今日の言葉(1月)


1月

★下記にある日付について

文章の内容と日付は関係ないです。こころの深呼吸』(教文館刊)のように、366日ぶんの文章を目標としています。


★1月1日

あなたの神はあなたを喜びとする。

旧約聖書

イザヤ62・5、聖書協会共同訳

 ~タンポポにはタンポポの、バラにはバラの美しさがあると思います。タンポポが、「私は美しくないから、きょうから赤色の花になります」といったらびっくりします。

人間も同じだと思います。一人ひとりは、神さまに愛されて造られ、その人にしかない美しさがあります。せっかく大切に造られているのですから、背伸びして自分を変えてみたり、違った誰かになる必要はないと思います。あなたはあなただから美しいと思います。

人は、人の価値を何ができるかで測ろうとしがちです。そのため朝から晩まで「何かしなければ」と心がなかなか休まりません。

人は今の自分に不満だと、その厳しさは他人に向かってしまいやすいと思います。「私はこんなにがんばっているから、あなたもしっかりしなさい」と理想を求めてしまいます。それだとお互いにくたびれてしまうのではないか心配です。

神さまは何かができるからではなく、「あなたがあなたである」だけで喜んでくださる方。なにもできなくても、生きているだけで喜んでくださる方。等身大な相手や自分を、そのままで大切にしてゆきたいと思いました。あなたがいてくれるだけで十分です。

参考にしたサイトです

片柳神父のブログ

祈りの小箱(211)『「できる」ことと「である」こと』

https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20150128/1422445966

 


★1月2日

「人間の心は自分の道を計画する。

 主が一歩一歩を備えてくださる。」

旧約聖書

‭‭箴言‬16:9、新共同訳‬‬

~回り道や挫折などを無駄だと考えてしまいがちです。しかし、神様の目からみたら失敗や回り道さえも宝物にしてくださるとおもいました。

効率ばかり優先すると、速いことばかり考えて疲れてしまいます。自分の思ったとおりにならなくても、「ゆったりいこう」と思ったら、なんだか心がリフレッシュします。

もしかして、自分の思い通りにならない時こそ、チャンスのときかもしれません。神様が私たちの道を作ってくださり、準備してくださるからです。先へ先へすすむことだけを考えずに回り道さえも楽しんたり、道端に咲いている花のまえに立ち止まったりして、慌てずにすごしてゆきたいです。

試験に失敗しようが成功しようが、精いっぱいやったら十分だと思います。「絶対に合格しなさい」といわれたら緊張してしまいます。結果がどうなっても、「結果がどうでたれ、あなたはどんなときも大切な存在」といわれたら、また新しい希望がわいてくると思います。

マザー・テレサは、「失敗しても、また始めればいいのです」と言っています。失敗はまるで最高の先生かもしれません。失敗を通して人は成長すると思います。失敗しても何度もやりなおせるって幸せなことだと思います。互いに弱い人間同士なので、ゆるしあって、助けあってゆきたいです。


先のことが不安で夜も眠れない。

そんなことでは体力が落ち、

判断力も鈍って、

ますます状況を悪化させてしまいます。

どうにもならないことは

神さまの手にゆだね、

自分が今できることを精いっぱいやる。

どんな場合も、それが一番の対応策です。

片柳弘史著『やさしさの贈り物』 (教文館)より

 


★1月3日

「神こそ私の避難所、また安全地帯です。

 この神への信頼を失うことはありません。」

旧約聖書

‭‭詩篇‬ ‭91:2‬ 、リビングバイブル

なにもかもうまくいかない時、自己評価が低くなり「自分はつまらない存在なんだ」と自信を失ってしまうことがあります。

そんなときは、わたしたちは神さまによって創られ愛されている存在であることを思い出したいと思いました。

実は「自分はつまらない」と決めているのは、一番近くにいる自分だったりします。

私は、「自分でなにもかもできる。自分が安全地帯だ」と思っていたときがありました。色々な荷物を一人で抱え、自分の力を過信してしまったのです。あるひ、めまいがとまらなく体もまったく動かなくなりました。体は荷物の重たさにたえられず、症状を通して限界を教えてくれたのです。

それから私は、素直に神さまに甘えるようになりました。神さまが避難所であることを知りました。

神さまは理想どおり生きられない私たちでも、等身大のまま受け入れ、愛してくださる方。その愛にきづくとき、「欠点もあるけれど、神さまに愛されたこんな自分が大好き」という安心が生まれると思います。

愛されるために試験に合格したり、たくさん献金したり、他の誰かになったりする必要はないと私は思います。神さまはいまの私たちをみて「あなたで良かった」と喜んでくださるからです。

スズメがキリンになる必要はなく、キリンはスズメになる必要はないと思います。スズメはスズメのサイズで、キリンはキリンのサイズとして、神さまはベストにつくられました。わたしも身の丈な自分でゆったりと助けあって、マイペースですごしてゆきたいと思いました。

 


★1月4日

『隣人を自分のように愛しなさい。』

新約聖書

‭‭マルコによる福音書‬ ‭12:31‬ 、新共同訳‬‬

イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」と言います。単に、他人を愛しなさいだけではなく「自分のように」と言います。人は自分を愛さなければ、他人を愛することは難しいと思います。

しかし、欠点のある自分を大切にすることは、なかなか私には困難でした。私はこだわりが強く、自分の考え方を変えるのをいやがっていたからです。

しかし、自分の考え方にこだわると、新しい空気がはいってこなくて、窒息しそうになりました。わたしはお手上げをして、神さまにゆだねました。

どんなに弱く欠点だらけであったとしても、神様はあるがままのわたしたちを愛してくださる方であることを知りました。「こんな程度ではだめだ」と自分に厳しくするのではなく「これくらいで上出来だ」と感謝したいと思うようになりました。

もし理想が高すぎたら理想を下げたら、リラックスするときがあります。背伸びするのはやめて身の丈のわたして、助けあってゆきたいです。


「隣人を自分のように愛しなさい」

と言いますが、

人間は、自分を愛するようにしか

隣人を愛することができません。

自分を厳しく裁いて

駄目な人間だと決めつける人は、

隣人も同じように厳しく

裁いてしまうのです。

まずは、自分を愛する

ことから始めましょう。

片柳弘史著『こころの深呼吸』 (教文館)より

 


