理をしたりして演技する自分ではないと思います。そうではなく、神さまに与えられた自分のサイズで、できないことはできないと自分の限界を謙虚に認め、互いにたすけあってゆくことだと思います。

親の財産をもらって、全財産をつかいはたしてしまったとき、彼は我に返り自分を取り戻しました。それから、彼は父親のもとに帰りました。父親は喜んで息子をうけいれ、ゆるされました。

他人に愛されたり、有名になりたいがために、体を酷使してしまうことがあります。また、親の期待にこたえるために、好きな人に愛されるために、無理をしてしまうことがあります。しかし、体と心はくたびれてしまうと思います。

神さまは、タンポポはタンポポとして、コスモスはコスモスとして、あなたをあなたとして大切につくられました。神さまにつくられた、あなたで十分ではないでしょうか。

ある人は、「今のあなたでは不十分だ。もっと努力しなさい」と評価するかもしれません。しかし、人の評価は限界があって、人によって見方がかわります。

神さまは「今のあなたで良かった」とよばれる方。まずは、神さまのよびかけに耳をすまし、等身大の自分を取り戻したいと、私は想いました。疲れているときや、しんどいときは無理をしないで、ゆっくり休んで、互いにたすけあってゆけますように。



★2月21日、最高の友達

イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。

新約聖書

マタイによる福音書 26:50 新共同訳

~イエスを裏切った弟子にユダがいます。しかし、イエスはユダを「友」(ἑταῖρος)とよんでいます。

ヨハネの福音書15・15でも、

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」


とイエスはいいます。

たとえ裏切るユダであっても、イエスからみては大切な友なのです。

人は、正しくいきたい熱意があっても、失敗をしてしまう時があります。私もキリスト教の洗礼をうけたてのころ、なにか気負ってしまいました。

「間違いはゆるされない」と勘違いしていました。不思議なもので、自分に厳しい生き方をしていると、他人の小さなことにも気になり、口をだしていました。私は、たとえ弱くてもイエスにゆるされることを信頼していなかったのです。

心の病気を経験するなかで、自分の限界を認めたとき、「背伸びしなくても、まちがえてもそれでもゆるされ、何度でもやりなおせる」という神の愛を感じました。

人はときに失敗をします。それでもイエスは私たちを「友」とよんでくださり、愛してくださる方。完璧になれなくても、理想どおりにいきられなくても、イエスにとっては、あなたは大切な存在です。「こんな私でも今日も愛されている」と信頼し、ゆったり失敗をお互いにゆるしあいながら、助けあってゆきたいと想いました。完璧になれなくてもよく、だからこそ人間であると思います。



★2月22日、いてくれてありがとう

主はあなたのことを大いに喜び、

その愛によってあなたに安らぎを与え、

高らかに歌って

あなたのことを喜ばれる」と。

旧約聖書

ゼパニヤ書 3章 17節、新改訳2017

~私はずっと自分を好きになれませんでした。「愛されるためには、特別な力が必要だ」と誤解していたからです。

カトリックの司祭で作家のヘンリ・ナウエンは、現代の文化を次のように分析しています。


わたしたちがいま生きている文化は、人間の価値を成功や生産性の度合いで計ります。「肩書きは何ですか? 

収入はどのくらいですか? 

何人の友達がいますか? 業績は?

どのくらい忙しいのですか? 

あなたの子どもは何をしていますか?」

 などと尋ねます。 

 しかし、 わたしたちは年を取るにつれて、このような点で成功する可能性がだんだん減っていくことを心得ておくことは重要です。わたしたちは肩書きを失い、友達、業績、多くのことをする能力を失っていき、何といっても、だ んだんと弱くなり、もろくなり、依存的になっていくことを感じます。

ですから、成功という観点から自分のことを見続けるなら、わたしたちの置かれた状況は誉められたものではありません!