★1月5日

「主が懲らしめるのは、

あなたが憎いからではなく、

 あなたを愛しているからである。」

新約聖書

‭‭へブル人への手紙‭12:6‬ ‭リビングバイブル

~私は失敗しないように生活してきました。ある日失敗して落ち込んでしまいました。

しかし、失敗しただけで「もう終わりだ」と決めつける必要はありませんでした。失敗を通し、自分の苦手なことをしり、自分とはなにかがみえてきたからです。

もしかして、今の社会はなんでも急ぎがちになっている気がします。効率さや早さを求めて、お互いに「もっと早くしなさい!」と不平をいっている気がします。しかし、冬がこなければ春になって桜が咲かないように、待てば必ず綺麗な花を咲かせる時がきます。咲かせるだけがすべてではなく、人はゆっくり待つ時間も大切だと思いました。

渡辺和子シスターは、

どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。

と『置かれた場所で咲きなさい』

(幻冬舎刊)で書いています。

自分の気持ちが整理できないときは、早急に答えをだす必要はないと思います。私の精神科の主治医は、焦らせないで、ゆっくり気持ちがみえてくるまで私を待ってくれます。おそらく私がなかなか気持ちをはきだすのに、時間がかかるのを知っているのかもしれません。

神様も、わたしたちを待ってくださり、失敗しもやりなおす力を与えてくださる方。失敗は確かにいやなことですが、失敗と仲良く友達になって、失敗さえも笑えるようにゆったりと生活してゆきたいと思いました。


失敗しても、

また始めればいいのです。

マザー・テレサ

『日めくり超訳マザー・テレサ』

(PHP刊)より

 


★1月6日

喜び、花を咲かせよ 

野ばらの花を一面に咲かせよ。

旧約聖書

イザヤ書35:1、新共同訳

~誰かに認められるために、大きなことをしなければならない、と誤解してしまうことが私にはあります。つい、大きなことができたら自分には価値があると思いこんでしまうのです。

現代は生産性で人間の価値をはかろうとする傾向があると思います。「あなたは何ができますか?」で評価されるのです。そのため、何かしなければならない、と私も焦ってしまうことがあります。

そんな時は、道端に咲いている花を思い出したいです。神さまの置かれた場所で、精いっぱい自分の花を咲かせています。人間も同じではないでしょうか。たとえ何もできなくても、神さまはそこにいるだけで、私たちを喜んでくださる方。「あなたがいてくれるだけで、本当に嬉しい」と喜んでくれる方。

疲れたときは自然の中にいると、心はくつろぎ安らぐかもしれません。「あなたは何ができますか?」ではなく「あなたがあなたであるだけで私は嬉しい」と、お互いの命を喜べたらすてきだと思いました。



1月7日

自分はすぐれた人物だと自己宣伝をする人がいますが、私はそのまねをするつもりはありません。彼らはただ、お互いに比較し合ったり、つまらない尺度で自分を評価したりするのです。なんと愚かなことでしょう。

新約聖書

コリントⅡ 10:12、リビングバイブル

~「私はなにもできない」と自信を失ってしまうときがあります。過去に、職場で仕事が覚えれなく「あなたは人の半分しか仕事ができない」と、いわれて、すっかり勇気をなくしていました。

神さまの愛を信じるには、なかなか簡単には信じられない私がいました。私は社会の価値観にそめられていたからです。しかし、私はますます疲労がたまり、体が動かなくなりました。

抗うつ薬をのみ、休み、みんなのサポートをうけて、だいぶ体が動くようになったときに、私は神さまにお手上げをしました。するとリラックスできました。背伸びして自分を大きくみせようとする必要はないと思いました。

聖書は、お互いに比較しあうことは愚かだと言います。一人ひとりは神さまによって作られた最高傑作。すずめはすずめだからよく、猫は猫だからよいと思います。比較するといつも誰かと競争して、相手がライバルにみえてきます。比較をやめれば、助け合うパートナーになると思います。

 私は聖書をよんで、「私もかみさまによって大切につくられた。こんな私でも、まあいっか」と、楽観的に考えられるようになりました。神さまは、「あなたが生まれてくれて本当に良かった。あなたに会えて本当に嬉しい」と、私たちを喜んでくださる方。他の誰かになる必要はなく、神さまは「あなただからよかった」とよびかけてくださると思います。「私は私にしかなれなく、あなたはあなたであるから素敵」だと思います。今日もありのままのあなたの輝きを大切にできますように。

わたしたちは、競い合うためでなく、

愛し合うために生まれてきたのです。

マザー・テレサ

~周りの人を危険なライバルと思い込み、争い合って生きる人生と、周りの人を大切な仲間と信じ、助け合って生きる人生。いったいどちらが幸せでしょう。・・・。わたしたちはもっと偉大なことのために生まれてきました。わたしたちは、愛し合うために生まれてきたのです。片柳弘史著『日めくりマザー・テレサ』(PHP)


 

★1月8日

あなたがたは、神にかたどって造られた

新しい人になるように、

新しい性質を身にまといなさい。

新約聖書

エペソ4:24‬、‭リビングバイブル

~古い人とは、「社会で成功したものだけが勝ち組」と決め、失敗したらすべては終わりだと、恐れていることだと思います。

新しい人になるとき、たとえ成功できなくても社会で失敗の連続であろうとも、「神さまは、どんな時も私を愛してくださる」と知ることができると思います。

どれほど弱く欠点だらけであったとしても、神さまは「大切な存在」と呼んでくださる方です。精いっぱいやって失敗したとしても、それは決して無駄な失敗ではないと思います。

私は失敗しないように、人生で転ぶことを心配するときがあります。それは「失敗なんてゆるされない」と誤解しているからだと思います。

失敗してもやりなおせるし、自分の弱さすらも見方をかえれば長所になると思います。ふるい価値観ではなく、神さまのつくられた新しい価値観で、互いに手をとりあってゆきたいとおもいました。

新しい価値観とは、難しいものではなく、とてもシンプルなことだと思います。神さまは日々新しくゆるしてくださり、新しい朝を与えてくださいます。前進するだけが全てではなく疲れたときはゆっくり休み、充電できますように。


 

★1月9日

神はご自分が造った

すべてのものを見られた。

見よ、それは非常に良かった。

旧約聖書

創世記1章31節新改訳2017

~他人の評価を気にしすぎて、振り回されることが私にはあります。他人の声によって気分があがり、気分がさがる。そんな毎日で心配で夜も眠れないときがあります。

しかし、神さまからの評価は変わらないと思いました。神さまはいつも、「あなたを作って本当にに良かった」とよびかけてくださる方。一人ひとりは神さまに作られ、誰もが神様の最高傑作です。タンポポがバラになれなく、バラはタンポポになれません。絵の具でタンポポの黄色を無理やり青にしてしまえば、タンポポは弱って枯れてしまうかもしれません。

人も同じだと思います。神さまに作られた自分の花を咲かせること。たとえ欠点がありできないことがあっても神さまは「あなたで良かった」と喜んでくださると思います。あなたがあなたであること。それが一番だと思います。

 


★1月10日

神がキリストにあって

あなたがたを赦してくださったように、

互いに赦し合いなさい。

新約聖書‭‭エペソ人への手紙‬4:32‬‭、

リビングバイブル

~「もっと成長しなければ、みんなはわたしを見棄ててしまう」と思い、相手の好みにあわせてカメレオンのように、自分の気持ちを変えることがあります。「弱いと見すてられる」という不安があります。

しかし聖書をよんで、弱くて不完全な自分であっても、神さまはゆるし、愛してくださる方と知りました。私ができるのは、そんな自分をいじめるのではなく、イエスのゆるしを信じることだと思いました。

神さまがゆるしてくださるのに「私はゆるされない」と否定するのは、もったいないことです。イエスにゆるせない罪はありません。私たちは何度もやり直すことができると思います。今日も手をとりあって、神さまに愛された命を大切にすることができますように。

 

誰にも頼らず、一人で生きられる人はいません。「自立する」とは、誰かのお世話にならなければ生きられないことに気づき、感謝できるようになること。誰かに支えられながら、他の誰かを支えられるようになることです。

片柳弘史著『やさしさの贈り物』 (教文館)より

 

※ギリシャ語メモ

~「赦し」のギリシャ語は、基本形がカリゾマイ(χαρίζομαι)の動詞が使用されています。これは、赦しをうけとるがわの業績に関係なく、喜んで自由にゆるしを与える意味があるみたいです。

参考サイト、英語ギリシャ語辞典

https://biblehub.com/greek/5483.htm

なお、コロサイ3・13でも、カリゾマイ(χαρίζομαι)が使用されています。

互いに忍び合い、

責めるべきことがあっても、

赦し合いなさい。

主があなたがたを赦してくださったように、

あなたがたも同じようにしなさい。

コロサイの信徒への手紙 3:13 新共同訳

 


★1月11日

大きなストレスがのしかかっているときは、普通に暮らすだけでも疲れます。そんなときには、周りの人を思いやりながら、普通に暮らすだけで十分に立派。何か特別なことをしようと、あせる必要はありません。

片柳弘史著『やさしさの贈り物』

(教文館刊)より

~※感想です。

春は環境の変化がありなにかと慌ててしまいます。私は過去に学校でいじめられいけなくなり、なにもしてない自分が嫌いでした。また、試験におちたり、仕事ができないといわれたり、色々ありました。

しかし、時間がたつにつれて夜空の星の美しさに気づいたり、ゆっくり本とにらめっこしたり、マイペースになりました。ゆったりする時間が大好きです。

神さまは、一人ひとりに異なるペースを与えたと思います。カタツムリはカタツムリのスピードで、私は私のスピードでゆったりゆったり、助けあってゆきたいです。特別なことができなくても生きてるだけで十分です。

 

人生が自分の思った通りにならないからといって、がっかりする必要はありません。すべてが自分の思った通りになったとすれば、結局、自分が思っている程度の人間しかなれないからです。思った通りにならないからこそ、時々、思いかげない試練がやってくるからこそ、わたしたちは自分の想像をはるかに超えて成長することができるのです。

 欲しくないものを与えられたり、とっておきたいものを奪われたりするのは、神さまがわたしたちを成長させたい、もっと幸せにしたいと願っているから。与えられるものを喜んで受け取り、取り去られるものを手放す勇気を持ちたいと思います。

片柳弘史著『ほんとうの自分になるために』(PHP刊)より

 


★1月12日より

片柳神父は、

「周りの人から受け入れられず、自分でさえ自分を受け入れられないときでも、神さまはあなたを受け入れて下さいます。」

というマザー・テレサの言葉を紹介して、

次のように本書でいいます。

わたしたちは、自分で勝手に「こんなはず」の自分、理想の自分を作り上げ、その理想通りにならない自分を責めてしまうのです。わたしたちを苦しめるのは、起こったそのものではなく、実はわたしたち自身なのです。

「自分でさえ自分を受け入れられないときでも、神さまはあなたを受け入れて下さいます」とマザー・テレサは言います。神さまがありのままのわたしたちを受け入れて下さっているのに、「いえ、それでもわたしは自分を受け入れられません」と言い張って、自分を苦しめる必要があるでしょうか。自分で自分を苦しめるのはもうやめましょう。自分をゆるしてあげましょう。

片柳弘史著『世界で一番たいせつなあなたへ』 (PHP刊)より

~※本を読んで思ったことです。

これを読んで、わたしの心には「こうでなければならない」という思い込みが生活のなかで沢山あることに気づきました。自分の考え方に縛られすぎると、「自分は正しく相手は間違っている」と決めてしまいます。

特に宗教は気を付けなければ、「自分の組織だけが真理で、あとは偽りだ」と思ってしまう危険性だと思います。そして相手に「こうでなければならない」と押し付けてしまいます。一番犠牲になるのはそばにいる子供で、自由がなくなり、お互いにヘトヘトになってしまうと思います。

道端に咲く花がもし黄色だけだったら、美しさは半減してしまうと思います。赤や黄色や白のチューリップは色は違うけれど、違いがあるから美しいと思います。

自分の宗教の正しさを熱心に主張するよりも、多様性や異なる意見に耳を傾けることは大切だと、自然にある花を通して、神さまが教えてくれているような気がします。ひとりひとりは個性があります。それを無理やり変える必要はないと私は思います。なぜなら。ひとりひとりは神さまにつくられた最高傑作だからです。タンポポがアジサイよりすぐれていて、桜がタンポポより優れているとはいえなく、どれも美しいと思います。神さまにつくられた、あなたがあなたであること。それで十分だと思います。