 現代の文化の強い影響のせいで、脆弱さを肯定的に見るということは、とてつもなく大きなチャレンジです。

 たとえそうであっても、わたしたちはあえて弱さというものを、実を豊かに結ぶ絶好の機会と 見ようではありませんか。霊的生活における豊かな実りとは、愛にかかわることです。そしてこの豊かな実りは、成功や生産性とはきわめて異質なものです。

ヘンリ・ナウエン著『わが家への道』(あめんどう刊)、140頁


ナウエンは、現代は生産性が重視されるが、愛には生産性ではなく、弱さからも実りができると書いています。

私はこの文章を読んでから、「いつも、自分は何ができるか」でまいにちを必死に生きていることに気付きました。

かし、なにもできなかった1日でも、生きているだけで『わたしはあなたがいてくれて本当に嬉しい』と喜んでくれる神の愛を感じました。喜びは自発的なものであり、なにものにも強制されません。

山登りが好きな人に

「なぜ山をのぼるのか」と聞いても

「好きに理由はないよ。好きで、楽しいからのぼるんだよ」と返事がくるかもしれません。

神さまがあなたを喜ぶのも、それに似ていると思います。あなたがあなたであるだけで、神様は満足なさっていると思います。なぜなら、ひとりひとりは神さまによって大切につくられた最高傑作だからです。

療養中で布団からおきあがれないとき、みんなは働いているのに自分だけはと責めてしまうとき、焦ってしまいますよね。しかし、神様はわたしたちがいるだけで喜んでくださる方。ゆっくり療養なさってくださいね。

最近は親は子供に、夫は妻に、妻は夫に、さまざまな物を求めすぎてしまっているか心配です。理想だけを求めて「もっともっとこうして」というと、お互いにつかれはて、不満で1日が終わってしまうと思います。

神様がわたしたちがいるだけで喜んでくださるなら、お互い弱さを抱えた人間同士、互いに助けあってゆきたいと私は思いました。


参考サイト

片柳神父のブログ

祈りの小箱(211)『「できる」ことと「である」こと』

https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20150128/1422445966



★2月23日、広い場所

わたしを広い所に導き出し、

助けとなり 

喜び迎えてくださる。 ・・・

あなたは貧しい民を救い上げ 

高ぶる目を引き下ろされる。

旧約聖書

詩編 18:20‭, ‬28 新共同訳

「こうでなければ」と、狭い場所にいってしまうことがあります。たとえば、学生なら「学校は絶対にいかなければならない」とか、大人なら「1人で解決しなければならない」などです。しかし、広い視野にたって眺めてみると、学歴がなくても充実して暮らしているかたもいます。私は作業所を利用しています。できることより、できないことが沢山あります。しかし、サポートをうけたら、きもちが軽くなって生活できます。

今日の聖書の言葉にも、神さまは、広いところ(ヘブライ語で、מֶרְחָב)

https://biblehub.com/hebrew/4800.htm(英語ヘブライ語辞典)

に導きだし、とあります。詩編118・5でも、同じヘブライ語が使用されています。


苦しみのうちから

私は主を呼び求めた。

主は答えて

私を広やかな地へ導かれた。

旧約聖書

詩篇 118篇 5節新改訳2017


羊飼いが羊を大切に守り導くように、神様はわたしたちを導いてくださる方。失敗すらも宝物にしてくださり、新しくやりなおす力を与えてくださいます。

「絶対に失敗してはいけない」と思う必要はなく、スーパーマンにならなくてもいいと思います。そもそも、「失敗してはいけない」と想うのは、相手の期待にこたえないと見捨てられる、という不安があるからだと思います。しかし、神様はわたしたちが失敗しても、それでもずっと一緒にいてくださる方。「私は成功しようが失敗しようが、神さまに愛されている」と思えたとき、安心して自分の色で生きることができるのではないでしょうか。

人間なので、ときには狭い場所にはいりこみ、「こうでなければ」と思うときがあるかもしれません。そんな時は、自分が必要以上の荷物を抱えていることに気付き、荷物を軽くして、神さまに委ねたとき、またリフレッシュして生きる力がわいてくると思います。狭い場所では空気もうすくなってしまいますが、広い場所なら森林のなかのような、新鮮な空気で深呼吸できると思います。