★1月13日

つらくても

時間が助けてくれる。

渡辺和子シスター

『日めくり渡辺和子』(PHP刊)

~※私の感想です。

心の傷は回復するには時間がかかると思います。「早く立ち直らないと」と焦るのではなく、ゆっくり向き合いたいです。また、その時間はひとりひとり違うと思います。

私も体が動くときと、動かないときの繰り返しです。失敗したり、回り道をしたり、試験に落ちたり、いろんなことがありました。動物たちが冬眠するように、人もゆっくり休む時間は大切だと思います。

一年中咲いている桜はなく、一年のほとんどは花は咲かず、養分をためています。人も、花を咲かせれないときは、ゆったり、ゆったりでよいと思います。生きているだけで十分立派だと思います。



★1月14日

それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

新約聖書

マタイによる福音書 25:15 新共同訳

神さまは、一人一人に異なる才能を与えたと思います。タラントンとは、ローマのお金の単位です。1タラントンは6000デナリオンです。1デナリオンが、1日分の給料なので、1タラントンは6000日分の給料くらいだったみたいです(参考サイト、キートンさんのサイト)。

一タラントンしか与えてくれなかった、と卑屈になる必要はないと思います。

小さなものしか神さまは与えてくれなかったとしても、神さまはひとりひとりを知っていたので、「それぞれの力に応じて」と聖書に書かれていると思います。

私は過去に、花の種をまきすぎて、大量に苗ができてしまいました。水やりもあるし、世話をするだけでヘトヘトになってしまいました。身の丈にあった暮らしの大切さを痛感しました。

いま社会は「もっと他人より多くもとう」となど、様々にものをふやそうとして、たくさん持つことが幸せだとおもわれている気がします。他人と比較して自信をなくし、「私はなにもできない。つまらない人間だ」と落胆している気がします。

しかし、比較をやめて、どんなに小さなことでも、それを大切にしたら人は幸せになれると思います。

生きるのが疲れているときは、もしかして、幸せの基準がたかすぎるきがします。小さなことしかできなくても、生きているだけで十分に立派だと思います。

タンポポにはタンポポの美しさがあり、無理に桜になる必要はないと思います。

神さまは「あなたがあなたで嬉しい」と呼びかけてくださる方。物はすくなくてもシンプルになって助けあってゆけますように。


できないのではありません。

できることが違うだけです。

マザー・テレサ

『日めくりマザー・テレサ』(PHP)より

~※本を読んで思ったことです。

なにもかもできなくても良いのではないでしょうか。できないこと、できることを知り、力をあわせればよいからです。スーパーマンになろうとして背伸びして疲れがたまっていたら、自分が人間であることを思い出せますように。



★1月15日

実に、あなたがたこそ、

わたしたちの誉れであり、

喜びなのです。

新約聖書

テサロニケの信徒への手紙一 2:20、

新共同訳

誉れは、ギリシャ語ではドクサ(δόξα、英語ギリシャ語サイト)です。ドクサは神に対して使われることがおおく、新約聖書では神の栄光(ドクサ)などと使われています。しかし、パウロはドクサを神だけではなく、仲間たちに対しても使っています。

「あなたがいてくれて本当に嬉しい」という、パウロの喜びが伝わってくるようです。なにかができなくても、あなたが生きているだけで大切なそんざい。今日も神さまにつくられた命を、互いによろこびあってゆけますように。


野の花は、

自分の存在にどんな意味があるのかと、

考えて悩むことも、

他の花と美しさを

競い合うこともありません。

ただ、自分の花を

精いっぱいに咲かせるだけです。

野の花から、生き方を学びましょう。

片柳弘史著『こころの深呼吸』 (教文館)より



1月16日

あなたがたの思い煩いを、

いっさい神にゆだねなさい。

神があなたがたのことを

心配してくださるからです。

新約聖書

ペテロの手紙第一5章7節、新改訳2017

~頑張っても自分が正しく評価されないとき、理想どおりに生きられない自分に対してイライラすることがないでしょうか。しかし「こうでなければならない」という思いを手放せば、心はすっと軽くなると思います。

神さまはたとえ理想どおりに生きられなくても、現実の私たちを愛してくださる方。幸せのハードルが高すぎたら、ハードルを少しさげてみたらいかがでしょうか。他人に認められるために、「あれもしなければ、これもしなければ」と背伸びすると、他人にあわせてばかりで自分がますますわからなくなってしまうことがあります。しかし、神さまはあなたがあなたであるために、大切につくられました。

立ち止まって「神さまから愛されている。これだけで十分幸せ」であることに気づくと、ちょっとだけ心が休まるように感じます。心配事は神さまにゆだね、自然体の自分ですごしてゆきたいです。

★1月17日

を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。

新約聖書

コリントの信徒への手紙二 3:9、新共同訳 

~イエスがくるまえは、神さまに認められるためには、律法(宗教の掟)が支配していました。「もし~したらすくわれるよ」とか「たくさん良いことをしないと神さまは喜ばれないよ」など、条件付きの救いでした。がんばって神さまに認められることによって救われる必要がありました。613くらいの律法があったみたいです。しかしパウロは、イエスがきてからは自分の務めは人を義とすることである、といっています。人を義とするとは、相手の欠点や弱さを探し批判するのではなく、たとえ弱さを抱えていようとも、恵みによって救われるという神の愛を伝えることだと思います。「神はあなたを愛している」ということです。パウロは「務め」(ディアコニア、διακονία)という言葉を、1コリント12章4節~6節でも使っています。

賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。

新約聖書

コリントの信徒への手紙一 12:4‭-‬6 新共同訳


一人ひとりは、神さまから異なる務めがあたえられている、とパウロはいいます。自分を変えて他の人になる必要はなく、神様は「あなたで大丈夫だよ」と喜んでくださっている気がします。クリスチャンとは「こうであるべき」とは、決していえないと思います。なぜなら多様性があるからです。

あるクリスチャンは、「オルガンだけで賛美するのが伝統的だ」というかもしれません。しかし、外国では躍りやギターやドラムなどで神さまに讃美歌を歌うことがあります。私はどれも素敵だと思います。

わたしたち一人ひとりの賜物は違いますが、パウロの語るように相手を罪に定める必要はないと思います。互いに弱さを抱えた人間同士、互いに助け合って、ゆるしあってゆけますように。


★1月18日、失敗したっていいんだよ

主はシオンを慰め 

そのすべての廃虚を慰め 

荒れ野をエデンの園とし 

荒れ地を主の園とされる。 

そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。

旧約聖書

イザヤ書 51:3、新共同訳

※イザヤとはだれかは、

キートンさんのサイトがわかりやすいです。

2022年の児童生徒の自殺者数が512人と過去最多とニュースで報道されていました。その自死の要因として、学業不振が第一の理由になっていました。失敗がするのが人間ですが、いつのまにか失敗がゆるされない社会になっていないか、心配になりました。

親や誰かの期待にこたえることは、たしかに成長にとって大切かもしれません。しかし、その期待にこたえきれないとき、「弱い人間はつまらない」と命を否定するまでに至る要因を、社会がしらないうちに子どもたちに圧力を与えているかもしれないと想いました。期待にこたえられなくても、人間にはだれもが弱さがあっていいと思います。しかし、ゆとりをなくしてしまいがちな社会で、「失敗したって、いいんだよ。やりなおせるんだよ」と子どもたちに届ける方が少なくなっているかもしれません。

イスラエルの民たちは、繰り返し神さまに背きました。イエスの弟子たちもイエスを見捨てました。パウロはクリスチャンになるまえまで、クリスチャンたちを迫害していました。人間の目からみたら、みんな最悪の状況です。しかし、イエスは復活したあと、弟子たちをちっとも憎んでいなくゆるしました。イエスは、パウロにもたいせつな使命を与えました。イザヤは、

わたしの民よ、

心してわたしに聞け。

 わたしの国よ、

わたしに耳を向けよ。 

イザヤ書 51:4 


とイスラエルの民たちに語りました。

「あなたがたの常識ではなく、心して神さまの言葉に耳をかたむけよ」ということだと思います。神さまの言葉に耳をすますときに、そこにはゆるしの世界が響いています。それは、どんなに荒れ地でぼろぼろで、失敗や過ちの連続であったとしても、神さまはゆるしを与え、やりなおす力を与えてくださるということだと思います。

信仰生活をおくるなかで、私自身も自分の弱さを感じることがあります。自分をチェックするたびに、さびがでてきます。

しかし、ある本に信仰の中心はあなたではなく、信仰の中心は神さまの恵みだというのです。私は自分が、人生も他者の評価も支配下におきたいと神の立場においてきたことに気づきました。自分にも周りにも、自分の思いどおりにしたいと、焦っていたのです。

いまは、ちょっとずつですが自分のできることは精一杯やって、後は神さまに委ねれば十分だと思うようになりました。身の丈で暮らしてゆこうと想いました。

イザヤは、神さまは荒れ野をエデンの園にするといいます。神さまは、私たちの弱さや失敗というマイナスとみえる荒れ野からも、最善の場所を作ってくださるのではないでしょうか。

神さまは、私たちの弱さからも恵みを示してくださるのです。片柳神父は

イエスが言う「子どものようになる」とは、幼い子どものように、自分が愛されていると何の疑いもなく信じることだろう。他の子には他の子のよさがあり、自分に自分のよさがある。みんな神さまから愛されたかけがえのない存在なのだから、競いあう必要などまったくないと確信できる心を、幼い子どもたちに学びたい。

片柳片柳弘史著『ぬくもりの記憶』 (教文館)

と書いています。

互いに助け合い、ゆるしあってゆきたいです。



★ 1月19日、弱さは宝物

すると主は、

「わたしの恵みはあなたに十分である。

力は弱さの中でこそ十分

に発揮されるのだ」と言われました。

だから、キリストの力が

わたしの内に宿るように、

むしろ大いに喜んで

自分の弱さを誇りましょう。

新約聖書

コリントの信徒への手紙二 12:9、新共同訳

私には、なんでも自分の思ったとおりにして。相手を動かしたい欲望がありました。しかし自分の思ったとおりにならないことにいつもエネルギーを使い疲れてしまいました。

思った通りにしたいのは、自分にも「こうであるべき」と決め、自分に厳しくなっていることに気づきました。完璧じゃなくても「私は私として神さまに愛されている」と知ったとき心はホッとしました。

自分の弱さをゆるすと不思議なもので、相手にも「こうであるべき」と押し付けないものなんですね。暖かい空気がながれ、お互いに楽になりました。

人は強さを求め、「こうであるべき」と決めがちです。しかし、神様は「こうでなければならない」と押し付けない方。たとえ弱く不完全であっても、私たちを受け止めてくださる方。そして、私たちのもつ弱さをも宝物にしてくださる方です。神さまに大切に造られたお互いの命を喜びあうことができますように。


状況を自分の思ったままにコントロールしようとする人の周りには緊張感が漂うが、状況をあるがままに受け入れられる人の周りには安心感が漂うのだ。状況をコントロールしようとする人は、心の中で自分自身も厳しくコントロールしようとしている。理想通りの自分になろうとして、緊張しながら生活しているのだ。その緊張感が、周りの人たちにも伝染してゆく。あるがままの自分を受け入れ、あるがままの状況を受け入れることができる、心のおおらかさを持ちたいと思う。

片柳弘史著『ぬくもりの記憶』 (教文館)



★1月20日、教師より大切なもの

『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。

新約聖書

マタイによる福音書 23:10‭-‬11 新共同訳

私は「なんでも自分は知っている」と思い込んでしまいがちです。分からないことも、分かったふりをしてしまうことがあります。しかし分からないことを認め、謙虚になりたいと想いました。

イエスは、「教師とよばれてはならない」といいます。教師は、ギリシャ語では基本形はカセケーテース(καθηγητής、英語ギリシャ語辞典)です。マタイは、複数形を使っています。前を進む、リードする、という意味もあるみたいです。私は、マザーの言葉を、ふと想いました。