なにもかもひとりで抱えこまないで、互いに助けあってゆけますように。


何もかも、自分の力でやろうと

する必要はありません。

マザー・テレサ

~自分の力だけで、何もかもできるはずがありません。できないことまでして失敗するより、できないことはできないと認め、助けてもらう勇気を持ちましょう。片柳弘史著『日めくりマザー・テレサ』(PHP)


参考サイト

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs18%281%29



★2月24日愛し、愛される

だから、主にいやしていただくために、

罪を告白し合い、

互いのために祈りなさい。

新約聖書

ヤコブの手紙 5:16 新共同訳

互いに罪を告白するとは、自分の失敗を隠さなくてもよいことを伝えているのではないでしょうか。

また、誰もが完璧ではなく、間違いをおかす可能性も語っていると思います。

互いにをあらわすギリシャ語はἀλλήλωνです。https://biblehub.com/greek/240.htm(英語ギリシャ語辞典)。新約聖書では、100回もこの言語が使用されています。

失敗しても、「もう、おしまいだ。みんなから、悪い評価をされる」と思う方がいます。一方、「精いっぱいやったんだから失敗はしかたがない。これも、成長の肥やしにしよう」とゆったり構える方もいます。人間は、失敗したことがショックなのではなく、考え方によってその後の気分が変わることがあります。

カトリックの司祭で作家のヘンリ・ナウエンは、『今日のパン、明日の糧』(日本キリスト教団出版局)で次のように書いています。


『しばしば受けることは与えることよりも難しいと感じられることがあります。 ・・・

しかし受けることも同じように大切です。というのも受けることで、与えようとする人に、その人には与えることのできる物があると知らせることになるからです。

「ありがとう、

あなたは私に希望を与えてくれた」

「ありがとう、あなたは私に

生きる理由を与えてくれた」、

「ありがとう、あなたは私の夢を

実現させてくれた」と言うことで、

私たちは与えてくれた人に、そのかけがえのない尊い賜物を気づかせることになります。 時によっては受ける人の見方を通して初めて、与える人が自分の発見することもあるのです。(122頁)』


私はここを読んで、素直に「受けとる」ことの大切さを感じました。いつもあなたは愛しなさい、助けなさい、ゆるしなさい、とだけ言われていたら、「受けるなんて甘えだ」と、もしかして思ってしまうかもしれません。しかし、あまりにも自分に固執すると、自分の考え方にこだわってしまうことになるのではないでしょうか。

たとえば、「神様はあなたの弱さも強さもふくめて、愛しているよ」といわれても、「わたしはそんなことは信じられません。強い人だけが愛され、愛されることは甘えです!」といったら、イエスは困ってしまうのではないでしょうか。なぜなら、イエスは「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)といわれたのであり、愛し、愛されることは、どちらも大切なのではないでしょうか。

生活のなかで、ときには困難があります。しかし、互いに支えあう仲間がいるとき、耐えられる苦しみになると思います。困難なときは確かに辛い時です。しかし見方をかえれば自分の身の丈をしり、互いに助け合うチャンスのときかもしれません。

ヤコブが書いているように、互いに祈りあい、時には誰かの優しさを信じて祈ってもらい、たすけあってゆけますように。


与えるだけの愛も、受け取るだけの愛も不完全です。真実の愛は、愛し、愛される交わりの中にこそあるのです。愛することに忙しい人は、愛されるための時間をとりましょう。愛されるばかりの人は、愛するための時間をとりましょう。

片柳弘史著『こころの深呼吸』(教文館刊)より


★2月25日、どんなに小さくても

そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

新約聖書

ルカによる福音書 10:21 新共同訳

知恵あるものとは自分の力に依り頼み、自分の力だけで何でもできる、と思っている者ではないでしょうか。

逆に幼子は、自分の力ではどうにもならない現実の中で無力さを感じています。しかし、神さまは自分のみの力では、どうにもならなく途方にくれているものにも、めぐみを示してくださいます。