わたしたちは、

競い合うためでなく、

愛し合うために生まれてきたのです。

マザー・テレサ

~周りの人を危険なライバルと思い込み、争い合って生きる人生と、周りの人を大切な仲間と信じ、助け合って生きる人生。いったいどちらが幸せでしょう。・・・。わたしたちはもっと偉大なことのために生まれてきました。わたしたちは、愛し合うために生まれてきたのです

片柳弘史著『日めくりマザー・テレサ』(PHP)


宗教は特に、上から目線になってしまうことがあります。教えることも大切です。しかし、相手を批評せずに、教えられたり、学んだり、耳を傾けることも同時に大切なような気が私はします。

私は、先生自体をイエスは批判したのではなく、偉くみせようとする傲慢な態度を否定したのだと思います。イエスは弟子をつくり、ペトロたちを使徒として大切にしました。

フランシスコ教皇は、2021年9月5日に次のようにいっています。

https://www.cbcj.catholic.jp/2021/09/05/24737/

言わなければならないこと、やらなければならないことに慌ただしく立ち回るがゆえに、わたしたちは立ち止まって、相手の言葉に耳を傾ける時間を持てません。あらゆることに無頓着になり、耳を傾けてほしいと願っている人々のための時間を持つことができなくなる危険性があります。わたしは子どもたち、若者たち、お年寄りのことを思っています。これらの人たちは、言葉や説教を必要としているのではなく、耳を傾けてほしいのです。


ひとりひとりには個性があり、気持ちがあります。ひとりひとりの気持ちを大切にし、手をとりあってゆきたいと想いました。



★1月21日、物を少なくする

持てば持つほど、わたしたちは物によって縛られ、わずかなものしか与えることができなくなります。持つ物が少なければ少ないほど、わたしたちは自由になるのです。

~マザー・テレサ

~私には「もっと認めてほしい」という要求がわいてくるときがあります。しかし、その思いが強すぎると、「あれも足りない、これも足りない」と疲れてしまいます。

さまざまなものを求めるのは「今の私ではだめだ」という、自分を否定する気持ちがどこかにあるとおもいました。しかし、「私は神さまから愛されている。それだけで十分だ。欠点もあるけど、それでも私は神にさまにゆるされている」と感謝するとき、荷物を少しずつおろすことができると思いました。

不完全だけど、それでもゆるされていることを、子どもたちのように素直に信じたいです。

★参考サイト

片柳神父のブログ

祈りの小箱(163)『自分をゆるしてあげましょう』



★1月22日、助けを求める

「あなたがたも祈りで援助してください。」

新約聖書

‭‭コリントの信徒への手紙二‬1:11‬、新共同訳‬‬

~自分は有能であることをアピールするために、できないことまで引き受けてパニックになってしまうことはないでしょうか。私も他人によくみられたく、無理をしてしまうことがあります。無理をすると、クタクタになってしまいます。

しかしパウロは「私にはみなさんの祈りが必要です」と、仲間に謙虚に頼みました。祈ってくださいとは、「神さまの助けがあるように、私を覚えていてください」と、にている言葉だと私はおもいます。パウロは、一人でなにもかもしようとしませんでした。完璧主義を捨てたら荷物は軽くなり、生きる力がわいてくるとおもいます。

神さまは、「完璧じゃなくってもいいんだよ。助けあってゆこう」と、身の丈の私たちを愛してくださる方。ときには荷物をおろして休みながら、互いに支えあってゆけますように。



★1月23日、苦手があっても

誰もが、世界でたった一人、

自分だけにしかないよさを持った

神さまの最高傑作。

もし「わたしなんかつまらない人間だ」

と思っているなら、それは

自分のよさにまだ気づいていないだけ。

自分が自分であることに、

誇りを持って生きられますように。

片柳弘史著『やさしさの贈り物』

(教文館刊)より

~本を読んでの感想です。

寒さに強い花(パンジー)や、暑さに強い花(ひまわり、マリーゴールド)もあります。比較してどちらが優れているかを議論しても決まらないと想います。違っていても、どちらとも美しい花だと思います。

私も苦手なことがあります。私は電話が苦手で、電話ではなにを話しているか混乱してしまいます。

しかし電話以外な方法もあるので、工夫しながら生活しています。自分が自分であることに神様に感謝して、生活してゆきたいとおもいます。



★1月24日、平和とは

キリストの平和があなたがたの心を

支配するようにしなさい。

新約聖書

コロサイの信徒への手紙 3:15 

~キリストの平和を忘れてしまうと、他人から認められるために、行いによって救われようと無理をしたり、すべてを完璧にこなそうとしてしまうのではないでしょうか。神さまや他人に認められようと自分でやろうとしても、限界がきてしまうと思います。

 パウロは、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」、といいます。それは、愛されるために特別な行いは必要ないということだと思います。

タンポポはタンポポの花を咲かせ、桜は桜の花をさかせます。ひとりひとりも、神さまの手によって大切につくられ、神さまは「あなたでよかった」と、存在自体を喜んでくださいます。なにか「できる」からではなく、あなた「である」ことが大切だと私は思います。

しかしどうしてパウロは、キリストの平和を大切にしたのでしょうか。それは、心に平和がないとネガティブになり、自分にも他人にも辛くあたってしまうからだと思います。自分が溺れていたら、溺れている人を救うことはできません。自分を粗末にしていると、自分の体調を崩してしまいます。自分をゆるせないと、他人もゆるせなく厳しくなってしまいます。まず、一人ひとりが神に愛され、大切な存在であることを忘れないでねと、パウロは伝えたのだと思います。


「・・・だからあなたは素晴らしい」という誉め言葉は、同時に「・・・でなければあなたは素晴らしくない」というメッセージを伝えてしまいます。「あなたは、あなただというだけで素晴らしい」それが最高の誉め言葉です。

片柳弘史著『こころの深呼吸』(教文館刊) 


ギリシャ語メモ

平和は、ギリシャ語ではエイレネー(εἰρήνη、https://biblehub.com/greek/1515.htm、英語ギリシャ語サイト)です。ギリシャ語の平和は、他の意味として「安心」という意味もあります。涙でイエスの足を髪で洗った女性に対してイエスはあなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

ルカによる福音書 7:50

といいました。この「安心」の箇所で、ルカはエイレネーを使っています。

キリストの平和とは、「なにも心配することはない。神はあなたを愛している」と愛がたっぷりつまった言葉だと思います。人々はその言葉をきいて喜びにあふれたのではないでしょうか。パウロもコロサイ3章15節で、エイレネー(εἰρήνη)を使用しています。