イエスはこの箇所で、詩編8編2~3節を引用されているといわれています。


主よ、わたしたちの主よ 

あなたの御名は、いかに力強く 

全地に満ちていることでしょう。 

天に輝くあなたの威光をたたえます

幼子、乳飲み子の口によって。 

旧約聖書

詩編 8:2‭-‬3 新共同訳


つい、世の中で何か役に立っていなければ、自分はつまらないと考えてしまいがちです。「子供なんかより、もっと成長しなければ」と地上の力強さや、権力だけを求めてしまうときがあります。

ですが、神様の目から見たときには、命が何かの役に立っているかどうかなどまったく関係ないことが、イエスが幼子に目をとめていることから感じとります。

神さまに愛されつくられた一つひとつの命が、精いっぱいに生きているというだけで限りなく尊く価値があるというです。

「わたしは無力だ。つまらない人間だ」、そんな思いに取りつかれたときには、幼子の口に賛美をあたえられ、それを喜んでくださるかみさまの愛を思い出したいとおもいます。

子供の書いた絵が下手であっても、親は「下手だから、私の似顔絵は書かなくていいよ」とか、「もっと美しくかけないのか」といわないと思います。子供がせいいっぱい楽しく書いたその絵を喜んでうけとり、宝物にしている親もいると思います。

神さまにあたえられた命も、「今日は、あなたはすごい清い生活をだった」とか、「なにかできた」ことではなく、命そのものが神さまの喜びではないでしょうか。

自分たちがした業績を、真っ先にイエスに報告しがちです。しかし、神さまに愛されていることを、素直に喜んでゆけますように。



★2月26日、ゆるされて生きる

正しい人は七度倒れても、

また起き上がり・・・

旧約聖書

箴言 24章 16節、新改訳2017

~倒れるは、ヘブライ語で(נָפַל)です。

https://biblehub.com/hebrew/5307.htm(英語ヘブライ語辞典)

この動詞はヨシュア6・5では、

町の城壁は崩れ落ちる」と翻訳されています。崩れ落ちるとは、崩壊するという意味に近いと思います。生きていると、失敗してなにもかも、「崩れおちる」ような気持ちになるときがあります。

しかし、神様はわたしたちをゆるしてくださり、新しくやりなおす力を与えてくださいます。

人はどんなに清く生きようと想っても失敗してしまいます。自分を心の中心にすると、「私は失敗したからゆるされない」と、自分の固定観念にこだわって、自分を責めてしまうときが私にはあります。

しかし、神さまにゆるせない罪はありません。どんなに大きな失敗をしても、しかも一回だけではなく、7回やそれ以上失敗しようが、神様はわたしたちを繰り返しゆるし、新しくやりなおすことができるのです。最終責任を自分にする必要はなく、すべての重荷や責任をイエスは背負ってくださいます。

月は自分の力で耀くのではなく、太陽の光をあびて耀いています。自分の力のみで、なにもかも背負う必要はないのではないでしょうか。イエスの「あなたは大切な存在」とよびかけてくださる愛の光をうけて、あなたのままで耀くことができますように。


失敗しても、

また始めればいいのです。

マザーテレサ

~すぐれた画家は、間違った線を引いても消さずにそのまま描き続け、間違った線さえ美しい絵の一部にしてしまいます。わたしたちの人生もそれと同じ。失敗を、いつまでも悔やむ必要はありません。あきらめずに最後まで描き続け、失敗さえも美しい人生の絵の一部にしてしまいましょう。

片柳弘史著『日めくり超訳マザー・テレサ』(PHP )より


★2月27日、聞く

聞け、イスラエルよ。

旧約聖書

申命記 6章 4節新改訳2017

旧約聖書の申命記(しんめいき)には、神さまの声に聞くことの大切さがかかれています。

ユダヤ教では、申命記6章4節と民数記15章37節-41節に基づいている最初の節「聞け、おお、イスラエルよ、主は私たちの神、主はただ一人」の聖書のことばが大切とされています。シェマーの祈り」と、Googleなどで検索すると、詳しくでてきます。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%88%E3%80%81%E8%81%9E%E3%81%91(日本語wikipedia)

シェマー(שְׁמַע)とはヘブライ語で、「聞く」という動詞です。

https://biblehub.com/hebrew/8086.htm(英語ヘブライ語辞典)

イエスもマルコによる福音書12章29~31節で

イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

https://bible.com/ja/bible/1819/mrk.12.28-31.新共同訳(ユーバージョン)


と言われ、「イスラエルよ、聞け」といわれています。しかしどうして、聞くことが大切なのでしょうか。それは、自分の価値観や考えではなく、神さまはどんな方であるのか、どんな考え方を持った方であるのかに耳をすまし聞くことが大切だからだと、私は思いました。

たとえば、人は自分の考えにこだわると、「失敗はゆるされない」など、かみさまの教えに耳ををとざしてしまうことが、私にはありました。しらないうちに、自分の考えを神にしてしまい、それ以外の考えを否定してしまうと思います。

しかし、聖書にひらき、かみさまの言葉に耳をすますとき、失敗してもイエスによってゆるされる声が聞こえてきます。

イエスは、幼子のように無力でも神さまの助けの中で生きるほうが、どんなに素晴らしい行いよりも大切ではないのか、といわれたと思います。

しかし、それは自分のらしさや多様性を否定することではないと思います。神様の声とは、愛の声です。外交的でも、内向的でも、だれもが違って大切だと思います。神様の声とは、「これだけが正しい!」と押し付けるものではなく、そっと寄り添ってくれる存在だと、私は思います。かみさまは、あなたがあなたであることを喜んでくださる方。

イエスの「あなたはゆるされる大切な存在」という呼びかけに耳を傾け、助けあってゆきたいと、私は思いました。


★2月28日、自由になって

あなたたちは神の掟を捨てて、

人間の言い伝えを固く守っている。

新約聖書

マルコによる福音書 7:8 新共同訳

人は、どうしても社会や時代の価値観の影響をうけてしまいます。それは社会的な存在としてゼロにすることは難しいことかもしれません。しかし、イエスは神の言葉に耳を傾ける大切さをいわれました。

たとえば、イエスは性格や職業の異なるさまざまな背景をもつ、多様性を大切にされました。

イエスの弟子には、徴税人でお金をごまかして自分の財布をあたためていたマタイもおり、熱心党とよばれる、過激な派閥であるシモンもいました(マタイ10・4、熱心党のシモンについては、キートンさんの説明がわかりやすいです)

https://keaton511.com/christ-simon/


それでも、イエスはさまざまな個性ある弟子たちを大切にされました。

「クリスチャンなら、こうあるべき」というのは、よく考えてみたら、不思議な言葉かもしれません。なぜならイエスは一致も大切にされましたが、多様性も大切にされたからです。もしイエスの教えを大切にするなら、「クリスチャンとは、こうであるべき」とは決められないと思います。

また、社会では学歴があり職場の役にたっている人には価値があるというのも、不思議な言葉です。なぜなら、たとえなにもできなくても、ひとりひとりは神さまによって大切に創られた最高傑作だからです。生きているだけで尊く、かけがえのない存在です。社会の価値観や、言い伝えだけに頼ると、考え方が束縛されてしまうのではないでしょうか。

しかしイエスは、弱さを抱えていても、「あなたで大丈夫だよ。あなたを創ったのは私だから」と、よびかけてくださる方。

人間の言い伝えは大切です。しかし、それが神様の掟ではなかったら、いったん背負っている荷物や考え方を確認してみたら、気持ちがリフレッシュするかもしれません。

「言い伝え」はギリシャ語でパラドシィス(παράδοσις)です。https://biblehub.com/greek/3862.htm(英語ギリシャ語辞典)

パウロもこの名詞を

人間の言い伝えにすぎない哲学、

つまり、むなしいだまし事によって

人のとりこにされないように

気をつけなさい。

コロサイの信徒への手紙 2:8 新共同訳

https://bible.com/ja/bible/1819/col.2.8.新共同訳

と、言っています。

イエスの言葉は、わたしたちの生活をシンプルにしてくれます。余計な荷物やプライドおろし、身軽になって助けあってゆけますように。


あなたがあなたである、ただそれだけの理由で、あなたはわたしにとってかけがえのない存在だ。もし何もできなくなっても、わたしはあなたを愛している」。それが、キリスト教の説く愛。まったく無条件の愛なのです。このような愛に出会ったとき、わたしたちの心は初めて本当の安らぎを得られる。わたしは、そう確信しています。・・・。もし、「何もできない人間には愛される価値がない」と信じてこれまで生きてきたのなら、その思い込みを捨てることです。「何もできなくても、生きているだけで価値がある」と信じられれば、周りの人たちが注いでくれる無条件の愛も、きっと信じられるようになるでしょう。