★1月25日、いまあるものに満足する

片柳弘史著『あなたはわたしの愛する子』 (教文館)にも掲載されていますが、ブログからもみることができます。片柳神父は本書で次のように書いています。

では、どうしたら欲望を捨てられるのでしょうか。そのためには、神様の愛で満足することだと思います。

「仲間の間で一番になる必要などまったくない。わたしは、イエス様のそばにいて、イエス様にお仕えできるだけで満足だ」と思えるようになれば、「偉くなりたい」という欲望は自然に消えます。もし、誰かに対して妬みや怒りが生まれたなら、それはまだ、わたしたちが神様の愛で十分に満たされていない証拠。そんなときこそ、心を落ち着け、神様に向かって心を開きたいと思います。

~※本を読んで思ったことです。

「私は十分に神さまに愛されている」と思えないと、愛されるために様々なアピールをしてしまうと思います。他人に勝つことによってアピールしたり、強い自分をみせることによって、「これなら神さまは愛してるくださるにちがいない」と思い込んでしまうと思いました。

しかし認められるために背伸びすると体はぐったりと疲れ、他人を思いやるゆとりをなくしてしまうのではないでしょうか。

神さまは、弱く不完全であっても「あなたで良かった」と私たちを喜んでくださる方。心が神の愛で満たされたなら、様々な欲望は消え去り、笑顔がふえると思いました。



★1月26日、静まる力

わが主なる神は、こう言われた。

 「お前たちは、立ち帰って 

静かにしているならば救われる。

 安らかに信頼していることにこそ

 力がある」

旧約聖書

イザヤ書30・15

~ともすれば神の前で静まって信頼するよりも、自分でジタバタして、てっとりばやく解決したい要求が人にはあるかもしれません。しかし、種をまいても、すぐ咲く花はないように、神さまは待つという時間を与えてくだったように思います。

停滞したり、進歩がない時間を無駄だと考えてしまいがちですが、停滞しているような時間も、実はたいせつな時間だと私は思います。

神さまは、私たちの羊飼いであり(詩編23、ヨハネ10・14)、一人ひとりといつも共にいてくださる方。そのことを知るとき、「一人のみでなにもかも解決しなければ」という重いプレッシャーから解放され、荷物を軽くして歩めると思います。


何もかも、自分の力でやろうと

する必要はありません。

マザー・テレサ

~自分の力だけで、何もかもできるはずがありません。できないことまでして失敗するより、できないことはできないと認め、助けてもらう勇気を持ちましょう。

片柳弘史著『日めくりマザー・テレサ』(PHP)


たとえ回り道でも、前へ進まなく後ろにさがるときであっても、全ては神さまがベストな方向へ導いてくださると思います。他人との競争ではなく、自分のペースやリズムを大切にできるとき、こころはゆったりとし、焦る必要がないことをしります。

神の前で静かにすると、「私はあなたと共にいて、わたしはあなたを愛している」という呼びかけが聞こえてきます。それは、自分で「あれもしなければ、これもしなければ」と騒音をたてているなら、大きなおとをだしているので聞くことは難しいのではないでしょうか。

イエスは、わたしたちが何かできるから愛されるのではなく、あなたがあなたであるだけで愛してくださる方。そのイエスの愛を静まって信頼し、互いに助けあってゆけますように。

関連サイト

https://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E7%A4%BC%E6%8B%9D%E7%94%A8%E8%AA%9EPs46

より。

「静まること」

「沈黙すること」

「止まること」

「頑張ることをやめること」

「力を捨てること」

によって神とのより

深い交わりが保証されます。



★1月27日、強くされるとは

篠田真紀子牧師の言葉

日本キリスト教団のサイトより

私が高校卒業の時=生まれ育った家を離れる時に、祖母から貰った口語訳聖書の見開きには「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」(エペソ6・10)と筆文字で添えられています。そのみ言葉は、時にとても心強い励ましであり、また時に、とても重荷となる信じ難いみ言葉でした。キリスト者となる前も、なってからも、人は強くなることを目指さねばならないのかということが、私にはいつも重荷に思えたからです。

・・・。「強くなりなさい」は、文字通り訳せば「強くされなさい」(神的受動態)であり、自分で強くなれなくても、主にあって、その偉大な力=主の贖いの恵みによって強くされればよいのです。

~※私の感想です。

私も、「弱音をはいてはいけない」と誤解するときがあります。しかし、無理をして強がれば強がるほど、なんだか疲れてくるようなきがします。受動態で「強くされなさい」とは、自分の力や努力ではなく、神さまの力をうける大切さを感じました。

私はたまに、「自分がいてもつまらないんだ」と口癖をいいます。仕事がおぼえれなく失敗の連続の生活だったので、すっかり劣等感が身体にしみこんでしまいました。

しかし、自己否定はわたしの考えであって、神さまの考えは、一人ひとりは神さまの手によって作られた最高傑作だと思います。自分の考え方にこだわるとますます、泥沼にはまって窒息しそうになります。

イエスが私を強くされるとは、自分の考え方を強くするのではなく、神さまの考えを強くして、それに耳を傾けることだと思いました。

私は、たまにめちゃくちゃへこむときがあり、そのときは自分の考え方を小さくして、「わたしはイエスに愛されているんだ」と、つぶやくようにしています。すると、ちょっとずつ心があたたかくなって、リラックスしている自分を感じるときがあります。

みなさんも、どうしようもなくつらく、自分を否定する毎日のとき、そっと、つぶやいてみてください。「私は神に愛されている、大切な存在だ」と。


「こんな私でも、神さまから愛されている。生かされている。」と考えて、自分を受け入れるのがよいでしょう。「神さま」という言葉を使いたくなければ、「すべての命はかぎりなく尊い。こんなわたしでも、生きているというだけで価値がある」と思えばよいでしょう。片柳弘史著『何を信じて生きるか』(PHP)より


★1月28日、ろばを必要とされたイエス

イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」

新約聖書

ルカによる福音書 19:28‭-‬31 新共同訳

~イエスは、子ロバを必要としました。ロバにのると小さな動物ですから、乗ると群衆の人たちと目線が同じになります。イエスは、上から人々を見下ろす方ではなく、私たちと同じ目線にたってくださる方。この子ロバはまだだれものせたことがありません。

マタイによる福音書だけ、ロバは複数形になっています(マタイ21・7、ユーバージョン)。お母さんのロバにつながれて子ロバは歩いたのかもしれません。一度も使用されていない子ロバはまだ人間になれていなく、くびきをかけてロバをならす必要があったみたいです。しかし、そんな小さなロバをイエスは必要とされました。

神さまは、子ロバがまだ未熟で小さくても必要としてくださるように、欠点をかかえていても私たちも必要としてくださいます。

ルカ19章31節に、主はお入り用なのです、とありますが、「必要とする」という意味があります。イエスは、私たちが強く働いたら必要とされるのでしょうか?