片柳弘史著『何を信じて生きるか』(PHP)より



★2月29日、誤解されることもあるよね

総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

新約聖書

ルカによる福音書 4:29‭-‬30 新共同訳

イエスはいま、育ったナザレの村にいます。しかし、人々に誤解され、山の崖からおとされそうになりました。イエスの子供のときや、知り合いもいたかもしれません。22節にイエスのことを、ヨセフの子ではないか」と言われたのも、昔からイエスのことを知っていた方がいたのでしょう。

 故郷の人は、

「なんであの大工の息子がこのような権威をもって話しているのか」と驚いたのでしょう。びっくりさせてくれるような、めにみえる奇跡をしてくれたら、イエスを信じようと村の人はおもいました。しかし、イエスは特別な奇跡をおこないませんでした。

ナザレの村の人たちは、憤慨してイエスに殺意をもちました。

故郷の人たちは、先入観に支配されていました。自分の思い込みにしばられると、「大工のむすこではないか」と、心を固くなにしてしまうのです。ナザレの村の人は、自分の考え方にしばられていました。

イエスでさえ誤解されました。私たちも、どんなに精いっぱいやっても、誤解されることがあります。

しかし、完璧になれなくても人間の限界であると思います。人生も、ときには誰かに誤解されることがあります。「みんなに好かれなければ」と背伸びして違った自分になると、だんだん疲れてくると思います。

加藤諦三(たいぞう)さんは、『不安をしずめる心理学』(PHP)で次のように書いています。

自分でない自分になる」「自発的感情の喪失」ということの結果として、「他人に嫌われたくない」「人に好印象を与えたい」という思いが、いわば現代のペストとしてはびこるようになるのです。・・・

だから本当に思っていることを言わずに、相手に好かれようとして、楽しくもないのに「わあ、楽しい!」などと言うのです。 その一方で、心の中では「こんなことをしたら」、あるいは「こんなことを言ったら相手との関係は終わりになるのではないか」といつもびくびくと怯えています。


旧約聖書の詩編には

「沈黙して主に向かい、

主を待ち焦がれよ。」 

と、書かれています。私たちの現実は、黙っていることなど到底できない状況がいくらでも襲ってきます。そのため、自分の力や行いに頼ってしまい、神への信頼を失ってしまいやすいことがあります。しかし、力を抜いてリラックスして、「神様、あとはおゆだねします」と信頼してよいのではないでしょうか。旧約聖書のイザヤ30章15節にも、

『立ち返って静かにすれば、

あなたがたは救われ、

落ち着いて、信頼すれば、

あなたがたは力を得る。』


と書かれています。

それは、自分の行いに頼るのではなく、「こんなわたしでも、神さまは愛してくださる。なにがあっても、神さまはわたしを喜んでくださる」という安心だと思います。

神様のまえで「あれもしなければ、これもしなければ」と焦る必要はないと思います。静かにするとは、イエスはあなたがいるだけで喜んでくださるということです。なにもできなくても、失敗つづきであったとしても、「どんなときも、あなたが大好き」とよびかけてくださると、私は思います。

イエスも誤解されたことをしり、私はなんだか安心します。私も善意でしたことが、五回されたことがあり、思い悩んだことがあります。しかし、イエスは「人間は完璧じゃないから、ゆるしあっていこうね」と言っているように、私には聞こえてました。

完璧を目指すのではなく、互いに弱さをたすけあってゆけますように。

参考になるYouTube

(一時間くらいの動画です)

ハーベストタイム、「ナザレでの伝道」

https://youtu.be/PekbKvFPNl8


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ニチニチソウの花