それを考えるうえで

イエスは次のようにいわれています。

野の花がどのように育つのか、

注意して見なさい。

働きもせず、紡ぎもしない。

新約聖書

マタイによる福音書 6:28 新共同訳


イエスは花にむかって、「働きもせず」といいます。花にとっては「働きもしない」といわれて迷惑ですよね。しかし、働きではなく、神さまの恵みによって命が愛されていることを、イエスはつたえたかったのではないでしょうか。

人は、物があふれたから幸せになれるのではなく、ごく小さな物でも感謝するとき幸せになれるのではないでしょうか。その1つは、イエスの言葉に耳を傾けることも1つだと思います。イエスは子ロバを必要とされたように、私たちがどんなに弱さをかかえていても必要としてくださり、愛してくださる方。

「あなたを必要とされている。

生きているだけであなたは大切な存在」

とよびかけてくださるイエスの声に耳を傾け、助けあってすごしてゆきたいです。



★1月29日、みんな違って美しい

「さいたさいたチューリップの花が

 ならんだならんだ赤 白  黄色

どの花みてもきれいだな 」 

童謡『チューリップ』

~感想です。

チューリップの歌詞は、赤や白や黄色のチューリップは違っても、みんなきれいと歌っています。わたしは「ワタシでいいのかも?」と思いはじめました。

一般就職を目標としていましたが、今は作業所だと自分が安心して草取りができてリラックスしているので、わたしの居場所だと感じています。

作業所を利用しない選択もあるし、療養中の時もあるし、どれが一番かは決められないと思います。違ってもどのときも、どの場所も素敵だと思います。

チューリップの歌詞をきくと、「みんな違ってもいいんだよ。みんな素敵だよ」といわれているようでホッとします。



★1月30日、休みの大切さ

イエスは、

「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ

 行って、しばらく休むがよい」と言われた。

新約聖書

マルコによる福音書 6:31、新共同訳

~他人を救うためには、自分がおぼれていたら救うことはできません。まず、自分が救われていることが大切だと思います(注1)。  「誰かのために自分は食事は我慢しよう」と思っていたら、体を壊してしまいます。まず自分がしっかり食べ、よく遊び、寝ることが大切だと思いました。つい自分を粗末にしてしまいますが、自分を大切にしないと、サポートするにも長続きしないと思います。

イエスは疲れた弟子たちに「しばらく休みなさい」と声をかけてくださる方。ギリシャ語では、休むがよいは、命令形になっています。「しっかり休みなさい」と、強めにいわれました。イエスは、人間の限界を知っていたのでしょう。疲れはネガティブとなり、他人にあたってしまうことがあります。休むことも、たいせつな仕事なのです。休むことが仕事とは、イエスは私たちが何かできるからたいせつなのではなく、私たちが「いる」ことを喜んでくださり、「あなたで良かった」と喜んでくださるのです。

イエスは私たちに、「疲れてないかい。無理をしてないかい」と声をかけてくださる方。重たい荷物を背負っていたら、少しおろしシンプルにして、助けあって旅をしてゆけますように。

 (注1)

おぼれている人には、他のおぼれている人を助けることができません。助けたいなら、まず自分が救助されてからです。悩みの相談もそれと同じ。まず自分自身が救われないなら、他の人を救うことはできません。

 片柳弘史著『こころの深呼吸』(教文館刊)


ギリシャ語メモ
休むはアナパウオー(ἀναπαύω)というギリシャ語の動詞が使用されています。
https://biblehub.com/greek/373.htm
他の聖書箇所では、

以下のような箇所でつかわれています。


れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
マタイによる福音書 11:28 新共同訳


わたしとあなたがたとを
元気づけてくれたのです。
コリントの信徒への手紙一 16:18 新共同訳

新改訳2017は、「安らがせてくれました」

聖書協会共同訳は「安心させてくれた」

キリストによって、
わたしの心を元気づけてください。
フィレモンへの手紙 1:20 新共同訳

新改訳2017は、
「私をキリストにあって

安心させてください」

聖書協会共同訳は

「キリストにあって、

わたしのこころを元気づけてください」



★1月31日

イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。 イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。

新約聖書

マルコによる福音書 1:16‭-‬18、口語訳

イエスは、のちのペトロであるシモンとその兄弟アンデレに、「私について来なさい」と呼びかけました。

二人は漁師で、商売道具である網を捨て、イエスについていきました。シモンたちにとって網はお金を稼ぐもので、自分の誇りがつまっていたものだったと思います。

人は誰かに認められるために、自慢できるものや、強さで勝負しようとします。「何かすごいことをしなければ神さまに愛されない」と、人はつい誤解してしまいがちです。そんな時こそ、網を捨てたシモンたちを思い出したいと私は思いました。シモンたちは一番才能を発揮できる網を捨てました。

イエスは「網などなくても、あなたがいるだけでそれだけで十分だよ」と、呼びかけてくださったのではないでしょうか。神さまはわたしたちにも、何か「できる」のではなく、あなたが「いる」ことを喜んでくださると思います。

私は引っ越ししたことがあります。荷物がおおくてたいへんで、引っ越し代を減らすために断捨離しました。半分以上は使っていないものでした。引っ越し先で、荷物はシンプルなり、部家そうじも楽になりました。荷物を軽くして、シンプルになってたすけあってゆきたいです。


★ギリシャ語メモ

捨てるは、アフィエーミ(ἀφίημι)というギリシャ語が使用されています。

https://biblehub.com/greek/863.htm



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